織田氏 織田氏の概要

織田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/29 23:05 UTC 版)

織田氏
織田瓜おだうり
本姓 桓武平氏資盛流
藤原北家利仁流?
忌部宿禰?
家祖 平親真
種別 武家
華族子爵
出身地 越前国織田庄
主な根拠地 尾張国清洲城
美濃国岐阜城
近江国安土城
東京府
著名な人物 織田信秀
織田信長
織田信勝(信行)
織田長益(有楽斎)
織田信忠
織田信雄
織田信孝
支流、分家 津田氏武家
凡例 / Category:日本の氏族
家紋
揚羽蝶あげはちょう

もとは斯波氏の家臣の家柄で、尾張において勢力を張り、戦国時代には織田信長が出た。嫡流は関ヶ原の戦いで西軍に付き、改易となったが、信長の弟・長益と二男・信雄の子孫の4家が外様大名として明治維新まで続き、維新後は4家とも華族の子爵家に列する[1]

家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は「」(嫡流伊勢守家)、「」(大和守家)、「」(弾正忠家)など。


概略

織田一族の発祥地は越前国織田荘(現・福井県丹生郡越前町)にある劔神社である。本姓藤原氏藤原北家利仁流?、のちに桓武平氏資盛流を称する)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。

甲斐氏朝倉氏と同じく、三管領斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。室町時代尾張国守護代を務める。戦国時代には一族同士の争いの結果、弾正忠家織田信長が勢力を大きく広げた。

だが、天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると、織田氏の有力家臣の間で勢力争いとなった。最終的に羽柴秀吉が織田家中を纏めたが、織田家当主とされた織田秀信の成長後も政権は織田家に返されることはなかった。

しかし、織田氏の本国である岐阜城は返却され、美濃の領主とされた。関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信が改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われている。

とはいえ、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家旗本尾張藩明石藩家老などとして存続した。なかには藤掛氏、津田氏のように織田を称しない一族もいる。現在でも直系子孫が続いている。

明治維新後、大名の織田家 4家が華族の子爵に列した。

出自

織田氏は系図の上では平資盛の子と自称する平親真の子孫と称している。しかし、福井県越前町織田の法楽寺で発見された親真を供養した五輪塔の一部には「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、つまり親真は正応3年(1290年)2月19日に亡くなったと刻印されており、『信長記』(小瀬甫庵)などの文献と照らし合わせると親真が100歳を超える寿命になり信憑性が問われる[2]。ただし、資盛の親戚である四条貞子のように100歳以上の長寿もいないわけではないので真実は不明である。

この他、越前国織田荘福井県丹生郡越前町)の織田剣神社神官の出自であるともされている[3]

また、福井県郷土史家である松原信之の研究によると、織田剣神社にある『藤原信昌・兵庫助弘置文』の古文書で、明徳4年(1393年)の6月17日に剣神社宝前に奉納し、置文を記した鎮守府将軍藤原利仁(あるいは利仁の岳父で、敦賀郡の豪族藤原有仁(忌部氏?))の系統と思われる藤原信昌藤原兵庫助将広常松?・常竹?)父子が越前織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。事実として織田信長は「藤原信長」と称しているが、その根拠はここから来ており、元東京帝国大学史料編纂官の博士・田中義成の研究によると、信長は実際に天文18年(1549年)11月、熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。

また、他の学説としては、親真自身が忌部氏の出自とする説もある。

なお、「織田」の読み方について、『寛永諸家系図伝』仮名本の振り仮名を根拠として、当時(江戸時代前期)には「をた(おた)」と読まれており、織田信長も生前は「おたのぶなが」と清音で読まれていた可能性があるとする橋本政宣の見解がある[4]


