鹿島藩仕官に関する記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/11 02:57 UTC 版)
末裔家を称する肥前国鹿島藩士家の伝承によれば、俊長は鹿島藩主鍋島直朝に嫁ぐことになった花山院万子(花山院定好の娘)に従って京都から下向し、父・長益の死去・隠居料の収公に伴い帰国できなくなり窮していたところ、客分として100石を扶助され織田木瓜紋の使用、正面玄関登城を免許され同家に仕えることになった。後幕命によって鹿島藩が正式に預かることとなり、代々継承して幕末に至ったという(「榮城」)。子孫は幕末の時点で60石を知行した。しかし、長益の死去した翌年の元和8年(1622年)に直朝は生まれており、その信憑性は低い。 肥前にはこのほか蓮池藩士に織田氏があるが、関連は不明である。
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