い‐しょ〔ヰ‐〕【遺書】
読み方:いしょ
いしょ〔ヰシヨ〕【遺書】
遺書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/18 04:32 UTC 版)
遺書(いしょ)とは、死後のために書きのこした文書のことで、かきおき、遺言状とも言う[1]。「ゆいしょ」「ゆいじょ」とも[1]。英語では死につつある者が書き残す書面をwill、testament、farewell note、自殺する者が書き残す書面をsuicide noteあるいはsuicide letterと区別する。後者の場合「自殺メモ」と邦訳することがある。
概要
遺書は残される家族・友人・知人などに個人的なメッセージを送る手紙の意味合いが強い。自殺者の場合、その中でなぜ自分が自殺するのかという理由が語られることが多い。特にいじめに関するものでは、これを元にした裁判が行われる場合がある。大病や事故などで死を覚悟した際にも遺書を残す場合があり、日本航空123便墜落事故では死を覚悟した乗員・乗客による遺書が多数みられた[2][3]。
遺書はその性質上直筆で書かれるものであるが、法律上は遺言書の作成は公正証書遺言として代筆させることも可能である。現代ではワープロソフトを用いて作成することもできるが遺言書の場合は自筆での作成が必要である(民967、968)。ワープロソフトによって執筆された遺書では、偽装自殺による殺人が疑われる事例もある。また、自殺する者は直筆の遺書をあえて自殺現場に残すことによって、彼・彼女の死後に死体を発見した者は、自殺した者の死因は自殺であり、殺人や事故死や変死などではないことを客観的に証明しようとする場合がある。
日本では有名なものに、円谷幸吉のものなどがある。
遺書的著作
著述家が死を覚悟した際、その思想などを遺書の意味を込めて書く例がある。日本では第二次世界大戦の頃、出征になりそうな若手の科学者がそのような書物を書いた例がある。たとえば、岩田久二雄は海南島への赴任が決まったとき、その出発前に「自然観察者の手記」という本を出しているが、これは今西錦司が「思い残しのないように」書いておくことを勧めたことを自伝に書いている(岩田、1976)。今西自身も、同時期に『生物の世界』などを出版したが、その序文には「私の命がもしこれまでのものだとしたら、私はせめてこの国の一隅に、こんな生物学者も存在していたということを、なにかの形で残したいと願った」とあり、同所の文庫版の解説では上山春平が「一種の遺書としての意味を持っていた」と指摘している。
参考文献
- 岩田久二雄、『昆虫学五十年 あるナチュラリストの回想』、(1976)、中央公論社(中公新書)
- 今西錦司、『生物の世界』、(1972)、講談社(講談社文庫)
関連項目
- 自殺
- ダイイング・メッセージ
- 辞世の句
- 遺言(遺言書)
- 自殺予告
脚注
遺書
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遺書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 21:01 UTC 版)
父上様、母上様 西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。 今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。 鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。 本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に 満里子殿 何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る 何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様 色々と思出をたどりながら出発前に記す 恵美ちゃん坊主も元気でやれ 教へ子へ 教へ子よ散れ山桜此の如くに
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遺書
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荒木が出撃を前に、父に宛てた遺書が残っている。以下 陸軍伍長 荒木幸雄最后の便り致します其後御元気の事と思ひます幸雄も栄ある任務をおび本日出発致します。必ず大戦果を挙げます桜咲く九段で会う日を待って居りますどうぞ御身体を大切に弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら
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遺書
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上原の遺書と呼ばれるものは三種ある。愛読書『クロォチェ』の見返しに綴られた1943年付の文章、封筒に入れられ実家に残された遺書(特攻出撃前の1945年4月に上原が帰郷した際に記述、日付なし)、知覧で取材活動をしていた陸軍報道班員高木俊朗の報道用のノートには、誰彼となくそれぞれの経歴、感想、伝言を書きつけるようになったが、その中に遺されていた、上原が出撃前夜に記述した『所感』と称した絶筆である。ただし、実際の『所感』は、報道用ノートへの寄せ書きではなく、日本映画社の報道用原稿用紙7枚に書かれており、高木の主張とは異なる。また、高木が上原に「今の思いを書いてください」を個別にお願いして書いてもらったという報道もあり、高木が『所感』を上原から託されたとする状況は、高木によって脚色を加えられていることも指摘されており、事実は不明である。高木はその絶筆を上原が戦死直後の6月に、直接遺族の両親と妹達に届けたと主張しているが、実際に遺族に届けられた時期も不明である。 『所感』は、戦後まもなくの1949年1月に出版された『週刊朝日』(1949年1月23日号)「第二はるかなる山河に」という記事に、日本大学医学専門学校の田坂徳太郎の遺書とともに掲載され、のちの『きけ わだつみのこえ』出版のきっかけともなっている。そして『きけ わだつみのこえ』に、上原の遺書は、高木が遺族に届けたとする『所感』と、1945年4月に上原が故郷に帰郷したさいに家族に残した遺書の2通が掲載された。 2006年10月22日、故郷の池田町に上原の記念碑(石碑)が建立され、『所感』の一部が碑文に刻まれた。
