Young_oh!_oh!とは? わかりやすく解説

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POLYSICS

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/08 09:26 UTC 版)

POLYSICS
ベルギー公演にて(2008年)
基本情報
別名 The Vocoders[注釈 1]
出身地 日本 東京都
ジャンル
活動期間 1997年 -
レーベル
公式サイト POLYSICS OFFICIAL WEBSITE
メンバー
旧メンバー
  • カワベ
  • カネコ(シンセサイザー)
  • サコ(シンセサイザー・ヴォコーダー・パン投げ)
  • スガイ(ドラムス)
  • カヨ(シンセサイザー・ボイス・ヴォコーダー・リコーダー
  • ナカムラ(ギター・ボイス・シンセサイザー)

POLYSICS(ポリシックス)は、日本ニュー・ウェイヴバンド[5]。1997年に結成、2000年にメジャー・デビュー。所属レーベルはKi/oon Music。メンバーは、ハヤシヒロユキ、フミ、ヤノマサシの3人。

来歴

結成からメジャーデビュー (1996年 - 2000年)

POLYSICSはハヤシを中心に結成されたバンドである。ハヤシは中学、高校在学中に宅録や複数のバンドでの音楽活動を行っていた。当初は様々なジャンルのカバーを主としていたが、高校時代に結成したバンド「コアラ盛り合わせ」ではオリジナル曲を作成しアルバムを自主制作で2枚出した。同じ頃、小学校の同級生4人でバンド「リズムミンチ」を結成し、活動していたものの、ハヤシ以外のメンバーが大学受験勉強に専念し、またヴォーカルの脱退などもあり、このバンドは活動停止した(ハヤシ曰く、凍結したとのこと)。そのような中、ハヤシが高校3年生の1996年、P-MODEL日比谷野外音楽堂でのライブに触発され、POLYSICSというバンドの結成を決意。

1997年3月、高校の同級生同士であるハヤシ、サコ、カワベでPOLYSICSを結成。高校卒業する前の3月4日、新宿JAMで初ライブを行う。結成当初は、ベース、ドラムは在籍しておらず、ギター、ボーカルとボコーダー、シンセサイザーに打ち込みのバックトラックを使用したテクノポップバンドであった。以後、3月4日をPOLYSICSの結成日として、○周年記念イベント等を開催している。同春にハヤシ、サコ、カワベの3名は高校を卒業。その後、カワベから大学でほかにやりたいことが見つかったと連絡が入り、最初の新宿JAMでのライブを最後に脱退。同じ時期に、ハヤシが渋谷のクラブでカネコと知り合い加入。ハヤシ、サコ、カネコの3人組となったが、方向性の違いが生じて、97年11月にカネコが脱退。同冬に、POLYSICSはハヤシとサコの2人組ユニットになった。脱退したメンバーの穴を埋める形でハヤシと高校の軽音部で一緒だったカヨが1998年3月に新宿JAMでのライブで加入。

カヨ加入から半年後となる1998年6月にスガイが加入。この頃に「POLY-X」というコードネーム、バイザーとオレンジ色のつなぎを導入し、初期のPOLYSICSのスタイルが完成した。これらのコードネーム、バイザー、ツナギはまさにDEVOを表す記号の一つでもあり、それを楽曲面だけでなく、バンドのビジュアル的側面としても取り入れた。それから同じ時期に下北沢QUE、下北沢シェルター、渋谷屋根裏、新宿JAM、新宿リキッドルーム、代官山LOOP、池袋サイバーなど数々の都内のライブハウスを中心にライブ活動をしていく。

同年9月に、日本のロックシーンで盛り上がりの兆しを見せていた新世代ニュー・ウェイヴのバンド有志によるオムニバスアルバム『TOKYO NEWWAVE OF NEWWAVE '98』に参加し、注目を集めるようになった。テクノポップ色が後退し、バンドのライブ感が前面に出た作品となった。この頃は主にPOLY-2(サコ)の食パン投げなどのキワモノ的パフォーマンスをするバンドとして知られていた。当初は袋に入った煎餅を投げていたが、「当たると痛い」という客からの苦情が殺到し、食パンに変えた。

1999年にUKプロジェクトが運営するインディーズレーベルDECKREC RECORDSと契約。同年2月にデビュー・アルバム『1stP』をリリースした。また同年の3月には下北沢CLUB QUEで初のワンマンライブを開催した[7]。『1stP』が発売された頃からライブでの動員も急激に増えていき、4月にはラジオのレギュラー番組を担当、夏にはフジ・ロック・フェスティバルへ出演するなど、活動と人気が着実に広がっていった。しかし所謂「キワモノ系バンド」「おちゃらけたニュー・ウェイヴバンド」として評価を受けることも多く、ハヤシはキワモノっぽさ、ポップさだけでなく、きちんとした演奏力が今後のPOLYSICSには重要だと考えていた。当時のサコは演奏力がハヤシの期待するレベルに達していなかったこともあり、ハヤシはサコに対し脱退するように勧告した。5月にはサコが脱退し、それを機に「POLY-X」というコードネームを廃止するなどの変化がみられた。

1999年10月には2ndアルバム『A・D・S・R・M!』をリリースした。この頃から、サポート・メンバーとして元54NUDE HONEYSのフミがベースで参加するようになった。同年、初の全国ツアーを敢行した。ちなみに『A・D・S・R・M!』までの楽曲には歌詞らしい歌詞が無い。

2000年3月には、初の日本国外でのライブとしてSXSW2000への出演、およびアメリカツアーを敢行。このアメリカツアー中に、ハヤシはロサンゼルスにあるDEVOのスタジオを訪れた。そこで、ハヤシはDEVOメンバーと直接会話を交わし、DEVOにPOLYSICSのCDを渡す。

NEUからFOR YOUNG ELECTRIC POP (2000年 - 2002年)

2000年4月にキューンレコードと契約し、シングル『XCT』『each life each end』をリリースした。同年9月にはメジャー・1stアルバム『NEU』をリリースした。テクノポップ色が後退し、バンドのライブ感が前面に出た作品と評価された。同年、「NEU」リリースを引っ提げて全国ツアーを開始した。

その翌年2001年4月に3rdシングル『NEW WAVE JACKET』をリリース。この頃から、歌詞に日本語が用いられるようになっていった。また同年6月にリリースされたアルバム『ENO』では一転シンセサウンド、テクノポップ色をより強く意識した音作りにシフトした。このアルバムから、1999年よりサポートメンバーだったフミが正式メンバーとして加入した。同時期には「NEWWAVE JACKET TOUR」全国ツアーを敢行。また、夏頃には幾つかのロックフェスティバルへ出演し、その中でROCK IN JAPAN FESTIVALへ初出場した。ハヤシは単独でDJハヤシヒロユキとしても、同イベントへ初めて参加している。この年にはPOLYSICSなりの「クラブイベントをやろう」ということで”CLUB EPOCH!"を初開催した。この頃から、ハヤシは「トイス」という掛け声を使用したり、カラオケスタイルでのDJなどを始めていた[7]

同年、アメリカと韓国でコンピレーションアルバム『Hey! Bob! My Friend』がリリースされたが、セールス的にはあまり振るわなかった。『Hey! Bob!〜』はアメリカではASIAN MAN RECORDS、韓国ではPONYCANYON KOREAと、キューンレコードの属するソニーミュージックとは別のレーベルよりリリースされた。

2002年のアルバム『FOR YOUNG ELECTRIC POP』ではポップなサウンドへと移行し、初期の作品に見られたパンキッシュなエネルギーが抑制された反面、楽曲の構成やスタイルが大幅に洗練された作品となった。テクノポップ色が後退し、バンドのライブ感が前面に出た作品となった。しかしながら、この時期のPOLYSICSは、ライブへの集客や作品の売り上げの落ち込みといった商業的な面で伸び悩んでいた。そのこともあり、この『FOR YOUNG〜』のリードトラックの選定やライブでのスタイルなどについては、スタッフなどから意見が多く入った。この頃を振り返り、ハヤシは「(FOR YOUNG ELECTRIC POPについて)思いがあんまり伝わらなくて、セールスもどんどん落ちてきましたね」と語っている[8]

カジャカジャグーからNational P (2003年)

2003年5月にミニアルバム『カジャカジャグー』をリリース。このアルバムのレコーディングを最後にドラムのスガイが脱退した。その後、サポート・メンバーとして、SNAIL RAMPのイシマルがドラムで参加するようになり、イシマル参加の下、10月にアルバム『National P』がリリースされた。

『カジャカジャグー』及び『National P』を制作した時期は、前アルバム『FOR YOUNG〜』での経験やAC/DCキング・クリムゾン等のロックミュージックの存在を再認識したことから「ゼロ%から2000%ぐらいの振り切ったものを作んなきゃ」とハヤシ自身が感じていた時期であった[8]。そのアルバムの制作活動の中で、『カジャカジャグー』を制作していた当時にスガイとハヤシの求める音楽性の違いが顕著となった。スガイは、よりメッセージ性のある歌詞やポップで歌メロの音楽を作りたかったが、ハヤシはそのような音楽を求めていなかった。この方向性の違いを理由として、4月から敢行したツアー「CLUB エポック!」の大阪公演を最後に、スガイはPOLYSICSを脱退した。

この様な状況の中、制作されたこれら二作品は、前作となるアルバム『FOR YOUNG〜』に比べ、「初期衝動の激しさを取り戻した」などと評される作品となり、さらにハヤシ自身も手ごたえを感じられる作品となった。しかしながら、当時の結果としてこの二作品の売り上げは伸び悩み、さらにライブの集客も減少してきていた。

