楠木正成 年表

楠木正成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 08:16 UTC 版)

年表

比較をわかりやすくするため、より歴史的事実に近いと思われる記述と、『太平記』によって世間に流布している記述を並列して示す。『太平記』が出典である場合、「出典」欄には巻数から記す。『太平記』章名は原則として天正本、そのため流布本と違う場合がある。『太平記』は月日の錯誤が多く、特に元弘2年(1332年)の正成再挙兵を8ヶ月も前倒ししている。ただし、元弘の乱の始期と終期(鎌倉幕府滅亡)、正成の命日は他の文献と一致する。

和暦 西暦 日付[注釈 5] 内容 『太平記』 出典
元亨2年 1322年 不明 北条高時六波羅の命で渡辺右衛門尉・保田荘司・越智四郎討伐。保田荘を得る。 『鎌倉将軍家譜』[原文 3]
『高野春秋編年輯録』[71]
不明 不明 後醍醐天皇主宰宋学研究会に入り、乱の前から知遇・信任を得る(?) 『増鏡』[原文 4]
自筆の書体[注釈 6]など
元徳2年 1330年 9月17日 世良親王薨去。遺言で臨川寺へ若松荘寄贈。正成が荘の管理に関わる(?) 『臨川寺領等目録』[注釈 7]
元弘元年/元徳3年 1331年 8月27日 後醍醐天皇が倒幕のため笠置山に入城。元弘の乱開始。 『法隆寺別当次第』[原文 5][注釈 8]
巻3「先帝笠置臨幸の事」[74]
8月末 笠置山上で後醍醐天皇と初めて邂逅する。 巻3「先帝笠置臨幸の事」[74]
9月11日 赤坂城の戦い。正成挙兵の報が六波羅探題に届く。 巻3「六波羅勢笠置を責むる事」[75]
9月14日 赤坂城の戦いが遅くともこの日までに開始。幕府本軍未着、小規模な攻城戦。 『和田文書』[76]
9月 和泉国守護代、臨川寺若松荘を「悪党楠木兵衛尉」領とし、年貢等没収。 『臨川寺領等目録』[注釈 7]
9月 尊良親王大塔宮(護良親王)が笠置山から下赤坂城に逃げる。 『増鏡』[原文 6]
9月27日 笠置山陥落、後醍醐天皇捕縛。正成の下赤坂城が最後の砦となる。 『光厳院宸記』[78]
10月3日 尊良親王は、幕軍総攻撃前に下赤坂城から脱出するが途中で捕縛される。 『増鏡』[79]
不明 鎌倉軍30万が、上洛はせず直接下赤坂城攻略へ。 巻3「六波羅北方皇居の事」[80]
10月15日 大仏貞直足利高氏ら幕府正規軍全4軍が、京から下赤坂城に向けて出陣。 『光明寺残篇』10月15日条[76]
10月18日 幕軍が攻城戦に苦戦する様子が光厳天皇に伝わる。 『光厳院宸記』[原文 7]
10月21日 下赤坂城落城。正成は撤退後、潜伏。元弘の乱は一旦沈静化する。 鎌倉年代記』裏書[82][原文 8]
11月13日 京にまだ不穏な雰囲気が漂っていることを光厳天皇が嘆く。 『光厳院宸記』元弘元年11月13日条[84]
11月21日 京にはまだ陰謀がくすぶり、公家から武士まで物々しい雰囲気にあった。 『光厳院宸記』元弘元年11月21日条[84]
元弘2年/元徳4年 1332年 1月17日 後醍醐天皇が幽閉から脱出を試みて捕らえられたという噂が流れる。 『光厳院宸記』元弘2年1月17日条[85]
3月3日 世情不安のため、光厳天皇が御幸を取りやめる。 『光厳院宸記』元弘2年3月3日条[84]
3月7日 後醍醐天皇が隠岐に流される。 『花園天皇宸記』[86]
3月8日 後醍醐天皇が隠岐に流される。 巻4「先帝隠岐国へ遷幸の事」[87]
4月3日 再挙兵、下赤坂城を攻略。湯浅定仏を降伏させる。 巻6「和田楠打ち出での事」[88]
元弘2年/正慶元年 4月28日 光厳天皇により、正慶に改元。後醍醐方は認めず。
5月17日 天王寺に布陣。 巻6「和田楠打ち出での事」[88]
5月20日 六波羅探題5000騎が出京。 巻6「和田楠打ち出での事」[88]
5月21日 天王寺の戦い。六波羅探題7000騎を撃破。 巻6「和田楠打ち出での事」[88]
5月22日 六波羅探題を嘲笑する狂歌が京で流行る。 巻6「和田楠打ち出での事」[88]
6月 和泉国守護代の横暴に耐えかねた臨川寺が、訴状を後伏見上皇に提出。 『臨川寺領等目録』[注釈 7]
6月6日 大塔宮が倒幕令旨を熊野山に出すが、断られた上、幕府に密告される。 『光厳院宸記』[89]
6月7日 政情不安のため、祇園御霊会で兵具の使用が禁止される。 『花園天皇宸記』元弘2年6月7日条[90]
