山本卯太郎
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山本 卯太郎 | |
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生誕 | 1891年(明治24年)6月15日 |
死没 | 1934年(昭和9年)4月20日 (満42歳没) |
出身校 | 名古屋高等工業学校 (現名古屋工業大学) |
職業 | 橋梁技術者 |
山本 卯太郎(やまもと うたろう、1891年(明治24年)6月15日 - 1934年(昭和9年)4月20日)は、大正末期から昭和初期の橋梁技術者[1]。複雑な構造をもつ可動橋を得意とし、多数の跳上橋を設計。数学の手法を用いて、可動橋の動的なメカニズムを解析。新技術を開発し、独自の発展を遂げた可動橋分野を牽引した人物。
来歴
名古屋高等工業学校を卒業後、米国に渡航し、4年間橋梁を研究。1919年(大正8年)、山本工務所を興す。1927年(昭和2年)2月に竣工した名古屋港跳上橋(登録有形文化財、1999年(平成11年)2月17日登録[2])、1931年(昭和6年)12月に竣工した末広橋梁(重要文化財、1998年(平成10年)12月25日指定[3])を設計。 名古屋高等工業学校で教鞭をとり、後進の育成にも努める。1931年(昭和6年)に体調を崩したが、回復[4][5]。1932年(昭和7年)頃から、おもに近畿方面や日本国外[6]での設計・製作に携わるが、出張先[7]で倒れ、1934年(昭和9年)4月20日に急逝。
設計橋梁(国内)
- 1926年(大正15年) 隅田川駅跳上橋[8](東京都荒川区) カウンターウエイト: 約75 トン(可動部重量: 約40 トン[9])
- 1926年(大正15年) 正安橋[10](大阪市此花区)
- 1927年(昭和2年) 名古屋港跳上橋[11](名古屋市港区)
- 1928年(昭和3年) 栄橋(香川県坂出市)
- 1929年(昭和4年) 古川可動橋[12](東京都港区)
- 1930年(昭和5年) 福島新橋[13](徳島県徳島市)
- 1931年(昭和6年) 末広橋梁[14](三重県四日市市) カウンターウエイト: 約24 トン(可動部重量: 約48 トン)
新技術の開発
内容
- 昇降用動力の大幅な軽減などを実現する新システムの考案
論説報告について
山本卯太郎は、1928年(昭和3年)12月発行の『土木学会誌』に論説報告[17]を発表した。
- 次のことを実現できるリンク・バランス・システム[18]を考案して実用化する。
- 従来の跳上橋と比べ
- 従来の跳上橋と比べ
固有名詞の分類
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