上記のように、日本国内では商業的にある種の伸び悩みを見せていた。しかし、2003年にアメリカでリリースされたアルバム『NEU』が好セールスを記録するなど、国外において一定の評価を受けるようになった。これを受けてPOLYSICSは全米ツアーを敢行。この模様は2004年2月にDVD『PippikkippippiP In USA』としてリリースされている。以前にも海外でのライブ経験はあったものの、この頃から定期的に海外ツアーを行うなど、日本国外での活動も本格化させてきた。

また、2003年8月にはSUMMER SONICへ初出演した。この年のSUMMER SONICには、POLYSICSに多大な影響を与えたDEVOも参加していた。彼らとステージを共にしたわけではないが、DEVOと同一イベントに登場、共演した初の機会となった。

POLYSICS OR DIE!!!! (2004年 - 2005年)

2004年5月には初のベスト・アルバムPOLYSICS OR DIE!!!!』をリリースした。このベストアルバムでは過去の楽曲の再レコーディングが行われている。また、このアルバムは同年7月にイギリスで、翌年の2005年3月にアメリカでリリースされた。本アルバムのイギリスでのリリースは初のヨーロッパでのリリースとなった。アメリカでのリリースに合わせて、同年9月から全米ツアーも敢行されている。

これらの日本でこのベストアルバムの発売された5月より6月にかけて、全アルバム楽曲を演奏するライブツアーを東京大阪で敢行。東京で7日間連続、大阪で2日連続のライブであり、ツアー名は『7DAYS TO DIE!!!! 〜ALL OF POLYSICS!!!! 〜そして伝説へ...〜』と『2DAYS TO DIE!!!〜ALL OF POLYSICS!!!! OSAKA編 変則2DAYS!!!!』であった。この東京での7DAYS最終日にヤノが新メンバーとして加入した。

本ツアー終了後に、バンド初のヨーロッパライブツアーをイギリスを中心として敢行した。また、帰国後の8月にはROCK IN JAPAN FESTIVALなど夏フェスへの出演、及び全国ツアーを敢行。そして、9月には再び国外でのライブツアーとして、アメリカでのライブツアーを敢行した。この年、POLYSICSは4カ国で94本のライブを行った。

これらの活動と同時期2004年7月にはカヨによるソロ活動として、アルバム『三つ編みヒロイン』がリリースされた。そのため、POLYSICSの活動とは別に、夏頃には幾つかのメディアへのカヨ一人での露出が多く行われていた。

Now is the time! (2005年 - 2006年)

2005年4月にシングル『Baby BIAS』をリリースした。この様なシングルCDによる楽曲の発表は2001年にリリースされた『NEW WAVE JACKET』以来、4年ぶりのことであった。また、4月から4か月後の8月にシングル『シーラカンス イズ アンドロイド』をリリースした。この時期から、POLYSICSはシングルCDという形で楽曲を発表することが再び増えた。さらに、10月にはアルバム『Now is the time!』のリリースを行った。

2005年に『Baby BIAS』や『シーラカンス〜』などのシングルが発売された頃から、各種ライブの動員数も増えていき、商業的な面での伸びが現れてきていた。加えて、『Now is the time!』ではCDセールスの面でも、前アルバムよりも売上を伸ばしており、その楽曲やライブ、言動なども幅広い人に受け入れられる様になってきていた。

アルバム発売に合わせイギリスでのツアーを皮切りに、ライブツアー『POLYSICS WORLD TOUR OR DIE 2005!!!! 〜Now is the time!!!!!〜』を敢行した。国内では、帰国後11月20日の千葉LOOKを幕開けとして全国でライブを開催し、翌年2006年1月のLIQUIDROOMでツアーファイナルをむかえた。また、2005年にはスペインで開催されたPRIMAVELA SOUND FESTIVAにも出演している。2005年に、POLYSICSは6カ国で96本のライブを行った。

また、2006年2月にアメリカにおいて、4月にはイギリスにおいて、前年日本で発表された『Now is the time!』をリリースした。これに伴い、3月にアメリカで、4月にはイギリスにおいてライブツアーを敢行した。このイギリスでのツアーでは、カイザー・チーフスのUKアリーナツアーにフロントアクトとして出演。この出演は以前からPOLYSICSのことを気に入っていたカイザー・チーフスからの要望により実現した。その後、5月にはSHIBUYA-AXで凱旋公演ライブを終えた。

KARATE HOUSE (2006年 - 2007年)

2006年6月にシングル『Electric Surfin' Go Go』、同年10月にシングル『You-You-You』、翌年2007年1月にはシングル『Catch On Everywhere』をリリースした。

そして、2007年2月に、アルバム『KARATE HOUSE』を発表。本アルバムには、先行してリリースされた3枚のシングルから4曲が収録された。また、本アルバムに向けた楽曲制作ではこれまでの制作活動との変化がみられた。これまではハヤシが中心となり、楽曲を生み出すスタイルが多かった。しかし、本アルバムに向けた楽曲制作活動ではメンバー全員でセッションをしながら曲を生み出していくということを行った。結果、KARATE HOUSEはハヤシが中心となって生み出した楽曲も幾つか含まれるものの、メンバー全員によるセッションの中で生み出された楽曲が主となるアルバムになる[9]。そのKARATE HOUSEリリースの直後、3月4日には結成10周年を迎え、SHIBUYA-AXで記念ライブを行う。

同年4月からは、バンド史上最長期間となるライブツアー『POLYSICS WORLD TOUR OR DIE 2007!!!!〜KARATE HOUSE!!!!』を敢行し、ツアーファイナルを6月2日に日比谷野外音楽堂で迎える。その後、6月からイギリス・フランスツアーを敢行した。その中で、6月にイギリスの大型フェスティバルO2 WIRELESS FESTIVAL 2007のメインステージに出演。夏には、複数のロックフェスティバル等のライブ・イベントに出演した。それらへの出演の際に、通常のツナギからマリンルックに衣装を変更した。

また、この年の6月にはSNSサイトMySpaceの傘下にあるMySpace Recordsと北米でのライセンス契約を結んだ。同契約は、同年の1月31日にロスアンゼルスのライヴ・ハウスで行なわれたPOLYSICSのライヴに訪れたMySpace社長のトム・アンダーソン(Tom Anderson)が、彼らに対し強い感銘を受けたことがきっかけとなっている。これを受けて、9月には国内でMySpace主催による『第3回SECRET SHOWS JAPAN』への出演、10月にはPOLYSICSにとって2枚目となる海外でのベスト盤『POLYSICS OR DIE!!!! -VISTA-』の発売が行われた。このベスト盤の選曲は先述のトムが行った[10][要ページ番号]。その後、10月からは、同レーベル主催の米国ツアー『MySpace Music Tour』にHellogoodbyeSay Anythingと共に、MySpace Records Artistの一員として参加した。このツアー中にはDEVOのメンバーであるジェラルド・V・キャセール(Gerald V Casale)、元メンバーのアラン・マイヤース(Alan Myers)がPOLYSICSのライブを観覧しにきた。

アルバム『KARATE HOUSE』の発表直後から、これらのライブ活動等と並行して、次のアルバムに向けた楽曲の制作活動を進めていた。

We ate the machine (2007年 - 2008年)

2007年11月にシングル『Rocket』をリリースした。表題曲は、同年夏に行われたライブイベントなどで披露されていた。また、同楽曲は同年10月から12月、1月にかけ、フジテレビ系列で放映されたテレビアニメ『もやしもん』のエンディングテーマとなっている。この年の12月末にはCOUNTDOWN JAPAN EAST/WESTに出演。この年の幕張で開催されたEASTへの出演は、最大規模のステージであるEARTH STAGEへの初出演となった。年明け後の2008年3月にシングル『Pretty Good』をリリース。

そして、同年4月にアルバム『We ate the machine』を日本においてリリースした。本アルバムには、先行してリリースされた2枚のシングルの表題曲が収録されている。このアルバムがリリースされる約一か月前の3月からライブツアー『POLYSICS WORLD TOUR OR DIE 2008!!!!〜ハミ出せ!!春のウキウキ・ジャパンツアー!!!!〜』を敢行。また、アルバムを発表した4月からはライブツアー『POLYSICS WORLD TOUR OR DIE 2008!!!!〜ハミ出ろ!!怒濤のワキワキ・ジャパンツアー!!!!〜』を敢行した。これらの一連のライブツアーは、6月29日にSTUDIO COASTにおいて開催された『POLYSICS WORLD TOUR OR DIE 2008!!!!〜ハミ出た!!キバキバ新木場・ジャパンツアーファイナル!!!!〜』をもってツアーファイナルを迎えた。このツアーファイナルの模様は10月29日にライブ・アルバムWe ate the show!!」としてリリースされた。

また、夏には複数のロックフェスティバルに参加。その中で8月のSUMMER SONICには、DEVOと共に出演を果たす。この競演は2003年の同イベント以来である。2003年の際には、二つのバンドは異なるステージでの出演であったが、この年は同ステージでの出演となった。また、この競演の数日後、SHIBUYA-AXにおいてDEVOとPOLYSICSによるツーマンライブが開催された。因みに、このツーマンライブはSUMMER SONICに関連した企画の一つである。

8月、9月にはアルバム『We ate the machine』を欧米各国においてリリースした。ただし、欧米向けにリリースされた本アルバムでは、日本向けの『We ate 〜』と異なり、収録楽曲のうち「Moog is Love」と「Pretty Good」は歌詞が英語となっている。9月には、ハヤシがテレビ朝日系列『タモリ倶楽部』に出演。また、9月から11月にかけてヨーロッパ、アメリカにおいてライブツアーが敢行された。同年11月から12月にかけて、SPARTA LOCALSサンボマスターなどといったバンドとの対バンツアー『ULTRA FIGHT OR DIE!!!!』を開催した。対バンツアー終了後の12月からは楽曲の製作活動に入った。

