遺書とは? わかりやすく解説

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い‐しょ〔ヰ‐〕【遺書】

読み方:いしょ

死後のために書き残す文書手紙書き置き遺言状

後の世残した書物遺著

方々散りうせた書物

[補説] 書名別項。→遺書


いしょ〔ヰシヨ〕【遺書】

読み方:いしょ

河内仙介小説昭和16年1941)刊。翌昭和17年1942)、成瀬巳喜男監督により「母は死なず」の題名映画化


遺書

作者津村節子

収載図書空中楼閣
出版社集英社
刊行年月1986.6
シリーズ名集英社文庫


遺書

作者与謝野晶子

収載図書みだれ髪
出版社フロンティアニセン
刊行年月2005.5
シリーズ名第2刷 (フロンティア文庫)


遺書

作者永瀬隼介

収載図書わたしが愛した愚か者
出版社文藝春秋
刊行年月2005.10
シリーズ名Dojo 道場


遺書

作者木原浩勝

収載図書隣之怪―木守り
出版社メディアファクトリー
刊行年月2007.6


遺書

作者城島明彦

収載図書恐怖がたり42夜―携帯サイトの怖い話
出版社扶桑社
刊行年月2007.7
シリーズ名扶桑社文庫


遺書

作者田村光雄

収載図書化粧する
出版社日本民主主義文学会
刊行年月2008.4
シリーズ名民主文学


遺書

作者結城昌治

収載図書怖い話と短い話
出版社中央公論社
刊行年月1988.10

収載図書怖い話と短い話
出版社中央公論社
刊行年月1992.12
シリーズ名中公文庫


遺書

作者北里蓉子

収載図書寒い部屋
出版社審美
刊行年月1994.5


遺書

作者鮎川哲也

収載図書本格推理 13 幻影設計者たち
出版社光文社
刊行年月1998.11
シリーズ名光文社文庫


遺書

作者江川晴

収載図書医療少年院物語法務教官という名の看護婦
出版社筑摩書房
刊行年月2001.5
シリーズ名ちくま文庫


遺書

作者持田

収載図書新青年傑作選―幻の探偵雑誌 10
出版社光文社
刊行年月2002.2
シリーズ名光文社文庫


遺書

作者道平

収載図書ロック傑作選甦る推理雑誌 1
出版社光文社
刊行年月2002.10
シリーズ名光文社文庫


遺書


遺書

作者森一

収載図書陽だまり
出版社森一
刊行年月2005.2


遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/18 04:32 UTC 版)

尼港事件で処刑される直前に監獄の壁に書かれた遺書(1920年5月24日
「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」

遺書(いしょ)とは、死後のために書きのこした文書のことで、かきおき、遺言状とも言う[1]。「ゆいしょ」「ゆいじょ」とも[1]。英語では死につつある者が書き残す書面をwill、testament、farewell note、自殺する者が書き残す書面をsuicide noteあるいはsuicide letterと区別する。後者の場合「自殺メモ」と邦訳することがある。

概要

遺書は残される家族友人・知人などに個人的なメッセージを送る手紙の意味合いが強い。自殺者の場合、その中でなぜ自分が自殺するのかという理由が語られることが多い。特にいじめに関するものでは、これを元にした裁判が行われる場合がある。大病や事故などで死を覚悟した際にも遺書を残す場合があり、日本航空123便墜落事故では死を覚悟した乗員・乗客による遺書が多数みられた[2][3]

遺書はその性質上直筆で書かれるものであるが、法律上は遺言書の作成は公正証書遺言として代筆させることも可能である。現代ではワープロソフトを用いて作成することもできるが遺言書の場合は自筆での作成が必要である(民967、968)。ワープロソフトによって執筆された遺書では、偽装自殺による殺人が疑われる事例もある。また、自殺する者は直筆の遺書をあえて自殺現場に残すことによって、彼・彼女の死後に死体を発見した者は、自殺した者の死因は自殺であり、殺人や事故死や変死などではないことを客観的に証明しようとする場合がある。

日本では有名なものに、円谷幸吉のものなどがある。

遺書的著作

著述家が死を覚悟した際、その思想などを遺書の意味を込めて書く例がある。日本では第二次世界大戦の頃、出征になりそうな若手の科学者がそのような書物を書いた例がある。たとえば、岩田久二雄海南島への赴任が決まったとき、その出発前に「自然観察者の手記」という本を出しているが、これは今西錦司が「思い残しのないように」書いておくことを勧めたことを自伝に書いている(岩田、1976)。今西自身も、同時期に『生物の世界』などを出版したが、その序文には「私の命がもしこれまでのものだとしたら、私はせめてこの国の一隅に、こんな生物学者も存在していたということを、なにかの形で残したいと願った」とあり、同所の文庫版の解説では上山春平が「一種の遺書としての意味を持っていた」と指摘している。

