オリックス・バファローズ 球団の歴史

オリックス・バファローズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/29 10:26 UTC 版)

球団の歴史

球団創立

阪神急行電鉄(現:阪急電鉄株式会社)は1920年に日本最初のプロ野球球団とされる「日本運動協会」の経営を引き取り、「宝塚運動協会」として運営していたが、1929年7月に解散。後の阪急ブレーブスとの球団としての繋がりはない。しかし、小林一三はいずれプロ野球時代が来ると予見。1935年に読売新聞社大日本東京野球倶楽部を結成したのを受けて、小林はアメリカ出張中にワシントンから電報で球団設立を指示し、1936年1月23日に大阪阪急野球協会が設立される。ライバル企業である阪神電気鉄道が立ち上げた大阪タイガースに対抗するため、設立を決意したとも言われる。発足当時の球団で球場を自前で新たに建設することを計画したのは阪急だけである。小林一三が慶應義塾大学出身だったこともあり、宮武三郎山下実山下好一ら慶應義塾大学のスター選手を入団させ、初代監督にも同OBの三宅大輔を招いた[1]。同年2月5日に結成された日本職業野球連盟に参加。球団名に企業名を入れた日本で最初のプロ野球球団である[2]

宝塚時代(旧・阪急時代)

1936年

トーナメント制の夏季の大阪大会で首位となった。

西宮時代・戦前(旧・阪急時代)

1937年

5月1日、本拠地球場となる西宮球場が開場、春季は8球団中4位となったが、監督の三宅は妥協を許さぬ厳しい姿勢が選手の反発を招いて解任され、村上実が秋季の指揮を執るも、チームは投手陣が弱く、粘りがないとされ、8球団中7位に終わった。村上の後任には山下実がプレイングマネージャーで就任。

1938年

投手陣の健闘で春、秋共に3位となるが、上位の首位の巨人や2位のタイガースにはどうしても勝てないという状況だった。

1939年

この年より1シーズン制通しての成績で優勝、順位を決め、便宜上春夏秋の3季制としたが、春季は投手陣が踏ん張り、9連勝もあり、首位となったが、巨人には未勝利のままで、年間を通じても巨人、大阪に次ぐ3位に終わった。

1940年

井野川利春を4番選手兼任監督に迎える。森弘太郎が28勝を挙げ、山田伝が打率5位になるが、3年続けて巨人、大阪に次ぐ3位に終わった。

1941年

戦局悪化で各球団共に選手の応召が続き、戦力が低下するが、森弘太郎がノーヒットノーランを達成するなど、30勝を挙げ、最多勝となり、チームも勝率.631[注 5]の成績を挙げるが、首位巨人と9ゲーム差の2位に終わっている。

1942年

この年以降も応召が続き、8球団中4位。

1943年

選手兼任監督の井野川が応召され西村正夫が監督になるが、8球団中7位。

1944年

夏季終了時点で応召による選手不足でリーグ戦続行が不可能となり、途中打ち切りとなり、3位に終わった。

西宮時代・戦後(旧・阪急時代)

1945年[3]

西宮球場の倉庫でボールやバットが保管されていたこともあり、11月の戦後プロ野球初試合となる東西対抗戦が神宮球場で開催された。

1946年

リーグの愛称義務化により、チーム名を「阪急ベアーズ」と改称したものの、オープン戦での成績が悪く、「ベアー」という単語も投資の世界で縁起の悪い言葉であることから、開幕前の4月18日までに阪急ブレーブスに再改称した[4][リンク切れ]

この年からリーグ戦が再開され、他球団に比べ、用具がそろっていたことや、野口二郎今西錬太郎が加入したことで、阪急の下馬評は高かったが、投手陣が6月に調子を落とし、長打力不足もあって、チームは8球団中4位に終わる。

西宮時代・戦後(新・阪急時代)

浜崎監督時代

1947年

総監督に浜崎真二、西村正夫が助監督、これに井野川利春も復員してきて助監督という首脳陣となった。野口二郎が24勝、今西錬太郎が21勝を挙げるが8球団中4位に終わり、オフには青田昇が巨人に移籍。

1948年

投手は良いが、青田が抜けて長打力不足となったのが響き本塁打がリーグ最低の25本で、3年連続8球団中4位に終わる。

1949年

長打力不足はこの年も続き、投手陣では天保義夫と今西錬太郎の2人で43勝をあげ、対巨人戦では11勝8敗と勝ち越すがそのうち7勝は天保が挙げており、この年は2位となった。この年のオフ2リーグ分立に伴い、阪急はパシフィック・リーグ所属となる。

1950年

パ・リーグ参戦初年度の開幕4戦目から球団新記録の11連敗と低迷[注 6]し、54勝64敗2分で首位の毎日オリオンズと28.5ゲーム差の4位に終わる。西村正夫西日本に所属していた重松通雄が現役を引退した。

1951年

天保義夫と野口二郎で合わせて13勝止まりで、7球団中5位と低迷。オフにはジミー・ニューベリージョン・ブリットンが入団。

1952年

ニューベリーが11勝、ブリットンが打率3割の活躍を見せるが、2年連続7球団中5位。

1953年

西宮球場にナイター設備が完成し、5月5日よりナイター試合が行われるようになった。阪急はこの年のナイター試合で26戦21勝と「夜の勇者」のあだ名がつくほど強く、新加入のルーファス・ゲインズが14勝、ラリー・レインズ盗塁王になるなど、8月から9月には首位に立つこともあり、9月2日には大映、阪急、南海の3チームがゲーム差無しのそれぞれ1厘差で並んでいたが、ここから南海が12連勝、逆に阪急は5連敗で優勝争いから後退し[5]、最終的に南海と4ゲーム差の2位で終わっている。オフには梶本隆夫が入団。

西村監督時代

1954年

新人の梶本隆夫がこの年の開幕戦の対高橋ユニオンズ戦で初登板で初先発し、初勝利を挙げている。梶本はこの年20勝をあげる活躍を見せるが、チームはその他の投手陣が安定せず、後半戦に息切れして 8球団中5位。ラリー・レインズが首位打者となるが、この年限りで退団。

1955年

新加入のロベルト・バルボンが1番打者で163安打、49盗塁を記録し、チームも夏場まで好調だったものの、9月以降投手陣が不調となり、80勝を挙げたものの、99勝の南海から19ゲーム差の4位に終わる。

1956年

米田哲也の入団に関して、阪神との二重契約問題が生じていたが、2月13日にコミッショナー裁定で阪急入りしている。その米田は9勝、梶本隆夫が28勝、種田弘が17勝を挙げるなど、リーグ1の投手陣と、盗塁のシーズン日本プロ野球記録を更新した河野旭輝の活躍で3位。監督は藤本定義が就任。オフには地元の西宮出身で東京六大学では長嶋茂雄らと競い合って首位打者にもなった慶應の中田昌宏が入団。

藤本監督時代

1957年

1月25日、球団創設者である小林一三が死去[6]。梶本隆夫が24勝、米田哲也が21勝とヨネカジコンビが共に防御率1点台の成績を残すが4位に終わる。オフには立教大学の「立教三羽烏」の1人、本屋敷錦吾が入団。

1958年

前半戦を2位で折り返し、8月には首位に立つこともあり、南海、西鉄との首位争いとなるが、3位に終わる。チーム73勝のうち、米田と梶本で53勝を占めた[7]

1959年

米田、梶本が5月まで勝てず、チームは前半戦に8連敗、オールスターを挟んで8月1日に11連敗を記録し、球団史上最低勝率を更新する.369で5位に終わる。藤本定義はシーズン途中で監督を辞任しており、戸倉勝城が指揮を継いだ。

戸倉監督時代

1960年

あまりの打撃の不振から西宮球場にラッキーゾーンが設置され、本塁打は前年より7本増えたが、それでもリーグ最低の数字で、相手チームの本塁打も増える結果となり、梶本隆夫と米田哲也が共に20勝するものの4位に終わる。

1961年

中田昌宏が南海の野村克也と共に最多本塁打を獲得するが、得点力不足で、米田、梶本は2年連続ともに20勝だが5位に終わり、この頃には「地味」という意味で「灰色の阪急」というあだ名が定着している。このオフ、コーチに西本幸雄を招いている

1962年

8月半ばまで2位を保つが、最終的には4位に終わっている。11月6日、西本が監督に就任。

西本監督時代

1963年

梶本隆夫がプロ入りして初めて勝利数が二桁に届かない5勝、米田哲也がリーグ最多敗の23敗で、投手陣は石井茂雄が頼りという状況で、8連敗を3度記録するなど、最終的に57勝92敗1分で首位の西鉄から30.5ゲーム差の最下位に終わる。

1964年

ダリル・スペンサーゴーディ・ウインディが加入し、野球の戦術を熟知したスペンサーは阪急に「考える野球」をもたらし、やがて来る黄金時代へと大きく貢献する。チームは前半戦を首位で折り返し、南海との首位争いとなり、8月に対南海戦3連敗で2位に落ち、9月12日に南海との首位攻防戦に勝利し0.5ゲーム差としたが直後に3連敗[8]、9月19日の東京オリオンズ戦に阪急が負けたことで南海が優勝[9]、最終的に3.5ゲーム差の2位に終わる。

1965年

チームは前半戦だけで首位と27.5ゲーム差と離され、打線はスペンサー頼みで、スペンサーは7月にはサイクル安打を達成し[注 7]、野村克也と本塁打王争いとなるが、10月に交通事故でシーズンを棒に振る。チームは4位に終わる。この年初めてドラフト会議が行われ、長池徳二住友平が入団。

1966年[10]

梶本隆夫が9月27日に15連敗を記録するなどこの年は2勝止まりで、打線は頼みのスペンサーが20本塁打63打点に終わり、チームも5位に終わる。10月14日、監督の西本幸雄の信任投票事件が起きて、西本は辞意を表明し[注 8]、球団は青田昇を後任監督に進めるが、それを聞いたオーナーの小林米三が自ら西本を説得し、西本は19日に辞任を撤回している。

1967年

スペンサーが30本塁打、長池徳二が27本塁打するなど攻撃力がアップ、投手陣は足立光宏が20勝、米田哲也が18勝、梶本隆夫が15勝を挙げる。オールスター前には2位に8ゲームをつけ首位、10月1日、対東映フライヤーズ戦のダブルヘッダー(西京極)では第1戦に勝利、第2戦は日没コールド負けとなるも、試合中に2位の西鉄が敗れた為、球団史上初のリーグ優勝を達成する(球団創立から32年目での初優勝は日本プロ野球史上最も遅い記録となっている[11])。しかし、初出場となる日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗退。

