西川徹郞青春歌集―十代作品集
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2010(平成22)年、道立芦別高校発行の文芸誌「シリンクス」第23号(1965(昭和40)年)発表の7首、「シリンクス」第24号(同年)発表の5首、「シリンクス」第25号(1966(昭和41)年)発表の〈青春哀歌〉と題した85首に加え、十代の日の俳句作品で埋められた「草稿ノート」の端々に書き記されていた〈青春哀歌〉を編纂し、西川徹郎作家生活50年記念出版、西川徹郎文學館叢書1『西川徹郎青春歌集─十代作品集』(2010年、西川徹郎文學館図書編集室編/茜屋書店)が刊行された。 文學館の館長で學藝員の作家 斎藤冬海は、西川徹郎を<永遠の夭折者>と称して西川徹郎論「少女ポラリス」1百枚を書き下ろし、本歌集の解説として載録した。 本書は西川徹郞の新城中学一年時に出会い、道立芦別高校一年時にその姿を見た儘、行き別れとなって会うことの出来なかった初恋の少女へ寄せて、京都の龍谷大学修学を経て20歳に至る西川徹郞の10代後半期にのみ書かれた、桑野郁子という実在する一人の少女へ寄せるひとすじの思いに貫かれた青春の形見ともいうべき384首を収録した歌集。西川徹郞はこれ以降一首たりと短歌を書くことはなかった。いわば短歌という叙情の詩形式を初恋の少女一人へ捧げたのである。(同書解説「少女ポラリス」斎藤冬海/高橋愁著『暮色の定型─西川徹郎論』1993年、沖積舎) 西川徹郎著『西川徹郎青春歌集─十代作品集』抄 君が死の夢を見し日に裏山の藤の花のみ散り初めにけり 君が頬日の出づるかに染まりけり月は菜の花畑より出づ 看護婦に声振るわせて君を訊く病舎の窓の湖の青さよ 君がためひとり蒼ざめ裏山に来て月見草摘みし夜半かな 君が家見むとて丘を登りつつ撫子摘めば腕に溢れぬ 秋風に荒家と化せし君が家夜毎に犬の遠吠える家 白鷺の城のごとくにあるゆえに秋草にて寝て君を思はぬ 月寒の町に住むてふ病む君を一目見んとて急ぎ来しかも たそがれは見知らぬ町をさまよひてたどりつきたる冬の停車場 * 裏山に桐の青葉のさやぐなりわが青春を育みし家 桐の葉に頬を埋めて初恋の後の傷みに堪ふるものかな 少年の淋しく揚ぐる凧の如き恋初めし日の秋風のわれ 死後我は盲魚と化すにあるらむと友に語る日秋風の吹く 灯を慕ふごとくに君を慕ひをり虫の性かも魚の性かも 朝焼の人知れずして消ゆるごと君ひそかにも去りゆきにけり 瞼閉づれど開けど冥さは同じなり夜病みたまふひとを思ふに 病むひとを思ひ夜空を仰ぐなり行く雲もなく飛ぶ鳥もなく * 無惨にも恋に破れて鳥辺野にさめざめ泣きに来し大工かも 鳥辺野に恋に破れて泣きに来し大工の紺の瞳を思ふ 泣き濡れし君が手をとり清水の坂を下るや赤き日の暮れ 三日月の微光に濡れし君が頬半跏思惟の君なりしかな 星の出に剃刀研人は月見草摘み摘み深き裏山行けり まっ青な夜空があれば口笛を北上夜曲吹き鳴らすかな 遥かなる比叡の鐘を数へつつひとの恋しき夜となりにけり 君がため涙流るる賀茂川の岸の菫は星屑なりき 秋の風君が肩より南座の旗赤々と見え初めにけり 賀茂川へ幻の君を連れあるく夕陽に映える南座の旗 京に来て淡き恋知る子となりし我を憐れみ秋の風吹く 泣きながら四条橋にて別れ来し君が名を呼ぶ浜千鳥かな 君と来て東寺の塔の尖端のひときわ暗き星を見てゐる 春雨に濡れて急げば舞姫の赤き袖さえ悲しかりけり 