楠木正成 人物

楠木正成

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人物

故・菊池武時に戦功を譲る

菊池武朝申状』(弘和4年(1384年)7月日)によれば、武朝の曽祖父の菊池武時元弘の乱で戦死した後、その論功行賞の場で、正成は自らの功績を誇らず、他人である武時の功を強く推薦したという[193]。曰く、元弘の乱では忠烈の者も労功の輩も多いが、みな生き長らえた者である[193]。しかし、武時入道ひとりは勅諚によって落命した者である[193]。忠厚第一とするのは当然ではないか、と論じた[193]。そのため、正成の主張を後醍醐天皇は聴き入れたという[193]

上の「忠厚」という語については、平田俊春「楠公の戦死に関する学説について」(1940年)は「忠義」の意に解しているが、今井正之助「解説 正成討死をめぐる諸説と正成の出自」(2007年)は、『太平記』等の当時の諸書での用例を考えるなら、ここでいう「忠厚」とは「忠功」[注釈 14]つまり(戦での)「功績」のことであろうと指摘している[193]

評価

五銭紙幣(通称:楠公5銭券[194]、1944年発行、1953年失効)

足利方からの評価

南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でも正成に対して同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためとされる。[要出典]

軍事面

今日でいうゲリラ戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井正雪も南木流軍学を講じていた。その他、応仁の乱前後から正成著と称する偽書の軍学書が多く作られ、伊藤博文も偽書の一つ『雑記』の古本を秘蔵し、のち末松謙澄子爵が入手して称賛しており、室町時代から明治初期に至るまで影響は大きかった[195]

楠木正成は、既に古典『太平記』巻16「楠木正成兄弟以下湊川にて自害の事」において、三徳兼備の和朝最大の武将として評価されている。南北朝分裂以降、仁が無い者は北朝に寝返り、勇が無い者は死を恐れてかえって死罪に合い、智が無い者は時流の変遷を理解できず道理のない振る舞いばかりしていたが、そのような中、ただ一人楠木正成のみが智・仁・勇の三徳(『中庸』で「天下の達徳」とされる儒学最高の理想)を兼ね備え、古今これほど偉大な死に様をした者はいない、と同書は評価している。[要出典]

正保2年(1645年)に活字本が刊行された『太平記評判秘伝理尽鈔』は江戸時代に軍学書のベストセラーとして広く読まれたが、『太平記』の正成賛美を受け継ぐ傾向が強く、正成が「坂東一の弓取り」宇都宮公綱を計略で撤退させるだけで直接対決しなかったことについても、出典の怪しい逸話を引いて、優れた将同士が直接戦えば双方に被害が甚大だったであろうから戦を仕掛けなかったのだ、と正成が弁解する話を伝えるなどして弁護している[196]。また、「正成は多聞天王の化生(軍神の化身)ではなく、智・仁・勇を極めただけの人間だ」という論に対し、「もともと智が無かった者でも、その後に学問を好めば智者と呼ばれるように、(三徳を極めた人間こそが)多聞天にして聖人なのだ。正成には敵を退けて朝家を守護したという事実があるのだから、それは多聞天が帝を守護したのと違いがあろうか」という反駁で総括している[196]

江戸初期の儒学者は中国の人物を高く評価する傾向にあり、山崎闇斎『大和小学』(明暦3年(1657年))は、前漢張良蜀漢諸葛孔明郭子儀を三徳に近い中国史の名将とし、日本の楠木正成は孔明の次ぐらいであって、これを三徳兼備などと称するのは『中庸』を読んだことがないのだろう、と評している[196]。とはいえ、日本最高の名将が楠木正成であるという前提は、『太平記』から引き続いている[196]

こうした江戸の儒家の影響を受けて、寛文5年(1668年)に江島為信が著した軍学書『古今軍理問答』は、『太平記』の流れを組む正成神聖視から離れ、正成を「智謀」のある大戦術家・大戦略家とはしながらも、「三徳兼備」という聖人評価については「孔子ですら智仁勇を自称せず、まして日本は夷国であって人の気質も偏屈で、賢人すらいない。楠木正成は日本国内においては無双の英雄の士ではあるが、智仁勇というほどではない」としている[196]。また、『太平記評判秘伝理尽鈔』の出所不明の逸話を正し、その戦術・戦略についても、挙兵を急ぎすぎて赤坂城の用水設計に難があった点など、非がある部分については非を責めている[196]。ただし、総合評価としては、正成を日本第一の武将とする結論はやはり変わらない[196]。敵を見てその戦術を転化する変幻自在の謀計や、この時代にあって兵糧・用水など兵站の確保を重要視したこと、千早城という天険の要害を見出した築城技術などを評価している[196]。『古今軍理問答』は、『保元物語』『平治物語』『平家物語』『甲陽軍鑑』なども論じているが、正成のことは「日本開闢以来の名将」と評している[196]

寛文12年(1672年)、陽明学者熊沢蕃山は、甲州流軍学越後流軍学信州流軍学のうちどの軍法が優れてるのか、との問に、個人の将として優れているのは越後の景虎(ここでは上杉謙信の初名)、技術で優れているのは甲州・信州としつつも、戦国時代の軍法は小競り合いの類である、小事を知るには良いが、義経・正成・義貞(の軍法)の後に本当の合戦というのは存在しない、と答えている(『古事類苑』「兵事部」巻1に引く『集義和書』巻11)[197]