Absolute POLYSICS - BESTOISU!!!! (2009年 - 2010年)

2000年のメジャーデビューから10周年目であった。

10周年目に入った2009年3月に両A面シングル『Shout Aloud!/Beat Flash』をリリースした。このシングルのリリースに伴い、購入者限定ライブを渋谷CLUB QUATTROで4月に開催。また、6月にはシングル『Young OH! OH!』 をリリースした。そして、これらのシングル曲を含むアルバム『Absolute POLYSICS』を9月に日本においてリリースした。『Absolute POLYSICS』発売前日の9月15日に翌年2010年の3月に初の武道館ワンマン公演を行うことを発表した。これらの活動と平行して、ツアーや10年ぶりのFUJI ROCK FESTIVALを含む各種音楽フェスへの参加など、楽曲の発表に合わせ、ライブ活動も精力的に行っていた。

しかし、この年の12月に「武道館ワンマン公演をもって、カヨがバンドを『卒業』すること」が発表された[11]。カヨによると、2006年頃から「POLYSICSのメンバーでない、一人の女性としての自分に会ってみたい」という気持ちが日に日に募っていったという。また同時にPOLYSICSも武道館公演後は「充電期間」としてしばらくの間活動を休止することが発表された。

12月のこれらの発表後、年明け2010年1月には自身2枚目となるベスト・アルバム『BESTOISU!!!!』をリリース。このアルバムの収録曲は、ヤノ加入後の音源からセレクトされており、本アルバムリリース時の4名のメンバーで発表する最後の作品となった。

2010年の3月日本武道館にてワンマンライブ『BUDOKAN OR DIE!!!!』を開催。この日演奏された楽曲は全部で42曲に及び、武道館ライブを行ったバンドの中では最多の曲数となった。このライブをもってカヨが卒業、バンドは活動休止に入った。ライブの模様は7月7日にDVD『BUDOKAN OR DIE!!!! 2010.3.14』として発売された。

eee-P!!!、Oh!No!It’s Heavy Polysick!!! - MEGA OVER DRIVE, ACTION!!! (2010年 - 2014年)

充電期間は2010年6月28日にPOLYSICSの公式ブログにて終了宣言が出され、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2010から3人での活動を再開した。活動再開後は主に灰色のツナギと銀色のバイザーを身につけていた。

2010年10月から11月にかけて3人体制としては初となる全国ツアー"We are Back!! POLYSICS!!!"を開催。この年の12月にミニアルバム『eee-P!!!』をリリースした。そして、翌年2011年3月にはアルバム『Oh!No!It's Heavy Polysick!!!』をリリースした。

このアルバムの発売に先駆けて、POLYSICS結成14周年となる3月4日にSHIBUYA-AXにて単独ライブ『コニチワ! New POLYSICS!!! 〜マッハ AX ギュンギュンギュン!!!〜』を開催。このライブではPOLYSICS初となるUstreamによるライブ生中継が実施された。この中継中、フミは自身のTwitterアカウントに寄せられるコメントを取り上げる場面などもあった。この頃は、日本国内においてTwitterやUstreamが一般に認知されてきた時期ということもあり、Twitter上でメンバーやPOLYSICS公式の発言が公開されたり、Ustreamでの番組放送の実施などPOLYSICSの活動の場としてこれらのサービスが利用するケースも増えてきた。

3人体制移行後のライブでは、演奏面やセットリストの面でカヨを含めた4人体制時から変化が生まれた。例えば、カヨが担当していたシンセサイザーやボーカルをハヤシ・フミが担当したり、ライブ時の楽曲アレンジもそれに合わせた形になっていた。また「ピーチパイオンザビーチ」や「New Wave Jacket」などカヨ脱退前には、ライブにおける定番曲であった一部楽曲もライブで演奏される回数が減ってきた。

加えて、4人体制時と比較するとハヤシ以外の2人が前面に出るシーンも多く見られるようになってきた。それまではカヨと同じくライブ中は無機質なロボットキャラを演じることが多かったヤノも、ライブで積極的なMCや前面に出たソロ場面が増えきていた。これは楽曲制作のスタンスでの変化にもあらわれ、制作初期から3人で臨むことが増加した[12]。ハヤシはこの頃について「3人体制になった最初の時に、1人1人のパーソナルな部分をもっと出していきたいって言ったし。俺がリーダーで、フミ、ヤノといるんだけど、3人の顔がぎゅっと前にでるようなサウンドにしたいし、バンドにしたいんだよね」と2012年頃に振り返っている[13]

2012年は活動15周年を迎え、結成15周年を記念するアルバムとして『15th P』を2月29日にリリース。また、3月3日には通算1000本目となるワンマンライブ『MEMORIAL LIVE OR DIE!!! 〜祝!!! 1000本!!!渋谷AX 2days!!!!〜』をSHIBUYA-AXにて開催。この翌日の3月4日には15周年の最初かつ1001本目のライブとして、同会場にてワンマンライブ『MEMORIAL LIVE OR DIE!!! 〜祝!!! 15周年!!!渋谷AX 2days!!!!〜』を開催した。1000本目のライブに向けては、2011年の秋頃から「995本目」「996本目」「997本目」…と各ライブタイトルにライブ回数を含めるなど、カウントダウンが行われていた。

2012年8月にはフミがリードボーカルを務める『Lucky Star』、11月には『Everybody Say No』とシングルを2枚リリース。そして、12月にはこれらの表題曲を含むアルバム『Weeeeeeeeee!!!』をリリースした。

2013年10月にはシングル『MEGA OVER DRIVE』リリースし、2014年1月にアルバム『ACTION!!!』リリース。

HEN 愛 LET’S GO! - In The Sync(2015年 - 2020年)

2015年に入り、楽曲制作に合わせ様々な団体や企業とのコラボレーションといった活動も広く行った。3月、ハヤシの食べ物の"偏愛"をテーマにしたミニアルバム『HEN 愛 LET’S GO!』リリース。このアルバムのリリースに合わせ楽曲タイトルになったにハヤシよる偏愛対象の「Dr.Pepper」「ホモソーセージ」や「タンメン」に因んだ企画を実施、公開した[14]。また、ハヤシの提供楽曲「Hamidasumo!」をリードトラックとするゆるめるモ!のシングルが『HEN 愛 LET’S GO!』の同日発売となった。このような縁もあり、この時期にPOLYSICSとゆるめるモ!がタワーレコードのポスターや各種インタビューなど、共にメディアに登場した[15][16]。ハヤシはゆるめるモ!へ楽曲提供をこの後も行っており、また彼女らのライブを観覧に訪れるなど、付き合いが生まれている。さらに、7月には円谷プロダクション全面協力の元、ウルトラ怪獣をテーマにした「HEN 愛 LET'S GO! 2 〜ウルトラ怪獣総進撃〜」リリース。初回生産限定版には「ポリシックス限定 ゴモラ クリアオレンジラメVER.」フィギュアが付属した。

年末12月には、結成19周年を記念してクラウドファンディングで参加者を募り、VRミュージックビデオを作成するプロジェクトを開始[17]。目標人数300人を達成し、翌年1月に終了した。

この年のライブでは、同様なメドレーがセットリストによる演奏を度々行っていた。9月11日、12日に渋谷CLUB QUATTROで『POLYSICS ウルトラチャレンジ OR DIE!!!〜燃えろ! クアトロ地獄!2日で100曲カブリ無し!!!〜』開催。この2日間のライブではメドレー形式で複数楽曲を続けた演奏がセットリストに組み入れた。同様なメドレー形式のセットリストは、他の機会にもみられ『「HEN 愛 LET’S GO!」のリリースツアーファイナル』では18曲、『ROCK IN JAPAN FES. 2015』では24曲のメドレーによる演奏を披露した[18]

また、例年通りPOLYSICSは多くの夏フェスに参加した。その中で『AOMORI ROCK FESTIVAL’16 〜夏の魔物〜』には初回以来10年振りの参加、アイドルが多く参加するフェス『@JAM×ナタリー EXPO 2016』への初参加など例年と異なるフィールドでのライブもみられた。後者の@JAMではハヤシが楽曲提供を行っている「ゆるめるモ!」がPOLYSICSのステージに登場した。その時の楽曲は「Baby BIAS」である。個人の活動として、フミはベーシストとして加山雄三率いる「THE King ALL STARS」にベーシストとして参加し、横浜開港祭等で演奏を披露した。

年明け後2016年3月2日、アルバム『What's This???』リリース。結成19周年にちなみ19曲収録となっている。

その2日後の3月4日には大阪BIG CATにて結成19周年として『20周年まであと1年!!!〜まだまだやるで無茶なこと!!! 1日100曲かましたる!!!〜』を開催し、1日で100曲演奏を行った[19]

2017年3月4日に豊洲PITにおいて結成20周年記念ライブ『20周年 OR DIE!!! All Time POLYSICS!!!』を開催した。本ライブでは、結成当時から2017年現在に至るまでの衣装を順に着替えながえながら、新旧幅広い楽曲をパフォーマンスしてみした。そして、最後には新衣装である黄色いつなぎをお披露目した。この時期は、これまでのPOLYSICSの20年を振り返るような活動がいくつか行われた。例えば、先立ち2月22日にベストアルバム『Replay!』をリリース。こちらは過去から現在までのライブ定番曲を現在のメンバでアレンジ再録し直したアルバムとなっている。