参考文献

  • 岩田久二雄、『昆虫学五十年 あるナチュラリストの回想』、(1976)、中央公論社(中公新書)
  • 今西錦司、『生物の世界』、(1972)、講談社(講談社文庫)

関連項目

脚注

  1. ^ a b 精選版 日本国語大辞典「遺書」[1]
  2. ^ この事故は圧力隔壁の破損、それによる垂直尾翼の破損に伴う油圧喪失及び操縦不能といった異常発生から30分ほど迷走飛行を続けることができたため、遺書を書く時間があった航空事故としては特異なケースである。
  3. ^ 『日航機墜落事故(日航ジャンボ機墜落事故)、犠牲者の遺書とメモ書き』 (アーカイブ) 日航機墜落事故 東京-大阪123便 新聞見出しに見る30年間の記録

遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/08 06:16 UTC 版)

リリアとトレイズ」の記事における「遺書」の解説

II巻収録アリソンがもしもの時の為にヴィル残した遺書。

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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 21:01 UTC 版)

関行男」の記事における「遺書」の解説

父上様、母上西条母上には幼時より御苦労かりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。 今回帝国勝敗岐路に立ち、身を以て君恩報ずる覚悟です。武人本懐此れにすぐることはありません。 鎌倉御両親於かれましては本当に心から可愛がっていただき、その御恩報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ本日帝国の為、身を以て母艦体当たりを行ひ、君恩報ずる覚悟です。皆様御体大切に里子殿 何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る 何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 御両親様に孝養専一心掛け生活して行く様 色々と思出をたどりながら出発前に記す 恵美ちゃん坊主も元気でやれ 教へ子へ 教へ子よ散れ山桜此の如く

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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 07:57 UTC 版)

荒木幸雄」の記事における「遺書」の解説

荒木出撃前に、父に宛てた遺書が残っている。以下 陸伍長 荒木幸雄最后の便り致します其後御元気の事と思ひます幸雄も栄ある任務をおび本日出発致します。必ず大戦果を挙げます桜咲く九段で会う日を待って居りますどうぞ御身体大切に弟達及隣組皆様にも宜敷く さような

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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 08:39 UTC 版)

上原良司」の記事における「遺書」の解説

上原の遺書と呼ばれるものは三種ある。愛読書『クロォチェ』の見返し綴られ1943年付の文章、封筒入れられ実家残された遺書(特攻出撃前の1945年4月上原帰郷した際に記述日付なし)、知覧取材活動をしていた陸軍報道班員高木俊朗報道用のノートには、誰彼となくそれぞれの経歴感想伝言書きつけるようになったが、その中に遺されていた、上原出撃前夜記述した所感』と称した絶筆である。ただし、実際の『所感』は、報道ノートへの寄せ書きではなく日本映画社報道原稿用紙7書かれており、高木主張とは異なる。また、高木上原に「今の思い書いてください」を個別お願いして書いてもらったという報道もあり、高木が『所感』を上原から託されたとする状況は、高木によって脚色加えられていることも指摘されており、事実不明である。高木はその絶筆上原戦死直後6月に、直接遺族両親妹達届けた主張しているが、実際に遺族届けられ時期不明である。 『所感』は、戦後まもなくの1949年1月出版された『週刊朝日』(1949年1月23日号)「第二はるかな山河に」という記事に、日本大学医学専門学校田坂徳太郎の遺書とともに掲載され、のちの『きけ わだつみのこえ出版きっかけともなっている。そして『きけ わだつみのこえ』に、上原の遺書は、高木遺族届けたとする『所感』と、1945年4月上原故郷帰郷したさいに家族残した遺書の2通が掲載された。 2006年10月22日故郷池田町上原記念碑石碑)が建立され、『所感』の一部碑文刻まれた。

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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 02:07 UTC 版)

向井敏明」の記事における「遺書」の解説

自筆の遺書が残されている 辞世 我は天地神明誓ひ捕虜住民殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命思ひ日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州に帰ります我がを以て中国抗戦八年苦杯遺恨流れ去り日華親善東洋平和の因ともなれば捨石となり幸です。中国御奮闘を祈る日本敢闘を祈る 中国日本天皇陛下死して護国の鬼となります 十二月三十一日 十時記す 向井敏明

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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/19 22:05 UTC 版)