仄暗き傘の内より春雨に濡れし乙女の赤き袖見ゆ 如月の祇園に紺の雪降れり夕べ淋しく君を思ふに 祇園町花の匂ひをして雪の降り初むみれば涙流るる * 月の出を待つが如くに君を待つ君影の花匂ふ喫茶店 白藤の花が匂ふと囁かば頷きたまふ君なりしかな 君が髪梳けばさやけき藤の香の町に匂ふとわれ囁きぬ 君に逢ひ別れて来れば白藤の匂ひの髪に滲みてありけり 己が病む如くに君は病みゐたり川は夜空を流れてゐたり 我は病みても君を忘れず君を恋はばまなうらに咲く幻の花 藤咲けば君の咲くやに思はるる思ひ出の山に一人登る日 陸橋に登りて東のかなた見ゆ東に君の住む町あれば 初恋の傷みに堪へて月の出を見てゐる大きな月出でたれば 君に逢ひしその日海よりも轟くはわが胸に咲く月草の花 摘み摘みて胸に溢るる撫子を君に捧げむと来し野道かな 撫子の花が好きよと云ひしゆえ撫子摘みに野に出でて来ぬ 日暮れまで野に居て君の香水の匂ひの花を捜してをりぬ ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはつかに星の瞬くに似て ヒヤシンス夜空の星を映すかに心の庭に咲くは淋しき 汝が頬はヒヤシンスよりやや薄く青ざめてゐる雪降ってゐる わが胸に海の流れてゐるごとし恋はば胸より海鳥の発つ しらしらと朝降る雪を映すかに白かりしかの君が頬かな てのひらにのりてはかなく淡雪は解け初むや君の命が如く * 初恋の君と別れて来し日より歯磨き粉の匂ひして雪降ってゐる 歯磨き粉の匂ひして雪降ってゐる学校帰りの君の幻 歯磨き粉の匂ひして雪の降る朝君の幻美しきかな * 君が名を荒磯の岩が上に立ち汽笛の如く沖へ叫べり 砂に書く君が名消しゆく秋の波幾たび君が名を書きしかな 砂浜の砂に遺せし君が名は波に消されて幾秋経たむ * 君へ文書きつつをれば夜は明けぬ郭公鳥など鳴き初めにけり * 空知川の岸辺の町に君住むやそこはかとなき水の青さよ 平岸と云ふ空知の川の町に住む君を思へば雪降り初めぬ 雪に埋もれし空知川こそ悲しけれ飛ぶ鳥もなく釣る人もなく 空知川雪に埋もれて飛ぶ鳥もなければわが胸の如く淋しき 雪國に雪降る如くわが胸に君が面影棲むは寂しき 雪國に雪降る如くわが胸に君が涙の降りしきるかな 『西川徹郎青春歌集─十代作品集』(2010年、解説・斎藤冬海/西川徹郎文學館叢書1/西川徹郎文學館図書本集室篇/茜屋書店) 西川徹郞記念文學館で幾度も講演した作家森村誠一は、この歌集を〈凄歌〉と名付けて「啄木を超えた青春歌集」(2018年『西川徹郞研究』第1集)と称び、近代文学及び伝承文学研究の第一人者、相模女子大学名誉教授 志村有弘は、「これほど哀切極まりない青春歌集が日本の文学の歴史に存在したであろうか」(2021年『西川徹郞研究』第2集)と述べた。 同年、世界の詩人の事典『詩歌作者事典』(志村有弘編、鼎書房)に白楽天・李白・杜甫・小野小町・西行等と共に詳細な西川徹郞傳が収録された。 2012(平成24)年、志村有弘著『忘れ得ぬ 北海道の作家と文学』(鼎書房)が刊行され、同著に西川徹郞論「極北の修羅」が収録された。 2013(平成25)年、書き下ろし9017句を収録した第14句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』(解説・吉本隆明、森村誠一/茜屋書店)刊行。 