災害復興への適用
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「土地区画整理事業」の記事における「災害復興への適用」の解説
日本では大規模な災害を被った地域の災害復興を目的に、公共団体施行を中心として実施されてきた。たとえば銀座大火(1872年(明治5年))が銀座煉瓦街を地券を発行して全焼失地域を買収し、区画整理を行った後、旧地主に旧値段で払い下げるという布告で対処している。 旧都市計画法制定までは法的制度として整備されておらず、災害復興にあたっての区画整理も、地元有志と自治体などの任意事業である。 1881年(明治14年)4月25日、1785戸の家が焼失する大火災に見舞われた福島市の福島大火(甚兵衛火事)と呼ばれる大火の復興として道路の拡幅工事などを進める市区改正事業を実施した。工費7000円以上というその費用ほとんどを鐸木三郎兵衛ら有力者の私財でまかなっている。 明治初期から北海道函館市は大火が相次ぎ、「市区改正順序」を定めて幅員12間(22 m)の大通りや小路6間の整備と沿道での石造煉瓦造土蔵や社寺の移転等を実施し、1879年(明治12年)12月の大火後でも幅員20間(36 m)の道路、不燃化への融資等を実施しているが以後1899年(明治32年)、1907年(明治40年)、1913年(大正2年)、1916年(大正5年)、1921年(大正10年)と大火がありそのつど消防力の強化と防火道路整備、沿道不燃化促進が行われている。1934年(昭和9年)3月21日、焼失面積400 ha、焼失2万4186戸、死者2716人を出す火災が発生した際に北海道庁、内務省は16日後「復興計画案大綱」を決定する。土地区画整理事業による街路整備はもちろんのこと緑樹帯(幅55 m 6路線と直行する36 m幅1路線)を配置して市街に防火ブロックを形成し要所に公園や耐火建築物(小学校)を配置した。路線沿いの防火地区指定と不燃化促進、消防水利の強化、避難広場となる公園の整備など、体系だてて防災を重視した都市復興を計画した。函館の夜景はこの防火帯街路照明が織り成す光の帯であるほか、函館西部地区の町並みが形成されていった。この大火災惨事からの復興は道庁の都市にかかわる職員ほとんどと全国からの技術者の応援を得ながら、実質は市が施行者になる10の組合を結成し実施していくが、これは、この時点まで事業計画認可後すぐの公共団体による施行は認められておらず、やむなく組合施行としたものである。函館大火の復興はある意味ではそれまで何度となく大火を経験していた函館市にとって復興の総仕上げであり、いわば復興文化ができていたという言い方もされている。 川越市も1638年(寛永15年)におこる寛永期の大火でこのときに川越城を拡張し、焼野原となった城下町に十ケ町四門前といわれる城下町割を決定し、行政区画整理していた。このため、川越大火(1893年(明治26年))では建物の不燃化で復興対処でき、今日のまちなみを形成することとなる。 1910年(明治43年)5月3日に青森市では5,000戸余が焼失し、死者26名、負傷者160名の甚大な被害をもたらした火災をきっかけに、火災に強い街を建設する必要性を認識され「青森市建築取締り規則」制定の他に市街地の区画整理事業を実施、広い防火網を完成させる。1919年(大正8年)におきた横浜市大火では3100戸焼失、市区改正実施で道路拡張、義捐金で市営住宅を74戸建設し、被災者を優先入居させている。 1919年(大正8年)、米沢市でおきた米沢大火の後、市で区画整理を実施。現在も残る吉亭の蔵は区画整理をする前に建っていたため、拡張した表通り白布街道すぐ脇に建つように建ち、結果として現在も城下町風情を保つ景観を有する。 1921年(大正10年)、消失面積2万坪、戸数604戸の四谷、浅草地区の大火復興は東京市の施行で行われている。四谷の事業は災害復興で旧法による土地区画整理が用いられた最初事例とされている。 ほかに復興事業をあげると、関東大震災(3400 ha)や八戸大火(1924年(大正13年)5月21日 八戸町)、石岡大火(1929年(昭和4年)3月14日)、1934年(昭和9年)の室戸台風、静岡大火(1940年(昭和15年)、100 ha規模)などがある。