織田氏 織田氏の概要

織田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/22 05:21 UTC 版)

織田氏
織田瓜おだうり
本姓 桓武平氏資盛流
藤原北家利仁流?
忌部宿禰?
家祖 平親真
種別 武家
華族子爵
出身地 越前国織田庄
主な根拠地 尾張国清洲城
美濃国岐阜城
近江国安土城
東京府
著名な人物 織田信長
織田有楽斎
織田信忠
織田信雄
織田信恒
織田孝一
織田無道(自称)
織田信成(自称)
支流、分家 津田氏武家
凡例 / Category:日本の氏族
家紋
揚羽蝶あげはちょう

概略

織田一族の発祥地は越前国織田荘(現・福井県丹生郡越前町)にある劔神社である。本姓藤原氏藤原北家利仁流?、のちに桓武平氏資盛流を称する)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。甲斐氏朝倉氏と同じく、三管領斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。室町時代尾張国守護代を務める。戦国時代には一族同士の争いの結果、弾正忠家織田信長が勢力を大きく広げた。しかし、天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると織田家有力家臣の勢力争いとなった。最終的に羽柴秀吉が織田家中を纏めたが、織田家当主とされた織田秀信成長後も政権は織田家に返されることはなかった。しかし織田家の本国である岐阜城は返却され美濃の領主とされた。関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信が改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われている。しかし、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家旗本尾張藩明石藩家老などとして存続した。なかには藤掛氏、津田氏のように織田を称しない一族もいる。現在でも直系子孫が続いている。

明治維新後、大名の織田家四家が華族の子爵に列した。

出自

織田氏は系図の上では平資盛の子と自称する平親真の子孫と称している。しかし、福井県越前町織田の法楽寺で発見された親真を供養した五輪塔の一部には「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、つまり親真は正応3年(1290年)2月19日に亡くなったと刻印されており、『信長記』(小瀬甫庵)などの文献と照らし合わせると親真が100歳を超える寿命になり信憑性が問われる[2]。ただし資盛の親戚である四条貞子のように100歳以上の長寿もいないわけではないので真実はわからない。

この他、越前国織田荘福井県丹生郡越前町)の織田剣神社神官の出自であるともされている[3]

また、福井県郷土史家である松原信之の研究によると、織田剣神社にある『藤原信昌・兵庫助弘置文』の古文書で、明徳4年(1393年)の6月17日に剣神社宝前に奉納し、置文を記した鎮守府将軍藤原利仁(あるいは利仁の岳父で、敦賀郡の豪族藤原有仁(忌部氏?))の系統と思われる藤原信昌藤原兵庫助将広常松?・常竹?)父子が越前織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。事実として織田信長は「藤原信長」と称しているが、その根拠はここから来ており、元東京帝国大学史料編纂官の博士・田中義成の研究によると、信長は実際に天文18年(1549年)11月、熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。

また、他の学説としては、親真自身が忌部氏の出自とする説もある。

なお、「織田」の読み方について、『寛永諸家系図伝』仮名本の振り仮名を根拠として当時(江戸時代前期)には「をた(おた)」と読まれており、織田信長も生前は「おたのぶなが」と清音で読まれていた可能性があるとする橋本政宣の見解がある[4]

建武の新政 - 安土桃山時代

斯波氏の重臣

元弘3年(1333年)、建武の新政において足利高経(斯波高経)が越前国の守護に補任されて以降、越前守護職は斯波氏が世襲していくこととなり、越前の国人であった織田氏も暫時その被官層に組み込まれていったと考えられる。

後に斯波氏は応永7年(1400年)に尾張守護を、応永12年(1405年)に遠江守護をそれぞれ加えられると、斯波氏の筆頭家臣であった執事甲斐氏が越前守護代と遠江守護代を兼任し、織田氏は尾張守護代を世襲するようになった。織田氏の最初の守護代は織田将広の子の織田常松(織田教広)[5]であるとされ、この頃より織田一族は越前から尾張へ移住していったものと見られる。斯波家中においては、将軍直臣扱いで室町将軍の御成を受ける程の家格を誇った甲斐氏に次ぐ序列二位であり、宝徳3年(1451年)、織田郷広を8代将軍足利義政自らが赦免して尾張守護代へ復帰させようとした問題は、義政の母日野重子が出奔して抗議する程の事件となった。

尾張守護代を世襲した織田氏惣領家は代々伊勢守を称したため伊勢守家と呼ばれ、主君である斯波氏とともに在京生活を送って中央政界での権力闘争に終始し、尾張には在国の又守護代(守護又代とも)として、代々大和守を称する一族(大和守家)を配置して統治を行っていた[要出典]