また、ライブとして、POLYSICSのみが出演する3マンツアー『20周年直前!奇跡の3マン!!!リターンズTOUR ~POLYSICS×POLYSICSシャホー×『1st P』再現POLYSICS~』の開催。このツアーにおいては、POLYSICSとしての初オリジナルアルバムである『1stP』の再現ライブや現在のPOLYSICSの定番曲まで、これまでの様々な楽曲を披露してみせた。

10月2日には新メンバー・ナカムラリョウの加入が発表され(ナカムラは9月にTHE TOISU!!!!名義で行われた数本のライブに参加)、POLYSICSは約7年ぶりに4人編成となった。それと同時にナカムラも参加したニューアルバム「That's Fantastic!」のリリース告知、それに伴うリリースツアー『POLYSICS結成20周年記念TOUR “That's Fantastic!”〜Hello! We are New POLYSICS!!!!〜』の開催が発表された。

しかし2019年12月、ナカムラが2020年の2月から行われるツアーの最終公演(東京)となる3月14日をもって脱退することが決定した[20]

2020年2月『POLYSICS TOUR 2020 ~SynchroにCity~』がが開催されるも新型コロナウイルス感染症の流行により途中で延期[21]。4月3日、中止が発表。ナカムラはそのまま脱退となった。

メンバー

現在のメンバー

※特記を除き、公式サイトの「PROF」に準拠[22]

名前 担当 誕生日 加入時期
ハヤシ ギター
ボイス
シンセサイザー
プログラミング
8月8日[23] 結成時
フミ ベース
シンセサイザー
ボイス
4月25日[24] 2001年[注釈 2]
ヤノ ドラムス
ボイス
6月6日[25] 2004年

過去のメンバー

名前 担当楽器 在籍期間
カワベ N/A 1997年
カネコ シンセサイザー 1997年
POLY-2(サコ) シンセサイザー
ヴォコーダー
パン投げ
1997年 - 1999年
スガイ ドラムス 1998年6月[7] - 2003年
カヨ シンセサイザー
ボーカル
ヴォコーダー
リコーダー
1998年3月 - 2010年3月14日[11]
ナカムラリョウ ギター
シンセサイザー
ボイス
2017年10月2日 - 2020年4月3日

ディスコグラフィ

日本でのリリース

DECKREC Records

  発売日 タイトル 規格品番 備考
1st AL 1999年2月25日 1st P DCRC-0001
1st SG 1999年4月25日 Plus Chicker EP DCRC-0002
2nd AL 1999年10月22日 A・D・S・R・M! DCRC-0005
2nd SG 1999年12月15日 Modern DCRC-0006
1999年12月15日 Plus Chicker EP (reissue) 『Plus Chicker EP』の限定追加プレス
1st LIVE 2000年2月25日 LIVE IN JAPAN/6-D DCRC-0012〜DCRC-0013 『Live in Japan』はライブ・アルバム、『6-D』はリミックスアルバム
再発盤 2009年2月25日 1st P / A・D・S・R・M! DCRC-0062〜0063 オリコン最高175位、登場回数1回

Ki/oon Music

シングル

  発売日 タイトル 規格品番 備考
1 2000年4月19日 XCT KSC2-341
2 2000年4月19日 each life each end KSC2-345
3 2001年4月25日 NEW WAVE JACKET KSC2-380
4 2005年4月27日 Baby BIAS KSCL-776
5 2005年8月17日 シーラカンス イズ アンドロイド KSCL-877
6 2006年6月21日 Electric Surfin' Go Go KSCL-1014/5(初回生産限定盤) オリコン最高46位、登場回数2回
KSCL-1016(通常盤)
7 2006年10月25日 You-You-You KSCL-1045/6(初回生産限定盤) オリコン最高45位、登場回数3回
KSCL-1047(通常盤)
8 2007年1月31日 Catch On Everywhere KSCL-1091 オリコン最高45位、登場回数2回
9 2007年11月21日 Rocket KSCL-1183 オリコン最高52位、登場回数3回
10 2008年3月19日 Pretty Good KSCL-1223 オリコン最高65位、登場回数2回
11 2009年3月11日 Shout Aloud!/Beat Flash KSCL-1358 オリコン最高44位、登場回数2回
12 2009年6月17日 Young OH! OH! KSCL-1396/7(初回生産限定盤) オリコン最高31位、登場回数3回
KSCL-1398(通常盤)
13 2012年8月22日 Lucky Star KSCL-2097/8(初回生産限定盤) オリコン最高46位、登場回数2回
KSCL-2099(通常盤)
14 2012年10月24日 Everybody Say No KSCL-2135/6(初回生産限定盤) オリコン最高49位、登場回数2回
KSCL-2137(通常盤)
15 2021年2月24日 走れ! with ヤマサキセイヤ(キュウソネコカミ) KSCL-3288/9(初回生産限定盤) オリコン最高64位、登場回数2回
KSCL-3290(通常盤)

アルバム

  発売日 タイトル 規格品番 備考
3rd 2000年9月20日 NEU KSC2-357
4th 2001年6月6日 ENO KSC2-389
1st mini 2002年4月24日 LO-BITS KSCL-453
5th 2002年7月24日 FOR YOUNG ELECTRIC POP KSCL-460
2nd mini 2003年5月21日 カジャカジャグー KSCL-547
6th 2003年10月29日 National P KSCL-627
1st BEST 2004年5月19日 POLYSICS OR DIE!!!! KSCL-686
7th 2005年10月19日 Now is the time! KSCL-890 オリコン最高55位、登場回数3回
8th 2007年2月28日 KARATE HOUSE KSCL-1117 オリコン最高27位、登場回数3回
9th 2008年4月23日 We ate the machine KSCL-1240 オリコン最高26位、登場回数5回
2nd LIVE 2008年10月29日 We ate the show!! KSCL-1316 オリコン最高48位、登場回数2回
10th 2009年9月16日 Absolute POLYSICS KSCL-1456 オリコン最高21位、登場回数5回
2nd BEST 2010年1月13日 BESTOISU!!!! オリコン最高26位、登場回数4回
3rd mini 2010年12月8日 eee-P!!! オリコン最高38位、登場回数2回
11th 2011年3月9日 Oh!No!It's Heavy Polysick!!! オリコン最高27位、登場回数4回
記念盤 2012年2月29日 15th P オリコン最高27位、登場回数2回
12th 2012年12月5日 Weeeeeeeeee!!! オリコン最高46位、登場回数2回
4th mini 2013年10月1日 MEGA OVER DRIVE オリコン最高41位、登場回数2回
13th 2014年1月15日 ACTION!!! オリコン最高27位、登場回数2回
5th mini 2015年3月25日 HEN 愛 LET'S GO! オリコン最高74位、登場回数2回
6th mini 2015年7月8日 HEN 愛 LET'S GO! 2 〜ウルトラ怪獣総進撃〜 オリコン最高39位、登場回数2回
14th 2016年3月2日 What's This??? オリコン最高48位、登場回数2回
再録BEST 2017年2月22日 Replay! オリコン最高62位、登場回数2回
15th 2017年11月29日 That's Fantastic! オリコン最高53位、登場回数1回
16th 2019年10月9日 In The Sync オリコン最高67位、登場回数1回

世界でのリリース

  • 2001年2月 『HEY! BOB! MY FRIEND』 (Korea)
  • 2001年6月19日 『HEY! BOB! MY FRIEND』 (US)
  • 2001年6月19日 『HEY! BOB! MY FRIEND』 (US 12" vinyl)
  • 2003年7月15日 『NEU』 (US)
    +BLACK OUT FALL OUT
  • 2004年7月26日 『POLYSICS OR DIE!!!!』 (UK)
    エクストラCD、+PV Black Out Fall Out、KAJA KAJA GOO
  • 2004年 『Kaja Kaja Goo (WITH TOO SHY)/ Black OUT Fall OUT』 (UK 7" vinyl)
  • 2004年 『New Wave Jacket / My Sharona』 (UK 7" vinyl)
    作詞、作曲の表記が誤植でHayashi Hiroshiとなっているのも存在している。
  • 2005年3月22日 『POLYSICS OR DIE!!!!』 (US)
  • 2006年2月21日 『Now is the time!』 (US)
    +Super Sonic
  • 2006年4月24日 『I MY ME MINE / JHOUT-WIRE』 (UK 7" vinyl)
  • 2006年4月24日 『Now is the time!』 (UK)
    +Metal Coconuts、Rain Rain Rain
  • 2007年10月9日 『POLYSICS OR DIE!!!! -VISTA-』 (US、MySpace Records)
  • 2008年8月22日 『We ate the machine』 (ドイツ、Okami Records)
  • 2008年8月26日 『We ate the machine』+『KARATE HOUSE』 (US、MySpace Records 12" vinyl)
  • 2008年9月22日 『We ate the machine』 (欧州、Okami Records)
  • 2008年9月30日 『We ate the machine』 (US、MySpace Records)

ソロ

映像作品

  • 1999年4月25日 『LIVE AT newwave』 (VHS、DCRC-0003)
  • 2000年1月26日 『B.G.V.』 (VHS、DCRC-0011)
  • 2003年3月19日 『DVDVPVDVLIVE!!』 (DVD、KSBL 5746)
  • 2004年2月25日 『PippikkippippiP In USA』 (DVD、KSBL 5781)
  • 2006年8月23日 『Now is the live!』 (DVD、KSBL 5821)
  • 2007年8月22日 『CLIPS OR DIE!!!!』 (DVD、KSBL-5846)
  • 2010年7月7日 『BUDOKAN OR DIE!!!! 2010.3.14』 (DVD・BD、KSBL-5940 - 5941・KSXL-9)
  • 2011年7月13日 『マッハAX ギュンギュンギュン!!! 2011.3.4』(DVD・BD、KSBL-5970・KSXL-15)
  • 2013年1月23日 『MEMORIAL LIVE OR DIE!!! 祝1000本&15周年!!! 2012.03.03/04』(BD・二枚組、KSXL-26〜27)

