西川徹郞=西川徹真、来歴
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〈出生・幼年期〉 1947(昭和22)年9月29日、西川徹郎は大雪山系の尾根を遙かに望む新城峠の麓の町芦別市新城の淨土眞宗本願寺派の寺院、法性山正信寺に生まれた。 住職の父は證教、母は貞子。兄徹麿(1999年病没)、姉暢子、弟徹博(1975年得度し以降徹寛と改名)の四人兄姉弟の次男だった。 病弱だった小学二年の頃、自宅療養を続けていたが、「病室に当てられた部屋の枕屏風や襖に祖父の毛筆で、親鸞の『教行信証』の十二嘆名や芭蕉・一茶などの発句が揮毫されていた。それらの聖教の文句や発句を日夜黙読し暗誦しながら療養生活を送った。」(2011年『大法輪』6月号「わが文学と親鸞─聖と俗の峡谷、その一筋の道を行く」) 〈少年期〉 俳句は小学六年の冬休みの宿題で初めて一夜に20句ほど作って、教師に頭から盗作と決めつけられ、白眼視された無念が最初の作句体験だった。 中学二年の頃、祖父の書斎で啄木の詩集『あこがれ』と歌集『一握の砂』を見つけて歓喜し、窃かにカバンに入れ、教師の眼を盗んで教室の窓明かりで読み耽った。 その頃、学校から帰ると自転車を駆って家から4、5キロほどある新城峠の頂に登り、大雪山系の遙かな白銀の尾根を望み、その絶景の中で沢山の詩歌を書いた。(2019年綾目広治著『惨劇のファンタジー西川徹郞17文字の世界藝術』年譜、斎藤冬海編)。 1963(昭和38)年、道立芦別高校に進学し、文芸部と図書館部の部員となる。築摩書房版『日本文学全集』で細谷源二の名著『砂金帯』の口語調の俳句を知り、有季定型と全く異なる細谷源二の文学を識った。細谷源二主宰する「氷原帯」に入会し、口語で作った俳句を同誌や芦別高校文芸部発行の文芸誌「シリンクス」に発表、「北海道新聞俳壇」の細谷源二選へ投稿した。「氷原帯」では幾度も雑詠欄の巻頭を飾り、北海道新聞では年間の秀作として賞を受けた。 連日連夜早暁まで俳句や短歌を書き続けていたが、同時にボードレールやランボーなど世界の詩人を識って憧れ、海外の詩人の遙かな世界を遠望した。 夏休みには自転車で新城峠を越え、アイヌの聖地「神居古潭」のある石狩川沿岸の道を北上し、やがて美しき山岳都市旭川へ到り、旭橋や七条緑道界隈を散策して詩歌を書いた。 1965(昭和40)年、高校三年時に、渡道した新興俳句の旗手細谷源二が北海道から発行する雑誌として全国的な注目の中にあった「氷原帯」新人賞を受賞。札幌市で開催された「氷原帯」全国俳句大会が受賞式会場だった。詰襟の学生服姿で出席し細谷源二や評論家中村環一、詩人新妻博等から〈天才詩人〉と喝采を受け、その早熟の詩才を賞賛された。 1966(昭和41)年3月、「青春哀歌85首」と題した短歌を「シリンクス」に発表した。 〈青年期〉 哲学者三木清「親鸞ノート」 1966(昭和41)年、龍谷大学に入学。積極的に授業に出たものの講義そのものに退屈し、又軽薄な話題に終始する学生たちと距離をおいた。京都での学生生活に失望し、連日、巡礼の如く東山の古寺や名刹を散策した。 1967(昭和42)年、4月に復学したが、授業に出ず、連日、東山界隈の古寺を巡って思索を重ねた。6月頃、大阪や尼崎の「海程」や「渦」の句会に出て、関西前衛派と呼ばれる俳人たちに会ったが、赤尾兜子、島津亮の二人の外に刺激を受ける作家はいなかった。 中秋の頃、龍谷大学の自主退学を決意し新城峠の寺へ帰郷することを決めた。