戒厳令とは? わかりやすく解説

戒厳令

読み方:かいげんれい

戒厳令とは、国家非常事態において、一定の地域において、通常の法律制度停止し軍事力によって秩序維持治安維持を行うために発令される法的措置である。戒厳令が発令されると、軍隊警察権持ち市民の生活や行に対して制限課せられることがあるまた、報道言論の自由制限されることもある。

戒厳令は、国家の安全や国民生命財産を守るために、緊急事態対処するための手段として用いられる。戒厳令が発令される理由としては、内乱外敵侵略自然災害大規模なテロ事件などが挙げられる。戒厳令の発令は、国家元首政府権限持っており、国家法律憲法に基づいて行われる

戒厳令の期間は、緊急事態収束するまでの間とされるが、その期間は国や事態によって異なる。戒厳令が解除されると、通常の法律制度が再び適用される。ただし、戒厳令の発令解除には、政治的な判断大きく影響することがあるため、その適用解除判断には慎重さ求められる

戒厳令

読み方:かいげんれい

「戒厳令」とは、憲法法律一部効力無効化立法権行政権司法権一部または全部軍隊指揮下に移行する処置である戒厳について規程した法律または命令のことを意味する表現

戒厳令が発令される場合と英語表現

戒厳令は主に自然災害暴動戦争といった国家緊急事態の際に発令され英語ではmartial law」と呼ばれる

戒厳令の起源

戒厳令の歴史的な起源は、1791年フランス革命中のフランスで施行された「戦場及び防塞維持区分防御工事等の警察に関する法律」に起源があるとされる。また日本における戒厳令の起源としてはフランスとドイツ当時のプロセイン)の戒厳法を参考にして、1882年太政官布告として「戒嚴令」が制定され1889年公布され大日本帝国憲法第14条組み込まれた。 以下では世界各国での戒厳令が発令されたり導入されたりした事例について述べる。

ロシアにおける戒厳令(2022年)

2022年ロシアのウクライナ侵攻に伴いロシア政府2022年10月下旬ロシア軍占領中のウクライナ東部南部4つの州に対して戒厳令を導入した

参考リンク
【解説】ロシア「戒厳令」で統制強める 巻き返し図る思惑か(NHK)

タイにおける戒厳令(2014年~2015年)

タイ王国においてはプラユット・チャンオチャら軍のトップによって2014年に「タイ軍事クーデター (2014年)」が勃発し同年5月20日に戒厳令が発令された。なお2015年に戒厳令自体解除されたものの、軍に対して戒厳下と同等権限付与するという命令出された。

参考リンク
タイ王国における戒厳令の発出について(外務報道官談話)

台湾における戒厳令(1947年~1987年)

台湾においては1947年から1987年までの約38年間にわたり戒厳敷かれていた。背景としては、1947年台湾において「二・二八事件」が勃発後、台湾統治する中国国民党反政府勢力あぶり出し弾圧行い続けていたことが挙げられ、これは「白色テロ (台湾)」と呼ばれる

香港における戒厳令(1922年)

香港では、1922年に「香港海員ストライキ」が勃発した際に、時の香港政庁によって戒厳敷かれた。

日本における戒厳令

日本においては第二次世界大戦前大日本帝国憲法の下では、日清戦争中や日露戦争中に特定の地域戒厳敷かれていたことがある

他方戦後の日本国憲においては2022年10月現在、戒厳令に相当する法令存在しないものの、国の緊急事態対処するための処置として、警察法の中で「緊急事態布告」や、自衛隊法の中で「防衛出動」「治安出動に関する規定設けられている。

