工事概要
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1961年(昭和36年)3月 - 国鉄牟岐線との立体交差を含む徳島市内の元町 - 徳島本町徳島交差点前の区間が完成。 1966年(昭和41年)4月 - 徳島県美馬郡半田町で改良工事に着手。 1967年(昭和42年) - 愛媛県川之江市石川地区で改良工事に着手。 1972年(昭和47年)10月31日 - 境目トンネル完成。 12月 - 愛媛県境目地区1次改築完成。 1973年(昭和48年) - 愛媛県内一次改築完了。 1977年(昭和52年)3月 - 徳島県三好郡池田町白地地区1次改築完成。 1978年(昭和53年)3月28日 - 川之江バイパス暫定供用開始。 1979年(昭和54年)3月 - 徳島県内一次改築完了。
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工事概要
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本工事は基礎工を大正十四年五月着手したが運河の幅員狭き処へ通船せしめつゝ作業するのであるから充分なる締切工を施す事が出来ず、加ふるに河底に大小無数の混凝土の破砕塊が存在して締切に非常なる困難を感じた。それ故橋台築造に殆んど年末迄費し、橋脚も亦同様の有様であつた。 何分にも満潮時には橋梁下端と水面とが殆ど接する位の状態であるのに、前述の如く通船甚だしき処であるから、跳上橋の運転をなし得る迄の間は通船に支障なき高さに置かねばならぬ、それ故に右組立ガーダーを百余噸の船に乗せ満潮を利用して適当の高さに浮上上らせ、仮台上に案架した。而して橋台側を徐々に降下して軸受に栓にて支持せしむると同時に別に用意したカウンターウエイト用鉄函を引揚け、二本の鉄柱及びガーダーの腕に栓にて取付けると共に同鉄函中に鉄屑及び混凝土を塡充した。 本年五月に至り工事大体完了したが試運転の結果カウンターウエイト支持点の移動、歯車の増設、ブレーキの改造其他二三の改造を行つて、本年七月遂に日本最初の跳上橋の工事は竣功を告ぐるに至つた。 橋台の築造などに、1925年(大正14年)5月の着工からほぼ年末まで費やすことになる。難しい現場状況での施工や試運転時の改造などによって、着工から竣工までに1年2箇月ほどを要し、設計者で工事請負者である山本卯太郎や日本石油株式会社の関根博・中野英明が、苦心したことが分かる。カウンターウエイト用の鉄箱には、鉄屑及びコンクリートを充塡。隅田川駅跳上橋は、日本初の跳上橋である。
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工事概要
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1952年(昭和27年)高知県佐川町内の赤土峠の改良工事に着手。 1958年(昭和33年)8月、高知市・伊野町境咥内坂の改良工事に着手。 1959年(昭和34年)愛媛県美川村の河口橋に着手。 1960年(昭和35年)10月、佐川町の霧生関の改良工事に着手。 1961年(昭和36年)高知県越知町横倉-吾川村寺村、堀切峠の改良工事に着手 1962年(昭和37年)10月16日、愛媛県内三坂峠の改築に着手。 1963年(昭和38年)2月26日、高知県内咥内坂の改築を完了。8月、愛媛県砥部地区改良に着手。12月、久万バイパスに着手。 1964年(昭和39年)2月20日、高知県内霧生関の改築を完了。3月10日高知県内堀切峠の改築を完了。10月、寺村トンネルに着手。 1966年(昭和41年)2月、愛媛県久万高原町藤ノ棚 - 笛ヶ滝間開通。3月、寺村トンネル完成。4月、松山南道路に着手。越知バイパスに着手。8月、砥部地区の1次改築を完了。9月、久万バイパス完成。12月10日愛媛県内三坂峠の改築を完了。 1967年(昭和42年)3月、高知県伊野地区を最後に高知県内の一次改築を完了。高知県内の一次改築においては、道路線形にクロソイド曲線が採用され車両の走行性向上と工事の経費削減に効果を発揮した。また、赤土峠の改良工事で造られた赤土隧道は、四国における直轄施工としては、初のトンネル工事で請負工事で施工された。掘削工法は、底設導抗掘削で人力掘削、木製支保工、ズリの搬出は0.6 m3トロッコを使用。トンネル中央に断層があり工事中に落盤が発生、越知側坑口での湧水など、難工事であった。4月、佐川バイパスに着手。 1968年(昭和43年)3月、高知県境付近(西之谷、落出大橋)を最後に愛媛県内の一次改築完了。