10月末頃、京都の古書店で見つけた『三木清著作集』全15冊(岩波書店)を脇に抱え、日本海沿岸を北進する夜行列車と青函連絡船に二日一夜揺られて霙降る峠の寺へ帰郷した。 住職の父證教は、病床に横臥していた。翌朝には庭一面がこの年の初雪に埋もれていた。 帰郷後暫くして三木清の死後発見された遺書「親鸞ノート」を読んだ。三木清はその中で親鸞『教行信證』「信巻」の「愚禿悲歎述懐文」を掲げ、機と実存について次のように論述していた。 「罪悪の意識は如何なる意味を有するか。機の自覚を意味するのである。機とは何であるか。機とは自覚された人間存在である。かかる自覚的存在を実存と呼ぶならば、機とは人間の実存のことにほかならない」。 帰郷して以降、失意と挫折の日々を過ごし果てなき流浪の日夜を続けていた。しかしその苦悩の日々の中に在って三木清が遺した親鸞の言葉と勃火の如く沸き立つ十七文字の詩表現に対する思念は消えることはなかった。西川徹郞に於ける少年期の漂泊とは、〈少年詩人〉としての果てなき思惟と思索の旅を意味した。その思索の旅の中で、親鸞の言葉を我が罪の身を生かしむる如來の慈悲と捉え、俳句形式とは人間の全存在を刻印する〈十七文字の世界藝術〉と捉え、日本の詩歌伝統の趣味的季節詩としての〈季語季題〉を否定し、〈生の全体性〉を主題とする〈反定型の定型詩〉を根本原理とする口語で書く〈実存俳句〉創始者となった。(2021年『西川徹郞研究』第2集「わが少年の日の邂逅」、茜屋書店) 〈吉本隆明〉との邂逅 1968(昭和43)年、真夏の某日、札幌市へ出て書店で『吉本隆明 初期ノート』(試行発行所)を入手し、大通公園の夏草の中で吉本隆明の若き日の詩と思想に遭遇した。西川徹郞は自分と同年代の時期に書かれた吉本隆明の鮮烈な詩と詩論に驚嘆し、「こうしては居られない」と震い立ち、〈俳句の詩人〉として生きることを決意し、夏草の中からむくと起ち上がった。(2000年『西川徹郞全句集』「西川徹郎年譜」) 1969(昭和44)年、俳句前衛の代表的同人誌「海程」(代表・金子兜太)6月号に書下ろし「尼寺九十三句」を発表、全国から西川徹郞に対する驚異の目が一気に集中した。 1973(昭和48)年、腎不全病を患い自身の死期を自覚した父證教は、寒村の寺を継がねばならぬ我が子の激励の為に病床に在りながら徹郞を「おまえは天才だ」と作品集『無灯艦隊』の出版を勧めた。 1974(昭和49)年、父證教の亡き翌年刊行された第1句集『無灯艦隊』は、幻想的超現実の未知なる少年詩人の存在を伝えるところとなり、個人編集誌『銀河系つうしん』(第19号で改題『銀河系通信』、2020年より「銀河系通信ブログ版」)の創刊へと展開した。 吉本隆明の西川徹郞論二篇 1968(昭和43)年、龍谷大学を自主退学以降、失意と挫折の彷徨の中で『吉本隆明 初期ノート』(試行発行所)によって吉本隆明の若き日の詩と思想に遭遇した。1984(昭和59)年の個人編集誌『銀河系つうしん』の創刊は、吉本隆明の個人編集誌『試行』に刺激されたものだった。『銀河系つうしん』を読んだ吉本隆明は、『試行』の扉に西川徹郞へ宛てた私信を原稿用紙にペン字で大きく、「あなたの書くものは、私はぜんぶ読んでいます。頑張って下さい。吉本隆明」と書いて送った。それは吉本隆明が西川徹郞へ宛てた最初の書翰だった。 1988(昭和63)年、初の読本『秋桜COSMOS別冊 西川徹郎の世界』(秋桜発行所)に吉本隆明の西川徹郞論「西川徹郞さんの俳句」ほか菅谷規矩雄、鶴岡善久、宗田安正、佐藤鬼房、宮入聖、接津幸彦、柿本多映等、32名に及ぶ各界代表作家の西川徹郎論が収載される。