熱海大火
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熱海大火 | |
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熱海大火で焼失した熱海銀座商店街
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現場 | ![]() |
発生日 | 1950年(昭和25年)4月13日 午後5時15分ごろ |
類焼面積 | 14万2000m2 |
死者 | 0人 |
負傷者 | 979人 |
熱海大火(あたみたいか)とは、1950年(昭和25年)4月13日に静岡県熱海市の中心市街地で発生した大火。
被害
47軒の温泉旅館や、市役所、郵便局、公会堂、警察署、消防署、病院、百貨店、住宅などを含む1015棟が焼失するなど、1461世帯4817人が被災した[1][2][3]。979人が重軽傷を負ったが、死者はなかった[1][2][3]。
経過
火災の発生
1950年(昭和25年)4月13日午後5時15分ごろ、相模湾に面した熱海市渚町の埋立地北東部で、作業員がトラックにガソリンを給油した際に、吸っていたタバコ(あるいはそれに火をつけたマッチ)から引火した[1][2][3]。
火災の拡大
火は海から吹き付ける15メートル以上の強風に煽られ周囲に延焼、渚町の糸川以北全域と、市街地中心部である現在の銀座町・中央町に相当する部分全域、及び清水町・昭和町の西部に燃え広がり、午後12時に鎮火した[1][2][3]。
火災後
翌日4月14日には緊急市会が開かれ、従来の狭い道・密集家屋・防火施設不足などが被害を拡大させたとして、耐火建築・道幅拡張の指定などの再建策が決定された[1]。2日後の4月15日には建設省・県・市の幹部によって市街地の再建案が徹夜で議論され、翌16日の市議会で発表された[1]。
17日には宗秋月市長とほとんどの市議会議員、県知事、担当者ら約50人が上京して国に支援を要請、翌18日にも市長と市議団が国会を訪れて「熱海国際観光温泉文化都市建設法」の成立を陳情した[1]。
また、山田弥一県議が県からの財政支援を取り付けた他、畠山鶴吉、小松勇次代議士の尽力で、「罹災都市借地借家臨時処理法」の適用が決まり、焼け出された借家人・借地人の居住権が保護された[1]。
戦後の日本における主要な大火
1947年飯田大火(長野県飯田市) | 4月20日![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1952年鳥取大火(鳥取県鳥取市) | 4月17日![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1954年岩内大火(北海道岩内町) | 9月26日![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1955年10月新潟大火(新潟県新潟市) | 1日![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1949年能代大火(秋田県能代市) | 2月20日![]() ![]() ![]() |
1956年魚津大火(富山県魚津市) | 9月10日![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1956年大館大火(秋田県大館市) | 8月18日![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1976年10月29日 酒田大火(山形県酒田市) | ![]() ![]() ![]() ![]() |
1950年 | 4月13日 熱海大火(静岡県熱海市)![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1946年 | 5月 8日 村松大火(新潟県村松町)![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
脚注
熱海大火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 11:47 UTC 版)
太平洋戦争を経て、戦後から間もない1950年(昭和25年)4月13日、熱海の約千棟の建築物を焼失させた大火災「熱海大火」が発生した。八百半では人員的被害は無かったものの、20年かけて築いた八百半商店が、一夜にして全焼した 。 この火災より前に、長男の一夫が火災保険を増額する予定であり、増額分で十分な再建資金を得られるはずであった。しかし火災の日、カツが次男の晃昌の受験で横浜におり、一夫はカツ不在の熱海で多忙を極め、手続きまで手が回らず、増額はしていなかった。カツはいつもの彼女に似ず、一夫を激しく責めた。晃昌は「兄の失態の原因は自分の受験であり、責任が自分にある」「休学して働いて埋合せる」と申し出た。一夫もまた晃昌を庇い「自分が卒業を伸ばし休学し、失敗を取り返す」と言い出した。息子たちが互いに庇い合う姿に、カツは金のことで息子を責めたことを恥じ、大火災により人員的な被害が出なかったことこそを幸福だと考え直した。 この大火の直後、得意先である旅館の好意で、店の再建まで旅館の軒下を売り場とし、商売を継続することができた。また当時は仕入先が約40件に昇っていたが、彼らも「今月の勘定は棚上げで良い」と言った。カツは、これまで真っ当な商売を続けたことで、火災で失ったもの以上のものを得ることができたと感じ、より正しい商売の道に精進することを誓った。
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