災害復興への適用とは? わかりやすく解説

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災害復興への適用

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 08:03 UTC 版)

土地区画整理事業」の記事における「災害復興への適用」の解説

日本では大規模な災害被った地域災害復興目的に、公共団体施行中心として実施されてきた。たとえば銀座大火1872年明治5年))が銀座煉瓦街地券発行して全焼失地域を買収し区画整理行った後、旧地主に旧値段払い下げるという布告対処している。 旧都計画法制定までは法的制度として整備されておらず、災害復興にあたって区画整理も、地元有志自治体などの任意事業である。 1881年明治14年4月25日、1785戸の家が焼失する大火災見舞われ福島市福島大火甚兵衛火事)と呼ばれる大火復興として道路拡幅工事などを進め市区改正事業実施した工費7000円以上というその費用ほとんどを鐸木三郎兵衛有力者私財まかなっている。 明治初期から北海道函館市大火が相次ぎ、「市区改正順序」を定めて幅員12間(22 m)の大通り小路6間の整備沿道での石造煉瓦造土蔵社寺移転等を実施し1879年明治12年12月大火後でも幅員20間(36 m)の道路不燃化への融資等を実施しているが以後1899年明治32年)、1907年明治40年)、1913年大正2年)、1916年大正5年)、1921年大正10年)と大火がありそのつど消防力の強化防火道路整備沿道不燃化促進が行われている。1934年昭和9年3月21日焼失面積400 ha焼失2万4186戸、死者2716人を出す火災発生した際に北海道庁内務省16日後「復興計画大綱」を決定する土地区画整理事業による街路整備もちろんのこと緑樹帯(幅55 m 6路線直行する36 m幅1路線)を配置して市街防火ブロック形成し要所公園耐火建築物小学校)を配置した路線沿いの防火地区指定不燃化促進消防水利強化避難広場となる公園の整備など、体系だてて防災重視した都市復興計画した函館夜景はこの防火帯街路照明織り成す光の帯であるほか、函館西部地区の町並み形成されていった。この大火災惨事からの復興道庁都市にかかわる職員ほとんどと全国からの技術者応援を得ながら、実質は市が施行者になる10組合結成し実施していくが、これは、この時点まで事業計画認可後すぐの公共団体による施行認められておらず、やむなく組合施行したものである。函館大火復興ある意味ではそれまで何度となく大火経験していた函館市にとって復興総仕上げであり、いわば復興文化ができていたという言い方もされている。 川越市1638年寛永15年)におこる寛永期の大火でこのときに川越城拡張し焼野原となった城下町に十ケ町四門といわれる城下町割を決定し行政区画整理していた。このため川越大火1893年明治26年))では建物不燃化復興対処でき、今日まちなみ形成することとなる。 1910年明治43年5月3日青森市では5,000戸余が焼失し死者26名、負傷者160名の甚大な被害もたらした火災きっかけに、火災に強い街を建設する必要性認識され青森市建築取締り規則制定の他に市街地区画整理事業実施、広い防火網を完成させる1919年大正8年)におきた横浜市大火では3100戸焼失市区改正実施道路拡張義捐金市営住宅74戸建設し、被災者優先入居させている。 1919年大正8年)、米沢市でおきた米沢大火の後、市で区画整理実施。現在も残る吉亭の区画整理をする前に建っていたため、拡張した表通り白布街道すぐ脇に建つように建ち結果として現在も城下町風情を保つ景観有する1921年大正10年)、消失面積2万坪、戸数604戸の四谷浅草地区大火復興東京市施行行われている。四谷事業災害復興旧法による土地区画整理用いられ最初事例とされている。 