この読本は『銀河系つうしん』創刊に依り、道内外の守旧派的陣営による誹謗や謂われなき批判が渦巻く中で、初学の師細谷源二の直弟子越澤和子が独力で刊行した読本だった。 2000(平成12)年、吉本隆明の二度目の西川徹郎論「西川俳句について」を解説とした全13句集、総5338句収録『西川徹郎全句集』(沖積舎)刊行。 〈青年期〉以降 個人編集誌『銀河系つうしん』の創刊 1989(平成元)年、4月角川書店「野性時代」編集部に勤務していた作家斎藤冬海(Saitou Fuyumi)と結婚。斎藤冬海はこの年、10月本山西本願寺で得度し、新城峠の寺、法性山正信寺の坊守となり、真宗学の達成を目指し仏典を研鑽する北の地の学問僧となった。 同年11月21日、作家立松和平が西川徹郞と斎藤冬海の二人の結婚を祝し、新城峠の黎明舎を来訪し、一夜、初冬の峠の月下の寺で酒を飲んだ。 1990(平成2)年、11月30日『菱川善夫評論集成』刊行記念シンポジウムが、札幌センチュリーローヤルホテルの広い会場で開催された。このシンポジウムの基調講演を「菱川善夫と定型詩の現在」と題し行った。(1992(平成4)年「銀河系つうしん」第13号、黎明舎) 北海学園大学大学院教授菱川善夫は、中城ふみ子や寺山修司、塚本邦雄等を論じた前衛短歌の代表的評論家として知られ、道内各地から歌人や学生、研究者等が集合し会場は満席となった。北海道大学文学部教授近藤潤一や同大助教授神谷忠孝、当時講師だったロシア文学の工藤正廣等がパネリストだった。 西川徹郞の刺激的な基調講演に興奮した大柄の某歌人が居た。三次会の酒席でその男が掴み掛かろうとして西川徹郞へ迫った瞬間、西川徹郞と談笑していた菱川善夫がすかさず起ち上がるや、「コラー!西川へ無礼をはたらく奴はワシが許さん!」と大声を発し、一声で暴漢を制した。西川徹郞が驚いたのは、暴漢の存在よりも自分を庇って起ち上り、一瞬鬼と化した痩身の菱川善夫の姿だった。 1990(平成2)年、7月2日付「北海道新聞」に「吉本隆明と親鸞思想─自己という名の絶対性の錯誤、人間の思惟と理性が持つ根源的な病理」を発表した。 この論文を読んだ吉本隆明研究の第一人者川上春雄から数日後に書翰が届いた。「貴方の論文には吉本先生について今迄書かれなかったことが多く含まれています。大変、素晴らしい論文です。」と率直な感想が述べられていた。 吉本隆明との会談 1991(平成3)年、斎藤冬海を伴って上京した西川徹郞は、4月20日午後、東京・本駒込の吉本邸を訪問、西川徹郞はまるで初恋人と会うような気持ちで思想家吉本隆明と対面し、夜行列車「北斗星」出発の時刻迄、吉本隆明と会談、吉本隆明の強い激励を受けた。 吉本隆明は、玄関先迄二人を送って、最後に丁寧に西川徹郞へこう述べた。「あなたの書くものは、ぼくはぜんぶ読んでますからね、どうか、頑張って下さい。」と。 かつて西川徹郎へ初めて宛てた書翰と同じ言葉を吉本隆明はこの時も述べた。 吉本隆明のこの言葉は、極北の峠に唯一人在って俳句という日本の定型詩の革命前夜を阿修羅の如くたたかい続ける詩人の心を支えるものとなった。(1991年「俳句とエッセイ」10月号、牧羊社) 1993(平成5)年、講談社学術文庫『現代の俳句』(平井照敏編)に放哉・山頭火等と共に明治以来の107人の俳人として収載。 1998(平成10)年、エッセイ集『無灯艦隊ノート』(蝸牛社)刊行。哲学者 梅原猛が「ボードレールの散文詩」に喩えて西川徹郞のエッセイを絶賛した。 