日夏繁高『同志茶話』は、源義経を「今古無之名将」、楠木正成を「古今無双の良将」と、日本史上の名将双璧とするが、正成が義経の兵法を研究したとする『太平記評判秘伝理尽鈔』の説については疑っている(『古事類苑』「兵事部」巻1に引く『同志茶話』巻6)[198]。また、正成の千早城の籠城戦や藁人形を使った謀計などを評価しつつも、二人の名将は神速奇謀を主とした将であり、手本としてたやすく学べるものではない、と、楠木正成の戦法を取り入れたと自称する楠木流軍学などを批判している[198]

国史大辞典』(1997年)でも、1336年の豊島河原合戦で勝利に沸き尊氏は再起不能であると楽観論を述べる後醍醐天皇軍に対し、尊氏はすぐに再挙して東上するであろうと予見して苦言を呈したことについて、「軍略家としての非凡な資質をうかがうことができる」と評されている[1]

忠臣正成

皇居外苑にある楠木正成像

皇国史観

江戸時代において、正成は忠臣として見直された。

佐賀藩では1663年寛文3年)に『楠公父子桜井の駅決別の像』を製作し毎年祭祀を行っていた。一時絶えたが、1850年に国学枝吉神陽義祭同盟を結成し、正成崇敬を通して明治維新に繋がる水戸学尊王思想を広めた。とりわけ会沢正志斎や久留米藩の祀官真木保臣は、楠木正成をはじめとする国家功労者を神として祭祀することを主張し、慶応3年(1867年)には尾張藩主徳川慶勝が「楠公社」の創建を朝廷に建言した[199]長州藩はじめ楠公祭・招魂祭は頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがて後の湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えた[199]

明治に入ると、南北朝正閏論を経て「南朝が正統である」とされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる[注釈 15]。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のために従容と逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られた。

昭和10年(1935年)には「大楠公六百年記念大祭」の関連行事が全国各地で開催され、忠君報国を軸とした国民精神の高揚に加え、文部省により進められた史蹟指定にも触発された観光需要の発生、郷土愛と連携した地域史の振興などが起こった[201]。特に戦没地である湊川神社ではこの年に大規模な改修を完成させて、正成の命日(同神社の縁日)である5月25日に武者行列を実施し、「参加者が3千人、沿道観覧客が約50万人」と報じられる大規模なものとなった。これらの一連の行事や整備のうち、湊川神社での武者行列、同神社内に本部が設置された楠木同族会の結成(上記)、京阪電気鉄道による「上牧桜井ノ駅駅」(現在の阪急電鉄阪急京都本線上牧駅)の設置、大阪朝日新聞社が始めた「全国体操大会」[202]など、戦後まで継続されたものもいくつか存在する。

佩刀であったと伝承される小竜景光東京国立博物館蔵)は、山田浅右衛門の手を経て、明治天皇の佩刀となった。明治天皇は大本営が広島に移った時も携えていたとされる。

忠臣史観の問題点

正成の忠臣としての一面を過剰に強調することの問題点は、それがしばしば建武政権南朝の政治への低評価と結びつくことである[203]

戦前まで存在した南朝正統史観は、後醍醐天皇・建武政権・南朝を無条件に讃えた史観であると誤解されることがあるが、実際は後醍醐が賛美されたのは大義名分論の側面のみであり、政治的には無能で不徳な君主として扱われていた[204]。こうした暗君像は、軍記物語太平記』(1370年ごろ完成)などに端を発する[205]。そして、後醍醐は「暗君」であるにもかかわらず、三種の神器を持つ正統な君主であるがため、愚直に仕えざるを得なかった「忠臣」の悲哀が、判官贔屓の形で共感を呼んだのである[204]

このような「後醍醐=暗君、忠臣=正義」の構図[204]は、戦後も前半部分は依然として続き[206]、後醍醐天皇・建武政権の特異性が誇張されたことで、鎌倉時代と室町時代の政治にどのような繋がりがあるのかの解明を困難にさせた[207]。しかし、2000年前後からの実証的研究では、建武政権の政策・法制度は前後の時代との連続性が見られることが指摘され、後醍醐天皇の旧来の暗君像は徐々に改められる方向にある[208][209]

時代の革命児「悪党」正成

戦後は、価値観の転換により従来の「天皇に準じた忠義第一の臣」という顕彰が消滅する一方、歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で、戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。

鎌倉時代末期〜南北朝時代における「悪党」とは「わるもの」という意味ではなく、強大な経済力と武力を背景に、旧体制である荘園領主・幕府に反抗した新興勢力のことである(よって、山僧や神人など「邪悪」ではない者も「悪党」には含まれる)[210]。鎌倉時代末期〜南北朝時代は社会の下部構造である民衆が初めて歴史の表舞台に台頭した時期であり、その下部構造から生じた悪党はこの世代の社会を牽引した、時代の主役であった[211]公家武家といった旧時代の支配者たちは「血」を重視し血縁組織を作り上げたが[211]、楠木正成ら交通の要衝路に住む悪党は「地」という革命的な概念を持ち込んで地縁組織を支配した[210]。正成は「摂津〜河内〜和泉〜大和〜伊賀〜伊勢」という通商ラインを抑えたことで、六波羅探題と鎌倉幕府の連携を分断することに成功し[211]、当初数百倍の戦力差があった元弘の乱に戦略的勝利を収めた。権威を盲信するのではなく、知恵と新しい発想をもって時代を切り開く、いわば時代の異端児・革命児としての楠木正成像である。