ほかに復興事業をあげると、関東大震災(3400 ha)や八戸大火1924年大正13年5月21日 八戸町)、石岡大火1929年昭和4年3月14日)、1934年昭和9年)の室戸台風静岡大火1940年昭和15年)、100 ha規模)などがある。1923年大正12年9月発生した関東大震災による甚大な被害復興するため、同年発布された「特別都市計画法」では、帝都復興事業として土地区画整理事業主として用いこととした。その後各地戦災復興(27900ha)に利用されているが、この中には山手線主要な駅前広場の殆どが含まれている。 1929年昭和4年)の宮城県気仙沼町大火では895戸、6.5坪の焼失同年4月旧法適用による建築線設定行いこれに伴い耕地整理法復興区画整理実施1931年昭和6年)、石川県山中町大火では温泉街852焼失し同年6月建築線指定と町独自で区画整理条例制定し復興事業実施した1933年昭和8年)からは旧法改正に伴い事業適用を受け、1935年旧法に基づく区画整理事業として追認されている。1932年昭和7年5月松江市でおきた大火では74町、800戸、3.9坪を焼失し組合施行面積13ヘクタール復興事業実施され、これが繁華街東本町となる。事業費は国補助はなく、市が負担した同年10月石川県小松町での大火では、1,100戸が焼失このため町長組合長として組合施行面積1.0ヘクタール復興事業実施した1934年昭和9年)に青森県脇野沢村でおきた大火では集落大半焼失し旧法適用で4.8ヘクタール事業実施した1934年昭和9年)の室戸台風による被害復興に際しては、1935年昭和10年4月堺市施行三宝地区等の事業面積135 Ha同年5月兵庫県尼崎市施行大庄地区が312.9 Ha災害復旧臨海工業地帯造成兼ねてという両者大規模に行われている。防潮堤整備臨海部地盤かさ上げ同時に実施復興事業活躍した技術者は、戦後最大土地区画整理事業適用した戦災復興都市計画中核として活躍することになる。 1938年昭和13年9月富山県氷見町での大火では1500焼失し、町施行復興区整理事業実施1939年昭和14年5月長野県上松町での大火では1000焼失し組合施行面積5.5 Ha整理事業実施している。 1940年昭和15年1月15日静岡市昼間の大火発生し中心部のおよそ100 ha焼失した静岡大火では、静岡県16日中に内務省関係者連絡をとり復興着手し1月19日静岡市火災地区バラック建築規則」により建坪制限して2月2日都市計画地方委員会土地区画整理公園街路駅前広場防火用水施設を軸とした計画提案し2月14日告示された。計画では恒常風の直角方向に36m幅・幅員30m道路2路線配置している。36m道路中央に幅18mの植樹帯を置き両側に9m幅の車道をとり,植樹中央には幅3m深さ2m水路貫流させたほか市街地建築物法の緩和とりやめ防空建築規則適用して防火改修督励したほか、墓地移転上下水道電力等の復興事業あわせて行われた。このとき防火改修進めパンフレット発行現場で指導静岡市復興建築奨励金給付なども行われている。 1944年昭和19年)に岩手県大船渡町での火災復興は町施行面積規模8.9 Ha区画整理実施1944年昭和19年)におきた南伊勢湾地方大津波では尾鷲町ほか5町村復興区画整理実施している。 戦後でも大火災による被害復興に際して行われている。 1947年昭和22年4月20日1140分頃、長野県飯田市市街地南部から出火し、春の南西風のもと罹災面積約60haの大火となった飯田大火では、翌21日早朝から復興へ取り組み始まり、「飯田市火災復興都市計画事業」が当日協議により決定した。それを罹災区域関係連絡員発表し実施測量行い完了しようとしたとき突如進駐軍司令部から幹線道路幅員拡張指示される。市と議会では中央通り他2路線拡張と、錦町線など2路線道路後退をもって了解してもらい、復興計画確定全面的な土地区画整理のほか、段丘突端公園又は緑地設置し三本防火帯中央防火用水用に水路並びに貯水槽設置する用水貯水池整備街路公園等公共地は市街地面積25%程度で劃地の裏界線連続させ幅2m通路設けるなどの計画策定している。