同年、9月7日内閣官房参与の麗澤大学教授松本健一著『思想伝』(人間と歴史社)出版記念集会(会場・東京四谷「スクワール麹町」)に招かれて出席、政治家仙谷由人(菅内閣官房長官)、ジャーナリスト田原総一朗に続いて登壇し「革命評論家松本健一」と題し講演を行う。 (2014年「松本健一著『思想伝』出版記念集会講演録』人間と歴史社) 〈文藝評論家西川徹郞〉 新説、金子みすゞの死の真相「金子みすゞのダイイングメッセージ」 2012(平成24)年、金子みすゞの生誕百年が過ぎながら未だ自死の真相が不明と謂われる金子みすゞの詩が語られる不審な事態について、彼女自身が書き遺した手書きの「全詩集」の精読に依って〈自死の理由〉を発見し、死後80年後にして初めて自死の深層を明らかとした西川徹郎の論文「金子みすゞのダイイングメッセージ」が『金子みすゞ 愛と願い』(志村有弘編/勉誠出版)に収録された。日本近代文学史研究の第一人者筑紫大学名誉教授平岡敏夫は、西川徹郞のこの論文に驚愕し「金子みすゞは何故死んだのか─西川徹郞小論」を『修羅と永遠─西川徹郞論集成』に寄稿した。 日本文学史上八百年の難題「方丈記 不請阿彌陀佛」の解明 同年、日本文学史上最大の随筆文学にして最も謎多き古典と呼ばれる『方丈記』中の難題「不請阿彌陀佛」を『方丈記』研究史上初めて明らかとした論文「念仏者鴨長明─「不請阿彌陀佛」論」を『新視点・徹底追跡 方丈記と鴨長明』(志村有弘編)に寄稿、鴨長明八百年の未解明問題を明らかとした。 宮沢賢治没後81年、「死にゆくとしのラストメッセージあめゆじゆ」の解明 2014(平成26)年、花巻市立宮沢賢治イーハトーブ館発行「宮沢賢治学会会報」第48号に巻頭論文「妹としの聲無き絶唱─『春と修羅』「永訣の朝」の「あめゆじゆ」とは何か」を発表。 宮沢賢治没後81年にして定説「雨雪」説を翻し「死に行く妹としの末期の絶唱がこの詩の本質なのだ。」「あめゆじゆとてちてけんじや」の「あめゆじゆ」は阿彌陀の梵語(アミタユスAmitāyus)」であり、妹としの賢治へのラストメッセージ」とする新説を示して次のように述べる。 「としは彼(筆者註、賢治)の父殺しをまのあたりにし国柱会入会前後の苛立つ彼の心奥を知る唯一の肉親。行間に四度もリフレーンされるとしの末期の声が「雨雪」などといった物であるはずはない。「あめゆじゆ」とはアミダの音であり、としと彼が幼少の頃に宮沢家の仏間で父母弟と共に称えた念仏のことである。何故ならばアミダとは梵語のアミターバ(Amitābha)智慧無量とアミタユス(Amitāyus)慈悲無量の意であり、「あめゆじゆ」とは正しくこのアミタユスに疑いない。「あめゆじゆ」とはアミダの原語「アミタユス(無量寿)」であり、死にゆく妹としの末期の聲無き聲、無聲の絶唱が「あめゆじゆアミタユスなのだ」とする画期的新説を発表。以降、全国からの驚嘆の反響や問合せが続いた。 第七回日本一行詩大賞特別賞受賞 2014(平成26)年、第14句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』(2013年/茜屋書店)が[第七回日本一行詩大賞特別賞]を受賞、同年9月29日東京・九段のアルカディア市ヶ谷(私学会館)で開催された「日本一行詩大賞受賞式」へ斎藤冬海を伴って出席した。 文学史上の最多発表作家 本書に依って書誌発表句数は総計2万3千を超え、江戸期の一茶1万5千、近代の山頭火1万5千、虚子2万2千を越え、日本文学史上の最多発表作家となった。 