コンピレーション等参加CD

  • 1998年9月25日 『Tokyo Newwave of Newwave '98』
    (BOOGIE TECHNICA、WHICH!、BECAUSE) POLYSICS初の音源
  • 1999年6月19日 『Punch The Monkey! 2』
    ルパン三世主題歌3 (一瞬の交わい犬mix) (remixed by POLY-1 (POLYSICS) with B)
  • 1999年8月25日 『ギョガン大襲撃』
    G.R TUMBLIN'、CAMELEON (ギョガンレンズ)
  • 1999年10月10日 『特撮狂』
    宇宙刑事ギャバン (arranged & played by POLYSICS)
    参加ミュージシャンの中では、一番原曲の原型をとどめていない。
  • 2000年6月12日 『PLEA FOR PEACE』 (US)
    Hot Stuff
  • 2000年11月22日 『YMO-Remixes Technopolis 2000-00』
    磁性紀〜開け心 JISEIKI-HIRAKE KOKOLO (Good-Bye Bus Mix) (Remixed by Hiroyuki Hayashi (from POLYSICS))
  • 2000年12月1日 『SMASH IN LÄ-PPISCH! 2〜A Tribute to LÄ-PPISCH〜』
    美代ちゃんの××× (LÄ-PPISCH)
  • 2001年3月27日 『Japan For Sale』 (US)
    XCT
  • 2001年7月25日 電気グルーヴThe Last Supper
    N.O.(Nord Ost)
    初回限定盤のDisc2にのみ収録。
  • 2002年3月20日 Jgo crazy
    Twisted dreams (Remixed by ハヤシ from POLYSICS)
  • 2002年3月26日 『Japan For Sale Vol. 2』 (US)
    NEW WAVE JACKET
  • 2002年8月7日 大槻ケンヂ『対自核自己カヴァー』
少年、グリグリ眼鏡を拾う (sound produce:ハヤシ)
  • 2002年9月17日 『Mailorder For The Masses』 (US)
    Nice
  • 2002年10月17日 『一期一会 Sweets for my SPITZ
    チェリー(スピッツ)、キング・クリムゾン風にカバー
  • 2002年11月15日 『GREATFUL SOUND〜tribute to “BECK”』
    Let's GROOVE or die(BERATREK with POLY-1 (from POLYSICS))
    インディーズ時代(1st Pリリース期)からタイムスリップして来たPOLY-1がギター、ボイス、ボコーダーで参加。
  • 2003年3月25日 『Japan For Sale Vol. 3』 (US)
    Black Out Fall Out
  • 2003年3月26日 相川七瀬ID:2
    夢見る少女じゃいられない(arranged by POLYSICS)、初回盤のDisc-2
  • 2003年7月20日 『THE SWITCH TROUT HAYABUSA ERECTRIC』
    ミサイル(P-MODEL)、Vo.ハヤシ、Cho.スギヤマ(SPINCYCLE)、Gt/Sound adviser.中シゲヲ(サーフコースターズ)
  • 2003年8月20日 『Good Covers〜AFTER NEW WAVE〜』
    ドモアリガトミスターロボット
  • 2003年11月25日 『HY-STYLE "DVD" VOL2』
    PLUS CHICKER
  • 2004年2月25日 『Fine Time 〜A Tribute to NEW WAVE』
    Memorabilia (Soft Cell)
  • 2004年2月25日 『Pacific State』(2004年再発盤)
    Polysics / Memorabilia (Soft Cell)
  • 2004年3月17日 『A.I COMPANY〜Tribute to NEW ROTE'KA〜』
    夏・NANCY・16才 (NEW ROTE'KA)
  • 2004年10月5日 『Japan For Sale Vol. 4』 (US)
    KAJA KAJA GOO
  • 2004年11月3日 『風街クロニクル〜another side of happy end〜』
    三つ編みヒロイン (KAYO)
  • 2005年4月27日 『Ki/oon Records Overseas Compilation』
    Black Out Fall Out(“POLYSICS OR DIE!!!!” version)
  • 2005年4月 『SXSW THE BEST NEW BANDS SHOWCASE 2005』 (UK)
    LUNO (POLYSICS HARAJUKU MIX)(BLOCK PARTY)、NMEの付録CD
  • 2006年1月18日 KAISER CHIEFS 『Lap Of Honour〜栄光のウイニング・ラン』
    Na Na Na Na Naa (POLYSICS Remix)
  • 2006年7月25日 PUFFY AmiYumi 『Splurge 』 (US)
    Teen Titans Theme POLYSICS' CR-06 MIX
  • 2007年4月11日 VOLA & THE ORIENTAL MACHINE『ANDROID 〜like a house mannequin〜』
    夢診断(カルテ.......無し.......mix.)(ハヤシヒロユキREMIX)
  • 2007年7月18日 HALCALI『サイボーグ俺達』
    サイボーグ俺達(ハヤシヒロユキプロデュース)
  • 2007年10月17日 童謡カヴァー集『Rock For Baby』
    コンピューターおばあちゃん (POLYSICS)
  • 2008年9月24日 『Sirius〜Tribute to UEDA GEN〜
    歌姫 (POLYSICS)
  • 2008年10月22日 『METAL-IKKA〜メタル一家』
    Enter Sandman (POLYSICS)
  • 2010年6月28日 iLL『∀(ターンエー)』
    Broken Toys(POLYSICS)
  • 2011年3月16日 『Tribute - GO!GO! A GO!GO!
    文具(POLYSICS)
  • 2012年6月6日 『dip tribute 〜9faces〜』
    SUPER LOVERS IN THE SUN(POLYSICS)
  • 2012年6月13日 『L'Arc-en-Ciel TRIBUTE
    SEVENTH HEAVEN(POLYSICS) (ボーナストラック)
  • 2012年7月4日 『PARADE II 〜RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK〜
    Sid Vicious ON THE BEACH(POLYSICS)
  • 2015年3月25日 ゆるめるモ!Hamidasumo!
    Hamidasumo!(ハヤシヒロユキ作詞・作曲・編曲)
  • 2015年11月4日 『We are DISCO!!!〜tribute to the telephones〜』
    Urban Disco(POLYSICS)
  • 2017年11月22日 『TRIBUTE OF MUCC -縁[en]-
    アイアムコンピュータ(POLYSICS)

出演

テレビ番組

  • NEU!!!!(2006年9月 - 2007年3月、スペースシャワーTV)※ハヤシのみ出演
  • 帰って来たNEU!!!!(2008年4月11日、スペースシャワーTV)※POLYSICS特番
  • saku saku(2008年4月28日 - 2008年5月2日、tvk

CM

脚注

注釈

  1. ^ 2019年よりPOLYSICSとの2つのバンドとして活動[1]
  2. ^ ただし、以前よりサポートとして参加していた[22]

出典

  1. ^ The Vocodersとはどんな新バンドなのか? POLYSICSとの違いをライブから考察”. Real Sound. blueprint (2019年4月4日). 2022年2月20日閲覧。
  2. ^ Polysics: We Ate the Machine Album Review”. Pitchfork. Condé Nast (2009年1月16日). 2022年12月19日閲覧。 “Japan's Polysics traffic in Devo-inspired synth-punk always on the edge of chaos, and their latest places a greater emphasis on guitars and rock heaviness.”
  3. ^ a b Lymangrover, Jason. Polysics Biography - オールミュージック. 2022年2月1日閲覧。
  4. ^ POLYSICS”. 音楽ナタリー. ナタリー. 2022年2月1日閲覧。
  5. ^ a b POLYSICS - プロフィール”. CDJournal. 音楽出版者. 2022年2月19日閲覧。
  6. ^ POLYSICS、結成25周年を祝うアニバーサリーライブを2022年3月4日に開催”. SPICE. イープラス (2021年10月13日). 2023年5月13日閲覧。 “25年間、ブレることなく、ラウドなバンドサウンドとファニーなピコピコシンセサイザーが融合した唯一無二のサウンドを奏でてきたPOLYSICS”
  7. ^ a b c 新しく3人編成に生まれ変わったPOLYSICSがCLUB Queのステージに帰ってきた!!”. UK Project. 2022年2月20日閲覧。
  8. ^ a b 「We ate the machine」完成記念!ハヤシが振り返るPOLYSICSの10年史”. 音楽ナタリー. ナターシャ. 2008年4月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月20日閲覧。
  9. ^ (インタビュー)「クローズアップ『POLYSICS(ポリシックス)』インタビュー」『excite music』、エキサイト、2007年2月1日。オリジナルの2011年12月15日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20111215190516/http://www.excite.co.jp/music/close_up/0702_polysics?c=interview2022年2月20日閲覧 
  10. ^ 『GiGS』2007年11月号、シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年9月27日、ASIN B000VR0BNI 
  11. ^ a b カヨ、POLYSICS「卒業」のお知らせ”. POLYSICS OFFICIAL WEBSITE. 2009年12月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月20日閲覧。
  12. ^ FACTORY #0198 POLYSICS - Response”. フジテレビ. 2022年2月20日閲覧。
  13. ^ 柴那典(インタビュアー:柴那典)「NEXUSアーティストインタビュー POLYSICS 「とりあえず、やってみるんだよ」の15年」『NEXUS』、一般社団法人日本音楽製作者連盟。オリジナルの2012年9月19日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20120919180845/http://www.nexus-web.net/interview/polysics/2022年2月20日閲覧 
  14. ^ HEN 愛 LET’S GO!特設サイト”. polysics.com. 2022年2月20日閲覧。
  15. ^ POLYSICS「HEN 愛 LET’S GO!」&ゆるめるモ!「Hamidasumo!」発売記念特集”. 音楽ナタリー. ナターシャ. 2022年2月20日閲覧。
  16. ^ アイドル企画「NO MUSIC, NO IDOL?」ポスター最新版“POLYSICS×ゆるめるモ!”コラボポスター登場!”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード (2015年3月20日). 2022年2月20日閲覧。
  17. ^ POLYSICSのVR MV制作 OR DIE!!! 〜あなたの周りを縦横無尽〜”. muevo. 2022年2月20日閲覧。
  18. ^ ROCK IN JAPAN FES. 2015 クイックレポート 今年のポリは、24曲やりました!!”. rockin'on.com. ロッキング・オン. 2022年2月20日閲覧。
  19. ^ “POLYSICS、「20周年まで後1年!」1日で100曲に挑む最高に無謀なワンマンライブ開催”. MUSICMAN-NET (エフ・ビー・コミュニケーションズ). (2016年3月7日). オリジナルの2016年3月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160324164737/http://www.musicman-net.com/artist/55141.html 2022年2月20日閲覧。  {{cite news}}: 不明な引数|deadlinkdate=は無視されます。 (説明)
  20. ^ “POLYSICSナカムラリョウ、来年3月で脱退「新しい表現の道を見つけていきたい」(コメントあり)”. 音楽ナタリー (ナターシャ). https://natalie.mu/music/news/361312 2022年1月5日閲覧。 
  21. ^ “現体制最後のPOLYSICSの熱演を目撃せよ、おうち撮影「Let’sダバダバ」公開(動画あり)”. 音楽ナタリー (ナターシャ). https://natalie.mu/music/news/375766 2022年1月5日閲覧。 
  22. ^ a b PROF”. POLYSICS OFFICIAL WEBSITE. 2022年2月20日閲覧。
  23. ^ New POLYSICS誕生!”. 音楽と人 (2010年8月9日). 2022年2月28日閲覧。
  24. ^ POLYSICSの2018年4月25日 午前0:15のツイート、2022年2月28日閲覧。
  25. ^ ハヤシ ヒロユキの2020年6月6日 午前11:49のツイート、2022年2月28日閲覧。
  26. ^ “江崎グリコのCMに、山崎まさよし、TERU、POLYSICS、原田郁子(クラムボン)など12組が出演”. rockin'on.com (ロッキング・オン). (2012年2月4日). https://rockinon.com/news/detail/63625 2022年2月28日閲覧。 