1968年

投手陣は米田哲也が29勝、打線ではそれまで9年間で8本塁打の矢野清がこの年27本塁打で「10年目の新人」と呼ばれる活躍を見せる[12]。チームは南海との首位争いとなり、10月11日の共にシーズン最終戦を同率で並び、阪急は対東京戦(西宮)、2点ビハインドの9回裏に矢野が同点打を放ち、10回裏にサヨナラ本塁打で勝利を収めている。阪急の試合終了の8分後、同時に試合を行っていた南海が近鉄に敗れたことで、2年連続優勝達成。しかし、日本シリーズでも2年連続で巨人に2勝4敗で敗退。ドラフトでは後に「花の(昭和)44年組」と呼ばれることになる山田久志福本豊加藤秀司が入団[注 9]

1969年

近鉄との優勝争いとなり、10月19日に対近鉄戦(藤井寺)に勝利して3年連続リーグ優勝達成[13]。長池徳二が本塁打と打点の二冠王となる。しかし、日本シリーズでは3年連続で巨人に2勝4敗で敗退。

1970年

福本豊が一番に定着し初めて盗塁王を獲得し、この後福本は13年連続で同タイトルを獲得することになる。山田久志が10勝を挙げるが、打線が低調で4位に終わる。オフに前広島コーチの上田利治を打撃コーチとして招聘する[14][注 10]

1971年

オールスター前までに2位に6ゲーム差をつけ、オールスター直後のロッテ戦2連勝で差を広げるが、この直後8連敗した[15]。それでも9月28日のロッテ戦に勝利し、2年ぶり4度目のリーグ優勝達成[13]。長池徳二が31試合連続安打を記録[注 11]するなどMVPとなり、山田久志が最優秀防御率を獲得。新旧戦力がかみ合った年になった。しかし、日本シリーズは巨人と4度目の対戦で、第3戦で9回二死から山田が王貞治に逆転サヨナラ3ランを打たれて敗れるなど、1勝4敗で敗退。オフには東映の大橋穣種茂雅之らを阪本敏三岡村浩二佐々木誠吾との交換トレードで獲得。

1972年

移籍の大橋穣と種茂雅之が揃ってダイヤモンドグラブを獲得するなど、守備が強化され、福本豊がシーズン盗塁数のメジャーリーグ記録(当時)を上回る106盗塁[注 12]を挙げるなど、最終的には2位に14ゲーム差をつける強さで、9月26日に南海に勝利して2年連続5度目のリーグ優勝達成[13]。しかし、5度目の巨人との日本シリーズでは、2年連続1勝4敗で敗退。V9時代の巨人とはこれが最後の戦いとなったが、すべての年で3勝以上挙げられずに敗退しており、V9時代の日本シリーズで最も多く巨人に負けた球団となった。

1973年[16]

この年よりパ・リーグは前・後期の2期制によるプレーオフ制度を導入。前期は3位に終わったものの、後期は前期優勝の南海に12勝0敗1分として、他球団を圧倒して10月5日に優勝する[17]。阪急有利とみられた南海とのプレーオフは第5戦までもつれ、0対0で迎えた9回表に2点を取られて、3勝2敗で南海の「死んだ振り」[18]に敗退し、西本幸雄は監督を辞任[注 13]、西本の後任にはヘッドコーチの上田利治が就任[19]この年のドラフト会議作新学院高等部江川卓を1位指名したが入団拒否。

第1次上田監督時代

1974年[20]

前期は最終的にロッテとの優勝争いとなり、5月まで不調だった阪急は対南海3連戦に3連勝したことで調子をあげて6月20日に前期優勝決定。後期はロッテ、南海との優勝争いとなるが3位となり、通年では2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3連敗で敗退。

1975年[19]

前期は関西大学から松下電器を経て入団した新人の山口高志が7勝を挙げるなどあり、優勝。後期は6位だったものの、近鉄とのプレーオフでは山口の2完投もあり3勝1敗で3年ぶり6度目のリーグ優勝達成。勝率0.520で両リーグ最少勝率での優勝であった(2022年現在でもこれを下回るチームは出ていない)。投手陣はチーム最多勝が山口と山田久志の12勝だったが、この年の2桁勝利投手は山口、山田らを含めて5人となった。打線では新外国人のボビー・マルカーノバーニー・ウイリアムスの活躍があった。広島東洋カープとの日本シリーズでは4勝0敗2分で6度目の日本シリーズで初めて日本一を達成。但し前述の通り後期が最下位だったことが影響し年間勝率は2位(1位は近鉄)だったため、年間勝率2位以下で日本シリーズに出場し、シリーズ優勝を成し遂げた最初の球団となった。更に年間勝率2位以下で初の日本シリーズ優勝を成し遂げた球団は阪急以外は出ていない(2005年に発足した東北楽天ゴールデンイーグルス2013年に日本シリーズ初出場初優勝しているが、勝率は1位での通過だった)。

1976年[19]

山田久志が最多勝を獲得し、この年より日本プロ野球史上初の3年連続MVPを獲得。福本豊が盗塁王、加藤秀司が打点王になるなど「花の44年組」がいずれもタイトルを獲得し、「阪急史上最強の年」とまで言われ、前後期とも優勝で2年連続7度目のリーグ優勝達成。4年ぶりに巨人との6度目の日本シリーズとなったが、阪急が3連勝のあと、巨人に3連勝されて迎えた第7戦は足立光宏が完投し、4勝3敗で日本一達成となり、前後期優勝の状態で日本一となったため、球団初の完全制覇を達成した。

1977年[21]

前期は南海、近鉄との在阪3球団による優勝争いとなり、6月3日からの対南海戦を3勝1敗とし、64試合目に優勝決定している。後期は先行するロッテ、それを追う阪急との優勝争いとなり、近鉄との最終3連戦で3連勝すれば逆転の可能性も残っていたが、近鉄に敗れたことで、1分2厘の差で2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3勝2敗として、3年連続8度目のリーグ優勝。2年連続巨人との日本シリーズは山田久志の投打にわたる活躍で4勝1敗で3年連続日本一を達成。投手陣では新人の佐藤義則が7勝を挙げて新人王を獲得。打線では代打本塁打の記録をもつ高井保弘が、2年前より導入された指名打者制のおかげでレギュラーに定着し、この年は4番にも入っている。

1978年[19]

前後期ともに優勝し4年連続9度目のリーグ優勝。投手陣ではこれまで6勝の今井雄太郎完全試合を達成するなど、2年目の佐藤義則と共に13勝を挙げ、打線では簑田浩二がレギュラーに定着、この年より8年連続ダイヤモンドグラブを獲得する活躍を見せる。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは3勝3敗とした第7戦、ヤクルトの大杉勝男のレフトポール際への本塁打の判定を巡って監督の上田が1時間19分の猛抗議をするも判定は覆らず。先発していた足立光宏が試合再開後に降板し、ヤクルトの松岡弘に完封されて3勝4敗でシリーズ敗退。上田は抗議の責任を取る形で、翌日監督を辞任。梶本隆夫が監督に就任する。

梶本監督時代

1979年[19]

前期は近鉄とは1ゲーム差の2位に終わる。後期は優勝で、近鉄とのプレーオフに3連敗で敗退し、5年ぶりにリーグ優勝を逃す。加藤英司が首位打者と打点王の二冠王。

1980年[19]

山田久志、山口高志の故障もあり、前期4位、後期は5位で10年ぶりのBクラスとなる5位に終わり、梶本は監督を辞任し、投手コーチに降格。後任には上田利治が3年ぶりに監督に復帰。

第2次上田監督時代

1981年[22]

エースの山田久志が13勝12敗で貯金を作れず、前期3位、後期2位の通年2位。

1982年[22]

前期は2位で、この年山田が16勝するなど復調したが、後期は主軸打者が不振で5位となり、通年でも4位に終わった。

1983年[22]

広島の水谷実雄が加藤英司とのトレードで入り、水谷は4番で36本塁打、114打点で打点王になり、トリプルスリーを達成した簑田浩二や、ブーマー・ウェルズらと強力なクリーンアップを形成するものの、チームは首位の西武と17ゲーム差の2位に終わる。

1984年[22]

開幕から3連勝し、5月から6月にかけて球団記録の13連勝で独走態勢に入り、9月23日の対近鉄戦(藤井寺)で6年ぶりにリーグ優勝達成[23][注 14]。ブーマー・ウェルズが外国人選手初の三冠王を獲得も、広島との日本シリーズではブーマーが徹底的にマークされ、3勝4敗で敗退。この年が阪急最後の優勝となった。

1985年[22]

勝ち越すものの首位の西武と15.5ゲーム差、3位の近鉄とゲーム差無しの1厘差で4位に終わる。

1986年[22]

6月4日に近鉄と首位が入れ替わると、そのまま後退し、3位に終わる。佐藤義則の故障などで先発陣が不足するなど、監督の上田は「選手層が薄いと実感した」とコメントした1年となった。

1987年[22]

首位の西武と9ゲーム差の2位となるが、かつての先発3本柱の山田久志が7勝、佐藤義則が7勝、今井雄太郎が4勝に終わる。

1988年[22]

開幕10試合で1勝9敗で、シーズン通して3位以上とならないまま、監督の上田として初の負け越しで4位となる。阪急電鉄の創立記念日で尚且つ10.19で知られる試合が行われた10月19日、球団がオリエント・リースに買収されることが発表され、この年が阪急ブレーブス最終年となった。オフには山田久志と福本豊が現役引退。また、この年同じくダイエーへ球団買収となった南海の門田博光がダイエー球団の本拠地の福岡へ行くことを拒み、オリックスに移籍。

オリックス時代

オリックス野球クラブ株式会社
ORIX Baseball Club
種類 株式会社
略称 オリックス球団
本社所在地 日本
550-0023
大阪府大阪市西区千代崎三丁目北2番30号
設立 1936年1月23日
(阪急軍としての球団創立日)
業種 サービス業
法人番号 9120001119851
事業内容 プロ野球球団経営
代表者 宮内義彦オーナー
湊通夫代表取締役社長
資本金 1億円(2020年3月31日現在)
総資産 28億2900万円
(2022年03月31日時点)[24]
決算期 3月末日
主要株主 オリックス 100%
関係する人物 小林一三(球団創立者)
外部リンク http://buffaloes.co.jp/
特記事項:1936年に大阪阪急野球協会として設立、1988年にオリエント・リース(現:オリックス)に球団譲渡。
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球団を買収したオリックス社長の宮内義彦(写真は、2009年1月31日にスイスで撮影)

1988年11月4日、正式に阪急電鉄からオリエント・リース(翌1989年にオリックスに社名変更)に球団が譲渡。球団名はオリックス・ブレーブスORIX Braves)、会社名は「オリックス・ブレーブス株式会社」に変更された(1990年9月には、現在のオリックス野球クラブ株式会社へ社名変更)。