当時進駐軍支配下にあり、計画通り進行したが、有名なりんご並木街路樹」の中学生たちの活動1952年昭和27年)から始まる。 1950年昭和25年4月13日17時15分市中心部東端海沿い東町渚から出火した熱海大火では温泉街中央部10.1haと市役所庁舎焼失当時市長の宗秋月市会議員全員をつれて国会にいき、大臣室を借りて市議会を開くなど苦心して復興計画をつくる。市街地全体13.7 km2都市計画区域にし、土地区画整理罹災区域中心部約13.2 ha駅前地区1.0 ha計画した。甲防地区にT字状延長420mの銀座通り海岸通り設置道路中心より15 mを防火帯とし耐火建築促進法適用し、ほとんどの市街地に準防地区指定した銀座通り当初幅員は15m・沿道防火計画した土産物店舗街で拡幅への反対もあり、幅員は9 m・沿道甲防地区とする。同じ年の8月1日熱海国際観光温泉文化都市建設法」が公布される。熱海明治以降大火はなく戦争中空襲は受けなかったためか戦後進駐軍行楽遊覧客も増え賑わっていたが、温泉旅館などの木造建物密集していた。替地がなく道路拡張新設予定通りいかなかったことや、火災後和風木造建築こだわりがあったこと、中心部緑地帯確保できなかったこと、銀座通り幅員9 mでは歩道もないことなどにより、復興部分的対処であったという意見がある。熱海駅周辺では2度大火によって、復興区整理事業駅前交通整備が行われている。渋滞交通麻痺し観光客地元住民の生活にも支障を来す様になったために熱海モノレール設置計画されたが実現しなかった。 1951年昭和26年)には小田原市万年地区現在の浜町四丁目)に焼失面積2.8 ha大火があり、復興対策として周辺含めた万年土地区画整理事業実施されている。1951年から4度事業実施している大館市そのつど広範囲市街焼失事業総面積67ヘクタールにおよぶ。1955年昭和30年)、奄美市では名瀬市街地の大火契機に、本格的に土地区画整理事業による市街地整備実施している。 1952年昭和27年4月17日14時55分、鳥取市最南端、鳥取駅近く市の南端市営動源温泉付近から出火しておきた鳥取大火では蒸気機関車飛び火原因とされ、フェーン現象下の強風にのって市街地焼き尽くし罹災面積50坪(165ha)という被害をだしている。翌4月18日15時には建設省から計画局長以下が到着し鳥取県・市と協議して鳥取市火災復興対策要綱」を定めている。復興計画方針は 約55坪の土地区画整理事業の実施 若桜街道袋川防火線路に市内4分割 墓地移転墓園公園造成 官庁学校等不燃化 などを3か年事業を行うものとしている。認可であった土地区画整理向けてすぐさま基本測量東京測量会社発注し換地設計についても兵庫県東京会社委託各社数十動員して作業入った大火後1週間ほどの調査結果をもって1952年昭和27年4月26日付け都市計画鳥取地方審議会付し5月2日には建設大臣告示得て県市に施行命令出された。その後バラック立ち退き焼け跡ビル措置訴訟など苦労多々あったとされている。この事業有名なのは「防火建築帯」の整備で、街道と川で市内を4ブロック区画し沿道不燃化図った。これは「耐火建築促進法」による防火建築帯造成事業第1号でもあった。鳥取火災復興1943年昭和18年)の鳥取地震復興反省から円滑に進んだようである。 