6月8日 大塔宮が京に忍び込んでいるという噂がたち、六波羅が大捜査を行う。 『花園天皇宸記』元弘2年6月条[91]
6月26日頃 伊勢国で反幕勢力が暴れた末、六波羅正規軍が来る前に熊野方面へ逃走。 『光厳院宸記』[89]
6月27日 大塔宮が倒幕の令旨を和泉国松尾寺に出す。 『和泉国松尾寺文書』[92]
6月29日 熊野の竹原八郎入道が大塔宮令旨を受け取ったと称して幕軍を襲撃。 『光厳院宸記』[原文 9]
不明 金剛山が築城の立地に良い事を大塔宮の情報で知る(後の千早城)。 保暦間記[原文 10]
不明 12月の再挙兵までに兵衛尉から左衛門少尉に昇進[注釈 9] 『河内国天野山金剛寺文書』[原文 11]
7月19日正午 幕軍宇都宮公綱出京。数日後、天王寺陥落。 巻6「宇都宮天王寺発向の事」[94]
7月27日夜半 多勢に見せかけ、公綱を天王寺から撤退させる。 巻6「宇都宮天王寺発向の事」[94]
8月3日 住吉大社に参詣寄進。 巻6「楠太子の未来記拝見の事」[95]
8月4日 天王寺に参詣寄進。聖徳太子『未来記』を読む。 巻6「楠太子の未来記拝見の事」[95]
8月 大塔宮が、四条隆貞を介して高野山に倒幕令旨を出すも断られる。 『高野春秋編年輯録』巻第10[96]
11月15日 正成はまだ生きているのではないか?という噂が京で流れ、恐慌が起きる。 『花園天皇宸記』[原文 12]
12月2日 恐慌を静めるため、京都で天下静謐を祈る十二社奉幣の儀が行われる。 『中原師茂家記』[98]
同日 正成の動静が全く掴めないことに花園上皇が不安を示す。 『鎌倉遺文』41・31909号[99]
12月5日 六波羅が、大塔宮と正成に備えるため京都への参集命令を近畿に出す。 『須田文書』[原文 13]
12月某日 潜伏から戻り再挙、下赤坂城を攻略。安田重顕や湯浅定仏らを降伏させる。 『楠木合戦注文』[101][原文 14]
12月9日 鎌倉幕府連署茂時執権守時が、大塔宮と正成誅伐の命令を全国に出す。 『和田文書』[原文 15]
『高野山文書』等々[103]
同日 金剛寺へ戦勝祈願して貰ったことに対する礼状を書く。 『河内国天野山金剛寺文書』[原文 11]
同日 芥川参集後、山崎に進出、幕将宇都宮高綱(公綱)と赤松円心に敗退。 身延山所蔵『金剛集裏書』[原文 16]
1333年 12月15日 忍頂寺に籠城していたが、高綱(公綱)の猛攻撃で陥落、逃走。 身延山所蔵『金剛集裏書』[原文 16]
12月19日 紀伊国隅田荘を攻撃、数十人を討ち取られて敗北。 『紀伊葛原文書』[原文 17]
年末年始 叡福寺北古墳周辺で一進一退の攻防を繰り広げ、戦いの最中に年をまたぐ。 『鎌倉遺文41・31911』[107]
『増鏡』『鎌倉遺文41・31911』[107]
元弘3年/正慶2年 1月5日 河内国甲斐荘安満見で井上入道を撃破。 『楠木合戦注文』[108]
同日 大塔宮の令旨を久米田寺に届ける。 『久米田寺文書』[原文 18]
1月8日 幕軍が、正成は潜伏中に千早城という要塞を築いていたことに気付く。 『真乗院文書』[原文 19]
1月14日 河内国野田で野田某を撃破。 『楠木合戦注文』[110]
同日 池尻を蹂躙、丹南で河内国守護代の城を攻め撃破、逃げる敵を丹下まで追撃。 『楠木合戦注文』[110]
同日 続けて丹下で丹下入道西念を駆逐して恭順させ、花田で地頭俣野彦太郎を破る。 『楠木合戦注文』[110]
同日 和泉北境に進出、国府で和泉守護阿保国清を、大鳥庄で地頭の田代・成田を撃破。 『楠木合戦注文』[110]
1月15日 和泉郡陶器荘に侵入。その破竹の勢いに敵対地頭たちは自邸に放火して潰走。 『楠木合戦注文』[108]
同日夜 和泉国堺にて幕軍を撃破。 『道平公記』[原文 20]
1月15日頃 六波羅探題の竹井と有賀が天王寺に城郭を構え陣を敷く。 『楠木合戦注文』[111]
1月19日 天王寺の戦い。朝10時から14時間続く死闘の末勝利。21日まで同地に駐留。 『楠木合戦注文』[112][原文 21]
1月21日 播磨の赤松円心が反幕に転じ苔縄城に挙兵。 『毛利文書』[114]
毛利文書1510『城頼連軍忠状』[115]
『続史愚抄』[114]
1月22日午前 幕将宇都宮高綱(公綱)出陣。入れ替わりで正成撤退の報が京に届く。 『道平公記』正慶2年1月22日条[116]