西川徹郞・森村誠一〈青春の緑道〉記念文學碑建立 同年、西川徹郞記念文學館前の七条緑道に森村誠一揮毫の「永遠の狩人 森村誠一」と西川徹郞の少年期の短歌と俳句を自筆刻印した高さ3メートルの日高青石原石の「西川徹郞・森村誠一〈青春の緑道〉記念文學碑」が建立された。 新城峠大學開校 同年、5月31日新城峠大學開校記念講演会を開催、作家森村誠一は講題「小説の神髄─小説はなぜ書くのか、そして如何に書くか」を講演した。会場となった文學館館内は一階より三階屋上まで市民や青少年の聴衆で溢れた新城峠大學文藝講演会は、それ以降、第2回を2016年4月23日、館長斎藤冬海が旭川トーヨーホテルを会場に、講題「日本文学史を照らす念仏者の心ー西川徹郎・鴨長明・源実朝」として開催、第3回を2017年7月8日、文藝評論家・学術博士小林孝𠮷の第3回西川徹郎記念文學館賞受賞記念講演・講題「青春と文学ー西川徹郎と内村鑑三」、第4回を2019年9月14日、哲学者・日本哲学会元会長野家啓一、文藝評論家綾目広治の第4回西川徹郎記念文學館賞受賞記念講演として、野家啓一が「「物語の哲学」と西川文学」、綾目広治が「西川文学と世界思想」の講題で、文學館を会場に開催している。 青少年教育・社会教育活動 2019(令和元)年3月地方在住の青少年や市民の為の社会教育活動の一環として西川徹郞と斎藤冬海が設立代表となって、新城峠大學文藝講演会や『西川徹郞研究』等の編集発行を支えるボランティアの会「西川徹郎記念文學館詩と表現者と市民の会」(略称「文學館市民の会」)を創設した。西川徹郎と斎藤冬海は同会を代表し、自らその先頭に立ち青少年社会教育活動を実践している。 夫人は真宗学者で作家の斎藤冬海(Saitou Fuyumi) [斎藤冬海=西川裕美子]プロフィール 斎藤冬海は福島県会津若松市出身。1980年日本女子大学国文学科卒。同大在籍中に日本近代文学史研究の第一人者、筑波大学名誉教授平岡敏夫に私淑した。 1980年日本女子大学卒業後、短歌研究社編集部、角川書店「野性時代」編集部等の勤務を経て、1989年大雪山系に連なる極北の峠「新城峠」に在住する詩人西川徹郎と結婚。2006年北海道教育大学旭川校に入学、學藝員資格取得。2007年西川徹郎記念文學館館長・學藝員。 本名西川裕美子としては1989年より淨土真宗本願寺派法性寺正信寺坊守。本願寺派布教使。真宗学者。龍谷教学会議会員。黎明學舎「教行信証研究会」講師。 作家・文藝評論家斎藤冬海としては、2002年より2003年まで福島県文学賞(福島県・福島民報社共催)小説・評論部門審査委員。ボランティアの会「西川徹郞記念文學館詩と表現者と市民の会」創立代表。学術誌『西川徹郎研究』『銀河峡LIVE』「西川徹郞学術研究叢書」編集発行人。西川徹郞記念文學館賞選考委員。西川徹郞&西川徹郞記念文學館HP『銀河系通信ブログ版』発信人。図書出版茜屋書店社主。 斎藤冬海名の著書に『斎藤冬海短編集』(書肆茜屋)、『月の出予報』(鼎書房)等。編著に『修羅と永遠─西川徹郎論集成』。共著に『金子みすゞ 愛と願い』(短編「少女きりぎりす」、勉誠出版)。「秋ノクレ論─西川文学の拓く世界」(『星月の惨劇─西川徹郎の世界』、400枚、茜屋書店)、「アイヌの文学と作家」(『北海道文学事典』総論30枚、勉誠出版)「〈ひとつ〉の恋」(『金子みすゞ─女性たちのシンパシー』50枚、勉誠出版)ほか。
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