愛媛県内の一次改築においては、三坂峠で四国で最初となる凍結とタイヤ・チェーンに対する耐久性の優れたグースアスファルト舗装を施工。 1969年(昭和44年)、大渡ダム関連付け替え道路着手。大渡ダム完成に伴い水没する区間を幅員、線形等を改良するものである。起点は吾川郡吾川村大字大尾、終点は吾川郡吾川村大字橘、延長は2.864 km、規格は第3種第3級、完成2車線で道路幅員は8 m、車線幅員は3.0 mである。工事区間の舟戸トンネルは、発破工法では下方の人家集落に多大な影響を与えることからジャイアントブレーカとクローラドリルを組み合わせた機械掘削工法を採用した。 1970年(昭和45年)3月、高知県高岡郡越知町の越知バイパス完成。 1973年(昭和48年)、熊秋トンネルに着手。 1974年(昭和49年)2月1日、高知県高岡郡佐川町の佐川バイパス完成。4月に高知西バイパス事業に着手。 1975年(昭和50年)9月、大渡ダム関連付け替え道路完成。12月に熊秋トンネル完成。 1979年(昭和54年)12月、松山南道路全線暫定供用。 1983年(昭和58年)3月24日、高知県高岡郡佐川町の赤土歩道トンネル完成。 2014年(平成26年)12月25日、佐川歩道トンネルL=322 m(高岡郡佐川町甲から佐川町乙)供用開始
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工事概要
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1886年(明治19年)、丸龜 - 高知 - 松山間約270 kmの改修工事(四国新道)が開始された。この工事は、香川県議会議員の大久保諶之丞が私財を投じて進められたものである。改修工事は、香川県、徳島県内は1890年(明治23年)3月に竣工し、高知県内が竣工したのは1894年(明治27年)である。 戦後になると国道32号はその歴史的経緯、重要性から国道33号と共に瀬戸内側と太平洋側を結ぶ「Vルート」と呼ばれ、国直轄による改築工事が開始された。 1958年(昭和33年)8月善通寺市内改良を皮切りに香川県内の一次改築に着手。 1959年度(昭和34年度)より高知・徳島県内でも一次改築を開始。4月、徳島県三好郡池田町内改良工事、藤川橋施工に着手。8月には南国市と高知市境の逢坂峠の改良工事に着手。 1960年(昭和35年)高知県南国市岡豊地区の舗装、大豊町大杉・板木野地区の改良工事に着手。 1961年(昭和36年)3月、高知県逢坂峠改良完了。4月、高知県香美郡土佐山田町根曳・天坪地区の改良工事着手。高知市街の東入口薊野 - 北本町間の交通混雑解消を目的に、四国初の二次改築道路「東高知バイパス」(通称薊野バイパス、現高知県道384号)に着手。 1962年(昭和37年)徳島県内猪ノ鼻峠の改良工事に着手。高知県豊永地区改良着手。 1964年(昭和39年)6月、琴平バイパス着手。7月、猪之鼻隧道完成。8月、三好郡山城町川口地区改良着手。 1965年(昭和40年)3月、根曳峠改良完了。根曳峠は、香美郡土佐山田町と南国市の境にある標高395 m平均5.2%の急勾配が続く。山岳道路には珍しく橋梁等もなく土工のみの工事で総土工量は、100万m3に達した。9月、香川県側猪ノ鼻峠の改良完了。 1966年(昭和41年)8月、琴平町内舗装工事を最後に香川県内の一次改築完了。11月、徳島県側の猪ノ鼻峠の改良完了。12月、大歩危・小歩危地区の改良完了。 1967年(昭和42年)1月、東高知バイパス(薊野バイパス)完成。徳島県川口地区改良完了で徳島県内の一次改築がほぼ完了。6月、大豊町大杉地区を最後に高知県内の一次改築が完了。8月、Vルート完成式を高知市内で挙行。 1968年(昭和43年)3月徳島県内の一次改築が完了。 1969年(昭和44年)池田バイパス着手。 1972年(昭和47年)4月、綾南・綾歌・満濃バイパス綾南工区着手。 1973年(昭和48年)3月、池田大橋着手。 1976年(昭和51年)3月、池田大橋完成。 1977年(昭和52年)3月、池田バイパス完成供用。