1月23日 高綱500騎が天王寺到着・制圧。赤坂城への斥候12名が正成に捕縛される。 『楠木合戦注文』[117]
1月28日 幕軍が吉野・赤坂・金剛山へ。赤坂に阿曽治時8万騎。 巻3「東国勢赤坂の城を攻むる事」[118]
1月29日 幕将二階堂貞藤が上洛。幕府は総攻撃の準備を着々と進める。 『道平公記』1月29日条[119]
2月2日 高綱が帰京し、天王寺駐留部隊は佐々木時信らに交代。 『楠木合戦注文』[117]
同日 吉野執行(金峯山寺実務代表)の首級を挙げる。湯浅一党も幕軍を遊撃。 『楠木合戦注文』[120]
同日 幕将阿曽治時赤坂城に総攻撃。数十日耐える。 巻3「人見本間討死の事」[121]
2月7日 大塔宮、倒幕令旨を九州各地に発布。 『筑後三原文書』原田種昭宛令旨[122]
2月19日 大塔宮、倒幕令旨を松尾寺に再発布。松尾寺軍は後に千早城の戦いに推参。 『和泉国松尾寺文書』[92]
2月20日以前 伊予で忽那重清土居通増得能通綱らが挙兵。 『忽那一族軍忠次第』[123]
『鎌倉遺文41・31994』[123]
2月21日 大塔宮、倒幕令旨を西海道15ヶ国に発布。 『大山寺文書』大山寺衆徒宛令旨[124]
2月22日 幕将阿曽治時長崎高貞上赤坂城に総攻撃。 『楠木合戦注文』[125][126]
2月24日 幕将二階堂貞藤が吉野山攻略。千早城攻城部隊に合流。 巻3「出羽入道道蘊芳野を攻むる事」[127]
2月27日 千早城の戦いが始まる。 『楠木合戦注文』[128][原文 22]
2月30日 幕府が東大寺に増援を要請する。 『前田侯文書』[原文 23]
閏2月1日 幕将二階堂貞藤が吉野山攻略。 『真遍言上状』[注釈 10][131]
唐招提寺蔵『梵網述迹抄』第5下奥書[132]
同上 上赤坂城陥落。平野将監以下30人が投降。楠木正季は千早城へ逃れる。 『楠木合戦注文』[原文 24]
『門葉記』[原文 25]
同上 「くすの木の(略)」の落首が京で流行り、二条道平の耳に入る。 『道平公記』[135]
閏2月11日 伊予反幕軍が府中城宇都宮貞宗を攻撃。さらに長門探題北条時直を撃破。 『忽那一族軍忠次第』[123]
『鎌倉遺文41・32068』[123]
同日 正成、千早城陣中より安芸国の反幕軍と連絡を取る(?) 『忽那開発記』[原文 26]
閏2月23日夜 後醍醐天皇が隠岐を脱出。 巻7「土居得能河野旗を挙ぐるの事」[137]
閏2月24日 後醍醐天皇が隠岐を脱出。同日中に伯耆国に到着。 『皇年代略記』[138]
『元弘日記裏書』[原文 27]
閏2月26日 伯耆国の名和長年が後醍醐天皇を奉じて船上山で挙兵。 『元弘日記裏書』[原文 27]
3月4日 幕軍の長梯子の計を撃退。 巻6「諸国の兵知和屋へ発向の事」[140]
3月5日 幕軍の千早城大攻勢を敗退させる。 『続史愚抄』[原文 28]
3月11日 伊予反幕軍が長門探題北条時直を再度撃破。幕府は瀬戸内海の管制を失う。 『鎌倉遺文41・32068』『博多日記』[123]
3月13日 菊池武時が九州で挙兵、鎮西探題と戦うも戦死。 『菊池武朝申状』[142]
3月22日 「金剛山(千早城)は未だ破れず」の報が九州鎮西探題に届く。 『博多日記』[原文 29]
3月23日 紀伊国方面でも幕軍と反幕軍の戦いが続く。 『紀伊続風土記』[144]
4月3日 赤松円心ら、一度目の京都総攻撃を仕掛ける。 備後『因島文書』[原文 30]
4月4日 千早城を近日中に(総攻撃して)落城させる予定の報が九州探題に届く。 『博多日記』[原文 31]
4月8日 赤松円心ら、二度目の京都総攻撃を仕掛ける。 備後『因島文書』[原文 30]
4月14日 幕軍、千早城に再度攻撃を仕掛けるが敗退。 『和田系図裏書』[147]
4月19日 大塔宮、松尾寺に供養と戦勝祈願の儀式を令旨で依頼する。 『和泉国松尾寺文書』[148]
4月20日 幕軍、千早城の櫓下の地面を掘り崩す作戦を決行。 『和田系図裏書』[144][原文 32]
4月21日 千早城北部で幕軍と野伏の集団の戦いが起きる。 『和田文書裏書』[原文 33]
4月22日 足利高氏(尊氏)が幕軍を離反し倒幕側につくことを決意する。 『正木文書』[150]
4月25日 高氏が益田兼衡、島津貞久ら諸国に倒幕を促す。 『益田文書』『島津家文書』[151]
4月27日 幕軍総大将名越高家と副将足利高氏が上洛。高家、同日中に戦死。 『梅松論』[152]