1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災による甚大な被害を復興するため、同年に発布された「特別都市計画法」では、帝都復興の事業として土地区画整理事業を主として用いることとした。その後各地の戦災復興(27900ha)に利用されているが、この中には山手線の主要な駅前広場の殆どが含まれている。 1929年(昭和4年)の宮城県旧気仙沼町大火では895戸、6.5万坪の焼失で同年4月に旧法適用による建築線設定を行い、これに伴い耕地整理法で復興の区画整理を実施。1931年(昭和6年)、石川県山中町大火では温泉街の852戸焼失し、同年6月に建築線指定と町独自で区画整理条例を制定し、復興事業を実施した。1933年(昭和8年)からは旧法の改正に伴い事業の適用を受け、1935年に旧法に基づく区画整理事業として追認されている。1932年(昭和7年)5月に松江市でおきた大火では74町、800戸、3.9万坪を焼失し、組合施行で面積13ヘクタールの復興事業が実施され、これが繁華街の東本町となる。事業費は国補助はなく、市が負担した。同年10月に石川県小松町での大火では、1,100戸が焼失。このため町長を組合長として組合施行で面積1.0ヘクタールの復興事業を実施した。1934年(昭和9年)に青森県脇野沢村でおきた大火では集落大半が焼失し、旧法適用で4.8ヘクタールの事業を実施した。 1934年(昭和9年)の室戸台風による被害の復興に際しては、1935年(昭和10年)4月、堺市施行の三宝地区等の事業が面積135 Ha、同年5月兵庫県尼崎市施行の大庄地区が312.9 Haで災害復旧と臨海工業地帯造成を兼ねてという両者大規模に行われている。防潮堤整備と臨海部の地盤かさ上げを同時に実施。復興事業で活躍した技術者は、戦後最大の土地区画整理事業を適用した戦災復興都市計画の中核として活躍することになる。 1938年(昭和13年)9月に富山県氷見町での大火では1500戸焼失し、町施行の復興区画整理事業を実施、1939年(昭和14年)5月に長野県上松町での大火では1000戸焼失し、組合施行で面積5.5 Haの整理事業を実施している。 1940年(昭和15年)1月15日、静岡市で昼間の大火が発生し、中心部のおよそ100 haが焼失した静岡大火では、静岡県は16日中に内務省関係者と連絡をとり復興に着手し、1月19日「静岡市火災地区バラック建築規則」により建坪を制限して2月2日の都市計画地方委員会に土地区画整理と公園、街路、駅前広場、防火用水利施設を軸とした計画を提案し、2月14日に告示された。計画では恒常風の直角方向に36m幅・幅員30m道路2路線を配置している。36m道路は中央に幅18mの植樹帯を置き両側に9m幅の車道をとり,植樹帯中央には幅3m・深さ2mの水路を貫流させたほか市街地建築物法の緩和をとりやめ防空建築規則を適用して防火改修を督励したほか、墓地移転と上下水道、電力等の復興事業もあわせて行われた。このとき防火改修を進めるパンフレット発行と現場での指導、静岡市復興建築奨励金の給付なども行われている。 1944年(昭和19年)に岩手県大船渡町での火災の復興は町施行で面積規模8.9 Haの区画整理を実施、1944年(昭和19年)におきた南伊勢湾地方大津波では尾鷲町ほか5町村で復興の区画整理を実施している。 戦後でも大火災による被害の復興に際して行われている。 1947年(昭和22年)4月20日11時40分頃、長野県飯田市の市街地南部から出火し、春の南西風のもと罹災面積約60haの大火となった飯田大火では、翌21日早朝から復興への取り組みが始まり、「飯田市火災復興都市計画事業」が当日の協議により決定した。それを罹災区域関係連絡員に発表し、実施測量を行い完了しようとしたとき突如進駐軍司令部から幹線道路の幅員拡張が指示される。市と議会では中央通り他2路線の拡張と、錦町線など2路線の道路後退をもって了解してもらい、復興計画を確定。全面的な土地区画整理のほか、段丘の突端の公園又は緑地を設置し、三本の防火帯と中央に防火用水用に水路並びに貯水槽を設置する。