参考文献

  • 『ABSOLUTE POLYSICS BOOK』 USEN、2010年。

関連項目

外部リンク


Young oh! oh!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/30 19:18 UTC 版)

Young Oh! Oh!
岡村靖幸シングル
初出アルバム『yellow
B面 MARIA
リリース
規格 EP盤
ジャンル ファンク
レーベル EPIC・ソニー
作詞・作曲 岡村靖幸
岡村靖幸 シングル 年表
Check Out Love
(1987年)
Young Oh! Oh!
(1987年)
Dog Days
(1987年)
テンプレートを表示

Young Oh! Oh!」(ヤング オー オー)は、岡村靖幸の3枚目のシングル。1987年5月21日に、EPIC・ソニーから発売された。

概要

1987年3月21日発売アルバム『yellow』からリカットシングル。

収録曲

全作詞・作曲: 岡村靖幸、全編曲: 岡村靖幸・西平彰
#タイトル作詞作曲・編曲
1.「Young Oh! Oh!」岡村靖幸岡村靖幸
2.「MARIA」岡村靖幸岡村靖幸

脚注

出典


ヤングおー!おー!

(Young_oh!_oh! から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/27 14:55 UTC 版)

ヤングおー!おー!
YOUNG OH! OH!
ジャンル バラエティ番組
出演者 桂三枝(現:6代目桂文枝
笑福亭仁鶴
斎藤努
川村龍一
横山やすし・西川きよし
月亭八方
オール阪神・巨人
明石家さんま
桂文珍
島田紳助・松本竜介
ほか、#出演者も参照。
製作
プロデューサー 中邨秀雄
林裕章
制作 毎日放送
放送
放送国・地域 日本
放送開始から1969年9月まで
放送期間1969年7月3日 - 1969年9月25日
放送時間木曜日 20:00 - 20:56[1]
放送分56分
1969年10月から1975年3月まで
放送期間1969年10月5日 - 1975年3月30日
放送時間日曜日 18:00 - 18:55[1]
放送分55分
1975年4月から1982年3月まで
放送期間1975年4月6日 - 1982年3月27日
放送時間日曜日 17:30 - 18:25
放送分55分
1982年4月から放送終了まで
放送期間1982年4月3日 - 1982年9月19日
放送時間日曜日 13:00 - 13:55
放送分55分
テンプレートを表示

ヤングおー!おー! (YOUNG OH! OH!) は、1969年7月3日から1982年9月19日まで放送された毎日放送(MBSテレビ)制作の公開バラエティ番組[2]

概要

沿革

1969年7月3日開始。落語家の桂三枝(現:6代目桂文枝)と、当時MBSアナウンサー斎藤努がパーソナリティを務めていた公開収録形式のラジオ番組歌え! MBSヤングタウン』のテレビバージョンとして制作された[1]。当時は若者向けのテレビ番組がなく、この番組を「若者の“電波解放区”」と名付け、「彼らが興味のありそうなものを雑誌のように、ブロック構成で見せる」ことをはかり、多彩なコーナーを短時間で次々見せていく形式を作った[1]。初代司会は、三枝に加え笑福亭仁鶴が担当し、すぐに横山やすし・西川きよしが加わった。初代進行役は斎藤が務め、のちにMBSのアナウンサーが歴代務めた[1]

当時ディレクターだった林誠一は、コメディドラマが主流だった従来の在阪局のお笑い番組について「大阪の人気者は必ず役名が肩書につく。だから番組が終わればおしまいになる」と気づき、そのアンチテーゼとして「タレント個人のパーソナリティー」を重視する演出を図った[1]。また、強力な裏番組であった朝日放送の『てなもんや一本槍』にチャンネルを変えさせまいと、番組開始直後に仁鶴に「ごきげんようー」と絶叫させ、画面に釘付けにさせる工夫を図った[1]。同番組は放送開始後、たちまち人気を獲得し、番組開始2年目の1970年には日本民間放送連盟賞テレビ娯楽番組部門銀賞を受賞するに至った[1][3]

吉本興業所属の若手芸人にとっての登龍門的番組で、1950年代後半から1970年代前半まで松竹芸能の独走状態であった上方演芸界の勢力図を、当番組のヒットにより現在の吉本中心へと大きく塗り替えることとなった。この番組で全国区の人気者へと上り詰めた仁鶴と三枝は、3か月遅れで番組レギュラー入りし大ヒット曲『嘆きのボイン』で猛追した月亭可朝を加えて、俗に「上方落語若手三羽烏」と呼ばれた[1]。また仁鶴・三枝・やすきよは「吉本御三家」と並び称された。ほかにもこの番組を「出世作」として人気に火が付き、全国進出のきっかけを作ったタレントは多く、明石家さんまが、ブレイクのきっかけとなるプロ野球の投手小林繁ものまねをテレビで初披露した番組でもある。

番組内で芸人複数によるユニットを結成し、若手の売り出しを図るという番組フォーマットは、吉本独特のスター工法としてのちに定着し、ダウンタウン司会で心斎橋筋2丁目劇場より生中継された『4時ですよーだ』(毎日放送、1987年 - 1989年)、さらにはナインティナインを中心とした「吉本印天然素材」などでお家芸として定着していくことになる。

同番組は吉本興業が『よしもと新喜劇』等の劇場中継番組以外で放送番組の制作に携わった初めての番組である。きっかけは当初の同番組の収録会場であったうめだ花月の改修であった。当時の劇場中継番組では、劇場前のバス停に2台の中継車を停めて放送していたが、駐車違反に当たるため、警察に指導を受け、中継車の駐車場所を劇場東側の新御堂筋に変え、長いケーブルを引いて対応することになったが、付近の小学校の改築工事のためにそれが不可能になっていた。そこで吉本は中継機材を放送局から安価で買い取り、うめだ花月の中に設置することにしたことから、劇場自体が放送局並みの中継機能、即ち放送番組の制作機能を持つことが可能となった[1]。収録場所は後にうめだ花月から中之島のSABホール(のちのリサイタルホール2007年閉鎖)へ移り[1]、末期にはMBS千里丘放送センター内のミリカホールからの公開生放送で行われた。大阪での収録・生放送のほか、月に1回の割合で関東地方での収録があり、ネット局の制作協力による日本各地の地方公開録画もあった。

1980年9月末の放送をもって、司会を10年以上担当した三枝が、若手芸人へ道を譲ることを理由として降板し、同時に進行役の近藤光史アナウンサーも降板した。同年10月より、三枝直々の指名によりさんまがメイン司会者に昇格するとともに、そのアシスタント役としてさんまの同期に当たる島田紳助・松本竜介、近藤の後継の進行役として青木和雄アナウンサーがそれぞれ起用された。1982年4月からの最末期はさんま・紳竜に加えて、レギュラー出演していたオール阪神・巨人太平サブロー・シローも司会陣に昇格し、4組のうち3人が週替りで総合司会を担当。また川村ひさしも同改編を機に番組を降板している。