ただし、「悪党」を「社会の秩序を乱す者ないし悪事をなす集団」と誤解で一般的語彙に解釈されて問題となることもあり、NHKのテレビ番組『堂々日本史』において「建武新政破れ、悪党楠木正成自刃す」というタイトルで放送された際、湊川神社がNHKに抗議する事件が起きている[212]

21世紀の楠木正成像

前節までの評価は、楠木正成という人間を一つの型に押し込めるものであった[213][214]。しかし、その後の研究の進展により、正成は本質的に多才・多面的な人間であったことが明らかになってきている[215][213][214]

生駒孝臣によれば、正成のような畿内の武士は、複数の側面を持つことが普通であったという[213]。つまり、正成は、交通・流通路の支配者として財を稼いだ大商人であり、朝廷・後醍醐天皇に仕えた廷臣でもあり、幕府の御家人でもあり、かつ幕府から訴追された悪党(反抗者)でもある[213][214]。どれか一つが正しい正成像なのではなく、むしろこれら全ての顔を持っているという点が正成の実像なのであるという[213][214]

また、正成は、建武政権下で、名和長年と共に、最高政務機関である記録所寄人(職員)に大抜擢された[215]。後醍醐天皇の人事政策は、破天荒と言う俗説に反し実際は穏健なものが多いが、正成の記録所への登用は例外的な抜擢人事である[216]。森幸夫によれば、一般的には武将としての印象が強い正成だが、官僚的能力に優れた中原氏や小田時知、伊賀兼光[注釈 16]といった他の寄人の顔触れを見る限り、正成も実務官僚として相応の手腕を有していたのではないか、という[215]

伝説・創作

笠置山の霊夢

『後醍醐帝笠置山皇居霊夢之圖』(尾形月耕)

軍記物語太平記』流布本巻3「主上御夢の事楠の事」では、楠木正成と後醍醐天皇の出会いは以下のように描かれる[217]。しかし、歴史的事実としては、『天竜寺文書』により、遅くとも元弘の乱発生以前である元徳3年(1331年)2月には、正成が後醍醐天皇方に付いていたことが明らかである[218]

元弘の乱が発生し、天皇が笠置山に籠ると、笠置寺の衆徒や近国の豪族らが兵を率いて駆けつけてきたが、名ある武士や、百騎、二百騎を率いた大名などは一人も来なかった[217]。そのため、後醍醐天皇は皇居の警備もままならないと不安になり、心配になって休んだ際に夢を見た[217]。その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた[217]。すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って空に上って行っていなくなってしまった。

夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、 河内国石川郡金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子孫とされる楠木正成(楠正成)という者がいるというので、後醍醐帝はその夢に納得し、すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした[217]万里小路藤房が勅使として笠置山から河内に向かい、正成の館に着いてその事情を説明した[217]。すると、正成は「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾した[217]。そして、正成は人に気が付かれないようにすぐさま河内を出て、笠置山に参内した[217]

正成は後醍醐天皇から勅使派遣より時を置かずに参内したことを褒められ、そのうえで正成がどのような計画を持ち、勝負を一気に決めて天下を太平にするのかを問われた[217]。正成はこの問いに対し、「幕府の大逆は天の責めを招き、衰乱の機会に乗られて天誅が下されます。その好機なら必ず滅ぼすことができます。天下草創には武略と智謀の2つがあります。勢いに任せて合戦を行えば、たとえ60余州の軍勢をもってしても武蔵・相模の領国に勝利を得ることはできないでしょう。もし何らかの策を用いて戦えば、幕府は守勢に回って欺きやすくなり、怖れるに足らなくなるでしょう。合戦の常は個々の勝敗にこだわらないことです。(たとえ戦いで敗れたとしても)正成がたった一人生存していれば、天皇の聖運が必ず開けると御思い下さい」と述べた[217]。そして、正成は河内に戻り、赤坂城(下赤坂城)で挙兵した[219]

献策を退けられる

『太平記』流布本巻16「正成兵庫に下向の事」が描く物語によれば、建武の乱多々良浜の戦いに勝利した足利方が再び京に迫まり、義貞が兵庫に退却したという早馬が京へ届くと、後醍醐天皇は正成を呼び出し、義貞とともに尊氏を迎え撃つように命じた[52]。正成は帝に対し、「尊氏の軍勢は大軍であり、疲弊した味方の小勢でまともに正面からぶつかれば、決定的な負け戦になるでしょう。ここは新田殿を京に呼び戻し、帝は以前のように比叡山に臨幸して下さい。私が河内に戻って河尻(淀川の河口)を抑え、京に入った足利軍を新田軍とともに前後から兵糧攻めにすれば、敵兵の数は減ることでしょうし、我々の軍勢には味方が日々馳せ参じるでしょう。その時を狙い、新田殿が比叡山から、私が搦手より攻め上れば、朝敵を一戦で掃滅すること可能かと思えます。新田殿もきっとこの作戦に同意するでしょう」と進言した[52][49]。この策は正成にとっては、比叡山に朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つという、現実的かつ必勝の策でもあった。

この正成の進言に対して、諸卿らは「確かに戦に関しては武家に任したほうが良い」と、納得しつつあった[52]。だが、坊門清忠が「帝が都を捨てて一年に二度も臨幸するのは帝位そのものを軽んずる」とし、「味方の軍勢は少数ながらも、毎回大敵を滅ぼしてきた。それは武略が優れていた訳でもなく、聖運の天に通じたから」だと述べ、正成は即刻義貞のいる兵庫に向かうべきと主張した[52][220]