消去 (小説)」の記事における「遺書」の解説

ムーラウは葬式前日になって故郷ヴォルフスエックに到着し二人の妹に取り仕切られ葬式準備様子眺めながら敷地内の様子見て回る前章思い起こした人々実際に再会しながら、幼年時代からの様々な記憶がムーラウの頭に去来するが、同時に家族悪し様に考えすぎているとも感じる。ムーラウの独白参列者の顔ぶれを見ながら、前章続いて現代オーストリア国民性対す嫌悪増していき、やがてこうした精神性のない俗物的なもの、カトリック的なもの、国民社会主義的なものすべてを書きしるすことによって「消去」することを目的とした著作消去』の構想思いを馳せる。そして埋葬が終わると、ムーラウは故郷ヴォルフスエックを宗教文化財団寄付する決意固める。

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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 19:20 UTC 版)

山本幡男」の記事における「遺書」の解説

山本を慕う仲間たちは、帰国への希望与えてくれた彼への恩返しとして、彼の遺書を日本遺族のもとへ届けることを熱望した。しかし収容所では、日本語書き残すことはスパイ容疑と見なされており、ほぼ不可であった帰国時に隠し持っていても所持品検査発見されれば収容所逆戻りとなり、帰国希望は完全に断たれてしまう。事実帰国機会得たにも関わらず隠し持っていた日本語書物没収され収容所逆戻りした者や、新たに10年の刑が加重された者、重労働25年の刑を受けた者もいた。山本自身もそれを理解していたと見えて全文暗記して日本家族のもとに伝えるよう、仲間たち宛てに遺書に書き添えられていた。 告別式の後、アムール句会出席者始めとして、山本親しい者、信頼のおける者、体力のある者、記憶力長ける者、計6人が分担して、遺書を暗記することになった一同それぞれ、遺書の一部紙片書き写して隠し持ち作業中に監視の目を盗みつつその文面暗唱して頭に叩きこむ方法をとった。作業後も貴重な睡眠時間削って暗記費やし、その記憶を遺書の写し照合しながら、山本からの依頼通り一字一句洩らさない完璧な暗記目指した。帰国何年先、何十先になるかもわからない、気の遠くなる作業であった1955年昭和30年)には、俘虜たちが初め団結して収容所側に対抗するハバロフスク事件」が勃発俘虜たちはハンガー・ストライキ決行したが、空腹で頭の動き虚ろになる中でも山本の遺書の暗記担当者たちは遺書の内容復唱していた。同年日本宛て山本の死を報せる電報送られ日本残された妻である山本モジミのもとに届けられた。 翌1956年昭和31年4月頃には、ハバロフスク事件経て収容所内の環境がかなり改善されたが、同事件の影響俘虜たちは明らかに衰弱し記憶力低下日本語言い間違えることも多くなった。極寒環境下での重労働栄養失調記憶力低下拍車をかけ、故郷家族の名を忘れる者も続出。さらに遺書の暗記担当者何人かは、隠し持っていた遺書の写し発見され没収され暗記内容照合不可となったが、それでもなお彼らは自らの記憶力戦い続けていた。日本では戦後復興進み、すでに「もはや戦後ではない」が流行語となった時代であった。 そして山本の死から2年上後終戦から11年目にあたる同年12月日ソ共同宣言発効されシベリア抑留者の最後帰国実現した日本目指す引き揚げ船興安丸船内で、7年上続いたアムール句会最後句会開かれた。 翌1957年昭和32年1月、遺書の暗記担当者1人が、当時埼玉県在住であった山本モジミのもとを訪ね暗記をもとに代筆により再現した遺書の一部届けた。これによりモジミは、遺書にまつわる一連の経緯を知ることになった。これを皮切りに同年のうちに計6人が、ある者は直接モジミのもとを訪ね、ある者は郵送小包で、復元した遺書を届けた山本収容所作った俳句や詩も、合せて彼らによりモジミに届けられた。 1961年昭和36年)、戦後初のシベリア墓参に、モジミは代表者1人として山本の遺書を携えて参加初めての夫の墓参りで、仲間たち託された遺書が無事に自分のもとに届いていることを報告した。そして山本の死から30年以上経った1987年昭和62年)夏、最後の遺書がモジミのもとに郵送された。奇しくも山本三十三回忌の盆に当たる日であった

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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 14:54 UTC 版)