2000(平成12)年、吉本隆明の二篇目の西川徹郎論「西川俳句について」を解説として収載した全13句集、総5338句収録の『西川徹郎全句集』(沖積舎)刊行。 2001(平成13)年、国文学の学術誌『國文學─解釈と教材の研究』(學燈社)七月号「特集・俳句の争点ノート」に「反俳句の視座─実存俳句を書く」を発表。詩歌界への反響著しく、版元や全国の書店へ問い合わせが相次いだ。 2002(平成14)年、5月4日北海道文学館「特別展 寺山修司~燦めく闇の宇宙~」で北海大学教授菱川善夫と共に記念講演を行う。西川徹郞は寺山修司の十代の日の俳句を語り、菱川は短歌を語った。この記念講演は、特別展の責任者で文化人類学者山口昌男の指名に依るものだった。午後は隣接する劇場ZOOで「朗吟・寺山修司」に出演し、寺山の短歌と俳句を朗読した。 この特別展記念図録『寺山修司の二十一世紀』(北海道文学館)に荒木経惟・横尾忠則等と共に西川徹朗の寺山修司論「十七音の銀河系─寺山修司は何故、俳句を辞めたのか」が収載された。 2003(平成15)年、1年6ヶ月で書下ろした5091句収載の第13句集『銀河小學校』(沖積舎)刊行。 2005(平成17)年、静岡県島田市の大井神社宮美殿講堂で開催された口語俳句協会主催の第50回口語俳句全国大会に出講し「口語で書く俳句─実存俳句の思想」と題し記念講演を行う。会場は超満員となった。(2006年『銀河系通信』第19号、茜屋書店) 同年、作家稲葉真弓が「読売新聞」(10月29日付)に「異界へ私を連れてゆく─『西川徹郎全句集』」を発表。 2007(平成19)年、吉本隆明は『決定版 無灯艦隊─十代作品集』(西川徹郎記念文學館開館記念出版、沖積舎)の帯に推薦文を寄稿、西川徹郞を〈天才詩人〉と絶賛した。 (これらの西川徹郎論や推薦文及び書簡等は、『吉本隆明全集』(晶文社)第24巻、第34巻、第36巻、書簡Ⅱに収録) 北海道唯一の詩歌文學館「西川徹郎記念文學館」開館 2007(平成19)年、全国の読者と支持者の力に依り、少年期の縁の地旭川市の市街中心地に「西川徹郎記念文學館」が開館した。 西川徹郞は「実存俳句」創始者 西川徹郞は〈反季語反定型〉を掲げ、季語季題を主題とする趣味化した花鳥諷詠や有季定型ではなく、人間の全存在、〈生の全体性〉を主題とする口語に依る〈十七文字の世界藝術〉を提唱し、〈反定型の定型詩〉を詩表現の胎内原理とする〈実存俳句〉創始者である。 西川徹郞は松尾芭蕉辞世の「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」を以て無季・口語・非定型の実存俳句の嚆矢と定めている。芭蕉が辞世に於て「旅に病んで」と定型韻律を一歩踏み出した時、既に芭蕉は連衆を携えた俳諧師に非ず、一人の十七文字の言語表現者、一人の詩人として荒野の中の一筋の道すなわち修羅と地獄の道を歩み始めたのである。 西川徹郞の〈実存俳句〉とは、松尾芭蕉が生の切岸、辞世に於て踏み出したこの果てなき道を継承する〈世界文学としての俳句〉であり、〈十七文字の世界藝術〉の詩世界をいうのである。 俳句総合誌『俳句界』初の個人特集 2010(平成22)年、総合誌『俳句界』(文學の森)2月号で本格特集「極北孤高の異色俳人西川徹郞」が企画刊行され、代表作品30句や写真家赤羽真也撮影の肖像写真や生地新城峠、編集顧問大井恒行の「独占インタビュー」、西川徹郞論二篇等の総合誌初の本格特集が組まれ、全国的反響を呼び、版元や書店で売り切れとなった。
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