阪急グループの娯楽事業では阪急ブレーブス、宝塚歌劇団がいずれも1980年代には年間8億円の赤字を出していた。ブレーブスはオリックスに売却し、自助努力で採算向上が可能な宝塚歌劇団に集中投資することになった[25]。阪急時代には、無料券を配布して試合に客を集めていたが、鉄道収入と球場売店の売上はあった。親会社がオリックスになってから、無料券の配布は廃止された[26]

球団事務所はそれまでの大阪府大阪市北区角田町から同府同市同区曾根崎新地に移された。球団オーナーは小林公平から宮内義彦オリックス社長に交代し、球団社長(兼球団代表)に近藤靖夫が就任した。球団幹部の一般公募を実施し、その結果として丸善石油出身で、上智大学硬式野球部監督を歴任するなどアマチュア野球指導の経験がある井箟重慶が1989年には常務取締役事業本部長(のちに1990年から2000年まで球団代表)、帝人出身の金光千尋が取締役事業本部長に就任した[27]

球団譲渡とともに、ユニフォームは黒と赤を基調とした配色から、オリックスブルー(紺色)とブレーブスゴールデンイエロー(黄金)のデザインへ変更され、ブレーブスの赤はヘルメットの差し色に継承された。当初は、「ブレーブス」の愛称と阪急西宮球場の使用が継続されたが、1988年に完成したグリーンスタジアム神戸を準本拠地とすることも併せて発表された。グリーンスタジアム神戸は阪急時代だった1988年5月の対南海戦でも使われたが、1989年には主催試合が14試合と増加し、1990年も13試合組まれた。監督は上田が続けた。

西宮時代(ブレーブス時代・球団合併前)

1989年

球団譲渡後の初年度となったシーズンは開幕8連勝でスタートダッシュに成功。南海から移籍した門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを引っ張ったが、9月25日のダイエー戦で門田がブーマーとハイタッチした際に脱臼し戦線を離脱、投手陣の駒不足も深刻でエース佐藤義則とルーキーの酒井勉が全てのポジションを担っていたがシーズンが進むにつれスタミナ切れで失速したことが響き、優勝した近鉄にゲーム差なし、勝率1厘差の2位となった。酒井は西武の渡辺智男との新人王争いを制し新人王に選ばれた。

1990年

ブーマー・福良淳一の怪我や不調、また課題だった投手陣の整備ができず西武の独走を許す形になり2年連続の2位に終わる。上田監督が辞任し、門田は退団した。

翌年より40年以上も本拠地としていた阪急西宮球場からグリーンスタジアム神戸に本拠地を移した。オリックスは、コンサルタント会社を使って、阪急西宮球場周辺の市場リサーチをしたが、阪急西宮球場は競輪場と兼用していたため、公営競技である競輪が行われる場所は「男がビール片手に集まる場所」とのイメージがあった。西宮周辺は、女子大学が多いにもかかわらず、野球観戦をする女子大生らが足を運びにくいとの調査結果が出たのが、本拠地移転の動機だった。移転の候補地としては、札幌市千葉市大宮市も検討されたが、結局はグリーンスタジアム神戸に決まった。その理由は、すでに同球場が準本拠地のような位置づけだったことに加え、神戸市から熱心な誘致活動を受けたことが要因である[28]。市当局からはグリーンスタジアム神戸への大型スクリーン設置の約束をとりつけ、入場者数によって球場使用料を変えたり、球場内の売店の売り上げや広告収入を球団と神戸市が折半したりするなど、当時の慣例にとらわれない使用契約を結ぶことができた。本拠地移転と同時に、公募の結果チーム名を長年使用したブレーブスからブルーウェーブ(BlueWave)に変更[注 15]オリックス・ブルーウェーブとなる。担当記者達は長年チームを率いた上田の後任は二軍監督の福本豊が最有力との観測もあったが[30]、地元神戸市出身かつ読売ジャイアンツOBの土井正三が就任し、脱阪急色が進んでいった。

神戸時代(ブルーウェーブ時代・球団合併前)

土井監督時代
1991年

開幕5連敗でスタートダッシュに失敗。以降も4月24日から6連敗、5月6日から8連敗を喫し、5月終了時点で14勝27敗で最下位に沈むなど低迷したが、投手では新人の長谷川滋利、野手では7年目の高橋智の活躍もあり6月以降は復調。しかし自慢のブルーサンダー打線は上手く機能せず、投手陣も若手ベテラン問わず不調や怪我があり3位に終わる。この年のドラフトでは1位で田口壮、そして4位で鈴木一朗(イチロー)を獲得。ブーマーが退団。

1992年

開幕権はこの年から新しく本拠地を千葉マリンスタジアムに移転したロッテが本拠地の開幕戦を熱望したため、交渉の結果オリックス側が譲渡した。前年リーグ3位の打率ながら本塁打と打点はリーグ4位と中途半端な打撃成績の一方で、リーグ5位の失策数もあり、脱ブルーサンダー打線、繋ぎの野球、守り重視の野球を目指したが、前年に続き4月8日から5連敗、5月9日から8連敗と序盤から低迷。脱ブルーサンダー打線も打率こそリーグ2位になったが本塁打数はリーグ最下位と苦しみ、野手陣の怪我や不調を投手陣がカバーするのがやっとで年間成績は首位西武と18ゲーム差で、またしても3位に終わった。阪神から松永浩美とのトレードで野田浩司を獲得。

1993年

阪神から移籍の野田が最多勝に輝く活躍を見せたが、阪急世代のベテランらが目立った活躍ができず、3年連続の3位に終わり、土井は監督を退任し、後任に仰木彬が就任した。

仰木監督時代(ブルーウェーブ時代・球団合併前)
1994年

仰木の下でレギュラーとして起用されたイチロー(この年に登録名を変更)は初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立し、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録。その功績に対してオフには正力松太郎賞が贈られた。また、それまで内野手だった田口を外野手に転向。左翼田口・中堅本西厚博・右翼イチローは当時12球団最強の外野陣と言われるほどの守備力の高い布陣となった。開幕から主力投手陣の不調や大砲不在と苦しいスタートだったがこの年から導入された予告先発を上手く利用し多種の先発オーダーを展開、前半は佐藤義則と山沖之彦の両ベテランが支え、後半は主力投手陣が本来の力を取り戻し、優勝争いにも加わった。しかし、対戦成績では近鉄・ロッテ・日本ハムには大きく勝ち越したものの、ダイエーには9勝17敗、優勝した西武とは7勝18敗と大きく負け越し、チームの打撃成績でも最多本塁打がイチローと藤井の13本が最高と大砲不在が最後まで響き、最終順位は2位に終わった。それでもイチローフィーバーに後押しされたチームは観客動員も球団記録を大幅に更新した。

1995年

1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、当時の本拠地・神戸市が甚大な被害を受けた一方で、神戸市西区内の強い地盤の上に建つ「青濤館」(球団所有の選手寮兼室内練習場)では被害が軽微にとどまった。そのため、震災の直後には、館内に備蓄していた水や食糧を近隣の被災者へ無料で配布した[31]。球団関係者は全員無事だったものの、春季キャンプ以降のスケジュールの大幅な変更を余儀なくされたほか、一時は神戸での試合開催が危ぶまれた。しかし、地元・神戸市出身の宮内オーナーが、「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」という表現で神戸での開催を主張。結局、当初の予定に沿って神戸で公式戦を開催することが決まったため、チームは「がんばろうKOBE」を合言葉にシーズンへ臨んだ[23]。被災した神戸市民を励まそうと一丸となったチームは、6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースは独走状態となり、7月末に早くもマジックが点灯した。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、6年ぶりに勝ち越し、対戦成績では21勝5敗と大きく勝ち越した。また、4月19日の対ロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で野田浩司が1試合奪三振19の日本新記録を達成すると、佐藤義則が8月26日の対近鉄戦(藤井寺球場)で、当時の史上最年長でのノーヒットノーランを記録。また2年目の平井正史が抑えの切り札として当時の日本記録となる42セーブポイント(15勝、27セーブ)を挙げた。「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦(近鉄戦1試合、ロッテ戦3試合)に全敗し念願の地元胴上げはならなかったものの、西武球場で行われた9月19日の対西武戦に勝利し、1984年以来11年ぶりにして球団譲渡後初のリーグ制覇を達成した。日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れたが、被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援でチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係はホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。

1996年

日本ハムに先行を許し、5ゲーム差の2位で前半戦を終えたが、後半戦に入ると日本ハムとの直接対決で(引き分けを挟んで)5連勝を記録し、8月末に首位に立つ。9月23日の日本ハムとの直接対決(グリーンスタジアム神戸)ではイチローのサヨナラ安打で勝利を収め、リーグ2連覇と2年越しの「神戸での胴上げ」を実現した。8月17日から優勝決定までは21勝4敗2分という驚異的な勢いであった。日本シリーズでも巨人を4勝1敗で下し、地元神戸で1977年以来19年ぶりにして球団譲渡後初の日本一に輝いた[注 16]。この年は観客動員数も大幅に伸び、過去最高の179万4000人を記録している。1991年新人王の長谷川滋利MLBアナハイム・エンゼルスに移籍。

1997年

4月・5月はほぼ勝率5割であったが、6月になると月間16勝3敗1分という快進撃を見せ首位に浮上。8月上旬の時点で2位西武に4.5ゲーム差をつけ、リーグ3連覇を視界に捉えたが、そこから投手陣が崩壊。さらに若返りを焦ったあまり2連覇に貢献したベテランを相次いで放出してしまった結果、勝負所で若い選手のミスが敗戦に繋がり、西武とのマッチレースに敗れ、2位に終わる。なお、23年ぶりに全球団に勝ち越しながら優勝を逸するという珍記録も残している。オフに中嶋聡が西武にFA移籍。

1998年

開幕6連敗を喫するなど波に乗れないまま、借金14の最下位で前半戦を折り返す。後半戦に入ると復調しリーグトップの勝率を記録、最大15あった借金を完済したが、勝率5割の3位に終わった。また、優勝戦線には一度も絡めず、激戦のパ・リーグの中で唯一首位に立てなかった。この年のドラフト会議で、沖縄水産高校新垣渚を指名し、交渉権を獲得したが、入団交渉は難航し、球団編成部長の三輪田勝利が自殺するという事態が起きた。新垣は入団せず九州共立大学に進学し、後にダイエーに入団している(詳細は三輪田勝利#1998年のドラフト、突然の死参照)。