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1963年(昭和38年)4月 - 国直轄施工による一次改築事業開始。8月、徳島県阿南市橘町、福井町および海部郡牟岐町内、高知県香美郡赤岡町 - 安芸郡芸西村間等で改良工事着手。9月、室戸市内改良着手。 1965年(昭和40年) - 南国バイパス着手。 1966年(昭和41年) - 羽ノ浦バイパス着手。阿南市 - 日和佐町間星越峠改良着手。 1969年(昭和44年)3月 - 大山岬改築完了。 9月 - 羽ノ浦バイパス完成。 1970年(昭和45年)4月 - 南国バイパス後免高須間供用。 1971年(昭和46年)3月 - 星越峠改良を完了。 11月 - 日和佐地区1次改良を完了。 1973年(昭和48年)3月 - 高知県東洋町甲浦の改良を完了。宍喰町内改良を最後に徳島県内一次改築完了。これにより国道55号、56号によるWルートが完成。4月、南国バイパス全線供用。阿南道路事業化。 1975年(昭和50年)10月 - 室戸岬付近の改築完了。 1979年(昭和54年)3月 - 室津局改完成。 1983年(昭和58年)12月 - 坂本局改完成。 1989年(平成元年)3月 - 南国バイパス全線4車線化完成。
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1931年(昭和6年)愛媛県小松町南川-安井間の改良に着手。 1934年(昭和9年)香川県内高松以東の改良に着手。 1941年(昭和16年)徳島市助任町付近の改良に着手。 1943年(昭和18年)戦争により改良工事中断。 1946年(昭和21年)改築事業再開。愛媛県西条市飯岡 - 天皇工事着手。 1947年(昭和22年)高松丸亀間改良に着手。 1956年(昭和31年)香川県東讃地区改良に着手。 1957年(昭和32年)愛媛県丹原町 - 川内町(桜三里)工事着手。 1958年(昭和33年)4月徳島県内工事着手。 1960年(昭和35年)7月、香川県天野峠 - 羽立峠間の改良に着手。9月、鳴門市黒崎地区の改良完了。 1961年(昭和36年)4月徳島県鳴門市内工事着手。高松市宮脇町で二次改築に着手。 1962年(昭和37年)3月、香川県大内 - 白鳥間の改良完了。 1963年(昭和38年)10月、高松市内高徳線立体交差事業に着手。12月、天野峠 - 羽立峠間の改良完了。 1964年(昭和39年)3月三津舗装工事の完成により徳島県内一次改築完了。桜三里の改良完了。4月、高松市内バイパスの調査を開始。9月、高松市内高徳線立体交差完成。香川県豊浜町箕浦の改良に着手。 1965年(昭和40年)愛媛県川之江市内の舗装工事の完成により愛媛県内一次改築完了 1966年(昭和41年)3月、豊浜町箕浦の改良完了により、国道11号全線で一次改築完了。
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「倉敷海底トンネル事故」の記事における「工事概要」の解説
本工事は、岡山県倉敷市に位置する水島港の西側にある旧新日本石油精製の「A工場」と、東側にある旧ジャパンエナジーの「B工場」の2つの石油精製工場間をつなぎ、石油製品類を融通し合う790mの海底パイプラインをシールドトンネルで築造する「第二パイプライン防護設備建設工事」である。発注者はJX日鉱日石エネルギーで、スーパーゼネコンの鹿島が設計・施工一括で受注、工期は2010年8月から2013年6月までで、受注額は約17億5000万円(税抜き)であった。泥土圧式シールド工法で、トンネルの外径は4.95m。土質はN値50以上の硬い礫であり、土被り(地表面からトンネル天井までの高さ)は4.95m〜24.5mだった。 シールドマシンは直径4.95m、長さ約6.3m、重さ約123tであり、鹿島の子会社であるカジマメカトロエンジニアリングが製作した。 セグメント(円弧状の壁面ブロック)は幅1400mm、厚さ160mm、外径4820mmのRCセグメントで、広島市のナガ・ツキが製作した。セグメントリング同士の継手は袋ナットと六角ボルトによるボルト式だが、セグメント同士の継手は、溝が入ったセグメントにもう片方のセグメントに付いているパイプ状継手を挿入するFRP継手であった。 鹿島は事故の約10年前に、現場の北約30〜50mの箇所で第一パイプライン防護設備建設工事の設計・施工を行っていた。このときのトンネル延長は約820m、セグメント厚さは225mmで、受注額は約26億8000万円(税抜き)である。 B工場側に立坑(外径14.44m、内径11.5m、深さ39.4m)を築造し、深さ31.075mを中心として横坑をシールドマシンでA工場側に向けて施工する。シールド掘進は、1班が下請けの「K建設」と「K建技」が、もう1班は別の会社が、昼夜交代で行っていた。
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工事概要
