如来
如来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 22:05 UTC 版)
仏教用語 如来 |
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サンスクリット語 | Tathāgata |
チベット語 | དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་ |
中国語 | 如来 (拼音: rú laí/ Cantonese=yu loi) |
日本語 | 如来 (ローマ字: nyorai) |
朝鮮語 | 여래 (RR: yeorae) |
英語 | One who has thus gone |
クメール語 | តថាគត (tathakut) |
モンゴル語 | ᠲᠡᠭᠦᠨᠴᠢᠯᠡᠨ ᠢᠷᠡᠭᠰᠡᠨ Түүнчлэн ирсэн |
タイ語 | ตถาคต |
ベトナム語 | Như Lai |
如来(にょらい)とは、サンスクリットのタターガタ(梵: तथागत, tathāgata)の漢訳であり、語義は諸説あるが、仏教で釈迦や諸仏の称呼に用いられる[1]。
仏陀の10の称号である十号の一つ[2][3]。如来を総名として十号の内に数えない場合もある(十号#異説を参照)[4]。
語義
原語は梵: तथागत(tathāgata、タターガタ)であり、多陀阿伽陀(ただあかだ)、多陀阿伽度(ただあかど)などと音写し、如来や如去と訳す[4][2][注釈 1]。この上なき尊い者という意味で無上上ともいわれる[要検証 ][4]。
解釈
ブッダゴーサ(仏音)による解釈
ブッダゴーサによる語義釈[5]の全てではないが、一部として、
- tathā āgata(如く到れる) - 「(古仏と)同じく一切を知る智慧に到達した者」。過去に出現した古仏がみな一切智性に到達した様に、同様に釈迦牟尼仏も一切智性に到達したため。
- tathā gata(如く去れる) - 「(古仏と)同じくすべての煩悩を滅して去る者」。
- tatha-lakkhaṇaṃ āgata(真如相に通じる) - 「真如 (tatha タタ) の特徴を悟った者」。
などがある。
中村元による解釈
仏教学者の中村元によれば、「タターガタ」(tathāgata)とは本来、「そのように行きし者」「あのように立派な行いをした人」という語義であり、仏教・ジャイナ教・その他の古代インド当時の諸宗教全般で「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味した語であるが、「如来」という漢訳表現には「人々を救うためにかくのごとく来たりし者」という後世の大乗仏教的な見解がひそんでいて、初期仏教における語義とは乖離があるという[6]。
真身如来
如来とは、如実の道に乗じて、正覚を来成するが故に、如来という。
(如来者乗如実道来成正覚故曰如来)
如実にして来なるが故に如来と名づく。…何れの法を如と名づくや?涅槃を如と名づく…知る故に来と名づく…来の義はかくのごとし。涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。涅槃を正しく覚するが故に如来と名づく。
(如実而来故名如来…何法名如涅槃名如…知故名来…来義如是。涅槃名如。知解名来。正覚涅槃故名如来。)—世親『転法輪経憂波提舎』
如実の道より来る。故に名づけて如来と為す。
(如実道来故名為如来)—『大智度論』
応身如来
如来というは如を体とし、しこうして来たる。故に如来と名づく…問う。如を体とし、しこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身にして来の義あるべし。真如法身には、いかんが来あるや。
答う。本は隠れしが今顕れるが如く、また来と称するを得。
(二釈名門者。体如而来。故名如来。又如諸仏。故名如来。問。体如而来。故名如来。此是応身可有来義。真如法身云何有来。答。如本隠今顕。亦得称来。)—吉蔵『勝鬘宝窟』
つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。
如来の例
脚注
注釈
出典
- ^ 『岩波 仏教辞典』第二版、岩波書店、2002年。
- ^ a b “如来(にょらい)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年10月23日閲覧。
- ^ “十号(じゅうごう)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年10月23日閲覧。
- ^ a b c 総合仏教大辞典編集委員会(編)『総合仏教大辞典』 下巻、法蔵館、1988年1月、1124-1125頁。