1999年

8月半ばの時点では首位ダイエーと4ゲーム差の3位につけていたが、そこからダイエーと2位の西武に合わせて6連敗を喫し、優勝戦線から脱落。最終的には打率リーグ1位、防御率2位となったものの、若手の伸び悩みが目立って3位に終わった。この頃から1995年と1996年のリーグ連覇を担った選手たちが、引退・トレード・FA等で次々とチームを去っており、弱体化の傾向が目立つようになる。そして、それ以降は優勝争いができないシーズンが続くことになる(観客動員数も年々減少)。

2000年

ファームの収益性改善・独立採算を目指し、ファームのチーム名をサーパス神戸( - こうべ、SURPASS KOBE。後にチーム名は「サーパス」に変更)に改称した。「ファームとは本来選手がいてはいけないところ」という理念のもとにファームの改革に着手する。シーズン序盤はダイエー・西武と首位争いを繰り広げ、首位と0.5ゲーム差の3位で前半戦を折り返したが、8月に4位に転落すると、イチローの戦線離脱が追い討ちとなってAクラス争いからも脱落。結局、4位に終わり、オリックスへの球団譲渡後としては初、球団としては阪急時代最後のシーズンである1988年以来12年ぶりにBクラスに転落した。また、オフにイチローポスティング制度を利用してシアトル・マリナーズに移籍。この年オフから3年間、ドラフト下位指名選手は「契約金ゼロ」での入団(活躍後の後払い)を実行するなど、若手にハングリー精神を植え付けようとする試みを始めたものの、効果は出ず、チームの弱体化に歯止めはかからないままだった。

2001年

ハンファ・イーグルス(韓国)から獲得した具臺晟や新人の大久保勝信を加えて臨んだ。イチローの守っていた右翼では若手の葛城育郎がレギュラーを確保し、大久保も抑えとして新人王を獲得する活躍で、8月初旬では首位近鉄に2.5ゲーム差の位置につけていた。しかし、8月下旬に7連敗を喫し5位にまで転落すると9月26日の対近鉄戦(大阪ドーム)では、大久保が北川博敏に代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打を喫した。終盤に盛り返し、シーズンを4つの勝ち越しで終えたものの、順位は4位と2年連続のBクラスに終わった。このシーズンをもって仰木は監督を退き、後任には石毛宏典が就任。この年に左翼のレギュラーで、チームの精神的支柱の田口壮がFA宣言を行い、セントルイス・カージナルスに移籍。

石毛・レオン監督時代
2002年

この年はチーム打率.235と極端な貧打に悩まされた。この貧打により、主戦投手の金田政彦が防御率2.50で最優秀防御率のタイトルを獲得するも4勝9敗、具臺晟もリーグ2位の防御率2.52を記録しながら5勝7敗と投手陣を見殺しにする試合が多く、阪急時代の1963年以来39年ぶりとなる球団史上2回目の最下位に転落してしまった。特に接戦に弱く、1点差だと15勝23敗、2点差だと8勝21敗であった。5月14・15日にはダイエーの主催ゲームとして台湾台北市立天母棒球場で2連戦を開催、球団としては阪急時代の1962年に当時の米国統治下にあった沖縄での対大毎戦以来40年ぶりの日本国外での試合となった。また、藤井康雄がこの年をもって引退した。中日から平井正史とのトレードで山﨑武司を獲得。

2003年

前年の極度の貧打を受けてシーズンオフにはメジャーリーグで将来を嘱望されたルーズベルト・ブラウンホセ・オーティズや中日で本塁打王を獲得した実績のある山﨑武司など長距離砲を積極的に補強したが、大砲に偏った構成が響いて開幕から打線のつながりを欠いて低迷。当初不振に喘いでいた外国人選手の起用を巡っての球団との対立もあって、4月23日に石毛は解任された。後任には打撃コーチを務めていたレオン・リーが就任し、オーティズを二塁手で起用するなどの極端な攻撃重視のオーダーを組んだ。これにより、打率と本塁打の向上こそ見られたが、得点力には必ずしも結びつかず、逆に投手陣に故障や不振が続出したところに、ブラウンやオーティズなど守備力に難がある選手が多かったことが重なり、ディフェンス面が壊滅。特に、7月26日から8月1日までの1週間で91失点し、その後も大量失点する試合が目立った。結局、シーズンを通しての失点は927(818自責点)にものぼり、シーズン通してのチーム防御率も5.95という日本プロ野球史上ワーストの成績に終わる。特に対ダイエー戦では20失点以上を6月から9月にかけて毎月に計4度記録するなど[注 17]、守乱が目立った。48勝88敗4分、最終的な借金が40と大惨敗であった。球団史上初の連続最下位となり、レオンが引責辞任。後任にはこの年まで西武の監督だった伊原春樹が就任。オフにダイエーからFA宣言した村松有人、阪神からムーアを獲得している。

伊原監督時代
2004年

後述する近鉄との球団合併問題が発生し、ブルーウェーブとしての最後の年となった。この年もチーム防御率5.66と投手陣が崩壊し、3年連続最下位に終わっている。特にダイエーには4勝23敗、うち後半戦は10戦全敗と大敗した。これはこのカードの最多敗戦記録であり、プロ野球全体でも同一カード最多敗戦タイ記録である[注 18]。後半戦で全敗したことについて、当時監督だった伊原春樹は「後半戦はダイエー戦の前にいつも西武戦が組まれていて、ダイエー戦ではまともな投手がいなかった」と述べている。また、山﨑武司や川越英隆といった一部の主力選手と伊原との確執も囁かれていた。9月27日のYahoo! BBスタジアムでの最終戦は合併相手であり、こちらもこの試合が球団として最終試合となる対近鉄戦となったが、7-2で勝利している。

6月13日、日本経済新聞により大阪近鉄バファローズとオリックスの球団合併が報じられ、球団合併を両球団が検討していることが判明した。以後、紆余曲折を経て12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、オリックス・バファローズとなった[注 19]。なお、この時に選手分配ドラフトが開催され、選手の約半数(主には一軍戦力としては不要な選手)を新規参入球団東北楽天ゴールデンイーグルスに譲渡している。合併後の監督には近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年 - 1992年:近鉄、1994年 - 2001年:オリックス)が復帰。保護地域に関しては兵庫県を保護地域としてきた阪神タイガースとの兼ね合いもあり、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの保護地域である兵庫県と、近鉄の保護地域だった大阪府の両方を阪神タイガースとともに保護地域とするダブルフランチャイズの形が取り入れられ、神戸総合運動公園野球場と大阪ドームの両方を実質的な本拠地球場とした(専用球場の扱いについてはまとめて後述)。球団事務所については引き続き神戸市内に置くことになった。

大阪・神戸時代(バファローズ時代・球団合併後)

仰木監督時代(バファローズ時代・球団合併後)
2005年

合併により、近鉄から有力選手が加入したことに加え、仰木が監督に復帰したことから、戦力は大幅に向上して臨んだシーズンとなった。仰木は肺がんに侵されながらも、指揮を執った。楽天相手には勝利を重ねる一方で、ソフトバンクには前年後半からの苦戦を引きずる形でこの年も苦しみ、一時は夏場まで1勝しか挙げらないほどだった。それでも楽天が最下位を独走するほどの低調ぶりで5位以上に留まり、チームは最後までAクラス争いを続けたが、西武に振り切られ、Aクラス入り・プレーオフ進出を逃がした。また、日本ハム相手には主催ゲームでは1勝しか挙げられず、9月の主催4連戦では全敗を喫し、Aクラス入りが遠のく一因となった。それでも2001年以来4年ぶりに最下位から脱出し、4位でシーズンを終了した。だが、仰木は癌の影響で体調面に問題があることから、この年限りで監督辞任を表明し、後任にゼネラルマネージャーだった中村勝広が監督に就任。編成を司るGMより監督への就任は日本球界初となる。オフに仰木は球団シニアアドバイザーに就任するも、12月15日に肺がんによる呼吸不全のため、70歳で死去した。巨人を自由契約となった清原和博を獲得。ロサンゼルス・ドジャースに所属していた中村紀洋が2年ぶりに復帰。

中村監督時代
2006年

大阪ドーム京セラとネーミングライツ契約を結び、7月1日付で「京セラドーム大阪」に改称された。清原や中村、広島を戦力外となったトム・デイビーロッテからはダン・セラフィニ、新外国人のジェイソン・グラボースキーなどを獲得し、シーズンに臨んだ。デイビーは開幕から好投を続け、開幕投手の川越も期待に応えたが清原と中村は故障に苦しみ、前年から在籍するクリフ・ブランボーは不振で、ガルシアは試合前の長電話で中村監督の怒りを買うトラブルを起こして成績も不調で、前年奮闘したリリーフ陣も菊地原毅加藤大輔を除けばほとんど調子を落とし、低調な戦いが目立った。また、谷佳知も不振を脱却できず、規定打席に到達したのは村松、塩崎真、谷の3人だけと主軸を固定できなかった。8月27日の北海道日本ハムファイターズ戦で敗れ、7年連続Bクラスと1986年以来26年ぶりの5位が確定した。成績不振の責任を取って中村が監督辞任、後任はテリー・コリンズが就任。オフに巨人から低迷期より主戦打者だった谷佳知との1対2トレードで鴨志田貴司長田昌浩を獲得。11月20日よりこれまで神戸市(スカイマークスタジアム内)にあった球団事務所を大阪市北区堂島に移転した(後に京セラドーム大阪内に再移転)。この結果、球団業務の大半(球団本部、大阪営業部、ファンサービス部等)は大阪に集約され、一方の神戸事務所は神戸営業部等一部の業務のみに規模を縮小するなど、球団の経営機能は大幅に大阪にシフトしていくことになった。一方で、選手の入団会見や契約更改は、現在でも主に神戸にて行われる[32][33]。また、専用球場の登録はこの年に限り暫定的に神戸に移したが、シーズン終了と共にまた大阪に戻し、試合数を大幅に増やすことになる(後述)。

コリンズ監督時代
2007年

1月6日に前川勝彦が大阪市内でひき逃げ事故を起こし、さらに無免許[注 20]だったことが発覚して、業務上過失傷害と道路交通法違反の疑いで逮捕された。これを重く見た球団は、1月18日付で前川を懲戒処分として所属契約を解消、その騒動の最中だった1月17日に大幅な減俸を提示されて契約交渉が決裂した中村紀洋も同様に契約を解消した。このほか、球団の編成も完了している時期の契約解消について、選手会が野球協約上、問題のある交渉ではないかと批判している。シーズン開幕前に新外国人としてタフィ・ローズを獲得して臨んだシーズンだったが、選手起用などで混迷は続いた。4月下旬から5月半ばにかけて17試合で1勝16敗と大きく負け越すと優勝争いはおろか、Aクラス争いにすら加わることなく、パ・リーグ他5球団に負け越し、3年ぶりの最下位となった。オフにかつてオリックスに在籍していた前巨人のジェレミー・パウエルの獲得を発表したが、1月29日になって福岡ソフトバンクホークスとの間で二重契約問題が発生し、パウエルはソフトバンクに入団した(詳しくはジェレミー・パウエル#二重契約問題を参照)。