最終回(1982年9月19日)は、エンディングで「今回でお別れ!」と言ったあと、ラストでスタッフクレジットと共に、スタート当時の当番組における若かりし頃の三枝、ザ・パンダ、斎藤らの姿(後述の理由からVTRが現存しておらず、白黒写真を使用)を背景にして別れのメッセージとした。

2012年7月29日に、NHK BSプレミアムで放送された、『桂三枝のすべて 〜6代目桂文枝襲名〜』の中で、当時の出演者・三枝や「ザ・パンダ」のメンバー(四代目小染は故人のため弟弟子の四代目林家染丸が代理)が出演し、当時行われていた大喜利「あたかも読書」が再現された。

内容

会場に観客を入れて行う公開放送形式で、吉本興業の若手芸人と一般視聴者(観客)によるゲーム企画、吉本の芸人によるコント・漫才、ゲストのアイドルの歌とトークなどのコーナーから成った。日曜夕方時代は、17時台に『笑点』(日本テレビ)、18時台に『レッツゴーヤング』(NHK)が裏番組として放送されており、それぞれを意識した番組構成となっていた。東京を地盤とするタレントも多く出演し、中には東京キー局制作の番組でも出演しない大物のアーティストが突如登場することもあった。

視聴者は前もってネット局宛に観覧したい旨のハガキを送れば、抽選の上、放送の模様をホール会場で直接見ることができた。条件はハガキ1枚につき3人一組の応募で、これは「三人集まれば必ず騒いでくれる[1]」というスタッフの計算であった。当選者にはスタッフから視聴者宛に当選通知票(いわゆる入場整理券)が送られた。

初期には竹村健一佐藤愛子をゲストに招いての、観客の若者による討論会のコーナーがあった。

1978年から1981年の毎年5月から7月頃には、「ミス・アイドルコンテスト」が開催された。毎週5人の出場者が登場しチャンピオンを決め、さらに、グランドチャンピオン大会でグランドチャンピオンに選ばれると、賞金$1000と日本航空で行く海外旅行がプレゼントされた。しかし、番組が事前収録のため、優勝者が番組放送前に『TVガイド』に載ってしまうという出来事もあった。1980年の「ミス・アイドルコンテスト」優勝者の山本博美(現:京本政樹夫人)は、のちにタレントとしてデビューし、当番組のスポンサーである日清食品のカップラーメンのCMにも出演した。

番組内ユニットの誕生

1972年、番組内で月亭八方桂文珍、桂きん枝(現:四代桂小文枝)、四代目林家小染からなるユニット「ザ・パンダ」[1]が結成された。当時ディレクターだった林誠一によれば「お笑い版フォーリーブスという発想だった」といい、4人は実際にゲスト歌手のバックコーラスを担当するなどした。

1975年、初めてのシングルレコード「昭和大童謡・アフリカの夜/愛情ヘロヘロ」(両曲とも伊藤アキラ作詞、宮崎尚志作曲)を日本フォノグラムからリリース。

「ザ・パンダ」はのちにさんまが加入し「SOS(サニー&オオサカ・スペシャル)」に改名。一方で紳助・竜介、西川のりお・上方よしおザ・ぼんちが「チンチラチン」を結成した。1980年9月末の司会者交代を機に、「ザ・パンダ」のメンバーが番組からフェードアウトする一方、当時のMANZAIブームの時流に対応して「チンチラチン」をはじめとする若手〜中堅の漫才コンビが主要キャストとして頭角を現し始め、番組内容の変質が強く意識されるようになっていった。

メディアミックス

  • 番組全盛期の1972年から1974年までの3年間、週刊少年ジャンプ漫画それいけジャンプでヤングおー!おー!』(作画:宮のぶなお)が連載された。
  • 1973年には東映の製作で『ヤングおー!おー!日本のジョウシキでーす!』のタイトルで映画化された(後述)。

現存映像

他の1970年代制作の番組と同様、当時はVTRの規格が2インチでテープ自体が高価・編集も煩雑だったことに加え、公開番組が故に著作権肖像権での制約も多かった事情も重なり、映像は上書き収録され局内のMBSのアーカイブ倉庫には数本を残してほとんど現存しないとされている。このうち1本(1979年4月22日放送分)は明石家さんまがトランポリンで飛び跳ねるシーン(SOS対チンチラチンのトランポリン対決)があるため、TBS系列の番組名場面集などで放送されることもある。また、開局50周年を記念して発行された社史『毎日放送50年史』(A4判・非売品、2001年発行)の付録のDVD-ROMには、斎藤努が番組を卒業した放送回の一部シーンが収められており[4]、こちらは全国の都道府県立図書館などで視聴可能である。

エピソード

出演者

メイン司会

  • 桂三枝(現:6代目桂文枝)(愛称「サニー」、1969年7月 - 1980年9月)
  • 笑福亭仁鶴(1969年7月 - 1972年9月、その後も1976年まで不定期で出演)
  • 明石家さんま(愛称「チャッピー」、1980年10月 - 1982年9月)
  • 島田紳助・松本竜介(1980年10月 - 1982年9月)
  • オール阪神・巨人(1982年4月 - 9月)
  • 太平サブロー・シロー(同上)
    • 日曜13時台に放送枠が変更された最末期の半年間はさんまをメインキャスト格として据えながら、さんま・紳助・竜介・サブロー・シロー・巨人・阪神の7人のうち3人が週替りで総合進行を担当する形式が採られた。

サブ司会・進行アナウンサー

  • 斎藤努(当時MBSアナウンサー、1969年7月 - 1976年3月) - 腸捻転解消後の在京ネット局となるTBSへの出向のため降板。
  • 川村ひさし(後の川村龍一、1975年4月 - 1982年3月) - 主に観客席やゲスト歌手のインタビューを担当。
  • 緒方憲吾(当時MBSアナウンサー、1976年4月 - 1979年3月) - 主に細部の進行を担当。
  • 近藤光史(当時MBSアナウンサー、1979年4月 - 1980年9月) - 同上。
  • 青木和雄(当時MBSアナウンサー、1980年10月 - 1982年9月) - 主に観客席やゲスト歌手のインタビューを担当。

主なレギュラー

1969年7月 - 1972年9月
1972年10月 - 1975年3月
1975年4月 - 1976年3月
  • 司会:桂三枝
  • 進行:斎藤努、川村ひさし
  • ザ・パンダ:林家小染、桂きん枝、月亭八方、桂文珍
  • その他:中田カウス・ボタン、コメディNo.1、Wヤング、オール阪神・巨人
  • 演奏:古谷充とザ・フレッシュメン
1976年4月 - 1979年3月
  • 司会:桂三枝
  • 進行:川村ひさし、緒方憲吾
  • S.O.S:明石家さんま、林家小染、桂きん枝、月亭八方、桂文珍
  • チンチラチン:島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち西川のりお上方よしお
  • その他:中田カウス・ボタン、コメディNo.1、Wヤング、オール阪神・巨人
  • 演奏:古谷充とザ・フレッシュメン
1979年4月 - 1980年9月
  • 司会:桂三枝
  • 進行:川村ひさし、近藤光史
  • S.O.S:明石家さんま、林家小染、桂きん枝、月亭八方、桂文珍
  • チンチラチン:島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお
  • その他:中田カウス・ボタン、コメディNo.1、Wヤング、オール阪神・巨人
  • 演奏:古谷充とザ・フレッシュメン、スペクトラム
1980年10月 - 1982年3月
1982年4月 - 1982年9月
  • メイン司会:明石家さんま
  • 進行役:島田紳助・松本竜介、オール阪神・巨人、太平サブロー・太平シロー(このうちの3人が週交代で担当)
  • 進行:青木和雄
  • パッパラーズ:村上ショージ、岡田祐治、前田一球・写楽、前田犬千代・竹千代、Wパンチ
  • その他:西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんち、桂文福、桂小つぶ(現:二代目桂枝光
  • 演奏:ザ・ハウムズ

主なゲスト

お笑い(主に関東)

歌手

(※五十音順)

スタッフ

前期~中期

この他、放送開始当時ディレクターだった竹中文博がおり[1]、のちにプロデューサーも務めた。

後期

  • 構成:中村進、大西良隆、大河内通弘、橋本収
  • 音楽:名城アバカンパニー
  • 作・編曲:橋本允
  • TD:高橋泰、小西久男(中継担当)
  • SW:中村一夫
  • カメラ:塚田清志
  • オーディオ:島津正治
  • 照明:勝間宏
  • VE:北中勝
  • タイトル:澤井和男
  • 美術製作:つむら工芸
  • 製作協力:吉本テレビ制作室、JNN系列局(地方公開録画のみ)
  • プロデューサー:岡崎巍
  • ディレクター:尾嶋啓憲、今井均(中継担当)

毎日放送のTBS系列へのネットチェンジ後は、関東地区での公開録画ではTBSとの共同制作で収録が行われていた。TBS側のプロデューサーは、のちに『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』を大ヒット番組に育てあげた桂邦彦が担当した。

スポンサー

一社提供時代のみ記述(後述の期間以外は複数社提供)。
  • 永大産業(1969年10月5日 - 1971年9月) - 永大産業が提供であった時期は、本編中に磯野洋子と斎藤出演による生CMが行われた。
  • 日清食品(1971年10月10日 - 1982年3月) - 遅れネット局も含めてスポンサードネットで放送。提供読み時のキャッチコピーは「おいしさは世界のことば」。同社のCMに出演していたタレントやCMソングを歌っていた歌手もよくゲストに出演していた。代表的な例としてはピンク・レディー浜田省吾など。