その結果、後醍醐天皇は正成の意見ではなく、坊門清忠の意見を尊重した[52]。正成は今更反論しても仕方がないと考え、朝議の結果を受け入れた[52]

以上は「流布本」の描く筋書きであるが、この物語は写本の系統によって異同がある[221][222]。特に、古態本(『太平記』の原型に近いとされる写本)の一つである「西源院本」では、坊門清忠は登場しない[221]。また、「神宮徴古館本」では、後醍醐への憤りから「智謀叡慮で勝つのを望まず、無二の戦士をあえて大軍にぶつけるなどと仰るなら、私は義を重んじる忠臣勇士なので、お望み通り死んでみせましょう」と皮肉を述べるなど、忠臣勇士とは言いがたい描写がされている[222]

『太平記』版湊川の戦い

軍記物語太平記』巻16「兵庫海陸寄手事」では、湊川の戦いで、正成は他家の軍勢を入れず、7百余騎で湊川西の宿にて布陣し、陸地から攻めてくる敵に備えていた[223]。正成も義貞も足利方の大軍に対して少しもひるむことはなかったという[223]

続く流布本巻16「正成兄弟討死の事」では、連合軍は多勢に無勢であったため、正成と義貞の軍勢は引き離されてしまった[224]。正成は正季に「敵に前後を遮断された。もはや逃れられない運命だ」と述べ、前方の敵を倒し、それから後方の敵を倒すことにした[224]

正成は700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に突撃を敢行した[224]。菊水の旗を見た直義の兵は取り囲んで討ち取ろうとしたが、正成と正季は奮戦し、良き敵と見れば戦ってその首を刎ね、良からぬ敵ならば一太刀打ち付けて追い払った[224]。正成と正季は7回合流してはまた分かれて戦い、ついには直義の近くまで届き、足利方の大軍を蹴散らして須磨・上野まで退却させた[224]。直義自身は薬師寺十郎次郎の奮戦もあって、辛くも逃げ延びることができた[224]

だが、尊氏は直義が退却するのを見て、「軍を新手に入れ替えて直義を討たせるな」と命じた[224]。そのため、吉良氏高氏上杉氏石堂氏の軍6千余騎が湊川の東に駆けつけて後方を遮断しようとしたため、正成は正季ともに引き返して新手の軍勢に立ち向かった[224]

6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行い、楠木軍は次第に数を減らし、ついに73騎になっていた[224]。疲弊した彼らは湊川の東にある村の民家に駆け込んだ[224]

正成は自害しようと鎧を脱ぎ捨てると、その体には合戦での切り傷が11か所にも及んでおり、ほか72人もみな同様に切り傷を負っていた[224]。正成は正季と共に自害して果て、橋本正員・宇佐美正安・神宮寺正師和田正隆ら一族16人・家人50余人もまた自害し、皆炎の中に倒れ込んだ[224]

「七生滅賊」の罪業と「七生報国」

軍記物語太平記』流布本巻16「正成兄弟討死の事」によれば、湊川の戦いでの自害の直前、正成は弟の正季に、次はどのように生まれ変わりたいか、と尋ねた[224]。正季はからからと打ち笑って、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へ」(「(極楽などに行くよりも)7度人間に生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」)と述べた[224]。正成は嬉しそうな表情をして、「罪業深き悪念なれども我もかやうに思ふなり」(「なんとも罪業の深い邪悪な思いだが、私もそう思う」)と同意し、「いざゝらば同じく生を替へて、此本懐を達せん」(「さらばだ。私も同じく生まれ変わり、滅賊の本懐を達そう」)と兄弟で差し違えた、と物語られる[224]

こうして七生滅賊という仏教的に罪深い思想に囚われた正成は、流布本巻23「大森彦七が事」で怨霊として再登場して室町幕府を呪い、最後は仏僧が読経する『大般若経』の功徳によって調伏されることになる[225]

しかし、歴史的人物としての正成は、 『法華経』の写経(『今田文書』(湊川神社宝物))[原文 1]や、その裏書からわかるように、仏教への帰依が篤く、また深い知識を持つ人物だった[226]。したがって、『太平記』に描かれる「七生滅賊」の物語は、本来の正成の人となりとは反している[要出典]

上横手雅敬「楠木正成(二)――天下、君を背きたてまつる」(『太平記の世界』(日本放送出版協会、1987年)や、中村格「天皇制教育と正成像――『幼学網要』を中心に」(『日本文学』39巻1号、1990年)および今井正之助 などの研究では、本来、『太平記』の「七生滅賊」(あるいは「七生滅敵」)は中世的な怨念観を表現するための呪いの言葉であり、後段の大森彦七伝説と組で考えるべき物語であったとされ[227]、数百年後、近代に入り、国家への忠誠心を示す「七生報国」という言葉に置き換わったとみられている[227]。しかしながら、大正時代に至っても同5年(1916年)に、大正天皇は『楠木正成』と題した七言絶句の御製にて「七生報国」ではなく「死に臨んで七生滅賊を期す 誠忠大節斯の人に属す」と表現し、その徳を讃えている[228]

「七生報国」の語の用例は、遅くとも『萬朝報明治37年(1904年)4月3日に、海軍軍人の広瀬武夫辞世の句として「七生報国 一死心堅 再期成功 含笑上船」という漢詩が載せられたことまで遡ることができる[229]