『林実広軍忠申状』[153]
巻9「名越尾張守打死の事」[154]
5月2日 大塔宮軍が千早城攻城に参戦中の幕軍武将の本拠地を襲撃して悩ませる。 『紀伊続風土記附録』[原文 34]
同日 大塔宮、松尾寺に供養と戦勝祈願の儀式を令旨で再度依頼する。 『和泉国松尾寺文書』[148]
5月7日 足利高氏、赤松円心千種忠顕ら反幕軍が京都六波羅政庁に総攻撃。 『梅松論』上[155]
『鎌倉遺文41・32087』[156]
巻9「高氏篠村八幡に御願書の事」[157]
5月9日 六波羅、五辻宮に退路を阻まれ集団自決。六波羅探題の滅亡。 『蓮華過去帳』[151]
同日 千早城の戦い終結。幕府軍撤退。 『徴古雑抄』所載『和泉国松尾寺文書』[148][158]
5月10日早朝 千早城の戦い終結。幕府軍撤退。 巻9「番馬にて腹切る事」[159]
5月22日 鎌倉東勝寺合戦新田義貞により鎌倉幕府滅亡。元弘の乱終結。 東勝寺寺輪銘[160]
巻10「高時一門已下東勝寺にて自害の事」[161]
6月2日 後醍醐天皇兵庫出立、正成を労い、凱旋の先導役を任せる。 巻11「楠正成兵庫に向ひ供奉する事」[162]
6月5日 後醍醐天皇が京都に凱旋。建武の新政 『公卿補任』『皇年代略記』『五大成』[163]
6月6日 後醍醐天皇が京都に凱旋。建武の新政 巻11「楠正成兵庫に向ひ供奉する事」[162]
8月5日 河内・摂津の国司に任じられる[164][注釈 2]
10月28日 朝廷に師の観心寺瀧覚坊を推挙、宮中で祈祷開催。また心中を師に相談。 自筆書翰(『観心寺文書』)[原文 35]
建武元年 1334年 2月 従五位下に昇叙。検非違使の官位も安堵される。 『玉英記抄』[原文 36]
5月18日 決断所第三組成員および記録所寄人に任じられる。 『建武記』[166]
8月 決断所拡充、第三組(畿内・山陽・山陰担当)から畿内限定担当となる。 『雑訴決断所結番交名』[167]
9月21日 尊氏・長年らと共に石清水八幡宮行幸の警護役を担当。 『護国寺供養記』[168]
9月23日 佐々木時信不手際により、代わって東寺行幸警護を担当。 『東寺文書』[168]
11月12日 紀伊国飯盛山反乱鎮圧に向かうが失敗、翌月斯波高経に将を交代[注釈 11] 『新乗院文書』[169]
『師茂記』所載『木本宗元軍忠状』[169]
11月 護良親王(大塔宮)が鎌倉に護送・幽閉される。 『梅松論』[170]
建武2年 1335年 6月20日 土地問題で興福寺から名指しで非難され、春日神木強訴をされる。 『春日神社祐賢記』『建武二年六月記』[171]
6月22日 西園寺公宗の謀反発覚、高師直と共同で謀反人を捕縛。 『建武二年六月記』[172]
7月14日以前 中先代の乱北条時行らが反乱軍を挙兵。 『市河文書』「市河助房等軍忠状」[170]
7月22日 幽閉中の護良親王、鎌倉で殺害される。 『梅松論』[170]
8月2日 足利尊氏ら、中先代の乱鎮圧のため京から出陣。 『足利尊氏関東下向宿次・合戦注文』[170]
8月12日 この頃より京を離れ、来るべき動乱を予測して軍備を整える(?) 決断書牒文[注釈 12]
8月25日 法華経を書写。また遅くともこの頃までに従五位上に昇叙されていた。 『法華経』自筆奥書[原文 1]
8月30日 中先代の乱の鎮圧がこの頃までに完了し、尊氏が従二位に昇叙。
1336年 11月19日 延元の乱。朝廷と尊氏が決裂、尊良親王・新田義貞が出陣。正成は近畿に待機。 『元弘日記裏書』
12月末 足利軍が西進、正成も防備に当たる。
建武3年 1月7日 宇治平等院を含めて焼き払い、焦土作戦を敢行する。 『略年代記抄出』[原文 37]
巻14「諸国の朝敵蜂起の事」[176]
足利麾下畠山高国宇治橋上で11日まで戦う。 『天野文書』[177]
1月11日 前日、天皇が比叡山に逃れたため、正成も東坂本(比叡山東麓)へ退却。 『真乗院文書』[原文 38]
1月16日 名和長年と共に西坂本(比叡山西麓、京都側)に出撃。 『真乗院文書』[原文 38]
『和田文書』和田助忠軍忠状[179]
『三刀屋文書』三刀屋輔景軍忠状[180]
1月17日 18日まで西坂本で武田信武らと交戦し、19日に八幡城まで追い返す。 波多野景氏軍忠状[181]
1月20日 官軍・足利軍とで京都市街戦は膠着状態となる。