- ^ 荻原雲来『怛他伽多(tathagata)と云ふ語の起原と其の意義』
- ^ 中村元 『ブッダ最後の旅』 岩波書店〈岩波文庫〉pp.263-264[要追加記述]
- ^ 親鸞 『[顕浄土真実教行証文類]』「証巻」 聖典註釈版、p.307[要追加記述]
参考文献
関連項目
外部リンク
如来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:47 UTC 版)
如来(にょらい)とは仏の尊称(仏十号の一)である。「如去如来」あるいは「如来如去」の略、すなわち「真如の世界へ去り、また真如の世界より来られし者」という意味であり、修行を完成して、真理すなわち悟りを開いた人を表す。 如来は三十二相八十種好と呼ばれる身体の特徴を持っていると言われていることから、如来像もこれを表現している。頭部が盛り上がっている(肉髻)、頭髪が右巻に渦巻いている(螺髪(らほつ))、眉間から伸びた身長くらいの長さの白い毛が右巻に渦巻いている(白毫)、体が金色である、装飾品は身に付けない等の特徴である。もっとも、必ずしも三十二相八十種好の全てを造形的に表現している訳ではない。 通常、衣服は衲衣と裳をまとっているだけである。大日如来だけは例外で、菩薩のように着飾っている。また、如来は施無畏印、与願印、禅定印、説法印、触地印などの印相を結んでいる。持物(じもつ・じぶつ)は持たないが、薬師如来だけは薬壷(やっこ)を持っている。 日本における如来像の頭髪は、いずれも螺髪(らほつ)といって渦巻状の集合体で造形されている。ガンダーラ仏等初期のものにはなかったが、3世紀以後の仏像は、螺髪を有するようになった。大阪大学教授の肥塚隆によると、インドにおいて偉大な優れた人物は凡人とは異なった特異な姿でこの世に現れるという考えがあり、その1つが特殊な頭髪として現れたという。 釈迦如来 釈迦如来は、唯一現世で悟りを開いた実在の人物とされるガウタマ・シッダールタ(釈迦)を基に神格化と脚色を重ねられた結果として形成された仏(如来)を指す。左右に脇侍が付いた形式を釈迦三尊という。脇侍としては、文殊菩薩と普賢菩薩が多く、梵天と帝釈天、あるいは十大弟子である阿難と摩訶迦葉が付くこともある。 盧舎那仏 盧舎那仏は蓮華蔵世界に住むとされる仏であり、蓮華座の上に座っている。造形としては釈迦如来とほとんど異ならないが、蓮弁に線刻文様が描かれている点が独自の特徴である。東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が有名である。 薬師如来 薬師如来は、菩薩時代に十二の大願を立てることにより如来となった。東方の瑠璃光浄土に住むとされ、病気平癒の信仰を受けている。 像は、手に薬壷(やっこ)を持っている。三尊形式の場合、脇侍として付くのは、必ず日光菩薩(向かって右)と月光菩薩(左)である。脇侍とは別に、薬師如来を助け、薬師如来を信じる者をも守護する十二神将が従うことがある。 阿弥陀如来 阿弥陀如来は、法蔵菩薩が四十八の大願を立てて如来となり、西方の極楽浄土で説法を行っている。平等院鳳凰堂は阿弥陀如来1体のみであるが、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊の形で祀られることが多い。 大日如来 大日如来は、密教において宇宙そのものと考えられている如来である。顕教の如来と異なり、頭髪を結い上げ、宝冠を頂き、瓔珞(ようらく)、首飾り、腕釧、臂釧などの装飾品を着けている。 大日如来を中心に、東方の阿閦如来、南方の宝生如来、西方の阿弥陀如来(無量寿如来)、北方の不空成就如来を合わせて五智如来という。
※この「如来」の解説は、「仏像」の解説の一部です。
「如来」を含む「仏像」の記事については、「仏像」の概要を参照ください。
如来
「如来」の例文・使い方・用例・文例
- この寺の本尊は阿弥陀如来です.
- 阿弥陀如来にすべてを任せること
- 薬師如来
- 如来の教え
- 釈迦如来など,極めて遠い昔からの仏
- 胎蔵界曼荼羅という,密教における諸仏の非の徳を象徴した図の中央にある五如来と四菩薩
- 胎蔵界曼荼羅という,密教における諸仏の非の徳を象徴した図の中央にある5如来と4菩薩の像
- 薬師如来の護法神である十二神将としての,宮毘羅という神
- 密教において,大日如来の四方に鎮座する仏
- 阿弥陀如来の右方に居る脇侍で,知恵を表す菩薩
- 多宝如来を安置してある塔
- 阿弥陀如来の力
- 阿弥陀如来の本願に頼って成仏を願うこと
- 如来
- 通肩という,如来像の着衣法
- 如来の音声が持つ八つの徳
- 昆盧遮那如来という仏
- 釈迦如来という仏
- 仏教における如来
- 薬師如来と日光菩薩と月光菩薩
如來と同じ種類の言葉
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