松岡千代」の記事における「遺書」の解説

読売新聞紙上紹介された遺書の抜粋以下の通り。 我最愛姉君よ........君よ我をあはれむとまでハ行かずともせめて自ら世をすてたる我罪を憎み給ひぞよ、さらバ/\再び我ハ君と結ぶべからず幽明遠く隔て永久に見えざるべし、されど妾が君の妹たるべき事のみハ、永久にゆるしてよ、大なる悲觀大なる樂觀一致すと、實に然り、我ハ今決せんとするに及びて胸中何等の不安あることなし最早この期に及びてハ、何事も云ふまじ、(中畧)汚れ世の塵ハ只一つ我心にとヾまることなし、たヾなつかし姉君あることをのみ忘れざらん、さらバ永久にさめざる眠につかん、十月以來本懐はじめてこ〻に達す、あ〻何等の愉快ぞ........痛絶........快絶(中畧)死ハ塵の世遁るべき、只一すぢの道なるを、好機ありぬ今旣に我ハ決せり姉君よ、九十九年の條約を、破りし罪はゆるしてよ、(此書のうち入用ものあら君に參らせん)昨日何を渡したるかそれすら覺えず、我をして徒らに藤村操を學ぶものとなす勿れ(下畧)巖頭立て狂暴極まる生存不適當者より なつかし姉上 靜枝子の君御許

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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 02:31 UTC 版)

マンフレート・フォン・リヒトホーフェン」の記事における「遺書」の解説

遺書は中隊印章封印され茶色封筒収められていた。ラインハルト中隊長副官により開封され中隊長発表した。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「本職哨戒飛行より帰還せざりし場合第六飛行中隊ラインハルト中尉戦闘指揮をとること。1918年3月10日 騎兵大尉 フォン・リヒトホーフェン」 とのみ記載され、彼個人のことに言及する言葉家族へ言葉一切なく、これが彼の遺言全てであった

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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 17:07 UTC 版)

湯浅竹次郎」の記事における「遺書」の解説

湯浅出撃際し残した遺書には、「古人曰ヘルアリ従容ト義ニ就クハシト。今ヤ廿有余勇士ト此難事決行ス。武士面目之ニ過ギズ」との一節があった。海兵一生徒はこの一節感激し生涯目標を「従容義ニ就ク境地到達センコト」に定めた。この生徒後年特攻攻撃の魁とされた有馬正文である。

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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:45 UTC 版)

野田毅 (陸軍軍人)」の記事における「遺書」の解説

自筆の遺書が1948年(昭和23年)1月28日処刑当日日記残されている。 死刑臨みての辞世 此の度中国法各位弁護士国防部各位、蒋主席方々を煩はしましたる事に就き厚く御礼申し上げます。 只俘虜非戦闘員虐殺南京屠殺事件罪名絶対にお受け出来ません。お断り致します。死を賜はりましたる事に就ては天なりと観じ命なりと諦めて日本男児最後如何なるのであるかをお見せ致します今後は我々を最後として我々の生命を以つて残余戦犯嫌疑者の公正な裁判に代へられん事をお願ひ致します宣伝政策的意味を以って死刑判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年恨みをはらさんがため、一方的裁判をしたりされない様に祈願致します。 我々は死刑執行され雨花台散りましても貴国怨むものではありません。我々の死が中国日本となり、両国提携基礎となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和到来する事を喜ぶものであります何卒我々の死を犬死徒死たらしめない様にそれだけ祈願致します中国日本天皇陛下野田毅

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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 03:06 UTC 版)

穴澤利夫」の記事における「遺書」の解説

4月16日智恵子は利夫からの遺書が送られた。書かれたのは4月12日である。 あなたの幸せを願う以外に何物もありません。無駄に過去のことや過去義理こだわっていけませんあなたは過去生きるのではありませんから。勇気をもって過去忘れ将来新しく生きる場を見出すことです。あなたは今後の、一時一時現実中に生きるのです。穴沢現実の世界にはもう存在しません。いまさら何を言うのかと自分でも考えますが、ちょっぴり欲を言ってみたいです。1、読みたい本、「万葉」「句集」2、観たい画、ラファエルの「聖母子像」、狩野芳崖かのうほうがい)の「悲母観音」3、智恵子会いたい話したい無性に今後明るく朗らかに自分負けず朗らかに笑って征きます — 穴澤利夫特攻隊員たちの遺書』より

※この「遺書」の解説は、「穴澤利夫」の解説の一部です。
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遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/30 05:09 UTC 版)

松平露」の記事における「遺書」の解説

死後引き出しから遺書が見つかった。これを見た定常はさらに深く悲しみ、4通の遺書を木版刷りにして全国配布したまた、家臣命じて露姫伝記である『玉露童女行状』を編纂させた。 遺書を見た全国人々から追悼文次々と届いたため、定常はこれらをまとめて玉露童女追悼集』(全30巻)を編纂し浅草寺奉納した酒豪として知られ定常は、遺書で酒を諫められて以後、酒を一切飲まなかった。

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遺書

出典:『Wiktionary』 (2021/08/11 09:40 UTC 版)

名詞

(いしょ)

関連語


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