なお、室町将軍のブレーンであった醍醐寺座主・満済の日記(『満済准后日記』)によれば、正長元年(1428年)8月6日、織田常松は病に侵され危篤状態にあったとされ、満済が常松の許に見舞いの使者を送った際、織田弾正という者が応対したという記述があり、これが織田弾正忠家(後述、織田信長の家系)の史料上の初出と見られている。

応仁の乱と織田氏の分裂

織田氏の主君である斯波氏は7代当主の斯波義淳の没後、8代義郷・9代義健と短命の当主が続き、家中の実権は執権の甲斐氏をはじめ織田氏・朝倉氏などの重臣層と、斯波一族の大野家などが握っていた。やがて重臣層と一族衆の対立が深刻化し、寛正6年(1465年)には重臣層が推す渋川義鏡の子義廉と大野家出身の義敏が家督を巡って対立する武衛騒動が起こることとなった。

この争いが将軍家・畠山氏の家督相続と連動したため、応仁元年(1467年)の応仁の乱が勃発、義廉と甲斐氏や織田氏などの主だった重臣層は西軍となり、義敏と斯波一族、そして一部の重臣やその庶流は東軍となり争った。この時、義廉は京都で西軍の主力として戦い、義敏は守護職回復を狙って越前で戦っている。また義敏の子義良(義寛)は尾張に居たと思われ、文明7年(1475年遠江国は東軍である駿河守護今川氏の侵攻を受け、同じく東軍であった遠江守護代甲斐敏光とともにこれを防ぎ、今川義忠を敗死に追い込んでいる。しかし、越前国では西軍から東軍に寝返った朝倉孝景が越前守護を称して西軍の勢力を越前から一掃していき、さらに文明13年(1481年)頃までには朝倉氏は同軍であり主君でもある義敏・義良親子の勢力も駆逐してしまった。この間、義廉も将軍足利義政の不興を買って管領職・三ヶ国守護職・斯波氏家督の全てを剥奪され、都落ちを余儀なくされている。

尾張国では、守護代の織田敏広(伊勢守家)が西軍ということもあって西軍の優勢な地域であった。この頃、尾張の守護所が下津城(中島郡)から清洲城(春日井郡)に移されたという。このため都落ちを余儀なくされた義廉も尾張へ落ち延び、敏広とともに勢力の巻き返しを図ることとなった。しかし、応仁の乱が終結した翌年の文明10年(1478年)、東軍であった尾張又守護代・織田敏定(大和守家)が室町幕府第9代足利義尚から正式な尾張守護代と認められると、敏広と義廉は兇徒と断じられて討伐対象に指定されて清洲城を追われた(義廉は以後の記録には見えなくなる)。しかし、伊勢守家は、織田敏広の岳父であった美濃国斎藤妙椿(旧西軍)の支援を得て盛り返し清洲城を包囲した。この時、織田敏定は右目に矢を受けたという。

翌文明11年(1479年)、再三の幕府の介入により、織田敏広と斎藤妙椿は清洲城の包囲を解き、尾張上四郡(丹羽郡葉栗郡中島郡春日井郡)を伊勢守家、尾張下四郡(愛知郡知多郡海東郡海西郡)を大和守家が治めることで和睦したとされる(しかし、実際には知多郡と海東郡は一色氏が分郡守護であった)。文明13年(1481年)3月に伊勢守家は大和守家と争って勝利した。織田敏広の後を継いだ寛広は斯波義寛(義良)に帰順した。文明15年(1483年)には京から尾張に下向した斯波義寛が清洲城に入城し、守護・斯波義寛、守護代・織田敏定の体制で尾張はひと時の安定期を迎えた。

守護・義寛のもとで安定化した尾張であったが、長享元年(1487年)に近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると義寛は両織田氏を率いて将軍の元に参陣した。延徳3年(1491年)には、斯波氏の織田敏定、赤松氏浦上則宗の両名は、第10代将軍足利義稙から戦功を評され剣が与えられている[6]。また、その後の六角氏との簗瀬河原での合戦でも幕府の主力として織田敏定、浦上則宗、若狭武田氏の逸見弾正の名が見える[7]。義寛は将軍家に越前侵攻の支援を望んでいたが、明応2年(1493年)の明応の政変により越前奪還の夢は完全に潰えることとなった。