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1963年(昭和38年):高知県窪川町仁井田地区、改築に着手。 1965年(昭和40年):高知県須崎市新荘 - 安和間 (2.8 km) 改築に着手。 1967年(昭和42年)高知県須崎市安和:久礼地区間 (6.3 km) 改築に着手。 1967年(昭和42年):愛媛県大洲市北只地区改築に着手。 1967年(昭和42年)12月23日:愛媛県北宇和郡吉田町 - 東宇和郡宇和町間(法華津地区) (5.7 km) 改築に着手。 1967年(昭和42年):高知県久礼坂地区 (6.502 km) 改築に着手。 1968年(昭和43年)5月30日:高知県内、角谷坂の改築を完了。 1969年(昭和44年):愛媛県南宇和郡内海地区改築に着手。 1970年(昭和45年)1月1日:高知県須崎市安和 - 久礼地区間供用開始。 1970年(昭和45年)12月20日:高知県久礼坂地区間供用開始。焼坂トンネル966 mは、地層は、中生代白亜紀に属する砂岩・頁岩の互層で破砕帯もあり湧水が多かった。掘削工法は、上部半断面掘削工法。久礼坂地区の旧道区間は、ヘアピンカーブが多く、見通しが悪い状態であった、そこで、通称、七子峠までの標高差300 mを線形を良くするため、橋梁10箇所、トンネル4箇所を施工したものである。 1970年(昭和45年)3月25日:愛媛県北宇和郡吉田町と東宇和郡宇和町間(法華津地区)改築完了。 1971年(昭和46年)3月:愛媛県東宇和郡宇和町鳥坂と大洲市札掛間(鳥坂・札掛地区)改築完了。 1972年(昭和47年)3月14日:愛媛県内の一次改築を完了。 1972年(昭和47年)7月25日:高知県内の一次改築を完了。 1976年(昭和51年)3月22日:愛媛県内、城辺御荘バイパス供用開始。 1978年(昭和53年)3月25日:高知県内、窪川バイパス完成。 1979年(昭和54年)4月1日:愛媛県内、松尾峠局改完成。 1986年(昭和61年)9月25日:愛媛県内、一本松城辺局改完成。 1992年(平成4年)12月18日:愛媛県内、内海ふれあいトンネル完成。 1994年(平成6年)11月10日:高知県内、桑田山局改完成。 2002年(平成14年)3月29日:高知県内、春野拡幅完成。 2007年(平成19年)3月24日:宿毛一本松改良完成。 2009年(平成21年)1月10日:高知県内、須崎道路の一般道路部分が全線開通。
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工事概要
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区間を5つに分け工事を進めた。 第一工区 - 五稜郭駅付近から湯の川駅付近までの起点より0.235km-7.4km、延長約7.2kmの区間。請負は今井組で1936年(昭和11年)10月に着手し、1939年(昭和14年)6月に竣工した。大きな工事は深堀切通しで現在の緑園通りに当たる。これを施工するためにレールを設け、小型蒸気機関車牽引の土砂運搬列車を走らせている。他には跨線橋を3箇所設けた。現在は1箇所残っている。昭和-富岡町(北海道道347号赤川函館線交点)区間は盛土で、その土を取る土地を富岡町に確保した(のちに農業用水の捨て水が貯まる土方沼になる)。 第二工区 - 湯の川駅付近から渡島古川駅付近の起点より7.4km-14.92km、延長約7.5kmの区間。請負は堀内組で1938年(昭和13年)4月に着手し、1940年(昭和15年)4月に竣工した。主な工事は松倉川橋脚および汐泊川橋脚5基である。鋼材不足により橋桁は架けられることはなかった。 第三工区 - 渡島古川駅付近から小安駅付近までの起点より14.92km-20.3km、延長約5.4kmの区間。請負は堀内組で1938年(昭和13年)7月に着手し、1940年(昭和15年)3月に竣工した。 第四工区甲 - 小安駅付近から汐首駅付近までの起点より20.3km-24.38km、延長約4.1kmの区間。請負は地崎組で、1940年(昭和15年)5月着手、1941年(昭和16年)11月竣工、汐首岬第1陸橋をコンクリートアーチ橋で建設した。他トンネル1ヵ所。 第四工区乙 - 汐首駅付近からの起点より24.38km-26km、延長約1.6kmの区間。請負は瀬崎組で、1940年(昭和15年)5月着手、1942年(昭和17年)9月に建設休止。トンネル2ヵ所、瀬田来第1陸橋、瀬田来第2陸橋、蓬内川橋梁をコンクリートアーチ橋で建設した。 未施工区間は起点より26kmから29km、延長3kmである。 第五工区 - 未着工 第六工区 - 未着工
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