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遺書
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自筆の遺書が残されている 辞世 我は天地神明に誓ひ捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思ひ日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州に帰ります。 我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸です。中国の御奮闘を祈る日本の敢闘を祈る 中国万歳日本万歳天皇陛下万歳死して護国の鬼となります 十二月三十一日 十時記す 向井敏明
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遺書
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ムーラウは葬式の前日になって故郷ヴォルフスエックに到着し、二人の妹に取り仕切られた葬式の準備の様子を眺めながら敷地内の様子を見て回る。前章で思い起こした人々と実際に再会しながら、幼年時代からの様々な記憶がムーラウの頭に去来するが、同時に家族を悪し様に考えすぎているとも感じる。ムーラウの独白は参列者の顔ぶれを見ながら、前章に続いて現代オーストリアの国民性に対する嫌悪を増していき、やがてこうした精神性のない俗物的なもの、カトリック的なもの、国民社会主義的なものすべてを書きしるすことによって「消去」することを目的とした著作『消去』の構想に思いを馳せる。そして埋葬が終わると、ムーラウは故郷ヴォルフスエックを宗教文化財団に寄付する決意を固める。
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遺書
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山本を慕う仲間たちは、帰国への希望を与えてくれた彼への恩返しとして、彼の遺書を日本の遺族のもとへ届けることを熱望した。しかし収容所では、日本語を書き残すことはスパイ容疑と見なされており、ほぼ不可能であった。帰国時に隠し持っていても所持品検査で発見されれば収容所へ逆戻りとなり、帰国の希望は完全に断たれてしまう。事実、帰国の機会を得たにも関わらず、隠し持っていた日本語の書物を没収されて収容所に逆戻りした者や、新たに10年の刑が加重された者、重労働25年の刑を受けた者もいた。山本自身もそれを理解していたと見えて、全文を暗記して日本の家族のもとに伝えるよう、仲間たち宛てに遺書に書き添えられていた。 告別式の後、アムール句会の出席者を始めとして、山本と親しい者、信頼のおける者、体力のある者、記憶力に長ける者、計6人が分担して、遺書を暗記することになった。一同はそれぞれ、遺書の一部を紙片に書き写して隠し持ち、作業中に監視の目を盗みつつその文面を暗唱して頭に叩きこむ方法をとった。作業後も貴重な睡眠時間を削って暗記に費やし、その記憶を遺書の写しと照合しながら、山本からの依頼通り、一字一句洩らさない完璧な暗記を目指した。帰国は何年先、何十年先になるかもわからない、気の遠くなる作業であった。 1955年(昭和30年)には、俘虜たちが初めて団結して収容所側に対抗する「ハバロフスク事件」が勃発。俘虜たちはハンガー・ストライキを決行したが、空腹で頭の動きが虚ろになる中でも、山本の遺書の暗記担当者たちは遺書の内容を復唱していた。同年に日本宛てに山本の死を報せる電報が送られ、日本に残された妻である山本モジミのもとに届けられた。 翌1956年(昭和31年)4月頃には、ハバロフスク事件を経て収容所内の環境がかなり改善されたが、同事件の影響で俘虜たちは明らかに衰弱し、記憶力も低下。日本語を言い間違えることも多くなった。極寒の環境下での重労働と栄養失調も記憶力の低下に拍車をかけ、故郷や家族の名を忘れる者も続出。さらに遺書の暗記担当者の何人かは、隠し持っていた遺書の写しが発見されて没収され、暗記内容の照合も不可能となったが、それでもなお彼らは自らの記憶力と戦い続けていた。日本では戦後の復興が進み、すでに「もはや戦後ではない」が流行語となった時代であった。 そして山本の死から2年以上後、終戦から11年目にあたる同年12月に日ソ共同宣言が発効され、シベリア抑留者の最後の帰国が実現した。日本を目指す引き揚げ船の興安丸の船内で、7年以上続いたアムール句会の最後の句会が開かれた。 翌1957年(昭和32年)1月、遺書の暗記担当者の1人が、当時埼玉県在住であった山本モジミのもとを訪ね、暗記をもとに代筆により再現した遺書の一部を届けた。これによりモジミは、遺書にまつわる一連の経緯を知ることになった。これを皮切りに同年のうちに計6人が、ある者は直接モジミのもとを訪ね、ある者は郵送や小包で、復元した遺書を届けた。山本が収容所で作った俳句や詩も、合せて彼らによりモジミに届けられた。 1961年(昭和36年)、戦後初のシベリア墓参に、モジミは代表者の1人として山本の遺書を携えて参加。初めての夫の墓参りで、仲間たちに託された遺書が無事に自分のもとに届いていることを報告した。そして山本の死から30年以上経った1987年(昭和62年)夏、最後の遺書がモジミのもとに郵送された。奇しくも山本の三十三回忌の盆に当たる日であった。
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遺書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 14:54 UTC 版)