斯波氏の失脚

明応3年(1494年)に美濃守護土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、織田寛広(伊勢守家)は斎藤妙純方に付き、石丸利光方に付いた織田敏定・寛定父子(大和守)がそれぞれ陣没・戦死するなど尾張国内が乱れたため、遠江も駿河守護の今川氏親の配下であった北条早雲の侵攻を許すこととなった。以降の斯波氏は今川氏との長い抗争に終始することとなる。なお、船田合戦終結の翌年、斎藤妙純も近江で戦死したため、伊勢守家は後ろ盾を失い急速に勢力を失った。

その後、斯波義寛の後を継いだ義達は遠江奪還のための遠征を繰り返したが、この際の義達の軍勢に織田氏は従軍しておらず、一連の遠征は織田氏にとって決して賛同できるものではなかったと思われる。このため永正10年(1513年)にはついに守護代・織田達定が守護・義達に叛旗を翻したものの、義達によって返り討ちにされてしまった。守護代の下剋上を阻止した義達はなおも遠江遠征を続行させるものの、永正12年(1515年)に決定的な敗北を喫して捕虜となり尾張へ送還されたために失脚し、わずか3歳の斯波義統が当主となり、斯波氏の権威は失墜した。

織田弾正忠家の台頭と織田信長の出現

このような中で急速に台頭を果たしてきたのが、清洲織田氏の三家老の一つ、織田弾正忠家の織田良信信定父子であり、海東郡津島に居館を構えて交易を押さえ、海西郡や中島郡を侵食して勢力を伸ばし、勝幡城(海東郡、中島郡)などを築城した。大永7年(1527年)、織田信定がその子の織田信秀に家督を譲った頃には弾正忠家は主家を凌ぐ力をつけており、今川那古野氏今川氏豊から那古野城(愛知郡)を奪うなど信秀は更に勢力を拡大し、美濃国では斎藤道三と、三河国では松平清康広忠や、駿河守護の今川義元と抗争した。

その子・織田信長は、父の没後に起こった織田家の内紛を鎮める一方で、名目上の主君であった斯波義統が守護代・織田信友により殺害されると、斯波義銀を奉じて清洲織田氏(大和守家)を滅ぼし、更に岩倉織田氏(伊勢守家)も滅ぼし、後に斯波義銀も追放した。さらに尾張へ進出してきた今川義元桶狭間の戦いで破り、尾張知多郡や三河碧海郡を擁する水野氏や、岡崎城を中心に三河一帯を制した徳川氏と同盟を結び、さらに甲斐国の武田氏とも友好的関係を築いた。

信長はこうした外交的安定を背景に美濃・伊勢へ勢力を広げ、上洛し将軍・足利義昭を擁立する。信長は義昭と連携し中央政権としての影響力を誇示していたが義昭はやがて独自性を強め、近江国浅井長政越前国朝倉義景、さらに本願寺甲斐国武田信玄ら反信長勢力を迎合し信長に対抗する(信長包囲網)。元亀年間には武田信玄西上作戦を行い遠江・三河へ侵攻するが信玄の死去により作戦は中止され、反信長勢力は各個撃破され、将軍義昭は山陽道備後国へ追放され、室町幕府の滅亡により織田政権が樹立される。

その後も信長は家臣を各方面へ派兵して統一事業を進めるが、天正10年には本能寺の変において家臣の明智光秀に攻められ自害。この際、信長の嫡男で織田氏の当主であった織田信忠二条新御所で自刃したため、政権の中核となるべき人物を失った織田政権は崩壊した。