怨霊伝説

月岡芳年画『新形三十六怪撰』より「大森彦七道に怪異に逢ふ図」。室町幕府の武将大森盛長が、美女に扮した楠木正成の怨霊を背負う図

軍記物語太平記』の正成は、儒教的には三徳兼備の聖人として描かれるが、七生滅賊の節で述べたように、仏教的には「七生滅賊」の罪業を願った悪人として描かれる。そして、流布本巻23「大森彦七が事」では怨霊として登場する[225]

伊予国愛媛県)の大森盛長(通称を彦七)という人物は、『太平記』の劇中では、室町幕府の有力武将細川定禅の部下として、湊川の戦いで楠木正成と戦い、腹を切らせた猛将であると設定されている[225]。また、大森氏猿楽(後の能楽)を嗜む一族でもあったという[225]

興国3年/暦応5年(1342年)春より少し前のある夜、盛長が猿楽の楽屋に行く途中、山隙の細道に数え17歳から18歳程度(満15歳から17歳程度)の美女が佇んでいた[225]。か弱い姿の美女に心惹かれた盛長は、猿楽の桟敷席までお連れしましょうと申し出て、背中に背負って歩き始めた[225]。すると、たちまち女の口は裂け、角が生えて、怪物となり、盛長を空中に連れ去ろうとしたが、盛長が必死に抵抗し部下も駆けつけたので、怪物は消滅した[225]。猿楽は延期となった[225]

再開された猿楽の当日、再び化け物が観客の前に現れ、楠木正成を名乗り、朝敵滅賊の野望を果たすために、修羅の眷属となり、「貪」「瞋」「癡」の三毒の魔剣を探し求めていると明かす[225]。このうち、「貪」の刀は日吉大宮のもとにあったが、怨霊正成は日吉の神(大己貴神)に仏法を教える引き換えに手に入れた[225]。「瞋」の刀は足利尊氏が所持していたが、怨霊正成は尊氏の寵童(愛人の少年)に変装して奪った[225]。残る「癡」の刀は、もと悪七兵衛景清の佩刀であったが、壇の浦の戦いで海に落ちたのを、イルカが飲み込んで讃岐国香川県)の宇多津沖まで運びそこで死んだが、100年余りのちに漁師の網に引っかかって地上に戻り、いま盛長が持つ刀がそれであるのだという[225]。この三毒の魔剣が揃った時、尊氏の世は終わると言い、盛長から「癡」を奪おうとする[225]

この後、たびたび盛長と怨霊正成の対決が行われ、ついには、後醍醐天皇護良親王新田義貞平忠正源義経平教経の怨霊も正成に加わって大きな戦いとなる[225]。武力に頼っても陰陽師に頼っても正成の怨霊を打ち倒すことはできなかったが、盛長の縁者である禅僧に調伏を頼んだところ、『大般若経』の読経が行われ、その功徳によってついに正成の怨霊を鎮めることができた[225]。まことに仏法の鎮護国家の力は素晴らしい、と『太平記』作者(円観ら)は称える[225]

興国3年/暦応5年(1342年)春、盛長は以上の次第を足利直義(尊氏の弟で当時の事実上の最高権力者)に伝え、さらに天下の霊剣として、「癡」の刀を献上した[225]。この話に感じ入った直義は新しい拵えを作らせ、「癡」を自らの蔵刀とした、と描かれる[225]

郡司正勝『かぶきの発想』(1959年)の推測によれば、上記の物語は、もともと怨霊鎮撫のために書かれた猿楽の台本だったのではないかという[230]。また、「流布本」では正成を調伏するのは禅宗の僧とされるが、砂川博『軍記物語の研究』(1990年)によれば、本来は西大寺系の律宗の僧という設定ではないかという[231]樋口州男『日本中世の伝承世界』(2005年)の主張によれば、上記の話はもともと伊予で大森氏によって興行されていた物語であり、この地方での南朝敗退を説明するために、『太平記』作者が取り込んだのではないかという[232]新井孝重は、大森氏が正成討伐に関わったことは歴史的事実であろうと考え、正成の勢力基盤であった民間武装民に流布していた天下転覆の怨霊伝説を、敵方である大森氏が怨霊を恐れ、怨霊鎮魂譚に組み替えたのではないかと推測している[233]

楠木正成の妻

明治大正時代の織田完之『楠公夫人伝』による推説では、正成の妻を南江久子(みなみえ ひさこ)としているが、他に典拠がない[234]。「観心寺過去帳」にその論拠があるという俗説も唱えられたことがあるが、宮内庁書陵部写本の「観心寺過去帳」に楠木氏関係の記事はない[235]。今井正之助によれば、太平記評判書(偽書的な注釈書)の一つ『無極鈔』に正成の舅として登場する、南江正忠(なんごう まさただ)という架空上の人物が久子伝説の淵源ではないかという[235]

細川潤次郎「楠氏夫人ノ異聞ノ続」(『東京茗渓会雑誌』126号、1893年)は、「柏原系図」により、万里小路藤房の妹の万里小路滋子としたが、同系図は星野恒「楠公夫人ノ異聞問答」(『史学雑誌』5:2、1894年)により偽書と結論付けられている[235]

その他、越智将監の娘説などもあるが、いずれも疑わしい[235]