アメリカにおける戒厳令

なお、2021年にはツイッターなどのSNSにおいて、当時米国大統領であるドナルド・トランプ氏が戒厳令を発令するであろうといった誤情報拡散したことがある

参考リンク
「トランプ氏が戒厳令」の偽情報、複数のSNSで拡散

かいげん‐れい【戒厳令】

読み方:かいげんれい

戒厳2」を宣告する命令明治憲法下では天皇がこれを宣告した。「—をしく」

「戒厳令」に似た言葉

戒厳令

読み方かいげんれい
【英】:Martial law

戒厳とは、戦争などの非常事態において、立法司法・行政に関する事務処理軍隊統制下に移す処置です。 この戒厳をおこなうという宣告が、「戒厳令」です。 日露戦争では、日比谷焼打事件起こった際などに戒厳令が宣告されました。

戒厳

(戒厳令 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 16:08 UTC 版)

戒厳(かいげん)とは、戦時や自然災害暴動等の緊急事態において兵力をもって国内外の一地域あるいは全国を警備する場合に、憲法・法律の一部の効力を停止し、行政権司法権の一部ないし全部を軍隊の指揮下に移行することをいう。軍事法規のひとつであり、戒厳について規定した法令を戒厳令英語: martial law)という。


注釈

  1. ^ この勅令は、緊急勅令ではない。例えば明治38年のときは、「東京府内一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件」 (明治38年9月6日勅令第205号)は緊急勅令で、この発動範囲を定める「明治三十八年勅令第二百五号ノ施行ニ関スル件」(明治38年9月6日勅令第207号)が一般の勅令である。
  2. ^ ドネツク人民共和国ルガンスク人民共和国沿ドニエストル共和国が実効支配する領域との境界線を含む。

出典

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  41. ^ 一般情況下,警方僅有權扣留疑犯48小時。參見:《九龍及荃灣暴動報告書》香港:政府印務局,1956年,頁18
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戒厳令(1828年11月)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 00:25 UTC 版)

ブラック・ウォー」の記事における「戒厳令(1828年11月)」の解説

定住地区の平和へ希望は、春に打ち砕かれた。8月22日から10月29日の間に、オイスター・ベイとビッグ・リバー一族家畜小屋襲撃し、ベン・ローモンドとノース一族東西ナイル川とミアンダー川に沿って家畜小屋焼き払ったため、39件のアボリジニ攻撃15人の入植者死亡した(約2日に1件の割合)。10月初旬からは、オイスターベイの戦士入植者女性子供殺し始めた暴力エスカレート激高したアーサーは、自身最高裁長官植民地財務長官からなるヴァンディーメンズ・ランド執行評議会招集し11月1日に「国王公然の敵」となった定住地区のアボリジニに対して「戒厳令」を布告した。戒厳令の布告は「反逆者や敵に対して自衛由来する戦争中殺傷行使する便利な方法として」使われる王権であり、これは事実上総力戦宣言するものであった兵士たちは、令状なしで逮捕したり、入植地抵抗するアボリジニを見つけ次第射殺する権利を持つようになった。