織田俊長とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 織田俊長の意味・解説 

織田俊長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/05 22:35 UTC 版)

 
織田俊長
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛永19年8月2日1642年8月27日
別名 津田主殿助[1]通称:右衛門佐、元蔵主、不白
氏族 織田氏(長益流)
父母 父:織田長益
兄弟 長孝頼長俊長長政尚長、宥諌、松平忠頼正室、湯浅直勝室、永福院殿
正室:なし
長次
テンプレートを表示

織田 俊長(おだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士通称は右衛門佐、元蔵主、不白。別名に津田主殿助。

略歴

織田長益(有楽)の三男として誕生した。

父の意向に従い出家し、僧侶となって京都妙心寺大雲院に暮らす。しかし、父の同意を得ずに還俗し、不仲となる。寛永19年(1642年8月2日没。

鹿島藩仕官に関する記録

末裔家を称する肥前国鹿島藩士家の伝承によれば、俊長は鹿島藩主鍋島直朝に嫁ぐことになった花山院万子(花山院定好の娘)に従って京都から下向し、父・長益の死去と隠居料の収公により帰国できなくなり窮していたところ、客分として100石を扶助され、織田木瓜紋の使用、正面玄関登城を免許され、同家に仕えることになった。その後、幕命によって鹿島藩が正式に預かることとなり、代々継承して幕末に至ったという(「榮城」)。子孫は幕末の時点で60石を知行した。しかし、長益の死去した翌年の元和8年(1622年)に直朝は生まれており、その信憑性は低い。

肥前にはこのほか蓮池藩士に織田家があるが、関連は不明である。

系譜

正室はいない。

孫に織田則長ら(「大和柳本織田家譜」)。肥前鹿島藩鍋島家に、俊長の子孫を称する藩士が存在する。

脚注

  1. ^ 系図纂要

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「織田俊長」の関連用語

織田俊長のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



織田俊長のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの織田俊長 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS