とくがわ‐ひでただ〔トクがは‐〕【徳川秀忠】
徳川秀忠
徳川 秀忠 (とくがわ ひでただ)
1579〜1632 (天正7年〜寛永9年) |
【二代将軍】 二代将軍。三代への中継ぎとして、着実に幕府の基礎を作る。 |
二代将軍(在職1605〜23)。家康の3男。1605年将軍職に就く。15年豊臣家を滅亡させると、「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」を発令するなど、幕府の基礎固めに尽力。将軍職を家光に譲った後も、大御所として江戸城西丸に居を置き、幕政を握った。 |
年(和暦) | ||
●1580年 (天正8年) | ■イギリス商船平戸に来航 | 1才 |
●1582年 (天正10年) | ■本能寺の変 | 3才 |
●1584年 (天正12年) | ■小牧・長久手の戦い | 5才 |
●1587年 (天正15年) | ■バテレン追放令 | 8才 |
●1588年 (天正16年) | ■刀狩令 | 9才 |
●1590年 (天正18年) | ■家康江戸城に入る | 11才 |
●1592年 (文禄元年) | ■文禄の役(〜1596) | 13才 |
●1597年 (慶長2年) | ■慶長の役 | 18才 |
●1600年 (慶長5年) | ■関が原の戦い | 21才 |
●1603年 (慶長8年) | ■江戸幕府開府 | 24才 |
●1604年 (慶長9年) | ■朱印船貿易始まる | 25才 |
●1607年 (慶長12年) | ■第1回朝鮮通信使来る | 28才 |
●1609年 (慶長14年) | ■オランダ人に通商許可 | 30才 |
●1612年 (慶長17年) | ■幕府直轄領に禁教令 | 33才 |
●1612年 (慶長17年) | ■駿府の銀座を江戸に移す | 33才 |
●1614年 (慶長19年) | ■大阪冬の陣 | 35才 |
●1615年 (元和元年) | ■大阪夏の陣 | 36才 |
●1617年 (元和3年) | ■日光東照宮社殿竣工 | 38才 |
●1617年 (元和3年) | ■吉原遊郭の開設許可 | 38才 |
●1624年 (寛永元年) | ■スペイン船の来航禁止 | 45才 |
●1629年 (寛永6年) | ■女舞・女歌舞伎の禁止 | 50才 |
・沢庵 宗彭 | 1573年〜1645年 (天正元年〜正保2年) | +6 |
・春日 局 | 1579年〜1643年 (天正7年〜寛永20年) | 0 |
・林 羅山 | 1583年〜1657年 (天正11年〜明暦3年) | -4 |
徳川秀忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/12 01:48 UTC 版)
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代将軍(在職:1605年 - 1623年)。
注釈
- ^ 賜姓は1597年説もあり。
- ^ 秀忠から見て5代前の祖先である松平長忠、高祖父(4代前の祖先)である松平信忠、祖父の松平広忠がいずれも「忠」を用いている。
- ^ 達子は近江国の戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信長の妹於市。達子は天正14年から文禄元年頃に秀吉の養子・豊臣秀勝に嫁いでいたが、文禄元年に秀勝は死去していた。
- ^ ただし、相模に所領を持つ大久保忠隣・本多正信は秀忠の補佐として、秀忠の旗下にあった。
- ^ 司馬遼太郎 『関ヶ原』 (1966年)など。
- ^ 山本博文は「家康の路線を確立させたのは秀忠の功績である。政治的資質においては、家光などよりもはるかに優れていた」と評した[23]。
- ^ 没後に側室の扱いを受ける。
- ^ 養父である秀忠の菩提を弔うため寛永2年(1625年)に、本妙寺(現:京都府宮津市)を開創している。
- ^ 慶長16年(1611年)4月に家康と家康側室の英勝院の養女となったが(『寛永諸家系図伝』)、忠宗との婚姻前に家康が亡くなったため改めて秀忠の養女となった。
出典
- ^ a b "徳川秀忠". 朝日日本歴史人物事典 (1994). コトバンクより2022年9月28日閲覧。
- ^ 山本 2020, p. 1.
- ^ 山本 2020, pp. 1–2.
- ^ 山本 2020, p. 2.
- ^ a b 片山 2017, 「豊臣政権の対北条政策と家康」
- ^ 『家忠日記』天正18年正月7日条
- ^ 木下半介・長束大蔵大輔宛「(天正17年)九月十七日付家康書状」(民間蔵)
- ^ 『家忠日記』天正18年正月25日条
- ^ a b 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年。
- ^ 「家康子於長公家成、予所よりしやうそくニあらためられ候」
- ^ 片山 2017, pp. 25–27, 「天正年間における豊臣政権の在京賄料」.
- ^ a b 黒田基樹「羽柴(豊臣)政権における家康の地位」黒田 編著『徳川家康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 3〉、2023年5月。ISBN 978-4-86403-473-9。P288-290.
- ^ 片山正彦「書評 福田千鶴著『淀殿 -われ太閤の妻となりて-』」『織豊期研究』9号、織豊期研究会、2007年。/所収:片山 2017, pp. 78–80
- ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年、120頁。
- ^ 岡野友彦『源氏と日本国王』講談社、2003年。
- ^ 谷川彰英『京都地名の由来を歩く』2015年
- ^ a b 三俣俊ニ「京都の大殉教の殉教地について」
- ^ 鈴木 1985.
- ^ 鈴木尚; 矢島恭介; 山辺知行 編『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』東京大学出版会、1967年。
- ^ 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年、209頁。
- ^ 黒田基樹『「豊臣大名」真田一族』洋泉社、2016年
- ^ 小和田 1999, p. 87.
- ^ 山本博文『遊びをする将軍 踊る大名』教育出版、2002年、66-67頁。
- ^ 山本博文『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』〈講談社学術文庫〉2004年、48頁。
- ^ a b 岡谷繁実『名将言行録』巻之四十二
- ^ 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』〈新潮新書〉2005年、5頁。
- ^ 篠田 2005, pp. 38.
- ^ 篠田 2005, pp. 41.
- ^ 鈴木 1985, pp. 24–25.
- ^ a b c d e f g 高瀬羽皐 編「細川の大三原」『刀剣と歴史』 5巻、羽澤文庫、1911年 。
- ^ 福永酔剣『日本刀大百科事典』 1巻、雄山閣、1993年、203頁。ISBN 4-639-01202-0。
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『同性愛の研究』59頁 (著者:守田有秋 発行所:人生創造社 発行:昭和6年(1931年)12月5日) (2018年11月3日閲覧。)
- ^ “将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む”. 朝日新聞. (2012年8月8日). オリジナルの2012年8月10日時点におけるアーカイブ。
- ^ 鶴は千年、亀は萬年。2012年8月8日付 Archived 2013年9月1日, at the Wayback Machine.
- ^ 『系図纂要』
- ^ a b 「幕府祚胤伝」(『徳川諸家系譜』第2巻)
- ^ 「征夷大将軍・系譜総覧」『歴史読本 臨時増刊』(1979年6月)
- ^ 『言経卿記』慶長六年九月二十一日条、『鹿苑日録』慶長六年九月二十日条
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十三
- ^ “詳細検索結果|「捨て童子・松平忠輝」に一致する資料: 56件中1から6件目|国立国会図書館サーチ”. iss.ndl.go.jp. 2022年12月13日閲覧。
- ^ “詳細検索結果|「捨て童子・松平忠輝 横山光輝」に一致する資料: 28件中1から1件目|国立国会図書館サーチ”. iss.ndl.go.jp. 2022年12月13日閲覧。
- ^ “慶長グランド・ロマン 『野風の笛』”. 宝塚歌劇団. 2022年12月13日閲覧。
徳川秀忠(長丸→徳川秀忠)
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「へうげもの」の記事における「徳川秀忠(長丸→徳川秀忠)」の解説
家康の嫡子、江戸幕府二代将軍。父親似(鼻郭と頬を除く)の顔立ちをしている。織部と細川忠興は、長丸に教養や都の作法の伝授を家康から依頼され、織部はその第一歩として自作の茶杓を贈ったが、長丸はそれをへし折りつつ武芸に励むなど数寄に興味を示さなかった。父親と似た贅沢への反発があり、排他的な面が目立つ。非情に成り切れない父に代わって非情の面を請け負うものの「三成に似てきた」と評されていたが、織部の薫陶と江との夜伽での一件を経て自らの数寄を求めるようになる。さらに織部の指導で「弓箭台子」を自ら作成するなど、徐々に数寄に理解を示すようになり、険しかった表情が徐々に穏やかになった。
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徳川秀忠(とくがわ ひでただ)
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「SAKON(左近) -戦国風雲録-」の記事における「徳川秀忠(とくがわ ひでただ)」の解説
家康の三男。家康が死んだことを知り、柳生や羅刹を使い島左近、世良田次郎三郎、豊臣秀頼を殺し、日本を我が手にしようと動き出す。初登場時、御簾の裏で大勢の裸の女性を侍らせていた。
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徳川秀忠(とくがわ ひでただ)
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「BRAVE10」の記事における「徳川秀忠(とくがわ ひでただ)」の解説
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徳川秀忠(とくがわ ひでただ)
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「バガボンド」の記事における「徳川秀忠(とくがわ ひでただ)」の解説
徳川家第二代将軍。初代将軍家康の息子。武蔵のことを「会ったことはないが」評価しており、将軍家でなく細川家に譲ることにした。
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「徳川 秀忠」の例文・使い方・用例・文例
- これは徳川幕府への強烈な打撃となりました。
- 『カムイの剣』は、1868年の徳川将軍時代の崩壊と、明治天皇下での日本の復興という変革期を舞台にした、一種の侍/忍者物語だ。
- 徳川家の系図を列挙しなさい。
- 徳川幕府は1868年に終わりを告げた。
- 徳川幕府.
- この珍しい風習の起源は徳川時代にさかのぼる.
- 嘘で固めた徳川幕府
- 明治政府は徳川幕府の跡に立った
- 日本は徳川の世に栄えた
- 徳川に向かって弓を引く
- 日本外史は平氏から始まって徳川時代で終る
- 徳川幕府の治世に
- 徳川栄華録
- 徳川栄華録(書名にすれば)
- 家光は徳川三代の将軍
- 徳川時代
- 時の人は皆徳川の徳を謳歌した
- 日本外史は平氏から始まって徳川氏で終わる
- 徳川の四天王
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