1月27日 決戦。初めは官軍有利に運ぶ。 決戦。斬新な陣形でただ800騎で上杉重能ら5万を撃退。 『梅松論』下[182]
15「二十七日京合戦の事」[183]
同日 官軍、足利軍細川定禅の猛反撃に合い、一時撤退。 勝利しても寡兵では占拠継続不可と義貞に献策、一時撤退。 『梅松論』下
巻15「二十七日京合戦の事」[183]
1月28日申刻 官軍、神楽岡から攻め、糺河原に陣を敷く尊氏と交戦。 『梅松論』下[182]
『山田宗久軍忠状』『本田久兼申状』[182]
同日夕 足利軍、新田義貞によく似た首級を義貞本人と勘違いして祝う。 偽首を用いた策謀を用い、足利軍の兵力を分散させる。 『梅松論』下
巻15「二十七日京合戦の事」[183]
1月29日 両軍睨み合い、戦闘は一切行われなかった。 洛中最後の決戦、足利軍が京から追い出される。 『梅松論』下
巻15「正月晦日合戦の事」[184]
1月30日 洛中最後の決戦。正成、搦手として八面六臂の活躍、尊氏を京から撃退。 『梅松論』下
『忽那重清軍忠状』[原文 39]
『和田助康軍忠状』[原文 40]
金剛寺蔵『釈論』禅恵の記入[原文 41]
2月6日 豊島河原の戦い。正成、迂回路から足利軍を奇襲し退ける。 巻15「薬師丸の事」[186]
2月7日 打出の戦い。官軍、足利軍を破り、九州まで撤退させる。 巻15「薬師丸の事」[187]
2月10日 打出の戦い。足利軍を猛追するも、夜半、突如撤退する。理由不明。 『梅松論』下[188]
『和田助康軍忠状』[原文 42]
『周布兼宗軍忠状』[原文 43]
2月11日 豊島河原の戦い。新田義貞と共に足利軍を破り、九州まで撤退させる。 『梅松論』下[188]
『和田助康軍忠状』[原文 42]
延元元年/建武3年 2月29日 延元に改元。足利方は認めず、建武の年号を継続。
3月中下旬 義貞が赤松円心の諸城を攻略する。 『周布兼宗軍忠状』[189]
『間三郎泰知軍忠状』[189]
4月 足利軍が再挙兵し、九州から京へ向けて進軍。
5月18日 義貞が赤松城から撤退する等、官軍が各方面で敗退する。 安芸国『田所(石井)氏系図』[190]
『深堀系図證文記録』[190]
5月 桜井の別れ。嫡子正行との別離。 巻16「楠正成兄弟兵庫下向の事」[191]
5月25日 湊川の戦い。敗北。自害。 『梅松論』下[192][193]
『広峰昌俊申状』[193]
巻16「楠正成兄弟兵庫下向の事」[191]
興国3年/暦応5年 1342年 5月3日暮 大森盛長らを襲う正成の怨霊が禅僧に退治される。 巻23「伊予国より霊剣註進の事」[194]
不明 一説に、南朝から正三位右近衛中将を追贈されたと伝わるが、疑問点が多い[注釈 13] 『全休庵楠系図』[196]
太平記評判秘伝理尽鈔[195]
永禄2年 1559年 11月20日 楠木正虎の活躍により楠木氏への勅免発行。正成の名誉回復には至らず。 旧讃岐高松藩士楠氏家蔵文書[原文 2]
元禄5年 1692年 8月12日 徳川光圀が正成顕彰碑を建立企画、佐々宗淳が建設監督し、碑が落成。 千巌宗般の記録[198]
明治5年 1872年 5月24日 正成を主祭神とする湊川神社創建。
明治13年 1880年 7月20日 正一位追贈。

注釈

  1. ^ 頼山陽の『日本外史』(文政10年(1827年))は正成の没年を数え43歳としている[1]。ここから逆算すると、永仁2年(1294年)の生まれとなる。しかし、『日本外史』説に史料的根拠は無い[1]。今井正之助によれば、享年43歳説は、『太平記評判秘伝理尽鈔』(1600年ごろ)に端を発するという[2]
  2. ^ a b 通俗的には和泉守(和泉国司)にも任じられていたとされるが、『大日本史料』によれば、和泉守説を裏付ける史料はない[3]。正成は、河内・摂津の国司であると同時に、河内・摂津・和泉の「守護」でもあったので、通俗書が守護と国司を取り間違えたものであろう[3]
  3. ^ 現在でも駿河の国(静岡市清水区)には長崎と楠(古文書では楠木)という地名が隣接して存在している。
  4. ^ ただし合戦の火蓋が切られたのは27日ともいわれる[50]
  5. ^ 和暦(明治元年以降はグレゴリオ暦と一致する)。
  6. ^ 大覚寺統に流行っていた宋風の書の影響が見られるという。
  7. ^ a b c 正式には『故太宰帥親王家御遺跡臨川寺領等目録』(天竜寺文書)