ただし布告入植者対し、以下のようにも命じていた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} —他の手段で原住民誘導した強制したりして、先に戒厳令の運用から除外したこの島の場所や部分退避させることができるならば、いかなる場合実際武器使用頼らないこと、流血をできる限り防ぐこと、自首する可能性のある部族あらゆる程度人道的な扱いを受けること、無防備な女性子供は必ず救うこと。" 戒厳令は3年以上にわたって施行されオーストラリア史最長戒厳令期となった。 戒厳令が発令され時点では、5つ氏族属する約500人のアボリジニー定住地区で活動していたが、アーサー最初にとった行動は、民間部隊に彼らの捕獲開始するよう促すことだった。11月7日リッチモンドから派遣され一団は、1827年2月ノーフォーク平原牧童襲撃し死亡させたとされるウマーラと、彼の妻と子供を含む4人を捕らえた。ウマーラは反抗的な態度取り続けリッチモンド1年間わたって投獄された。アーサーその後、第39ドーセットシャーフット連隊、第40連隊、第63連隊からなる8~10人の軍事パトロール隊、すなわち「追跡隊」を設立し一度2週間ほど現場留まり開拓地でアボリジニー捜索掃討命じた1829年3月までに、23軍団合計200人の武装した兵士開拓地歩き回ったが、その主な目的殺害だった。3月までの報道によると、戒厳令が発令され以来、約60人のアボリジニー殺され15人の入植者犠牲になったアボリジニー攻撃入植者怒り復讐心を煽ったが、クレメンツによれば入植者経験した主な感情恐怖であった1829年の冬、開拓地南部戦場化し、後にアボリジニー人々親族虐殺され身体切り刻まれキャンプ場確認した。さらに、アボリジニー人々食料毛布求めて入植者小屋襲撃したり、ジャガイモ掘り起こしたりしていたが、彼らも殺されてしまったという事件がいくつか報告されている。アーサーアボリジニー人々和解させるために、4パネルからなる宣言板」の配布手配した。このパネルには、アボリジニー入植者平和に共存している様子描かれており、また、どちらか暴力振るった場合法的な結果示されていた。つまり、アボリジニー入植者殺した場合絞首刑になるが、入植者アボリジニー人々殺した場合絞首刑になるということだった。しかしヴァン・ディーメンズ・ランドで、入植者アボリジニーへの暴行殺害起訴されたり、裁判かけられたりした事実はない 。 アボリジニー入植者への攻撃続け1829年8月から12月の間に19人の入植者殺害したこの年合計33人で、1828年より6人多かった被害者中にはボスウェルの家で焼き殺され使用人や、体を切断され入植者もいた。しかし入植者報復それ以上激しく、ある遠征隊の報告書には、一晩キャンプ襲撃した結果「ひどい殺戮が行われたと記されている。1830年2月下旬アーサー捕らえたアボリジニー大人1人につき5ポンド子供1人につき2ポンド懸賞金導入し、さらに第40連隊からのインドへの分遣隊派兵止め西オーストラリアの第63連隊増援要請したが、成功しなかった。また、4月には、辺境の開拓地で囚人の数を大幅に増やすことが入植者保護につながるとロンドン進言し、すべての囚人輸送船ヴァンディーメンズ・ランド迂回させるよう明確に要請した