大阪時代(バファローズ時代・球団合併後)

2008年

この年より協約上での保護地域を大阪府に統合。3月1日にこれまで共同出資を行っており、袖のユニフォームスポンサー契約を結んでいた近畿日本鉄道とのスポンサー契約を更新しないことが発表された(出資も引き揚げ)。これにより、近鉄は1949年の近鉄パールス創設以来かかわって来たプロ野球事業から完全に撤退した。

序盤は開幕から4月にかけて12勝19敗と低迷が続き、借金生活に。結局、5月21日に監督のコリンズが辞任し、併せて大石大二郎ヘッド兼内野守備走塁コーチが監督代行として指揮を執ることを発表した。

大石監督時代
交流戦優勝トロフィーと賞金盾

※2008年の監督代行時代も含める。

2008年

大石の監督代行就任後、6月3日の巨人戦に勝利し、阪急時代も含めて通算4500勝を達成[注 21]するなど、チームは持ち直していった。

8月1日、監督代行の大石が正式に監督に昇格した。9月24日の対ソフトバンク戦に勝利して2001年シーズン以来7年ぶり、オリックス・バファローズとしては初のシーズン勝ち越しを決め、29日の対西武戦に勝利して、初のクライマックスシリーズ進出を決めた。2位に終わり、クライマックスシリーズでは第1ステージで3位日本ハムと対戦。2連敗で敗れ、日本シリーズ出場はならなかったものの、15勝を挙げて新人王を獲得した小松聖を筆頭に、山本省吾金子千尋近藤一樹が先発10勝、加藤大輔最多セーブ坂口智隆ゴールデングラブ賞、ローズは打点王を獲得するなど、チームの戦力は大幅に充実した。清原和博が現役を引退した。

2009年

1月19日にファームとネーミングライツを契約していた穴吹工務店との契約満了に伴い、10年ぶりにファームのチーム名が「サーパス」から一軍と同じ「オリックス・バファローズ」に変更された。2月23日、ビジター用ユニフォームと球団旗のデザイン変更が発表される(後述)。3月28日、関西プロ野球球団初の球団公式チアリーリングチームがデビューし、4月10日にチーム名「Bs Dreams(ビーズ・ドリームズ)」が発表された。この年は、楽天を退団したホセ・フェルナンデスを加え、ローズ、アレックス・カブレラグレッグ・ラロッカの4人でビッグボーイズを結成するなどし、開幕前の野球解説者の予想でも上位にあげられていたが、これら4人の外国人選手全員が死球などで全員が骨折するなど、極度の不運に見舞われ、主力選手の多くが怪我で離脱した。先発投手陣も、前年大活躍をした小松が開幕から大不振に陥ったのをはじめ、近藤が5月から不調に陥り、復帰した平野佳寿も開幕直後に体調不良で戦線離脱、開幕から金子と共に好調を維持していた岸田護も故障で離脱した。さらに、抑えの加藤を擁するリリーフ陣も不安定な投球が目立ち、9月以降は先発要員の金子が抑えに起用された。チームは5月に9連敗、6月に7連敗と大型連敗を繰り返し、6月は4勝14敗と大きく負け越して低迷。6月10日から一軍投手コーチ(ベンチ)の赤堀元之をブルペン、一軍投手コーチ(ブルペン)の清川栄治をベンチに配置転換した。6月18日からは一軍チーフ投手コーチの佐々木修を二軍投手コーチに降格、先日一軍投手コーチとなった清川栄治を一軍チーフ投手コーチに昇格する人事を発表している。しかし、これでも好調の兆しは最後まで見られず、優勝した日本ハムに8勝16敗、2位楽天には4勝19敗1分と大きく負け越すなど苦戦を強いられ、9月にはシーズン3度目の6連敗を喫した。9月9日の対楽天戦で敗戦を喫して2007年以来2年ぶりにシーズン負け越しが決定。9月27日の対ロッテ戦で引き分けになり、勝率差でロッテに及ばなくなったため、2007年以来2年ぶりに最下位となった。その責任を受けて中村GMと大石監督が解任。大石の後任には2008年まで阪神の監督を務めた岡田彰布が就任した。阪神を自由契約となったアーロム・バルディリス、巨人から高木康成とのトレードで木佐貫洋を獲得。

岡田監督時代
2010年

1月23日にシカゴ・カブスを自由契約となっていた田口壮が9年ぶりに復帰。だが、2月5日にキャンプ地の宮古島市のホテルで小瀬浩之が転落死[34]する事態が起きた。直後に西武から阿部真宏とのトレードで赤田将吾を獲得。3月20日から3月26日まで1989年以来のパ・リーグ開幕4連勝を果たす。4月2日から4月7日まで5連敗・合計37失点と大量失点されたこともあり、4月8日に一軍バッテリーコーチの三輪隆を二軍バッテリーコーチに降格、二軍バッテリーコーチの吉原孝介を一軍バッテリーコーチに昇格する人事を発表した。交流戦に入ると16勝8敗の好成績を残し、6月13日の対横浜ベイスターズ戦を7-2で勝利し、交流戦6年目で初優勝した。交流戦後の後半戦に入ると一時は3位に浮上したものの、主力選手の不振等で連敗を繰り返し、その後もCS出場圏内に留まっていたが、9月26日に日本ハムが勝ち、勝率差で日本ハムには及ばなくなったため、2年連続Bクラス、9月28日に2006年以来4年ぶりの5位が決定した。T-岡田本塁打王金子千尋最多勝を獲得した。ドラフトでは後にトレードで中日に移籍することとなる後藤駿太三ツ俣大樹を指名。オフに横浜から一輝、山本省吾、喜田剛との計3対4トレードで桑原謙太朗野中信吾高宮和也寺原隼人、ロッテから光原逸裕とのトレードで齋藤俊雄を獲得。

2011年

オリックス・バファローズ改造計画」と称し、球団旗・ユニフォーム・ペットマーク・ロゴマークを全部一新、新マスコット(バファローブルバファローベル)を導入した。一方、既存マスコット(ネッピー、リプシー)は引退となった。

4月29日にロッテから金銭トレードで竹原直隆を獲得。交流戦は2位。チーム防御率リーグワーストと投手陣が低迷していたため8月3日付で一軍投手チーフコーチの福間納を育成担当へ降格、育成担当の赤堀元之は一軍投手コーチ(ブルペン)、ブルペン担当だった小林宏はベンチへ昇格した。4年連続でシーズン中に投手コーチが交代することになった[35]。その後、8月28日の対ロッテ戦から9月7日の対楽天戦まで1997年以来14年ぶりの9連勝を達成した[36]。9月は18勝6敗1分という好成績で3位となり、調子を落とした2位の日本ハムと一時は1.5ゲーム差にまで縮めるが、10月は3勝9敗1分と調子を落とし、最後は西武との3位争いの末、18日のシーズン最終戦において[注 22]オリックスがソフトバンクに敗れ、同じくこの日最終戦だった西武が日本ハムに勝利したため、わずか勝率1毛差(.0001差)で4位に転落し、3年連続のBクラスに沈み、2008年以来3年ぶりのAクラス入りとクライマックスシリーズ出場を逃した。オフに李承燁朴賛浩加藤大輔、田口壮が退団した。西武からFA宣言した許銘傑、新外国人として李大浩を獲得。

2012年[37]

3月28日に元阪神の井川慶を獲得。4月19日に勝率5割とした以外はすべて勝率5割を切った。月間別勝率でも7月と10月に勝ち越した以外はすべて負け越し、6、8、9月は勝率3割台で、9月には12連敗で球団記録を更新するなど、タイ記録となった同月24日の対ロッテ戦で最下位が確定し[38]、翌25日にシーズンの最後まで指揮を執ることになっていた[39]監督の岡田とヘッドコーチの高代延博が休養し、併せてチーフ野手兼内野守備・走塁コーチの森脇浩司が監督代行として指揮を執ることを発表した[40]

森脇監督時代

※2012年の監督代行時代も含める。

2012年[37]

9月25日の対ソフトバンク戦に敗れ、連敗の球団新記録となり[41]、翌26日の対ソフトバンク戦に勝利して連敗を止め、森脇の監督代行就任以降の成績を7勝2敗とした。北川博敏が現役を引退した。西勇輝が10月8日のシーズン最終戦で小久保裕紀の引退試合となった対ソフトバンク戦でノーヒットノーラン達成[42]。監督代行の森脇が翌年から正式に監督として指揮を執ることを発表した[43]。チーム打率、防御率は共にリーグ最低で、最下位チームからは史上6人目の打点王となった李大浩が打点を挙げた試合では30勝27敗2分と勝ち越すが、打点0の試合では27勝50敗8分と大きく負け越した。オフに日高剛が阪神にFA移籍。寺原隼人がFAでソフトバンクに復帰。巨人から香月良太阿南徹との2対2トレードで東野峻山本和作、ロッテを自由契約となった松本幸大を獲得。中日を自由契約となった平井正史が11年ぶり、阪神からFA宣言した平野恵一が6年ぶりに復帰。FAで6年ぶりに復帰した平野の人的補償として高宮和也が阪神に移籍。FAでソフトバンクに復帰した寺原の人的補償として馬原孝浩、日本ハムから大引啓次、木佐貫洋、赤田将吾との3対2トレードで糸井嘉男八木智哉を獲得[44]

2013年

エースの金子千尋はケガのため、オープン戦に登板できなかったものの、ぶっつけ本番で開幕投手を任され、好投した。交流戦は13勝10敗で巨人・日本ハム・ロッテと同率の3位とした[45]。9月21日にシーズン前のトレード相手の日本ハムを抜いたことで、最下位から脱出するも、10月1日の対ソフトバンク戦に2対9で敗れ、5年連続Bクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出を逃した[46]が、それでも同月6日の対ロッテ戦に3対1で勝利したことで、2010年以来3年ぶりの5位が確定した[47]。個人では金子千尋が沢村賞を24勝無敗の偉業を成し遂げた楽天田中将大に譲ったが、田中もできなかった沢村賞の選考基準全項目を満たし、奪三振王のタイトルを獲得した。また、糸井は3番ライトを担い、この年も24本塁打を記録した4番の李大浩、5番のアーロム・バルディリスと共に強力なクリーンアップを築き、自身5年連続となる打率3割・ゴールデングラブ賞を達成し、自己最多の安打、本塁打、盗塁を記録するなど投打の柱は共に活躍した。オフにバルディリスと李大浩の両外国人選手が退団した(バルディリスはDeNA、李大浩はソフトバンクに移籍)。日本ハムを自由契約となった榊原諒と育成契約を結んだ。巨人を自由契約となった丸毛謙一を支配下選手として獲得したと同時に谷佳知が8年ぶりに復帰。ソフトバンクからFA宣言した山崎勝己、西武を自由契約となったエステバン・ヘルマン、ソフトバンクを退団したウィリー・モー・ペーニャ、楽天から後藤光尊とのトレードで鉄平を獲得。