『読売新聞』紙上に紹介された遺書の抜粋は以下の通り。 我最愛の姉君よ........君よ我をあはれむとまでハ行かずともせめて自ら世をすてたる我罪を憎み給ひぞよ、さらバ/\再び我ハ君と結ぶべからず、幽明遠く隔て永久に見えざるべし、されど妾が君の妹たるべき事のみハ、永久にゆるしてよ、大なる悲觀ハ大なる樂觀に一致すと、實に然り、我ハ今決せんとするに及びて胸中何等の不安あることなし、最早この期に及びてハ、何事も云ふまじ、(中畧)汚れし世の塵ハ只一つも我心にとヾまることなし、たヾなつかしき姉君あることをのみ忘れざらん、さらバ永久にさめざる眠につかん、十月以來の本懐はじめてこ〻に達す、あ〻何等の愉快ぞ........痛絶........快絶(中畧)死ハ塵の世を遁るべき、只一すぢの道なるを、好機ありぬ今旣に我ハ決せり姉君よ、九十九年の條約を、破りし罪はゆるしてよ、(此書のうち入用のものあらバ君に參らせん)昨日ハ何を渡したるかそれすら覺えず、我をして徒らに藤村操を學ぶものとなす勿れ(下畧)巖頭に立てる狂暴極まる生存不適當者より なつかしき姉上 靜枝子の君御許に
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遺書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 02:31 UTC 版)
「マンフレート・フォン・リヒトホーフェン」の記事における「遺書」の解説
遺書は中隊の印章で封印され、茶色の封筒に収められていた。ラインハルト中隊長の副官により開封され、中隊長が発表した。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「本職が哨戒飛行より帰還せざりし場合、第六飛行中隊のラインハルト中尉が戦闘の指揮をとること。1918年3月10日 騎兵大尉 フォン・リヒトホーフェン」 とのみ記載され、彼個人のことに言及する言葉や家族への言葉も一切なく、これが彼の遺言の全てであった。
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遺書
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湯浅が出撃に際し残した遺書には、「古人曰ヘルアリ従容ト義ニ就クハ難シト。今ヤ廿有余ノ勇士ト此難事ヲ決行ス。武士ノ面目之ニ過ギズ」との一節があった。海兵の一生徒はこの一節に感激し生涯の目標を「従容義ニ就ク境地ニ到達センコト」に定めた。この生徒は後年特攻攻撃の魁とされた有馬正文である。
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遺書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:45 UTC 版)
「野田毅 (陸軍軍人)」の記事における「遺書」の解説
自筆の遺書が1948年(昭和23年)1月28日処刑当日の日記に残されている。 死刑に臨みての辞世 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部各位、蒋主席の方々を煩はしましたる事に就き厚く御礼申し上げます。 只俘虜、非戦闘員の虐殺、南京屠殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。死を賜はりましたる事に就ては天なりと観じ命なりと諦めて、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。 今後は我々を最後として我々の生命を以つて残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代へられん事をお願ひ致します。 宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みをはらさんがため、一方的裁判をしたりされない様に祈願致します。 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携の基礎となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様に、それだけを祈願致します。 中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳 野田毅
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遺書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 03:06 UTC 版)
※4月16日、智恵子は利夫からの遺書が送られた。書かれたのは4月12日である。 あなたの幸せを願う以外に何物もありません。無駄に、過去のことや過去の義理にこだわってはいけません。あなたは過去に生きるのではありませんから。勇気をもって過去を忘れ、将来に新しく生きる場を見出すことです。あなたは今後の、一時一時の現実の中に生きるのです。穴沢は現実の世界にはもう存在しません。いまさら何を言うのかと自分でも考えますが、ちょっぴり欲を言ってみたいです。1、読みたい本、「万葉」「句集」2、観たい画、ラファエルの「聖母子像」、狩野芳崖(かのうほうがい)の「悲母観音」3、智恵子。 会いたい、話したい、無性に。今後は明るく朗らかに。 自分も負けずに朗らかに笑って征きます — 穴澤利夫 『特攻隊員たちの遺書』より
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遺書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/30 05:09 UTC 版)
死後、机の引き出しから遺書が見つかった。これを見た定常はさらに深く悲しみ、4通の遺書を木版刷りにして全国に配布した。また、家臣に命じて、露姫の伝記である『玉露童女行状』を編纂させた。 遺書を見た全国の人々から追悼文が次々と届いたため、定常はこれらをまとめて『玉露童女追悼集』(全30巻)を編纂し、浅草寺に奉納した。 酒豪として知られた定常は、遺書で酒を諫められて以後、酒を一切飲まなかった。
※この「遺書」の解説は、「松平露」の解説の一部です。
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