注釈

  1. ^ 頼山陽の『日本外史』(文政10年(1827年))は正成の没年を数え43歳としている[1]。ここから逆算すると、永仁2年(1294年)の生まれとなる。しかし、『日本外史』説に史料的根拠は無い[1]。今井正之助によれば、享年43歳説は、『太平記評判秘伝理尽鈔』(1600年ごろ)に端を発するという[2]
  2. ^ a b 通俗的には和泉守(和泉国司)にも任じられていたとされるが、『大日本史料』によれば、和泉守説を裏付ける史料はない[3]。正成は、河内・摂津の国司であると同時に、河内・摂津・和泉の「守護」でもあったので、通俗書が守護と国司を取り間違えたものであろう[3]
  3. ^ 現在でも駿河の国(静岡市清水区)には長崎と楠(古文書では楠木)という地名が隣接して存在している。
  4. ^ ただし合戦の火蓋が切られたのは27日ともいわれる[46]
  5. ^ 和暦(明治元年以降はグレゴリオ暦と一致する)。
  6. ^ 大覚寺統に流行っていた宋風の書の影響が見られるという。
  7. ^ a b c 正式には『故太宰帥親王家御遺跡臨川寺領等目録』(天竜寺文書)
  8. ^ 『増鏡』『太平記』も27日説を取るが、『南山錦雲抄』『東寺年代記』は26日、『笠置寺縁起』は29日とする[67]
  9. ^ 兵衛尉は、少尉が従七位上相当で、大尉が正七位下相当、左衛門少尉は正七位上相当。一階か二階の昇進となる。反幕勢力内での昇進のため、幕府側には伝わらなかった。昇進を許可したのが後醍醐天皇か大塔宮かは不明。
  10. ^ 詳細には、金剛山吉水院主律師真遍言上状(金峯山文書)
  11. ^ その後、斯波高経は翌建武2年(1335年)1月30日にようやく反乱軍を鎮圧[163]
  12. ^ 遅くとも建武2年(1335年)8月12日以降、京の決断書の牒文から正成の署名が消える[167]
  13. ^ 贈正三位説は『太平記評判秘伝理尽鈔』等に載り、徳川光圀もこれを採用して「嗚呼忠臣楠氏楠子之墓」に載せた[189]。しかし、渡辺世祐「吉野朝以後の楠氏」(1935年)は、詳細な検討の上で、従五位上から正三位に急陞することは当時考えにくいと結論づけており、今井正之助もこれに賛同する[189]
  14. ^ 「忠功」を「功績」の意味に用いる当時の用例としては、『太平記』巻12「千種殿文観僧正奢侈事」の「六波羅ノ討手ニ上リタリシ忠功ニ依テ」や巻32「鬼丸鬼切事」の「朝敵ノ大将を討タリツル忠功抜群トイヘハ」など[193]
  15. ^ 早くより貝原益軒は兵法書『武訓』の中で、曹操を「足利高氏と並ぶ極悪人」とし、諸葛亮を「楠木正成と並ぶ忠臣」としているが、これは蜀漢を正統とする『三国志演義』の歴史観に基づいて定められたものである[200]
  16. ^ 記録所の寄人では他に、清原氏小槻氏坂上氏も官僚的氏族である。
  17. ^ 「七生」は七度生まれ変わって朝敵を滅ぼすの意味。後代にはこれに「報国」の意味が加わり「七生報国」と呼ばれた。