注釈

  1. ^ 半国もしくは15万石前後の大名。丹羽・立花・榊原など。四品になると国主と同じ大広間に進む。
  2. ^ 柏原では、信包系(信勝のときに無嗣断絶した「前の織田」)と区別して「後の織田」とも呼ばれる。
  3. ^ 出羽の本間家は佐渡の元大名で、上杉氏転封の折に山形へ移り現在の酒田市本町に「新潟屋」の暖簾を掲げ商売を始めたという。
  4. ^ 名目は「献金をした者には江戸で人気の絵画を褒美に与える」と称したが、実質的な絵画の領内販売に近い。葛飾北斎は小林平八郎央通の曾孫と公言し、また、歌川広重は上杉家の畠山氏や織田家の吉田氏と交流があったとされる。
  5. ^ 石高は不明だが、数万石と思われる。
  6. ^ 『近江輿地志略』や『淡海温故録』によると2万石となっている。
  7. ^ 寛永元年当時、父信貞は浪人中であったが、貞置による再興とは別に、微禄で召し抱えられたという説もある。
  8. ^ 『系図纂要』や『地下家伝』以外には記されていない。江戸幕府の公的な系譜集『寛政重修諸家譜』にも記載されておらず、信長の子の「織田信正」なる人物は同時代の史料には一切登場しないため、実在については確証がない。
  9. ^ 柏原では、信雄系(幕末まで続く「後の織田」)と区別して「前の織田」とも呼ばれる。
  10. ^ 時系列でみて辻褄が合わない点があり、信憑性が低いという説もあるが、俊長の末裔家を称する肥前鹿島藩士の伝承が残っている。
  11. ^ 高家肝煎で上杉一族でもある畠山義寧は、赤穂事件に懲りて指南役の権限を御馳走役首座の秀親に委譲している。
  12. ^ 老中からの奉書を前田に見せない等の嫌がらせがあったという説もあり。
  13. ^ 旧柏原藩は現米9190石(表高2万0000石)、旧天童藩は現米7650石(表高1万8000石)、旧柳本藩は現米6600石(表高1万石)、旧芝村藩は現米5210石(表高1万石)でいずれも現米5万石未満の旧小藩に該当[18]
  14. ^ 孝一自身は、「織田の本家は天童」「うちの柏原藩は既に信長の血筋ではない(男系では交代寄合の大和平野氏)」と前置きをしたうえで、織田家の末裔として意見を述べている[27]
  15. ^ 達定は継いでいないとする説もある。
  16. ^ 広高以降の当主は大和守家出身とされる信安の代まで不明である。
  17. ^ 達勝の父は織田勝秀ともされ、出自については解っていない。
  18. ^ 信友の父は織田因幡守ともされ、出自については解っていない。
  19. ^ 父は織田敏定または敏信とされ確定されていない。
  20. ^ 父は織田敏定とも。
  21. ^ 傍流。『系図纂要』にあるのみで、公式の系図には記されず。
  22. ^ 織田信栄四男
  23. ^ 織田信栄次男
  24. ^ 織田信栄五男
  25. ^ 細川行芬の三男
  26. ^ 血筋上の先祖は藤原北家勧修寺流(信恒は相馬氏からの養子で、相馬氏には江戸時代佐竹氏より養子が入っており、その佐竹氏には室町時代上杉氏より養子が入っているため)。
  27. ^ 血筋上の先祖は旗本平野氏である(織田信親の実父の山崎治正は平野氏よりの養子)。
  28. ^ 旗本・能勢頼寛の三男。
  29. ^ 旗本・織田信義の次男。
  30. ^ 天野康建の子
  31. ^ 遠山友寿の五男
  32. ^ 土岐頼左の子
  33. ^ 松平正淳次男

出典

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)等『織田氏』 - コトバンク
  2. ^ 信長は平氏ではない! 祖先の墓発見2011年11月2日・産経新聞)
  3. ^ 劔神社と織田信長公 (日本語) - 劔神社
  4. ^ 橋本政宣「[おた]信長と[とよとみの]秀吉」(初出:『古文書研究』44・45号(1997年)/所収:橋本『近世公家社会の研究』(吉川弘文館、2002年)
  5. ^ 尾張守護代沿革小稿 河村昭一
  6. ^ 蔭涼軒日録・延徳3年11月19日条
  7. ^ 蔭涼軒日録・明応元年4月1日条
  8. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp32-46.
  9. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp71-73.
  10. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp90-91・99-101.
  11. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp100-102.
  12. ^ 『三重県の歴史』山川出版社、154頁。 
  13. ^ 太閤検地『当代記』、『大日本六十六国並二島絵図』、『日本賦税』、慶長3年(1598年)など。wikipedia「石高」記事も参照。
  14. ^ 「江戸三百藩・第60号」(ハーパー・コリンズ)、「“御家”立て直し」中江克己(青春出版社)など
  15. ^ 新田完三 1984, p. 327/403-404/862.
  16. ^ 新田完三 1984, p. 558.
  17. ^ a b 松田敬之 2015, p. 186/188.
  18. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 152.
  19. ^ 松田敬之 2015, p. 188.
  20. ^ 叙位最高位「正一位」 最後に贈られたのは1917年の織田信長 SAPIO2016年1月号
  21. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 253.
  22. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 304.
  23. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 331.
  24. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 408.
  25. ^ 新訂 政治家人名事典 明治~昭和『織田信恒』 - コトバンク
  26. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『織田信親』 - コトバンク
  27. ^ 「歴史と旅」「歴史読本」ほか
  28. ^ 橿原神宮で3年ぶり献茶祭 有楽流宗家「奉仕に感謝の気持ち」 奈良新聞 2022年5月6日
  29. ^ 除霊僧織田無道さん死す、68歳 9日未明…がんで サンスポ 2020年12月12日
  30. ^ 「信成君がメダルを取れなかった理由」織田家18代当主が分析 週刊朝日2015年9月7日






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