  8. ^ 『増鏡』『太平記』も27日説を取るが、『南山錦雲抄』『東寺年代記』は26日、『笠置寺縁起』は29日とする[73]
  9. ^ 兵衛尉は、少尉が従七位上相当で、大尉が正七位下相当、左衛門少尉は正七位上相当。一階か二階の昇進となる。反幕勢力内での昇進のため、幕府側には伝わらなかった。昇進を許可したのが後醍醐天皇か大塔宮かは不明。
  10. ^ 詳細には、金剛山吉水院主律師真遍言上状(金峯山文書)
  11. ^ その後、斯波高経は翌建武2年(1335年)1月30日にようやく反乱軍を鎮圧[169]
  12. ^ 遅くとも建武2年(1335年)8月12日以降、京の決断書の牒文から正成の署名が消える[173]
  13. ^ 贈正三位説は『太平記評判秘伝理尽鈔』等に載り、徳川光圀もこれを採用して「嗚呼忠臣楠氏楠子之墓」に載せた[195]。しかし、渡辺世佑「吉野朝以後の楠氏」(1935年)は、詳細な検討の上で、従五位上から正三位に急陞することは当時考えにくいと結論づけており、今井正之助もこれに賛同する[195]
  14. ^ 「忠功」を「功績」の意味に用いる当時の用例としては、『太平記』巻12「千種殿文観僧正奢侈事」の「六波羅ノ討手ニ上リタリシ忠功ニ依テ」や巻32「鬼丸鬼切事」の「朝敵ノ大将を討タリツル忠功抜群トイヘハ」など[199]
  15. ^ 記録所の寄人では他に、清原氏小槻氏坂上氏も官僚的氏族である。
  16. ^ 「七生」は七度生まれ変わって朝敵を滅ぼすの意味。後代にはこれに「報国」の意味が加わり「七生報国」と呼ばれた。

原文

  1. ^ a b c 『今田文書』(湊川神社宝物)『法華経』自筆奥書「
    夫法華経者、五時之肝心、一乗之腑蔵也、拠斯三世之導師、以此経為出世之本懐、八部冥衆、以此典為国之依憑、就中本朝一州円機純𤎼、宗廟社稷護持感応、僧史所載縡具縑緗、爰正成忝仰朝憲敵対逆徒之刻、天下属静謐、心事若相協者、毎日於当社宝前、可転読一品之由、立願先畢、仍新写一部所果宿念如件。
     建武二年八月廿五日 従五位上行左衛門少尉兼河内守 橘朝臣正成敬白」[174]
  2. ^ a b c 旧讃岐高松藩士楠氏家蔵文書「
     建武之比、先祖正成依為朝敵被、勅勘一流已沈淪訖。然今為其苗裔悔先非、恩免之事、歎申入之旨、被聞食者也。弥可抽奉公之忠功之由、天気如此悉之以状。
      永禄二年十一月廿日 右中弁(花押)
       楠河内守殿
    並に、
     楠木正成は、建武の古、朝敵たるによりて累葉誅罰せられ候へども、唯今正虎先非を悔いて歎き申候程に、赦免せられ候。弥々奉公の忠を致し候様に仰せ聞かせられ候べく由、心得て申べく候、かしく。
      万里小路前大納言殿へ」(万里小路前大納言は万里小路惟房[197]
  3. ^ 林羅山『鎌倉将軍家譜』元亨2年4月条「頃年摂津国住人渡辺右衛門尉狭野心高時使河内国住人楠正成撃平之、又紀伊国安田庄司有逆心正成撃殺之、賜安田旧領於正成、又大和国越智四郎与六波羅相拒、攻之不利、正成襲撃滅之」[70]
  4. ^ 『増鏡』「笠置殿に大和、河内、伊賀、伊勢などより兵ども参り集ふ中に、事の初より頼みおほされたりし楠木兵衛正成と云ふ者あり、心たけくすくよかなるものにて、河内国におのが館の辺りを厳めしくしたゝめて、此のおはします所、若し危うからん折は、行幸をもなし聞えんなど用意しけり」[72]
  5. ^ 『法隆寺別当次第』憲信僧正「同廿七日笠置寺入御、日本国動乱之元始是也」[73]
  6. ^ 『増鏡』「中務の御子大塔の宮などは、予てより、こゝを出でさせ給ひて、楠が館におはしましけり」[77]
  7. ^ 『光厳院宸記』元弘元年10月18日裏書条「御事書ヲ以テ仰云、天下未静謐、楠木城合戦落居之程、難給御返事暫可在京旨被之云々[81]
  8. ^ 『北条九代記』(『鎌倉年代記』)裏書「元弘元年辛未十月廿一日楠落城、但楠兵衛落行」[83]
  9. ^ 『光厳院宸記』正慶元年6月29日条「是自熊野山、帯大塔宮令旨竹原八郎入道為大将軍襲来云々、驚歎不尠」[93]
  10. ^ 保暦間記』「天台座主山々を廻りて義兵を挙げ、河内国住人、楠正成と云ふものあり。彼を説いて、河内と大和との国境に金剛山と云ふ山に、城廓を構へて、畿内近国の勢を語ふ云々」(天台座主は大塔宮(護良親王)のこと)[92]
  11. ^ a b 『河内国天野山金剛寺文書』「