1953年昭和28年5月23日江別大火は、町の中心市街地における火災で、焼失した住宅合わせて250戸、罹災人口約1,300人で大惨事となったため、これを機に町内家屋密集解消街区内通路及び防火用水等の整備防災対処した市街地形成目指し復興即応した復興計画においては幹線街路避難広場兼ね備えた公園等適所配置し建設大臣認可自治体施行土地区画整理公告公共減歩率20.9 %、住宅・非施行面積5.0ha、保留地減歩はおこなわず、総事業費850万円公共用地率48.0 %で都市計画決定1955年昭和30年1月22日から、1956年昭和31年9月までに換地処分実施し都市計画道路0.9 ha0.7 km)、区画道路1.4 ha1.4 km)を整備1954年昭和29年)、北海道岩内町では洞爺丸台風による強風全家屋の80 %を失う岩内大火見舞われ火災復興区整理として137 ha施行した1955年昭和30年10月1日2時55分、新潟県教育庁木造2階建てから出火した新潟大火では台風強風あおられ市街地5.8坪(19 ha)が焼失した建設省は、4名の技官派遣し2日には県市をまじえて土地区画整理を主にして防火建築帯などを含む方針提起した3日には建築基準法84条による建築制限をかけ、4日には議会等の協議もへて基本方針決定した土地区画整理街路網の整備水路埋立による街路緑地帯整備のほか墓地整理による公園確保防火水槽設置などの事業計画をたて11月21日には大臣認可得たその後事業展開されたが紛糾したのは墓地移転公園化で、1957年昭和32年9月10日半数寺院折り合い改葬公告がだされている。 1956年昭和31年)には昭和31年台風第12号フェーン現象などで日本海側能代市芦原町大館市魚津市魚津大火など大火が相次ぎいずれも土地区画事業を主とした復興迅速に行われた魚津市1943年市街地西部でも大火経験し中央通り商店街村木地区は、大火焼失した後に再整備された街である。なお能代市1949年昭和24年)にも83ha焼失し1956年昭和31年)が31.5 ha焼いたこの後能代市は非焼失地も含め土地区画整理事業推進した結果今日市街地面積のほとんどが基盤整備された街になっている1957年昭和32年)、新潟県分水町0時50分ごろ九蔵小路から出火折から西南12mの突風あおられ火は燃え広がり本町栄町旭町大武大部分焦土化した地蔵堂大火では住宅密集し水利不便さ消火機械の不足、気象条件悪化悪条件重なったこのため大火復興土地区画整理事業認可され市街地道路整備が行われた。 1961年昭和36年)に、放火によって大規模火災発展し1000棟以上が全焼した青森県八戸市白銀町白銀大火災害復興目的区画整理事業が行われ、現在の区画住所表示となった1965年昭和40年)に伊豆大島大島大火により元町がほぼ全焼壊滅東京都復興事業により区画整理がなされ、近代的な新しい町として復興果たした1971年昭和46年)におきた鳥取駅大火では、最後まで区画整理事業未着であった鳥取駅周辺整理結果的に実施しここから市街地道路整備や駅の連続立体交差化などが進められ中心市街地基盤整備昭和50年代には大部分完了する1976年昭和51年10月29日17時40分頃に酒田市繁華街一角映画館から出火した酒田大火では15.2 ha消失残火くすぶる31日早朝から市役所において建設省山形県酒田市都市計画課などが一体となって復興都市計画作業開始され徹夜作業の末に火災3日後の11月1日夜半復興都市づくりの計画概要完成させた。この復興計画原案酒田市都市計画審議会了承をえたあと1週間後市民公表された。「防災都市の建設」をめざしたもので、幹線道路整備近代的な魅力ある商店街形成住宅地生活環境の改善などをあげているが全体には土地区画整理事業をかけ、商店街には商店街近代化事業制度利用し建物を道から1.5 m後退させ1.5 m分のひさしを市道出して歩道広くし、全国に例を見ないショッピングモール完成したほか、西側街区面積1.2 ha市街地再開発とし、1977年昭和52年4月21日準備組合発足させ12月着工する。こうして迅速な復興都市づくりが行われたが自動車普及経済環境変化によって、まもなく中心部商業不振郊外化という流れ押し寄せている。 また阪神・淡路大震災等の復興に際して土地区画整理事業が行われている。

※この「災害復興への適用」の解説は、「土地区画整理事業」の解説の一部です。
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