用水・貯水池の整備、街路・公園等の公共地は市街地面積の25%程度で劃地の裏界線を連続させ幅2mの通路を設けるなどの計画を策定している。当時は進駐軍の支配下にあり、計画通り進行したが、有名な「りんご並木の街路樹」の中学生たちの活動は1952年(昭和27年)から始まる。 1950年(昭和25年)4月13日17時15分、市中心部の東端、海沿いの東町渚から出火した熱海大火では温泉街中央部10.1haと市役所庁舎が焼失。当時の市長の宗秋月は市会議員全員をつれて国会にいき、大臣室を借りて市議会を開くなど苦心して復興計画をつくる。市街地全体13.7 km2を都市計画区域にし、土地区画整理を罹災区域の中心部約13.2 haと駅前地区同1.0 haに計画した。甲防地区にT字状延長420mの銀座通りと海岸通りを設置、道路の中心より15 mを防火帯とし耐火建築促進法を適用し、ほとんどの市街地に準防地区を指定した。銀座通りは当初は幅員は15m・沿道準防火で計画したが土産物店舗街で拡幅への反対もあり、幅員は9 m・沿道甲防地区とする。同じ年の8月1日「熱海国際観光温泉文化都市建設法」が公布される。熱海は明治以降大火はなく戦争中も空襲は受けなかったためか戦後も進駐軍の行楽や遊覧客も増え賑わっていたが、温泉旅館などの木造建物が密集していた。替地がなく道路の拡張と新設が予定通りいかなかったことや、火災後も和風木造建築にこだわりがあったこと、中心部に緑地帯を確保できなかったこと、銀座通りが幅員9 mでは歩道もないことなどにより、復興は部分的・対処的であったという意見がある。熱海駅周辺では2度の大火によって、復興区画整理事業で駅前の交通の整備が行われている。渋滞で交通が麻痺し、観光客や地元住民の生活にも支障を来す様になったために熱海モノレールの設置が計画されたが実現しなかった。 1951年(昭和26年)には小田原市万年地区(現在の浜町四丁目)に焼失面積2.8 haの大火があり、復興対策として周辺を含めた万年土地区画整理事業が実施されている。1951年から4度も事業を実施している大館市はそのつどに広範囲の市街を焼失、事業総面積は67ヘクタールにおよぶ。1955年(昭和30年)、奄美市では名瀬市街地の大火を契機に、本格的に土地区画整理事業による市街地の整備を実施している。 1952年(昭和27年)4月17日14時55分、鳥取市の最南端、鳥取駅近く市の南端の市営動源温泉付近から出火しておきた鳥取大火では蒸気機関車の飛び火が原因とされ、フェーン現象下の強風にのって市街地を焼き尽くし罹災面積50万坪(165ha)という被害をだしている。翌4月18日15時には建設省から計画局長以下が到着し鳥取県・市と協議して「鳥取市火災復興対策要綱」を定めている。復興計画の方針は 約55万坪の土地区画整理事業の実施 若桜街道と袋川を防火線路に市内を4分割 墓地移転と墓園公園造成 官庁ね学校等の不燃化 などを3か年で事業を行うものとしている。認可前であったが土地区画整理に向けてすぐさま基本測量を東京の測量会社に発注し換地設計についても兵庫県と東京の会社に委託、各社は数十名動員して作業に入った。大火後1週間ほどの調査結果をもって、1952年(昭和27年)4月26日付けで都市計画鳥取地方審議会に付し、5月2日には建設大臣の告示を得て県市に施行命令が出された。その後、バラック立ち退きと焼け跡ビルの措置、訴訟など苦労が多々あったとされている。この事業で有名なのは「防火建築帯」の整備で、街道と川で市内を4ブロックに区画し、沿道不燃化を図った。これは「耐火建築促進法」による防火建築帯造成事業の第1号でもあった。鳥取火災の復興は1943年(昭和18年)の鳥取地震の復興の反省から円滑に進んだようである。 1953年(昭和28年)5月23日の江別大火は、町の中心市街地における火災で、焼失した住宅は合わせて約250戸、罹災人口約1,300人で大惨事となったため、これを機に町内の家屋密集解消と街区内通路及び防火用水等の整備で防災に対処した市街地形成を目指して復興に即応した。復興計画においては幹線街路、避難広場を兼ね備えた公園等を適所に配置し、建設大臣認可で自治体施行の土地区画整理を公告。