    御巻数給候了。早可令進覧候。恐々謹言。
      十二月九日 左衛門尉正成(花押)
     謹上 金剛寺衆徒御返事」「
    祈祷巻数賜候了。種々御祈念、返々為悦候。恐々謹言。
      十二月九日 左衛門少尉正成(花押)
     謹上 金剛寺三綱御返事[104]
  12. ^ 『花園天皇宸記』正慶元年11月15日条「楠木事猶興盛候歟。自昨日門々番衆等著鎧直垂祇候候之間、定子細候歟之由、推量候。只冥助之外、無所憑。関東武士も上洛遅々之間、返々非無怖候。熾盛光法、尤忩々可被始行候歟。以俊禅僧正被申入了。仍承之。此時分、懇祈外、不可有他候乎。風気此両三日得減候也。事々期面候。謹言。」[97]
  13. ^ 『紀伊続風土記』附録『須田文書』「
    依大塔宮幷楠木兵衛尉正成事、自関東尾藤弾左衛門尉所上洛也。有可被仰之子細、不廻時刻可被参洛。仍而執達如件。
      正慶元年十二月五日 左近将監(花押)
         越後守(花押)
       須田一族中」(須田時親に宛てた文書。左近将監は北条時益、越後守は北条仲時[100]
  14. ^ 『楠木合戦注文』十二月日「一 為楠木被取籠湯浅党交名 安田二郎兵衛尉重顕 阿矢河孫六入道定仏 藤並彦五郎入道 石垣左近将監宗有 生地蔵人師澄 宮原孫三郎 湯浅彦次郎時弌 糸賀野孫五郎」[102]
  15. ^ 『和田文書』和田助家への招集状「
     りやうろくはら
    大塔宮幷楠木兵衛尉正成事、為誅伐所差遣軍勢也。去年雖発向、重可進発云々、殊以神妙。引率庶子親類可抽軍忠之状、依仰執達如件。
      正慶元年十二月九日 右馬権頭(花押)
         相模守(花押)
       (宛名欠)」(右馬権頭は連署北条茂時、相模守は執権北条守時[103]
  16. ^ a b 甲斐身延山所蔵『金剛集裏書』「九日より京中以外騒動候。阿くた川に朝敵充満し、山崎迄せめ入候間、宇つ宮赤松入道賜打手、早速進返候了。仍仁定寺に構城廓、引籠候を、宇都宮ついで責取、即ち昨日打落頸其数令持参候。是大塔殿御所為と申候也」(「昨日」は12月15日)[105]
  17. ^ 『紀伊葛原文書』「
    楠木兵衛正成事、押寄隅田荘之時、度々及合戦数十人徒討留畢、殊以神妙也、仍而執達如件
      正慶元年 十二月十九日 左近将監(判)
      越後守(判)
     隅田一族中」[106]
  18. ^ 『久米田寺文書』「
    当寺幷於寺領等不可有官兵之狼藉由事、令旨進候。此上者、弥可令抽御祈祷之忠勤賜候哉。恐惶謹言。
     正月五日 左衛門尉正成(花押)
     進上 久米田寺御寺者」(12月26日付令旨に翌年1月5日正成が添付した文)[109]
  19. ^ 『真乗院文書』「
    今月八日御札、同廿三日到来。委細拝見仕了。
    抑為追罰大塔宮・楠木兵衛尉正成、可発向茅和屋城由事、御教書案文拝見仕了。早速企参上可供奉仕候。但老父境節本病更発仕候。難儀最中候。可有御心得候。是非早々上洛仕、可申入候。恐々謹言。
      正月廿五日 大中臣頼景(判)
     謹上 和田修理亮太郎殿」[102]
  20. ^ 『道平公記』正慶2年1月16日条「去夜楠木丸与官軍於泉境合戦」[108]
  21. ^ 『楠木合戦注文』「自十九日己時一日合戦、戌亥時に追落、楠木渡辺に責御米少々押取」[113]
  22. ^ 『楠木合戦注文』「斉藤新兵衛入道、子息兵衛五郎、佐介越前守殿御手トシテ相向奈良道是者搦手之処、去月廿七日楠木爪城金剛山千早城押寄、相戦之間、自山上以石礫、数カ所被打畢、雖然今存命凡家子若党数人手負或打死」[129]
  23. ^ 『前田侯文書』「
    大塔宮幷楠木兵衛正成事、為誅伐所差遣軍勢也。早為一揆之思、令対治凶徒者、可有其賞之状依仰執達如件
      正慶二年二月丗日 右馬権守(判)
      相模守
     東大寺衆徒中」[130]
  24. ^ 『楠木合戦注文』「大手本城平野将監入道既三十余人参降畢。此内八人者逐電、或生捕、或及自害。彼所又以被落之由、閏二月一日風聞。楠木舎弟同比城中在之是非左右未聞」[133]
  25. ^ 『門葉記』「正慶二年二月丗日勅書到来。合戦事、凶徒頗雌服。官軍乗勝。後二月朔日、楠木城既没落。平野将監入道以下生虜数輩自方々駕送之。」[134]
