函館大火
函館大火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:19 UTC 版)
1934年(昭和9年)3月、世界の火災史に残るほどの大火災である函館大火が発生し、函館図書館も火災に見舞われた。このとき岡田は妻イネと共に、閲覧中であった蔵書類をすべて書庫へ戻し、水をかけた敷物で書庫への火を遮り、蔵書類を守った。さらにイネを避難させた後、自らは図書館内にただ1人残り、避難を呼びかける部下の声に耳を貸すことなく、消火に奮闘した。書庫の前に仁王立ちになった岡田は、目や鼻が煙に襲われ、髪が焼け焦げることにも構わず、バケツを振るって水を撒き続けた。 この岡田の活躍、そして図書館の鉄筋建築が功を奏し、函館の街の半分以上を焼き尽くした大火災にもかかわらず、図書館の蔵書類は一切焼失することがなかった。しかし岡田の公宅は焼失したため、岡田と家族は着のみ着のままとなってしまった。 火災から守られた図書館は、火災後には閲覧室などが避難所として活用された。岡田の長女である岡田弘子の小学4年生当時の作文によれば、図書館のどの部屋も多くの避難者がおり、まだ寒い時期の北海道でも、室内は昼夜ともに暖房で夏のように暖められ、多くの慰問品や食料が届いたことで、避難者たちは元気を取り戻したという。この作文は後に、北海道社会事業協会による『函館大火災害誌』に収録されている。 北海道小樽市の郷土史家である越崎宗一は、大火の翌年の1935年(昭和10年)の函館赴任にあたって岡田のもとに挨拶に訪れ、そのときの印象を以下の通り書き残している。 驚いたことに図書館を囲む樹々には生々しい焼け焦げの爪跡が残っており、附属していた館長官舎は焼け跡だけが残って姿がない。公園附近の人家も殆ど焼失して、バラックがボツボツ建ち始めている。暴風下の……模様を伺うと、到底助かるような状勢ではなかったそうであるが、館長は中にいて、必死に、窓の戸締りを厳にし、防火につとめた甲斐あって、鉄筋不燃質の館と書庫が奇蹟的に焔の侵入を免れ助かったという。命をかけてつくりあげた館を、死守せねばならぬという館長の至誠、天に通じたと考うるより他ないと、私には思えた。 — 坂本 1998, p. 172より引用。 函館大火の後、岡田は復興に要する建築資材の調達のため、北海道内外の建築業界や土木業界に呼び掛けた。多くの商社が資材を提供し、その数は百社以上に昇った。また、図書館ではそれら建築資材を展示した企画展を開催。函館市復興資料目録を刊行するなどし、市の復興のために尽くした。 また岡田は、被災した子供たちの心を癒すため、日本全国に児童書の寄付を呼びかけた。彼の声に応え、日本全国各地から児童書が贈られ、その数は12万冊以上にも昇った。中には台湾や満州などで発行された、日本では入手困難なものもあり、それらは函館の子供たちや学校に配布された後、残りの雑誌、図書は同図書館に保存された。その後の平成期に、かつては図書館や関係機関で長らく収集の対象とならず消耗品扱いされてきた児童雑誌が、後の児童文化や児童文学の研究において資料としての必要性が高まったことから、函館図書館に贈られたこの多数の児童書を中心とし、北海道立文学館により「函館貴重児童雑誌及び児童雑誌附録データベース」が作成された。さらに後の2011年(平成23年)に発生した東日本大震災に際しては函館からの恩返しとして、震災で被災した子供たちに絵本を贈る「被災地の子どもたちへ絵本を送ろう 函館プロジェクト」が開始されるに至っている。
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