公共減歩率20.9 %、住宅・非施行面積5.0ha、保留地減歩はおこなわず、総事業費850万円、公共用地率48.0 %で都市計画決定、1955年(昭和30年)1月22日から、1956年(昭和31年)9月までに換地処分を実施し、都市計画道路0.9 ha(0.7 km)、区画道路1.4 ha(1.4 km)を整備。 1954年(昭和29年)、北海道岩内町では洞爺丸台風による強風で全家屋の80 %を失う岩内大火に見舞われ、火災復興区画整理として137 haを施行した。 1955年(昭和30年)10月1日2時55分、新潟県教育庁木造2階建てから出火した新潟大火では台風の強風にあおられて市街地5.8万坪(19 ha)が焼失した。建設省は、4名の技官を派遣し、2日には県市をまじえて土地区画整理を主にして防火建築帯などを含む方針を提起した。3日には建築基準法84条による建築制限をかけ、4日には議会等の協議もへて基本方針が決定した。土地区画整理で街路網の整備と水路の埋立による街路・緑地帯整備のほか墓地の整理による公園確保、防火水槽の設置などの事業計画をたて11月21日には大臣認可を得た。その後事業が展開されたが紛糾したのは墓地の移転と公園化で、1957年(昭和32年)9月10日に半数の寺院が折り合い改葬公告がだされている。 1956年(昭和31年)には昭和31年台風第12号フェーン現象などで日本海側の能代市・芦原町・大館市・魚津市の魚津大火など大火が相次ぎ、いずれも土地区画整事業を主とした復興が迅速に行われた。魚津市は1943年に市街地西部でも大火を経験し、中央通り商店街や村木地区は、大火で焼失した後に再整備された街である。なお能代市は1949年(昭和24年)にも83ha焼失し、1956年(昭和31年)が31.5 haを焼いた。この後能代市は非焼失地も含め土地区画整理事業を推進した結果今日市街地面積のほとんどが基盤整備された街になっている。 1957年(昭和32年)、新潟県分水町で0時50分ごろ九蔵小路から出火、折からの西南12mの突風にあおられ火は燃え広がり、本町、栄町旭町、大武の大部分が焦土と化した地蔵堂大火では住宅が密集し、水利の不便さ、消火機械の不足、気象条件の悪化と悪条件が重なった。このため大火復興土地区画整理事業が認可され、市街地の道路整備が行われた。 1961年(昭和36年)に、放火によって大規模火災に発展し1000棟以上が全焼した青森県八戸市白銀町の白銀大火も災害復興を目的に区画整理事業が行われ、現在の区画と住所表示となった。 1965年(昭和40年)に伊豆大島は大島大火により元町がほぼ全焼・壊滅、東京都の復興事業により区画整理がなされ、近代的な新しい町として復興を果たした。 1971年(昭和46年)におきた鳥取駅前大火では、最後まで区画整理事業が未着手であった鳥取駅周辺の整理を結果的に実施し、ここから市街地の道路整備や駅の連続立体交差化などが進められ、中心市街地の基盤整備は昭和50年代には大部分が完了する。 1976年(昭和51年)10月29日17時40分頃に酒田市の繁華街の一角の映画館から出火した酒田大火では15.2 haが消失。残火がくすぶる31日早朝から市役所において建設省と山形県、酒田市都市計画課などが一体となって復興都市計画の作業が開始され、徹夜作業の末に火災3日後の11月1日夜半復興都市づくりの計画概要が完成させた。この復興計画の原案は酒田市都市計画審議会の了承をえたあと1週間後に市民に公表された。「防災都市の建設」をめざしたもので、幹線道路の整備、近代的な魅力ある商店街の形成や住宅地の生活環境の改善などをあげているが全体には土地区画整理事業をかけ、商店街には商店街近代化事業の制度を利用し、建物を道から1.5 m後退させ1.5 m分のひさしを市道に出して歩道を広くし、全国に例を見ないショッピングモールが完成したほか、西側の街区の面積約1.2 ha は市街地再開発とし、1977年(昭和52年)4月21日に準備組合を発足させ12月に着工する。こうして迅速な復興都市づくりが行われたが自動車の普及や経済環境の変化によって、まもなく中心部の商業不振と郊外化という流れが押し寄せている。 また阪神・淡路大震災等の復興に際しても土地区画整理事業が行われている。
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