  26. ^ 『忽那開発記』「建武五戊寅三月小早河民部大夫入道相順・同左近将監景平以下輩起謀反、安芸国沼田庄内、楯籠妻高山之間、為誅伐同七日御発行直附到着抽軍忠後三月十一日楠多聞兵衛殿賜御判。」(閏3月(後三月)の無い建武5年の閏3月に、建武3年に死んだ正成が判を捺しているという奇妙な記事だが、藤田精一は『忽那開発記』に日付の書き間違いが多いことを指摘し、これも元弘3年の後二月(閏二月)の間違いだろうとしている。そして、正成が千早城にいながら他の地域と連絡を取れる手段を持っていたのではないか、と推測している)[136]
  27. ^ a b 「二月廿四日、主上出御隠岐国、同日遷座伯耆国稲津浦。同廿六日、遷幸船上山。」[139]
  28. ^ 『続史愚抄』「正慶二年三月五日戊戌六波羅勢与橘正成戦大敗道平公記[141]
  29. ^ 『博多日記』三月「二十二日自鎮西関東ニ上ル早馬、雑色ノ五郎三郎下着、金剛山ハ未タ不破、赤松入道可打入京之由、披露」[143]
  30. ^ a b 備後『因島文書』「度々合戦捨身命、軍忠之刻、去四月三日、同八日、同廿七日等合戦之時、子息已下郎従、討死之条尤以不便次第、所有御感也。早可恩賞者。大塔二品親王令旨如此、悉之以状 元弘三年五月一日 左中将(花押)。備後国因島大主治部法橋幸賀館」(「中」将ではなく「少」将か?)[145]
  31. ^ 『博多日記』四月「四日雑兵宗九郎自関東打返、金剛山をば近日可打落」[146]
  32. ^ 『和田系図裏書』「
     和田修理亮進正慶二、四、廿、
    和泉国御家人和田修理亮助家、茅葉屋城大手箭倉の下の岸を掘之時、今日四月廿日若党新三郎顕宗、腰骨をすこし右へよりて被射候了。仍注進如件
      正慶二年四月廿日 定兼(花押)
        資兼」[144]
  33. ^ 『和田文書裏書』「
     かん状正文
       はるとき
    於茅破城北山、至野臥合戦取頸了、尤神妙候、仍執達如件
      正慶二年四月廿一日 治時
        和田中次殿」(幕軍大将阿曽治時が和田助秀に与えた感状)[149]
  34. ^ 『紀伊続風土記附録』「爰其身者罷向金剛山城之折節、今年元弘三年五月二日安原卿大楠丸住宅に大塔宮祇候人保田次郎兵衛尉宗顕、生地蔵人師澄以下寄来、令放火之時、彼御下文等悉焼失候畢」(文中に「大楠丸」とあるのは正成ではなく襲撃を受けた栗栖実行の長子の名前)[148]
  35. ^ 『観心寺文書』(元弘3年)「
    此之間何等事候乎、抑為御祈祷、観心寺大師御作不動、可奉渡之由、被下綸旨候之間、申遣寺僧方候、明後日二十八日御京着候様、可候奉渡候也、御共に御上洛候べく候、心事期面候、恐々謹言
     十月二十六日 正成(花押)
     瀧覚御房」[165]
  36. ^ 『玉英記抄』「建武元、二、小除目、従五位下橘正成勲功章 従五位下橘正成、検非違使如元」[3]
  37. ^ 『略年代記抄出』(延元元年正月)「同七日楠木焼払宇治、依余燄平等院消失」[175]
  38. ^ a b 『真乗院文書』「右助康去年十一月廿八日馳参京都属御手自宇治令参東坂本 同十六日罷向西坂本」(和田助康の軍忠状、御手とは正成のこと)[178]
  39. ^ 『忽那重清軍忠状』「同晦日馳向搦手到散々合戦之上、重為四条河原相向朝敵人高橋党、到散々合戦責落畢、次依大将軍仰火口河原在家懸火、次馳向内野責附丹州道追山」(大将軍は洞院実世、実世が搦手を組織して戦っていた)[185]
  40. ^ 『和田助康軍忠状』「晦日鴨河原、内野合戦」(和田助康は正成配下だから、地理的に考えると正成が実世と合流して搦手で戦っていたことかがわかる)[185]
  41. ^ 河内国天野山金剛寺蔵『釈論』第九愚章、禅恵の記入「同三年正月十日帝落給入御山門、同十六日、日田殿折下京中散々合戦、同廿六日、廿七日、晦日三箇日之間、楠木判官大将斗ニテ足利殿足利兵庫ヨリ逃下備後土毛マデ」(日田は新田の誤記)[185]
  42. ^ a b 『和田助康軍忠状』「二月十日・十一日罷向打出・豊島河原到合戦忠節候畢」[188]
  43. ^ 『周布兼宗軍忠状』「今月十日於西宮浜手抽随分之軍忠」[188]

出典

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