2014年

4月を首位で終えると、ソフトバンクとの熾烈な首位争いを繰り広げ、1995年以来19年ぶりに前半戦を首位で終える。一方、7月8日に榊原諒を支配下選手に昇格させた。また、7月29日に中日から三ツ俣大樹とのトレードで岩﨑恭平を獲得。9月17日には2008年以来6年ぶりのAクラスとクライマックスシリーズ進出が決定した[48]。ソフトバンクとの優勝争いは続き、9月終盤には残り試合数の関係で、一時は2位ながらも、優勝マジックが点灯した。10月2日のソフトバンク戦(ヤフオクドーム)、オリックスはこの試合に勝って残りシーズン2試合を2連敗さえしなければ、1996年以来18年ぶりのリーグ優勝、この試合がシーズン最終戦となるソフトバンクはこの試合に勝てばリーグ優勝という事実上の優勝決定戦を迎える。試合は9回では決着がつかず、延長に突入するが、10回裏にサヨナラ負けを喫したことで、優勝を逃し、1位との勝率僅か2厘の差で2位に終わった[49][50][51]。日本ハムとのCSファーストステージでは1勝2敗で敗退した[52]。この年は各選手がキャリアハイレベルの成績を達成し、打撃陣では3番や4番を務めた糸井嘉男が前半戦終了時点で打率安打盗塁出塁率長打率でトップに立ち、最終的に19本塁打と81打点、31盗塁に加え、首位打者最高出塁率のタイトルを手にする大活躍を見せると、ペーニャも32本塁打、91打点の活躍で退団した李大浩の穴を埋め、T-岡田も24本塁打を放ち、チームとして長打力が大幅にアップ。また、ヘルマンが30盗塁の活躍で退団したバルディリスの穴を埋め、安達了一が29盗塁と課題の機動力も大きく向上した。投手陣では最多勝最優秀防御率最高勝率投手三冠に輝き球団史上初の沢村賞を獲得した[53]エース金子千尋、開幕8戦全勝の球団記録を樹立した西勇輝、さらに9勝を挙げたブランドン・ディクソンら先発陣に、48ホールドポイントを挙げ2年連続ホールド王に輝いた佐藤達也、当時パ・リーグ新記録の40セーブを挙げ、初のセーブ王を獲得した平野佳寿に加え、32ホールドの馬原孝浩、パ・リーグ記録の34試合連続無失点を記録した比嘉幹貴、55試合に登板した岸田護ら強力なリリーフ陣の活躍で、リードした試合は落とさない安定した戦いを見せた。オフに八木智哉、ペーニャが自由契約となった(八木は中日、ペーニャは楽天に移籍)。阪神から桑原謙太朗とのトレードで白仁田寛和、中日を自由契約となった田中大輔を獲得。チームが好成績を残したことで、フロントが大型補強を敢行。日本ハムからFA宣言した小谷野栄一、メジャーリーグに挑戦していた中島裕之、DeNAを自由契約となったトニ・ブランコ、広島を自由契約となったブライアン・バリントンを獲得。戦力流出の阻止としてはFA権を行使しての国内移籍の意向を示していた守護神の平野佳寿を球団のリリーフ投手史上最高の年俸3億円の3年総額9億円契約を締結[54]。さらには12月15日に日本ハム時代からポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦を切望していた主砲の糸井には日本人外野手最高の年俸3億5,000万円の単年契約で残留にこぎつける[55]。そして12月24日にFA権を行使し、国内・海外への移籍への交渉を行っていたエースの金子を球団の投手史上最高の年俸5億円の4年総額20億円という超大型契約[56][57]で投打の柱の3選手の流出を阻止した。合計50億円超(推定)の大型増強を行った。

2015年

開幕から打撃陣が総じて不振に陥り、故障者も続出。投手陣もエースの金子や昨年活躍したリリーフ陣の出遅れなどが響いて大きく負け越した。チーム打率.232はリーグ5位と低迷、それを受けて4月19日の埼玉戦終了後に一軍打撃コーチの佐藤真一と二軍打撃コーチの下山真二の配置転換を発表した[58]。しかし、チームは浮上することなく、5月31日に早くも自力優勝が消滅した[59]。6月2日に監督の森脇が低迷の責任を取って休養し、併せてヘッドコーチの福良淳一が監督代行として指揮を執ることを発表した[60]

福良監督時代

※2015年の監督代行時代も含める。

2015年

前年まで二軍打撃コーチを務めていたフロント業務未経験の北川博敏を事業本部企画事業部のプロジェクトマネジャー(PM)に異動。選手時代からの知名度や人気の高さを生かして、ファンの開拓に向けたPR業務に携わる傍ら、球団主管試合のテレビ中継での解説、球団情報番組『オリックス日和』(TwellV)のMC、球団情報発信サイト「PEI's TIME」の運営、京セラドーム大阪でのスタジアムツアーのガイドなど幅広く活動していた(北川は2016年シーズンから一軍打撃コーチとして現場に復帰)。

交流戦はパ・リーグ球団では唯一負け越しの8勝10敗の9位に終わる。6月22日に群馬ダイヤモンドペガサスからヨヘルミン・チャベスを獲得したこと、群馬ダイヤモンドペガサスのシニアディレクターを務めていたアレックス・ラミレスが巡回アドバイザーに就任することを発表した[61]。しかし、交流戦以降もチームは低迷を続け、前半戦を首位・ソフトバンクと18.5ゲーム差の最下位でターンした。後半戦になっても浮上できず、8月16日の対ロッテ戦に敗れ、自力でのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅した[62]。8月25日の対楽天戦に勝ち、最下位から脱出するも[63]、その後3連敗を喫し、最下位に逆戻りした[64]。8月27日に休養していた監督の森脇が31日付けで退任することと、球団シニアアドバイザーへの就任を発表した[65]。ヘッドコーチの福良が監督代行のまま指揮を執る。9月15日のソフトバンク戦(京セラドーム大阪)に6-1で勝利し、前身の阪急時代から数えてリーグ戦通算5000勝を達成した。なお、NPB所属の球団では巨人・阪神・中日に次いで4球団目で、パシフィック・リーグ所属球団としては初であった[66]。9月23日に元GM・監督の中村勝広が66歳で急逝した。終盤は楽天との5位・6位争いとなり、10月3日の対ソフトバンク戦に勝利したことで、最下位から脱出し、2013年以来2年ぶりの5位が確定した[67]。大型補強を行い、優勝候補と謳われながら、首位ソフトバンクと30ゲーム差のBクラスに終わった[68]。監督代行の福良が翌年から正式に監督として指揮を執ること、球団OBの田口壮が二軍監督に就任することを発表した[69]。しかし、オフに谷佳知と平野恵一の両ベテランが現役を引退し、馬原孝浩、坂口智隆、井川慶、ヘルマン、榊原諒、鉄平ら移籍組が戦力外通告を受け、相次いでビックネームが退団した(坂口はヤクルトに移籍、馬原、ヘルマン、榊原、鉄平は現役を引退)。なお、この年には現役最年長野手で実働29年のNPBタイ記録を持った、日本ハムのバッテリーコーチ兼捕手だった中嶋聡も現役を引退したため、阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブスに所属した選手が全員引退した。ドラフトでは10位選手まで指名し、大幅な「血の入れ替え」となった[70]。新外国人としてブレント・モレルブライアン・ボグセビックエリック・コーディエを獲得。

2016年

キャンプ直前に昨年まで正遊撃手を担っていた安達了一潰瘍性大腸炎を発症して離脱、キャンプ中には新外国人としてパット・ミッシュを獲得。オープン戦を中日、DeNAと同率の最下位(10位)で終えると、シーズンに入っても、投打ともに低調な状態が続き、金子、西といった先発陣だけでなく、新守護神として期待されていたコーディエら救援陣も大量失点する試合が目立った。打線もリーグ制となってからワーストとなる「チームとして開幕から13試合連続無本塁打」の記録を樹立してしまった[71]。その後も貧打は続き、5月17日に元中日マット・クラークを獲得[72]。交流戦は5勝13敗で最下位に終わる一方で、7月17日にヤクルトから近藤一樹とのトレードで八木亮祐を獲得[73]。後半戦も低迷から抜け出すことはできず、本拠地最終戦となった9月29日の楽天戦に敗れ、2年連続Bクラスと2012年以来4年ぶりの最下位が確定した[74]。同一シーズンでオープン戦・交流戦・公式戦・二軍のすべてが最下位となるのは史上初で[75]、さらに公式戦では全球団に負け越し、交流戦でもシーズン中のトレード相手のヤクルトを除く全球団に負け越す結果となった[76]。しかしながら、シーズンのチーム捕逸数が「0」という日本プロ野球史上初の記録を達成した[77]。また、チーム打率・得点・安打・チーム防御率リーグ最下位、本塁打・失点は5位に低迷した[78]。オフに齋藤俊雄が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。新外国人としてフィル・コークゴンザレス・ヘルメンマット・ウエストステフェン・ロメロを獲得。モレル以外の外国人選手3人が自由契約となった(ミッシュはサザンメリーランド・ブルークラブスに移籍)。糸井嘉男が阪神にFA移籍[79]

2017年

この年から二軍の本拠地が舞洲サブ球場へと移転。練習場と合宿所も含めて神戸から大阪へ移る形となった(詳細は後述)。首位楽天と2ゲーム差の2位で4月を終えるが、5月は4連敗、6連敗、そして2003年以来の球団ワーストタイ記録の9連敗、9カード連続負け越しを喫し[80]、5月下旬の交流戦前に一時順位は5位まで下がった。5月22日、奥浪鏡が運転免許停止中に自家用車を運転して交通事故を起こした(8月3日に契約を解除)[81]。5月28日のロッテ戦で山岡が初勝利した。その後、長打力不足解消のため、5月30日に新外国人としてクリス・マレーロを獲得。交流戦に入ると、6月4日の巨人戦まで7連勝し、交流戦を単独首位でスタートするが、6月11日の中日戦から17日のDeNA戦まで6連敗を喫する。6月19日のDeNA戦で逆転勝ちし、交流戦再編後初の勝ち越し、交流戦で6位に入った。なお、広島には3年連続で3連敗した[82]。交流戦初戦から単独4位に浮上するが、その後は順位の変動がなく、3位楽天と15ゲーム差の4位が確定した。モレルが現役を引退した。オフに日本ハムからFA宣言した増井浩俊、新外国人としてアンドリュー・アルバースを獲得。モレル以外の外国人選手3人が自由契約となった(コークはモンクローバ・スティーラーズ、メルヘンはシカゴ・ホワイトソックス、ウエストはデトロイト・タイガースに移籍)。平野佳寿がアリゾナ・ダイヤモンドバックスにFA移籍。