ネット局

1975年3月まで

※系列は当時の系列。

放送対象地域 放送局 系列 備考
近畿広域圏 毎日放送 NETテレビ系列 制作局
関東広域圏 NETテレビ
(現:テレビ朝日
1969年9月まで
東京12チャンネル
(現:テレビ東京
独立局[7] 1969年10月から
北海道 北海道テレビ NETテレビ系列 1974年3月まで
北海道放送 TBS系列 1974年4月から
宮城県 ミヤギテレビ 日本テレビ系列
NETテレビ系列
1971年10月から
秋田県 秋田テレビ フジテレビ系列
福島県 福島中央テレビ 日本テレビ系列
NETテレビ系列
1973年10月から1974年3月まで[8]
土曜 16:55 - 17:50
福島テレビ TBS系列
フジテレビ系列
1974年4月より[9]
新潟県 新潟総合テレビ
(現:NST新潟総合テレビ
日本テレビ系列
フジテレビ系列
NETテレビ系列
静岡県 静岡放送 TBS系列
石川県 石川テレビ フジテレビ系列 日曜 10:30 - 11:25[10]
福井県 福井テレビ 日曜 14:30 - 15:30[11]
中京広域圏 中京テレビ 日本テレビ系列
NETテレビ系列
1969年9月まで
名古屋テレビ NETテレビ系列 1973年4月から
岐阜県 岐阜放送 独立UHF局 1969年10月から1973年3月まで
鳥取県

鳥取県・島根県
日本海テレビ 日本テレビ系列 1972年9月までの放送免許エリアは鳥取県のみ
相互乗り入れに伴い島根県でも放送
日曜16:25 - 17:20
島根県 山陰放送 TBS系列 1971年から1972年9月の鳥取県への乗り入れまで
岡山県 岡山放送 フジテレビ系列
NETテレビ系列
当時の放送免許エリアは岡山県のみ
広島県 中国放送 TBS系列 1973年4月から
日曜 16:30 - 17:25
山口県 テレビ山口 TBS系列
フジテレビ系列
NETテレビ系列
日曜 10:00 - 10:55
香川県 瀬戸内海放送 NETテレビ系列 1971年9月まで
当時の放送免許エリアは香川県のみ
西日本放送 日本テレビ系列 1971年10月から
当時の放送免許エリアは香川県のみ
愛媛県 南海放送
福岡県 九州朝日放送 NETテレビ系列 1969年9月まで
RKB毎日放送 TBS系列 1971年10月から
日曜 15:00 - 15:55 → 16:30 - 17:25
長崎県 長崎放送 土曜 15:20 - 16:15
熊本県 熊本放送
宮崎県 宮崎放送
鹿児島県 鹿児島テレビ フジテレビ系列
日本テレビ系列
NETテレビ系列
日曜 10:00 - 10:55

1975年4月以降

※系列は当時の系列。◎は新規にネットを開始した地域、○は同一地域の他局からネットが移行した地域。

放送対象地域 放送局 系列 備考
近畿広域圏 毎日放送 TBS系列 制作局
関東広域圏 東京放送
(現:TBSテレビ
北海道 北海道放送
青森県 青森テレビ
岩手県 岩手放送
(現:IBC岩手放送
宮城県 東北放送
秋田県 秋田テレビ フジテレビ系列
テレビ朝日系列
1981年3月まではフジテレビ系単独加盟局
山形県 山形テレビ フジテレビ系列 ◎1978年4月から
1980年3月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局
福島県 福島テレビ TBS系列
フジテレビ系列
土曜 16:00 - 16:55枠
山梨県 テレビ山梨 TBS系列
新潟県 新潟放送 ○土曜 17:00 - 17:55枠[12]
長野県 信越放送 ◎1982年4月4日から[13]
静岡県 静岡放送
富山県 北日本放送 日本テレビ系列 ◎土曜 16:00 - 16:55枠[12]
石川県 北陸放送 TBS系列 ○1975年4月5日から[14]
土曜 17:00 - 17:55枠[12]
福井県 福井テレビ フジテレビ系列 日曜 14:00 - 14:55枠 [15]
中京広域圏 中部日本放送
(現:CBCテレビ
TBS系列
鳥取県・島根県 山陰放送
岡山県 山陽放送
(現:RSK山陽放送
○当時の放送免許エリアは岡山県のみ
広島県 中国放送
山口県 テレビ山口 TBS系列
フジテレビ系列
1978年9月まではテレビ朝日系列とのトリプルネット局
愛媛県 南海放送 日本テレビ系列
高知県 テレビ高知 TBS系列 ◎1982年4月から
福岡県 RKB毎日放送
長崎県 長崎放送
熊本県 熊本放送 土曜 17:00 - 17:55枠
大分県 大分放送
宮崎県 宮崎放送 日曜 17:30 - 18:25枠
鹿児島県 南日本放送 ○日曜 17:30 - 18:25枠
沖縄県 琉球放送 ◎1982年4月から

ネットに関する備考

  • 関東広域圏では、1969年7月にNETテレビ(現:テレビ朝日)でネットが開始されたが、1クールのみで東京12チャンネル(現:テレビ東京)に移行、1975年4月に毎日放送のTBS系列へのネットチェンジに伴いTBSに移行し、最終回まで放送された。
  • 1969年10月にNETテレビがネットを取りやめたことで、一部の地域ではNETテレビ系列局から同一地域の他局へネットを移行したケースもあった。中京広域圏では中京テレビ(当時は日本テレビ系列とのクロスネット局)から岐阜県域局の岐阜放送へ移行したため、1969年10月から1973年3月までは愛知県(当時テレビ愛知は未開局)・三重県では未ネットだった。[16]
  • ネットチェンジ初期は日曜17:30よりの放送だったが、TBS系列内で時間帯が違う局があった他(一例として静岡放送は土曜15:00から、長崎放送は土曜13:30から、熊本放送は土曜日17:00からの遅れネット)、1982年3月までは信越放送、テレビ高知、琉球放送では未放送だった。
  • ネットチェンジ後の、少なくとも日曜13:00より放送されていた末期は、TBS系列全国ネット(クロスネット局の福島テレビとテレビ山口を含む)で放送されていた。

映画版

ヤングおー!おー!日本のジョウシキでーす!(ヤングおーおー にっぽんのじょうしきでーす)は、吉本興業・東映京都の製作、東映の配給により、1973年11月17日に公開された日本の映画。

「狭い日本にゃ住み飽きた」とばかりに海外脱出を試みようとする7人の男達の悪戦苦闘を描いたものだった。また、当番組の収録現場のシーンも収録されている。

ビデオソフトは1981年頃、東映芸能ビデオから4万9000円で発売されたことがある[17]。2009年3月にファミリー劇場、同年9月と2011年3月、2012年4月1日に東映チャンネルで放送された。 また、Amazon Prime VideoのJUNK FILM by TOEIでも配信されている。

キャスト
スタッフ
  • 監督:山崎大助
  • 企画:三村敬三、中邨秀雄、平野元貞
  • 脚本:檀上茂、松本功
  • 撮影:赤塚滋
  • 照明:若木得二
  • 録音:堀場一朗
  • 美術:吉村晟
  • 音楽:古谷充
  • 編集:市田勇
  • 助監督:篠塚正秀
  • 記録:黒川京子
  • 装置:米沢勝
  • 装飾:松原邦四郎
  • 美粧結髪:東和美粧
  • 衣装:松本俊和
  • スチール:藤本武
  • 擬斗:三好郁夫
  • 演技事務:上田義一
  • 進行主任:渡辺操
  • 協力:毎日放送
  • 演奏:古谷充とザ・フレッシュメン
挿入歌

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 読売新聞大阪本社文化部(編)『上方放送お笑い史』 読売新聞社、1999年 pp.277-280「ヤングおー!おー!」、pp.281-284「お笑い歌手、月亭可朝」、pp.290-293「上方落語ブーム到来」
  2. ^ 毎日放送40年史編纂室『毎日放送の40年 資料編』毎日放送、1991年、p.269
  3. ^ 日本民間放送連盟賞/1969年度(昭和44年度)入選・事績 日本民間放送連盟
  4. ^ 斎藤によるタイトルコールと三枝が斎藤へお別れのメッセージを贈るシーン、斎藤が観客席で観覧者とお別れの握手をするシーンを収録。
  5. ^ a b c 「ブランドニューサウンドBig3」と題して、お互いの楽曲を歌い合ったことがある(世良公則が原田の「シャドーボクサー」を歌い、原田がCharの「逆光線」を歌うなど)。
  6. ^ 当番組がテレビ初出演。『なめんなよ』はレコードでは元トランザムの西濱哲男の歌唱だったが、西濱が出演を断ったため、本番組では藤タカシが歌唱した。
  7. ^ 当時はTXN・メガTONネットワークの発足前であった。
  8. ^ 『福島民報』1973年10月27日付朝刊、テレビ欄。
  9. ^ 『福島テレビ開局20周年記念出版 福島テレビ20年史』福島テレビ 社史編集委員会、1983年12月25日、258頁。 
  10. ^ 北日本新聞』1975年3月30日付朝刊テレビ欄より。
  11. ^ 北國新聞』1973年6月3日付朝刊テレビ欄より。
  12. ^ a b c 『北國新聞』1979年7月21日付朝刊、テレビ欄。
  13. ^ 1982年4月4日 信濃毎日新聞 テレビ欄
  14. ^ 北國新聞』1975年4月5日付朝刊、テレビ欄。
  15. ^ 『北國新聞』1980年10月5日付朝刊テレビ欄より。
  16. ^ 愛知県と三重県では、岐阜放送のスピルオーバー制限によって視聴できる地域はごくわずかだった。
  17. ^ 「ビデオコレクション1982」1981年、東京ニュース通信社、「週刊TVガイド」臨時増刊12月2日号

外部リンク

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