原文

  1. ^ a b c 『今田文書』(湊川神社宝物)『法華経』自筆奥書「
    夫法華経者、五時之肝心、一乗之腑蔵也、拠斯三世之導師、以此経為出世之本懐、八部冥衆、以此典為国之依憑、就中本朝一州円機純𤎼、宗廟社稷護持感応、僧史所載縡具縑緗、爰正成忝仰朝憲敵対逆徒之刻、天下属静謐、心事若相協者、毎日於当社宝前、可転読一品之由、立願先畢、仍新写一部所果宿念如件。
     建武二年八月廿五日 従五位上行左衛門少尉兼河内守 橘朝臣正成敬白」[168]
  2. ^ a b c 旧讃岐高松藩士楠氏家蔵文書「
     建武之比、先祖正成依為朝敵被、勅勘一流已沈淪訖。然今為其苗裔悔先非、恩免之事、歎申入之旨、被聞食者也。弥可抽奉公之忠功之由、天気如此悉之以状。
      永禄二年十一月廿日 右中弁(花押)
       楠河内守殿
    並に、
     楠木正成は、建武の古、朝敵たるによりて累葉誅罰せられ候へども、唯今正虎先非を悔いて歎き申候程に、赦免せられ候。弥々奉公の忠を致し候様に仰せ聞かせられ候べく由、心得て申べく候、かしく。
      万里小路前大納言殿へ」(万里小路前大納言は万里小路惟房[191]
  3. ^ 林羅山『鎌倉将軍家譜』元亨2年4月条「頃年摂津国住人渡辺右衛門尉狭野心高時使河内国住人楠正成撃平之、又紀伊国安田庄司有逆心正成撃殺之、賜安田旧領於正成、又大和国越智四郎与六波羅相拒、攻之不利、正成襲撃滅之」[64]
  4. ^ 『増鏡』「笠置殿に大和、河内、伊賀、伊勢などより兵ども参り集ふ中に、事の初より頼みおほされたりし楠木兵衛正成と云ふ者あり、心たけくすくよかなるものにて、河内国におのが館の辺りを厳めしくしたゝめて、此のおはします所、若し危うからん折は、行幸をもなし聞えんなど用意しけり」[66]
  5. ^ 『法隆寺別当次第』憲信僧正「同廿七日笠置寺入御、日本国動乱之元始是也」[67]
  6. ^ 『増鏡』「中務の御子大塔の宮などは、予てより、こゝを出でさせ給ひて、楠が館におはしましけり」[71]
  7. ^ 『光厳院宸記』元弘元年10月18日裏書条「御事書ヲ以テ仰云、天下未静謐、楠木城合戦落居之程、難給御返事暫可在京旨被之云々[75]
  8. ^ 『北条九代記』(『鎌倉年代記』)裏書「元弘元年辛未十月廿一日楠落城、但楠兵衛落行」[77]
  9. ^ 『光厳院宸記』正慶元年6月29日条「是自熊野山、帯大塔宮令旨竹原八郎入道為大将軍襲来云々、驚歎不尠」[87]
  10. ^ 保暦間記』「天台座主山々を廻りて義兵を挙げ、河内国住人、楠正成と云ふものあり。彼を説いて、河内と大和との国境に金剛山と云ふ山に、城廓を構へて、畿内近国の勢を語ふ云々」(天台座主は大塔宮(護良親王)のこと)[86]
  11. ^ a b 『河内国天野山金剛寺文書』「
    御巻数給候了。早可令進覧候。恐々謹言。
      十二月九日 左衛門尉正成(花押)
     謹上 金剛寺衆徒御返事」「
    祈祷巻数賜候了。種々御祈念、返々為悦候。恐々謹言。
      十二月九日 左衛門少尉正成(花押)
     謹上 金剛寺三綱御返事[98]
  12. ^ 『花園天皇宸記』正慶元年11月15日条「楠木事猶興盛候歟。自昨日門々番衆等著鎧直垂祇候候之間、定子細候歟之由、推量候。只冥助之外、無所憑。関東武士も上洛遅々之間、返々非無怖候。熾盛光法、尤忩々可被始行候歟。以俊禅僧正被申入了。仍承之。此時分、懇祈外、不可有他候乎。風気此両三日得減候也。事々期面候。謹言。」[91]
  13. ^ 『紀伊続風土記』附録『須田文書』「
    依大塔宮幷楠木兵衛尉正成事、自関東尾藤弾左衛門尉所上洛也。有可被仰之子細、不廻時刻可被参洛。仍而執達如件。
      正慶元年十二月五日 左近将監(花押)
         越後守(花押)
       須田一族中」(須田時親に宛てた文書。左近将監は北条時益、越後守は北条仲時[94]
  14. ^ 『楠木合戦注文』十二月日「一 為楠木被取籠湯浅党交名 安田二郎兵衛尉重顕 阿矢河孫六入道定仏 藤並彦五郎入道 石垣左近将監宗有 生地蔵人師澄 宮原孫三郎 湯浅彦次郎時弌 糸賀野孫五郎」[96]
  15. ^ 『和田文書』和田助家への招集状「
     りやうろくはら
    大塔宮幷楠木兵衛尉正成事、為誅伐所差遣軍勢也。去年雖発向、重可進発云々、殊以神妙。引率庶子親類可抽軍忠之状、依仰執達如件。
      正慶元年十二月九日 右馬権頭(花押)
         相模守(花押)
       (宛名欠)」(右馬権頭は連署北条茂時、相模守は執権北条守時[97]
  16. ^ a b 甲斐身延山所蔵『金剛集裏書』「九日より京中以外騒動候。阿くた川に朝敵充満し、山崎迄せめ入候間、宇つ宮赤松入道賜打手、早速進返候了。仍仁定寺に構城廓、引籠候を、宇都宮ついで責取、即ち昨日打落頸其数令持参候。是大塔殿御所為と申候也」(「昨日」は12月15日)[99]
  17. ^ 『紀伊葛原文書』「
    楠木兵衛正成事、押寄隅田荘之時、度々及合戦数十人徒討留畢、殊以神妙也、仍而執達如件
      正慶元年 十二月十九日 左近将監(判)
      越後守(判)
     隅田一族中」[100]
  18. ^ 『久米田寺文書』「
    当寺幷於寺領等不可有官兵之狼藉由事、令旨進候。此上者、弥可令抽御祈祷之忠勤賜候哉。恐惶謹言。
     正月五日 左衛門尉正成(花押)
     進上 久米田寺御寺者」(12月26日付令旨に翌年1月5日正成が添付した文)[103]
  19. ^ 『真乗院文書』「
    今月八日御札、同廿三日到来。委細拝見仕了。