2018年

開幕からロメロ、T-岡田ら中軸は打撃不振に陥ったものの、田嶋大樹、アルバース、増井ら新入団の投手の奮闘で一時はAクラスに立った。一方、7月7日に新外国人としてドン・ローチ、9日にDeNAから伊藤光赤間謙との2対2トレードで髙城俊人白崎浩之を獲得。入団3年目の吉田正尚がシーズン中盤から4番打者に定着。オールスター明けには8連敗を喫した[83]。最終的には4年連続Bクラスと2年連続4位が確定した[84]。10月5日に京セラドーム大阪で行われた引退試合を最後に小谷野栄一が現役を引退した[85]。福良が監督を辞任し、後任にヘッドコーチの西村徳文が監督に昇格する形で就任することが発表された[86]。オフに中島宏之、金子千尋、ローチが自由契約となった(中島は巨人[87]、金子は日本ハム[88]、ローチはシカゴ・ホワイトソックスに移籍)。西勇輝が阪神にFA移籍[89]。新外国人としてジョーイ・メネセスタイラー・エップラー、ヤクルトを自由契約となった成瀬善久を獲得。

西村監督時代
2019年

この年から英字略称および帽子やヘルメットのロゴマークが「Bs」から「B」に改められた。3月21日にシアトル・マリナーズに復帰していたイチローが現役を引退した。6月27日に禁止薬物を使用していたことが発覚したメネセスとの契約を解除した。6月30日に中日から松葉貴大武田健吾との2対2+金銭トレードで松井雅人松井佑介スティーブン・モヤを獲得[90]。9月29日に京セラドームで行われた引退試合を最後に岸田護が現役を引退した[91]。この年は5年連続Bクラスと2016年以来3年ぶりの最下位が確定した[92]山岡泰輔が最高勝率[93]山本由伸が最優秀防御率を受賞[94]。オフに髙城俊人、成瀬善久、ロメロとエップラーの両外国人選手が自由契約となり(髙城はDeNAに復帰、成瀬は栃木ゴールデンブレーブス、ロメロは楽天に移籍)、マレーロが退団した。新外国人としてアダム・ジョーンズタイラー・ヒギンスアデルリン・ロドリゲスを獲得。

2020年

引き分けを挟まずに開幕戦9連敗とし、パ・リーグ記録に並んだ[95][注 23]。6月23日から始まったZOZOマリンスタジアムでのロッテとの6連戦では最終日の28日まで勝利を飾ることができず、日本プロ野球史上初となる同一球場同一カード6連敗を喫した[96]。同日に先発した昨年最高勝率の山岡泰輔がこの試合で緊急降板、戦線離脱した。一時は5位に何とか持ち直すも、その後福岡ソフトバンクホークスに連敗し、再び最下位に転落。8月20日の試合終了後に西村は会見を行い、成績不振を理由に監督を辞任(事実上の解任)し、併せて二軍監督の中嶋聡が監督代行として指揮を執ることを発表し、コーチ陣も一・二軍間の入れ替えなど、大幅なテコ入れを図った[97]

中嶋監督時代

※2020年の監督代行時代も含める。

2020年

山﨑福也が8月21日の監督代行就任初戦の対西武戦で好投し、2安打1失点。打線はジョーンズがホームランなど3打点を記録し、初陣勝利となった[98][99]。9月9日にはT-岡田が代打で5球団目となる球団8500号となるホームランを放った[100]。しかし低迷したチームを立て直すことなく借金が増えていき、14日の試合に敗れシーズンワーストの借金23にまで達し[101]、10月29日の対北日本ハム(札幌ドーム)に敗れ球団合併後初の6年連続Bクラスと2年連続最下位が確定した[102]。最下位決定後は高卒ルーキーの紅林弘太郎をプロ初出場から5試合連続でスタメン起用するなど[102]、翌年に向けて若手を起用した。監督代行の中嶋が翌年から正式に監督として指揮を執ることを発表した。オフに白崎浩之、松井佑介、アルバースとロドリゲスの両外国人選手が自由契約となった(白崎は大分B-リングスに移籍、松井は現役を引退、アルバースはミネソタ・ツインズに復帰、ロドリゲスは2022年シーズン途中、阪神に移籍)。阪神を自由契約となった能見篤史投手兼投手コーチとして獲得、楽天を自由契約となったロメロが2年ぶりに復帰した。

2021年

この年よりコーチ陣の見直しを図り、中嶋監督・小林宏二軍監督を除く一軍・二軍コーチの区別をなくした。2月6日にシアトル・マリナーズからFA宣言した平野佳寿が4年ぶりに復帰した[103]。だが、開幕戦を10連敗とし、パ・リーグ記録を更新すると[注 23]4月・5月は勝率5割を切る低空飛行が続いたが、交流戦に入り一気に躍進する。12勝5敗1分(勝率.706)で2010年以来11年ぶりに交流戦優勝を決めた[104]。その勢いのまま6月20日に2014年7月25日以来7年ぶりとなる単独首位に立ち[105]、23日に1984年以来球団37年ぶりとなる11連勝を遂げ[106]、10月12日のロッテ戦で引き分けたことにより、2014年以来7年ぶりのCS進出が決定した[107]。以降はロッテと首位争いを広げ、一時はロッテにマジックが点灯するも、10月25日のシーズン最終戦で楽天に勝利し、ロッテがソフトバンクに敗れたことで首位に浮上[108]。10月27日にまだ試合が残っていたロッテが楽天に敗れたことで、オリックス・ブルーウェーブとしてリーグ優勝を決めた1996年以来25年ぶり13度目、近鉄球団と合併してからは初のリーグ優勝を果たした[109]。なお、パ・リーグにおいて前年最下位の球団がリーグ優勝した前例は2001年の大阪近鉄バファローズ以来20年ぶりで、パ・リーグで2度目、セ・リーグを含め7度目の事例であり、2年連続最下位からの優勝も2001年の近鉄以来となった[110]。また、自チームの全日程終後に他球団の結果待ちにより優勝が決定した事例は1988年の西武(10.19)以来33年ぶりのことであった[111]

クライマックスシリーズを突破し、出場した日本シリーズでは同じく前年リーグ最下位からセ・リーグ優勝を果たした(両リーグ共に前年最下位球団がリーグ優勝したのはプロ野球史上初[110])ヤクルトと対戦。第1戦・第5戦で勝利を挙げたものの、その他の試合は全て1点差で惜敗。シリーズ2勝4敗で1996年以来25年ぶりの日本一を逃した[112]

投手陣では山本が最多勝利(18勝)・最優秀防御率最多奪三振(2年連続)・最高勝率の投手4冠[113]、高卒2年目の宮城大弥が13勝[114]、田嶋と山﨑福がキャリアハイの8勝を挙げ[115]、野手陣は吉田正が.339で2年連続首位打者と.429で初の最高出塁率[116]杉本裕太郎が32本塁打で初の本塁打王を獲得した[117]。また、沢村賞を山本、ゴールデングラブ賞を山本(投手)と宗佑磨(三塁手)が受賞し、共に初受賞となった[118]

オフにジョーンズら外国人選手4人が自由契約となり、新たにブレイビック・バレラジェイコブ・ワゲスパックジェシー・ビドルを獲得[119]

2022年

3月25日の西武戦に6対0で勝利し、2012年以降続いていた開幕戦の連敗を10で止めた。直後に前年には無かった5連敗を喫するなど、序盤は低迷が続いたが、交流戦明けから復調し、徐々に上位に進出していく。終盤にはソフトバンクとの優勝争いを演じ、ソフトバンクにマジック「1」が点灯した状態で最終戦を迎え[120]、その最終戦で楽天に逆転勝ちする一方で、ソフトバンクが敵地でロッテに逆転負けを喫した。最終成績が76勝65敗2分けとなった両球団が勝率で並んだが、直接対決で15勝10敗と勝ち越したため、規定により、2年連続14回目のリーグ優勝を果たした[121]

クライマックスシリーズではソフトバンクの2019年のCSファーストステージ第2戦から続いたポストシーズンでの連勝を18で止め、アドバンテージを含めて4勝1敗で突破[122][123]。2年連続での顔合わせとなったヤクルトとの日本シリーズは第3戦まで2敗1分と苦しんだが、そこから4連勝を収め、1996年以来26年ぶりの日本一を達成した。これにより、パ・リーグ現存6球団が21世紀に日本シリーズの優勝を経験したため、近鉄は55年の球団史上一度も日本一を達成しておらず、「バファローズ」を名乗る球団としては近鉄・大阪近鉄・オリックス時代を通じて初の日本一となった。10月30日に明治神宮球場で行われた第7戦を最後に能見篤史が現役を引退した。オフにラベロとバレラの両外国人選手が退団した。日本ハムから齋藤綱記とのトレードで石川亮、西武からFA宣言した森友哉を獲得。伏見寅威が日本ハムにFA移籍。