※この「戒厳令(1828年11月)」の解説は、「ブラック・ウォー」の解説の一部です。
「戒厳令(1828年11月)」を含む「ブラック・ウォー」の記事については、「ブラック・ウォー」の概要を参照ください。


戒厳令(1972年-1981年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:03 UTC 版)

フィリピンの歴史 (1965年-1986年)」の記事における「戒厳令(1972年-1981年)」の解説

詳細は「フェルディナンド・マルコス時代の戒厳令(英語版)」を参照 1972年9月23日当時国防大臣フアン・ポンセ・エンリレ(英語版)が帰宅途中待ち伏せにあった。この暗殺未遂一般市民不安にさせると共に9月21日フィリピンに戒厳令を布告する大統領宣言第1081号を発する理由としてマルコス利用された。暗殺未遂計画されたものと広く考えられ、エンリレ自身計画され暗殺未遂事実認めたが、後に前言取り消すことになる。元報道官で戒厳令下で投獄され共産党員リゴベルト・ティグラオは、自由党共産党戒厳状態を引き起こした主張した更なる批判受けてマルコスは戒厳令の宣言当時海外国際的な議員会議フィリピン代表していた尊敬されフィリピン政治家ロレンソ・タニャダ元老院議員支持されていると主張した。この主張聞いてタニャダ議員名声低下させ、戒厳宣告そのような支援をしていないことを明らかにした。エンリレは「マルコス大統領が戒厳令を宣言することにした最も重大な事件1972年7月MVカラガタン事件であった転回であったMVカラガタンはカガヤン渓谷イサベラ太平洋側のCPP-NPA-NDFによる浸透する高出力ライフル銃弾薬40ミリロケットランチャー、ロケット発射体通信機器などの組み合わされ戦争道具に関わった。」と言った兵器当時共産革命輸出し政府転覆するNPAの目的支援する中華人民共和国から持ち出された。 事実上マルコスとともにフィリピン全体主義転じながらマルコスはそれから先は布告により統治したが、報道の自由などの市民的自由を抑圧し国会廃止し報道機関管理し、最も信頼に足る批評家であるベニグノ・アキノ・ジュニア元老院議員ホセ・ディオクノ英語版元老院議員などの野党指導者好戦的な活動家逮捕命じた初めの内はこの時代社会的混乱与えた戒厳令の宣告は、好意的に受け入れられた。夜会外出禁止令施行される犯罪率劇的に減少した政敵亡命認められた。戒厳令が次の9年続いたので、軍が行逸脱行為増大した全体として非合法な殺人が3257件、個人的な拷問が35000件あり、7万人投獄された。1975年から1985年フィリピン人737人が失踪したとも報告されている。 私は大統領だ。フィリピンで最も力のある男だ。夢見た物は全て手に入る。もっと正確に言えば人生欲しい物は全て手にしていて、妻は愛していて私が行うことの仲間であり、利口な子供達は私の名声維持するし、人生うまくいっていて、全てだ。しかし不満を感じている。 —フェルディナンド・マルコス 戒厳令は政府軍事的奪取ではないと主張されたが、一部国民即座に示した反応は、驚き狼狽で、たとえ無秩序無法状態、社会的不正、若者学生行動主義などの戸惑うほどの運動の重大さ危険な地点到達していたとしても、全土対する戒厳令は、まだ許されていなかった。更に悪いことマルコス大統領当時憲法延長できない任期満了しようとしていたので、政治的理由宣言背景にあるとみなされた。この疑い野党指導者率直な反マルコスメディアが直ち軍事基地不明瞭な勾留をされ旅行通信演説報道の自由などに制限加えられる説得力増した要するに戒厳令政権大衆にとってタブーではなかった。 上記状況考慮する前述ジレンマ解決する方法として修正条項第6条具体化され概要が[要説明]1973年憲法生まれたことが挙げられる要する明らかになった中心となる考えは、戒厳令が早めに止される可能性であるが、全体主義権力一部施行保証する不意の危険な状況対すフィリピンフィリピン人を守るために後者憲法許され、それによって戒厳令と付帯条項宣言する必要を除去し主として特権的な軍部による主張は、大統領の下の文民当局より優れていると思わせた。言い換えれば問題危機緊急事態にも関わらず全国的な生き残りや正常の回復のために必要となるかも知れないものが戒厳令に対す大衆見方人民意見調和させるべきものであったフィリピン大学法学部同窓生仲間対す演説マルコス大統領1981年1月末までに戒厳令を解止する意向であることを表明した懐疑派向けた安心させるような言葉は、大統領が「我々は戒厳令を解止し議会制政府への整然とした移行を果たす決意としていかなる疑念大衆心から一度は完全に取り除かなければならない」と宣言した1980年12月12日フィリピン大学法学部同窓会で発せられた。明白で率直で最終公約は、大統領が「数日前国民様々な部門広範な陳情についての広範な協議続き新社会7周年1年前に行った制約一致させるために戒厳令が1981年1月末までに解止され公共秩序公安重大な問題存在し続ける数か所の地域でのみ戒厳令は効力残し続け断固とした決定至った」と宣言した1980年12月22日フィリピン軍45周年式典行われた。 戒厳令解止後権力マルコス集中し続けた。ある学者マルコスがいかに野党収監できる権限など「あらゆる戒厳令布告命令立法権限」を維持したかを記した

※この「戒厳令(1972年-1981年)」の解説は、「フィリピンの歴史 (1965年-1986年)」の解説の一部です。
「戒厳令(1972年-1981年)」を含む「フィリピンの歴史 (1965年-1986年)」の記事については、「フィリピンの歴史 (1965年-1986年)」の概要を参照ください。

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戒厳令

出典:『Wiktionary』 (2021/06/16 14:08 UTC 版)

名詞

戒厳 かいげんれい

  1. 戒厳宣告する命令

発音(?)

か↗いげ↘んれー

翻訳


「戒厳令」の例文・使い方・用例・文例

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