注釈

  1. ^ 半国もしくは15万石前後の大名。丹羽・立花・榊原など。四品になると国主と同じ大広間に進む。
  2. ^ 柏原では、信包系(信勝のときに無嗣断絶した「前の織田」)と区別して「後の織田」とも呼ばれる。
  3. ^ 出羽の本間家は佐渡の元・大名で、上杉氏転封の折に山形へ移り現在の酒田市本町に「新潟屋」の暖簾を掲げ商売を始めたという。
  4. ^ 名目は「献金をした者には江戸で人気の絵画を褒美に与える」と称したが、実質的な絵画の領内販売に近い。葛飾北斎は小林平八郎央通の曾孫と公言し、また、歌川広重は上杉家の畠山氏や織田家の吉田氏と交流があったとされる。
  5. ^ 石高は不明だが、数万石と思われる。
  6. ^ 『近江輿地志略』や『淡海温故録』によると2万石となっている。
  7. ^ 寛永元年当時、父信貞は浪人中であったが、貞置による再興とは別に、微禄で召し抱えられたという説もある。
  8. ^ 『系図纂要』や『地下家伝』以外には記されていない。江戸幕府の公的な系譜集『寛政重修諸家譜』にも記載されておらず、信長の子の「織田信正」なる人物は同時代の史料には一切登場しないため、実在については確証がない。
  9. ^ 柏原では、信雄系(幕末まで続く「後の織田」)と区別して「前の織田」とも呼ばれる。
  10. ^ 時系列でみて辻褄が合わない点があり、信憑性が低いという説もあるが、俊長の末裔家を称する肥前鹿島藩士の伝承が残っている。
  11. ^ 高家肝煎で上杉一族でもある畠山義寧は、赤穂事件に懲りて指南役の権限を御馳走役首座の秀親に委譲している。
  12. ^ 老中からの奉書を前田に見せない等の嫌がらせがあったという説もあり。
  13. ^ 旧・柏原藩は現米9190石(表高2万0000石)、旧・天童藩は現米7650石(表高1万8000石)、旧・柳本藩は現米6600石(表高1万石)、旧・芝村藩は現米5210石(表高1万石)でいずれも現米5万石未満の旧・小藩に該当[18]
  14. ^ 織田孝一自身は、「織田の本家は天童」・「うちの柏原藩は既に信長の血筋ではない(男系では交代寄合の大和平野氏)」と前置きをしたうえで、織田家の末裔として意見を述べている[27]
  15. ^ これについて織田孝一は「私の家と彼の家はまったく関係がないし、私は彼についてまったく知らなかった。というのは、同じ織田家でも大名家は、旗本家とはほとんど交流がなかったからだ。さらに明治以降は大名家は華族になり、別世界で生きていたからなおさらである。大名家だった織田家はどこも、彼がフィギュアスケートで有名になるまで、そんな家系があることすら知らなかった。伝え聞くところ、信成君は信長の七男の末裔で、江戸時代は旗本高家であったそうだ。織田信長には11人も息子がいて、何人かが江戸時代に旗本になった。そうした家の一つなのだろう。途中の何代かが不明だとも聞いたが、私にはその真偽を判断することはできない。」と述べている[30]
  16. ^ 達定は継いでいないとする説もある。
  17. ^ 広高以降の当主は大和守家出身とされる信安の代まで不明である。
  18. ^ 達勝の父は織田勝秀ともされ、出自については解っていない。
  19. ^ 信友の父は織田因幡守ともされ、出自については解っていない。
  20. ^ 父は織田敏定または敏信とされ確定されていない。
  21. ^ 父は織田敏定とも。
  22. ^ 傍流。『系図纂要』にあるのみで、公式の系図には記されず。
  23. ^ 織田信栄四男
  24. ^ 織田信栄次男
  25. ^ 織田信栄五男
  26. ^ 細川行芬の三男
  27. ^ 血筋上の先祖は藤原北家勧修寺流(信恒は相馬氏からの養子で、相馬氏には江戸時代佐竹氏より養子が入っており、その佐竹氏には室町時代上杉氏より養子が入っているため)。
  28. ^ 血筋上の先祖は旗本平野氏である(織田信親の実父の山崎治正は平野氏よりの養子)。
  29. ^ 旗本・能勢頼寛の三男。
  30. ^ 旗本・織田信義の次男。
  31. ^ 天野康建の子
  32. ^ 遠山友寿の五男
  33. ^ 土岐頼左の子
  34. ^ 松平正淳次男

出典

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)等『織田氏』 - コトバンク
  2. ^ 信長は平氏ではない! 祖先の墓発見2011年11月2日・産経新聞)
  3. ^ 劔神社と織田信長公 (日本語) - 劔神社
  4. ^ 橋本政宣「[おた]信長と[とよとみの]秀吉」(初出:『古文書研究』44・45号(1997年)/所収:橋本『近世公家社会の研究』(吉川弘文館、2002年)
  5. ^ 尾張守護代沿革小稿 河村昭一
  6. ^ 蔭涼軒日録・延徳3年11月19日条
  7. ^ 蔭涼軒日録・明応元年4月1日条
  8. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年平成30年)。ISBN 978-4-864-033015 pp32 - 46.
  9. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年(平成30年)。ISBN 978-4-864-033015 pp71 - 73.
  10. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年(平成30年)。ISBN 978-4-864-033015 pp90 - 91・99 - 101.
  11. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年(平成30年)。ISBN 978-4-864-033015 pp100 - 102.
  12. ^ 『三重県の歴史』山川出版社、154頁。 
  13. ^ 太閤検地『当代記』、『大日本六十六国並二島絵図』、『日本賦税』、慶長3年(1598年)など。wikipedia「石高」記事も参照。
  14. ^ 「江戸三百藩・第60号」(ハーパー・コリンズ)、「“御家”立て直し」中江克己(青春出版社)など
  15. ^ 新田完三 1984, p. 327/403 - 404/862.
  16. ^ 新田完三 1984, p. 558.
  17. ^ a b 松田敬之 2015, p. 186/188.
  18. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 152.
  19. ^ 松田敬之 2015, p. 188.
  20. ^ 叙位最高位「正一位」 最後に贈られたのは1917年の織田信長 SAPIO 2016年1月号
  21. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 253.
  22. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 304.
  23. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 331.
  24. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 408.
  25. ^ 新訂 政治家人名事典 明治~昭和『織田信恒』 - コトバンク
  26. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『織田信親』 - コトバンク
  27. ^ 「歴史と旅」・「歴史読本」ほか
  28. ^ 橿原神宮で3年ぶり献茶祭 有楽流宗家「奉仕に感謝の気持ち」 (日本語) (奈良新聞2022年令和4年)5月6日)
  29. ^ 除霊僧織田無道さん死す、68歳 9日未明…がんで (日本語) (サンスポ2020年(令和2年)12月12日)
  30. ^ 「信成君がメダルを取れなかった理由」織田家18代当主が分析 週刊朝日 2015年(平成27年)9月7日 (日本語)






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