山本が前年獲得した投手4冠を全て連続して受賞した。


  1. ^ 旧球場名:グリーンスタジアム神戸→Yahoo! BBスタジアム→スカイマークスタジアム
  2. ^ かつては、「サーパス神戸」→「サーパス」という二軍独自の球団名が使われたことがある。
  3. ^ 唯一、平成以降に行われた球団合併である。
  4. ^ 合併当初は大阪と神戸にある両球場での一軍公式戦は半分ずつの開催であったが、徐々に大阪の比重が高くなり、現在のほっともっとフィールド神戸で行われる一軍公式戦の試合数は、京セラドーム大阪の僅か1/3以下となっている。詳細は後述
  5. ^ 1971年までの球団記録。
  6. ^ 2012年までの球団記録。
  7. ^ それまでも達成例はあったが、日本ではサイクル安打が知られておらず、スペンサーが日本球界に広めたとされる。
  8. ^ 7票が不信任、4票が白紙。
  9. ^ この年、門田博光も指名したが入団拒否(本人による拒否か非交渉による失効かは不明。翌年南海に2位指名で入団後、阪急がオリックスに売却された1989年に移籍加入し、1990年まで在籍)。結果としては、この年阪急は後に名球会入りする選手を4人指名したことになる。
  10. ^ 当初は広島を引退したばかりの山内一弘を招く予定だったが、すでに巨人のコーチ就任が決まっていたため、代わりに山内から上田を紹介された[14]
  11. ^ 当時の日本プロ野球新記録。
  12. ^ 現在でも日本プロ野球記録。
  13. ^ 西本は翌1974年より近鉄の監督に就任。
  14. ^ この年より1シーズン制。
  15. ^ 他のチーム名候補には神戸市と姉妹都市関係にあったシアトルのメジャーリーグチームと同じ「マリナーズ」、ブルーサンダー打線に因んだ「サンダース」、「ドルフィンズ」などがあった。公募票数最多はサンダースだった[29]
  16. ^ 日本一の瞬間、守備で外野手3人以外全員他球団から移籍した選手という珍しい場面があった(投手・鈴木平〈1995年ヤクルトスワローズから移籍〉、捕手・高田誠〈1992年読売ジャイアンツから移籍〉、一塁・四條稔〈1995年読売ジャイアンツから移籍〉、二塁・大島公一〈1996年近鉄バファローズから移籍〉、三塁・馬場敏史〈1994年福岡ダイエーホークスから移籍〉、遊撃・勝呂壽統〈1992年読売ジャイアンツから移籍〉)。
  17. ^ 6月17日に21対11、7月27日に26対7、8月1日に29対1、9月24日に20対11。
  18. ^ 両リーグ通じての記録は、1967年にサンケイアトムズ読売ジャイアンツに3勝23敗と負け越して以来37年ぶり4度目で、パ・リーグでも1961年に近鉄が南海に5勝23敗とされて以来43年ぶり2度目である。
  19. ^ 実質的に愛称の変更であり、会社法人としては合併しておらず、社名は「オリックス野球クラブ株式会社」のまま。近鉄の運営会社「株式会社大阪バファローズ」は翌年3月いっぱいで解散。ただし、2007年まで近鉄側もオリックス野球クラブに出資した。
  20. ^ 前川は、過去にもスピード違反で免許取り消しになっていた。
  21. ^ 巨人と阪神に次ぐ、日本プロ野球3球団目の達成である。
  22. ^ この日オリックスが勝つか引き分け、もしくは西武が負けるか引き分けるかでオリックス3位確定という状況だった。
  23. ^ a b 以前のパ・リーグ記録は76~85年太平洋クラブ→クラウンライター→西武ライオンズの(83年の1分けを挟んで)9連敗。以前の引分けを挟まない連敗記録は52~59年東急→東映フライヤーズの8連敗。プロ野球最長は91~01年阪神タイガースの11連敗(なお、引分けを挟まなかった)。
  24. ^ 年間最高勝率は南海にプレーオフで敗退した1973年と近鉄にプレーオフで敗退した1979年を含み、近鉄とのプレーオフを制した1975年を除く14回
  25. ^ リーグ優勝のうち、1975年、1977年はプレーオフ(1975年は近鉄、1977年はロッテを相手にした)で獲得。1976年、1978年は前後期完全制覇により自動優勝が決まった。
  26. ^ 2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から延長戦が無かった。延長戦がある年では1971年・1979年の11分が最多。
  27. ^ 1989年は、基からダイエーが神戸市に登記本店(本社機能は吹田市東京都港区)があるため、福岡市を本拠地としたダイエー球団が神戸を準本拠地として開催する希望があったが、他の球団が主管試合をする場合、阪神・オリックス双方の許諾が必要であり、その許可が下りなかったことを踏まえ、ダイエー戦13試合+他のパ・リーグのチームと1試合の14試合を開催予定だった(このうちダイエー戦2試合が中止となり西宮に変更され、西宮で予定された中止分2試合を神戸で代替)。
  28. ^ 阪神もオリックスと同じく2005年からの3年間に限り「ダブルフランチャイズ制」が認められていた。(プロ野球地域保護権#備考も参照)
  29. ^ 野球協約の規定では半数以上を専用球場で開催しなければならない。
  30. ^ リーグ優勝を達成した監督に選手として当チームでプレーした人物は、2021年の中嶋聡までいなかった[135]。チームで選手経験ある監督がリーグ優勝を達成したのは、太平洋戦争前から存続する5球団(他に巨人・阪神・中日・ソフトバンク)の中では最後となった(2シーズン制時代には梶本が監督の1979年後期に優勝しているが、プレーオフで近鉄に敗れた)。
  31. ^ 最終的には、神戸の山の緑と海の青をそれぞれ球場名(グリーンスタジアム)とチーム名(ブルーウェーブ)で表現しているとされた。
  32. ^ 近鉄のマスコット「バフィリード」については商標権をオリックス本社が譲受し、2013年に復刻イベントで「バフィリード」が登場した。
  33. ^ 球団公式には八カセが勝手に開発した牛型ロボットの「バッファロボ1号・2号」であるという設定もある[154]
  34. ^ 2013年現在、NPB12球団で合併歴があるチームとしてはほかに埼玉西武ライオンズ西日本パイレーツを1951年に合併)・横浜DeNAベイスターズ松竹ロビンスを1953年に合併)、千葉ロッテマリーンズ大映ユニオンズを1958年に合併。なお大映ユニオンズも高橋ユニオンズを1957年に合併している)があるが、オリックスによる近鉄合併の時点ではいずれもすでに40年以上が経過していた。また各被合併球団の歴史も20年に満たない。
  35. ^ 北海道日本ハムファイターズの公式ウェブサイトには2016年現在、チームの歴史自体が掲載されていない。
  36. ^ もっとも、球団経営時代の資料提供、演出再現等への水面下での協力は行っていた。
  37. ^ 戦後に横沢三郎が設立したセネタースのユニフォームに流用され、そのストッキングの色からセネタースの球団愛称「青鞜」の語源となった。
  38. ^ 当時との差異点は左肩のオリックスの社章がスポンサー・イーモバイルのマークになっている点のみ。
  39. ^ この3連戦の2日目の13日早朝に淡路島で地震が発生したが試合は予定通り行われている。
  40. ^ a b c なお復刻ユニフォームには、当時とは違い、スポンサー広告が張り付けられている。大阪近鉄バファローズの1999年 - 2004年当時の復刻版ホームユニフォーム分では2003-2004年当時の袖スポンサー「アコム」ではなく、現在のスポンサー「ソーラーフロンティア」を掲出。
  41. ^ MLB移籍後は2015年にマイアミ・マーリンズで投手として1試合登板している。
  42. ^ 年間指定席などはダイエー主催試合でないと使用できないため、その分が少なかった模様。
  43. ^ オリックスの前身であるオリエント・リース自体は大阪発祥の企業であり、2014年現在まで、関東を発祥とする企業が近畿圏本拠の球団を保有した例はない。大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)も一時期大阪府を事実上の本拠地としていたが、当時の親会社だった大洋漁業(現:マルハニチロ水産)は、兵庫県が発祥で山口県で法人化したものだった。また、大洋に合併した松竹ロビンス大阪府京都府を本拠地としていたが、共同オーナー企業だった田村駒大阪府松竹は京都府が発祥だった。
  44. ^ 以前は「仰木維新」(2005年)→「仰木魂・伝承」(2006年)→「新たなる鼓動」(2007年)→「大阪激弾!!」と、各年ごとにサブタイトルがついていた。
  45. ^ 阪急と阪神の経営統合後は、資本関係の都合上関西テレビも阪神タイガースとの関係が強化され、2019年には宝塚歌劇団とのコラボイベントも関西テレビが中継する阪神タイガースの試合で実施したほか、交流戦のオリックス主催試合の中継では、放送時間が余っていながら勝利したオリックスのヒーローインタビューを放送せず、阪神の過去の試合からの映像を放送するという、阪神側を重視する対応が取られた。
  46. ^ 一例として、1960年5月28日(土曜)の対大毎戦はNETテレビ・毎日放送が全国中継扱いで、東京放送・朝日放送が予備カード扱い(東映対西鉄をNETテレビ=毎日放送が予備、東京放送=朝日放送が本番扱い)で編成していた。なお当時はネット編成が2016年現在と異なっていた他、テレビでもラジオ同様予備カードを編成していた(出典:同日の読売新聞、大阪版テレビ・ラジオ欄)。
  47. ^ 2020年現在は系列局(主に北海道放送・RKB毎日放送・中国放送)とBS-TBSへの制作協力のみ(球団制作映像の併用や、ノンクレジット扱いの場合もあり)。
  48. ^ 対中日戦ではCBCラジオおよび東海ラジオが、対広島戦では中国放送が自社乗り込みを行う可能性がある。
  49. ^ 1994年から2001年まで、巨人と大洋→横浜の対戦時の裏カードに限定してTBSラジオもヤクルト主催試合が中継できたが、ビジター側のJRN系列局(対中日戦のCBCラジオ・対阪神戦の朝日放送ラジオまたは毎日放送・対広島戦の中国放送)へのネットが認められなかったことによる措置(朝日放送ラジオ・毎日放送・中国放送はNRNにも加盟しているため、従前通りニッポン放送〈中国放送の土・日曜ナイターは文化放送〉による裏送り・同時ネットや乗り込み自社制作で中継可能だった)。一方NRN独占時代の大洋→横浜主催試合も巨人とヤクルトの対戦時の裏カード限定で、1999年からビジター側のJRN系列局にネットしない条件でTBSラジオの中継が認められたが、こちらは中日球団・CBCラジオ・東海ラジオの親会社である中日新聞社の意向もあり、1992年頃からニッポン放送が対中日戦をCBCラジオ向けに別制作して裏送りしていた。
  50. ^ 中国放送が、過去に朝日新聞社・毎日新聞社と資本関係があり、1975年3月30日までテレビ部門(TBS系列)でも朝日放送(テレビ・ラジオの分社前)と系列関係があった一方、当時は系列外(NETテレビ系列)だった毎日放送からも、本来の系列局だった広島ホームテレビの編成から外れた番組を相当数遅れネットしていたのが、翌31日の在阪局ネットチェンジでテレビにおいて朝日放送との関係が大幅に縮小されたのをカバーするために、テレビでは毎日放送との、ラジオでは朝日放送との関係を重視して朝日系・毎日系との関係のバランスを取ったことや、1976年から1980年まで、阪神球団が朝日放送と優先契約を結んでいたことなどの、過去の歴史的経緯による。
  51. ^ 全国放送となる可能性が低い場合が多い上朝日放送ラジオ・中国放送がどちらもJRN・NRNのクロスネット局であるため、JRNナイター全国配信廃止以降、このカードの場合、中国放送の制作時はNRNの速報チャイムに一本化しているが、朝日放送ラジオの制作時は速報チャイムの運用がややアバウトになり、デーゲームでは1日ごとにJRN・NRNのチャイムが使われた事例がある(NRN単独加盟の東海ラジオにもネットした際の『阪神×広島』の日曜デーゲームや、NRN予備カードに指定された土曜ナイターの『阪神×DeNA』で、JRNの速報チャイムが使用されたことすらある)。






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