    抑為追罰大塔宮・楠木兵衛尉正成、可発向茅和屋城由事、御教書案文拝見仕了。早速企参上可供奉仕候。但老父境節本病更発仕候。難儀最中候。可有御心得候。是非早々上洛仕、可申入候。恐々謹言。
      正月廿五日 大中臣頼景(判)
     謹上 和田修理亮太郎殿」[96]
  20. ^ 『道平公記』正慶2年1月16日条「去夜楠木丸与官軍於泉境合戦」[102]
  21. ^ 『楠木合戦注文』「自十九日己時一日合戦、戌亥時に追落、楠木渡辺に責御米少々押取」[107]
  22. ^ 『楠木合戦注文』「斉藤新兵衛入道、子息兵衛五郎、佐介越前守殿御手トシテ相向奈良道是者搦手之処、去月廿七日楠木爪城金剛山千早城押寄、相戦之間、自山上以石礫、数カ所被打畢、雖然今存命凡家子若党数人手負或打死」[123]
  23. ^ 『前田侯文書』「
    大塔宮幷楠木兵衛正成事、為誅伐所差遣軍勢也。早為一揆之思、令対治凶徒者、可有其賞之状依仰執達如件
      正慶二年二月丗日 右馬権守(判)
      相模守
     東大寺衆徒中」[124]
  24. ^ 『楠木合戦注文』「大手本城平野将監入道既三十余人参降畢。此内八人者逐電、或生捕、或及自害。彼所又以被落之由、閏二月一日風聞。楠木舎弟同比城中在之是非左右未聞」[127]
  25. ^ 『門葉記』「正慶二年二月丗日勅書到来。合戦事、凶徒頗雌服。官軍乗勝。後二月朔日、楠木城既没落。平野将監入道以下生虜数輩自方々駕送之。」[128]
  26. ^ 『忽那開発記』「建武五戊寅三月小早河民部大夫入道相順・同左近将監景平以下輩起謀反、安芸国沼田庄内、楯籠妻高山之間、為誅伐同七日御発行直附到着抽軍忠後三月十一日楠多聞兵衛殿賜御判。」(閏3月(後三月)の無い建武5年の閏3月に、建武3年に死んだ正成が判を捺しているという奇妙な記事だが、藤田精一は『忽那開発記』に日付の書き間違いが多いことを指摘し、これも元弘3年の後二月(閏二月)の間違いだろうとしている。そして、正成が千早城にいながら他の地域と連絡を取れる手段を持っていたのではないか、と推測している)[130]
  27. ^ a b 「二月廿四日、主上出御隠岐国、同日遷座伯耆国稲津浦。同廿六日、遷幸船上山。」[133]
  28. ^ 『続史愚抄』「正慶二年三月五日戊戌六波羅勢与橘正成戦大敗道平公記[135]
  29. ^ 『博多日記』三月「二十二日自鎮西関東ニ上ル早馬、雑色ノ五郎三郎下着、金剛山ハ未タ不破、赤松入道可打入京之由、披露」[137]
  30. ^ a b 備後『因島文書』「度々合戦捨身命、軍忠之刻、去四月三日、同八日、同廿七日等合戦之時、子息已下郎従、討死之条尤以不便次第、所有御感也。早可恩賞者。大塔二品親王令旨如此、悉之以状 元弘三年五月一日 左中将(花押)。備後国因島大主治部法橋幸賀館」(「中」将ではなく「少」将か?)[139]
  31. ^ 『博多日記』四月「四日雑兵宗九郎自関東打返、金剛山をば近日可打落」[140]
  32. ^ 『和田系図裏書』「
     和田修理亮進正慶二、四、廿、
    和泉国御家人和田修理亮助家、茅葉屋城大手箭倉の下の岸を掘之時、今日四月廿日若党新三郎顕宗、腰骨をすこし右へよりて被射候了。仍注進如件
      正慶二年四月廿日 定兼(花押)
        資兼」[138]
  33. ^ 『和田文書裏書』「
     かん状正文
       はるとき
    於茅破城北山、至野臥合戦取頸了、尤神妙候、仍執達如件
      正慶二年四月廿一日 治時
        和田中次殿」(幕軍大将阿曽治時が和田助秀に与えた感状)[143]
  34. ^ 『紀伊続風土記附録』「爰其身者罷向金剛山城之折節、今年元弘三年五月二日安原卿大楠丸住宅に大塔宮祇候人保田次郎兵衛尉宗顕、生地蔵人師澄以下寄来、令放火之時、彼御下文等悉焼失候畢」(文中に「大楠丸」とあるのは正成ではなく襲撃を受けた栗栖実行の長子の名前)[142]
  35. ^ 『観心寺文書』(元弘3年)「
    此之間何等事候乎、抑為御祈祷、観心寺大師御作不動、可奉渡之由、被下綸旨候之間、申遣寺僧方候、明後日二十八日御京着候様、可候奉渡候也、御共に御上洛候べく候、心事期面候、恐々謹言
     十月二十六日 正成(花押)
     瀧覚御房」[159]
  36. ^ 『玉英記抄』「建武元、二、小除目、従五位下橘正成勲功章 従五位下橘正成、検非違使如元」[3]
  37. ^ 『略年代記抄出』(延元元年正月)「同七日楠木焼払宇治、依余燄平等院消失」[169]
  38. ^ a b 『真乗院文書』「右助康去年十一月廿八日馳参京都属御手自宇治令参東坂本 同十六日罷向西坂本」(和田助康の軍忠状、御手とは正成のこと)[172]
  39. ^ 『忽那重清軍忠状』「同晦日馳向搦手到散々合戦之上、重為四条河原相向朝敵人高橋党、到散々合戦責落畢、次依大将軍仰火口河原在家懸火、次馳向内野責附丹州道追山」(大将軍は洞院実世、実世が搦手を組織して戦っていた)[179]
  40. ^ 『和田助康軍忠状』「晦日鴨河原、内野合戦」(和田助康は正成配下だから、地理的に考えると正成が実世と合流して搦手で戦っていたことかがわかる)[179]
  41. ^ 河内国天野山金剛寺蔵『釈論』第九愚章、禅恵の記入「同三年正月十日帝落給入御山門、同十六日、日田殿折下京中散々合戦、同廿六日、廿七日、晦日三箇日之間、楠木判官大将斗ニテ足利殿足利兵庫ヨリ逃下備後土毛マデ」(日田は新田の誤記)[179]
  42. ^ a b 『和田助康軍忠状』「二月十日・十一日罷向打出・豊島河原到合戦忠節候畢」[182]
  43. ^ 『周布兼宗軍忠状』「今月十日於西宮浜手抽随分之軍忠」[182]

出典

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