主な経過
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1984年、後に明覚寺の管長となる男性が千葉県野田市に水子菩薩を扱う訪問販売会社を設立。地元の曹洞宗の寺と協力して販売していた男性が、1987年に醍醐寺の末寺として茨城県大子町に1987年に宗教法人「本覚寺」を設立し、関東一帯にそのグループを展開した。1988年に真言宗 醍醐派を離脱し独立の寺として霊視鑑定を行っていたが、消費者センターに苦情が寄せられて詐欺商法だとして損害賠償請求が次々と起こったため、一時的に活動を中止した。その後、休眠状態にあった和歌山県の高野山 (高野町)にある「明覚寺」を買収し、関西地区で同様の活動を再開したが、こちらでも損害賠償請求が多数起こった。愛知県警は明覚寺系列の満願寺(名古屋市)の僧侶らを摘発した。1999年12月16日に、文化庁は「組織ぐるみの違法性が認められる」として和歌山地方裁判所に宗教法人明覚寺に対する解散命令を請求し、和歌山地裁は2002年1月24日に解散命令を出した。明覚寺は最高裁まで争ったが棄却されて解散になった。犯罪を理由にした宗教法人の解散命令としては、オウム真理教に次ぐ2番目のできごとであった。
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主な経過
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1971年(昭和46年) 第1期工事(50坪)開始。 1972年(昭和47年) 基礎工事、水周り工事終了、1階部分6戸完工、入居開始。給水用として裕江が削岩機を用い、敷地内に井戸を掘り当てる。 1973年(昭和48年) 第1期工事終了、4階建て24戸。スーパーマーケット開店、以後5年間営業。のちには、鮮魚店や焼肉店さらには露天風呂付共同浴場が設けられた時期もあった。引き続き、第2期工事(140坪)開始。5階に大家である沢田夫妻の自宅住居を建設。高知市内初といわれる地下駐車場が完成(高さ3m、広さ140坪、収容台数25台。のちに270坪まで拡張)。 1975年(昭和49年) マンションの断熱を考えて屋上を土で覆い、畑作を開始。のちに水田にも。 1976年(昭和51年) 第2期工事終了。 1978年(昭和53年) 沢田嘉農、48人乗り大型バスを沢田マンション専用として購入。以後、嘉農自らの運転で住民が遊びに出かける際や、沢田家の家族旅行などに利用される。 1983年(昭和58年) 第3期工事(70坪)開始。 1985年(昭和60年) 第3期工事終了。建物として、おおむね現在の規模となる。 1989年(平成元年) スロープを設置。3階まで車が進入可能に。 1991年(平成3年) 作業用リフト完成。 1992年(平成4年)1月6日 5階沢田家が全焼する火事が発生。マンションに関わる初期資料の多くを焼失した。 1994年(平成6年) 道路から部屋を目隠しするため各階に、花壇を備えたテラスの整備を開始。 1996年(平成8年) 現敷地に10階建て共同住宅の建築を計画し、有資格者の作成による建築確認申請書を提出、建築主事より確認済証の交付を受ける。なお、現状の建築物とは別件の手続きである。 1998年(平成10年) 4階に嘉農の孫のためプール設置を計画するも、釣りがしたいという孫の意向で池(25坪)に変更。「沢田民宿」「沢田旅館」営業終了。それまでの通常の入居に加えて、以後はウィークリーマンションのように、部屋の短期賃貸も行なう形式に。 1998年(平成10年)9月24日 98高知豪雨。高知市東部がほぼ2日間にわたり浸水。沢田マンション地下室も水没、油を近隣に流出させる事故が発生。周囲の水田では収穫直前の稲に油が付着するなどの被害も発生したが、その年の収穫物を嘉農が全て買い上げる形で解決を見る。 2001年(平成13年) 芝浦工業大学・東京理科大学合同チームで沢田マンションの調査が行なわれる。東京理科大学チームは翌年も調査を継続し、その成果は2002年度修士論文としてまとめられた。 2002年(平成14年)4月1日 沢田マンション公式Webページ『沢田マンションどっと混む』開設。 6月 「第1回沢田マンション祭り」開催。5階屋上を中心に流しそうめんや飲み会などを行う。参加者数140名。 8月 日本建築学会の学術講演会で沢田マンションに関する発表が行なわれる。 9月 『沢田マンション物語』出版、高知県内でベストセラー。刊行当日、高知市建築指導課より建築行政指導が入るが無視、黙殺。この前後より20歳代 - 30歳代の住人が増加し、2004年頃には住民全体の3分の1にまで増加。 10月30日より高知市のギャラリーgraffitiにて「嗚呼沢田マンション27号室の日常展」を開催。 11月 上記展覧会の関連企画として「沢田マンション秋祭り - 月見の宴」を開催。山田太鼓や尺八などのライブの他、沢田夫妻提供による樽酒ふるまいなど。マンション内のみどころを見てまわる「沢マンツアー」への参加者数はのべ130名を超えた。 沢田家の住居である5階屋上にかまぼこ形のリビングを増築。おおむね現在の外観となる。 2003年(平成15年)3月16日 沢田嘉農、肝臓病で逝去。享年75。 沢田嘉農の遺志は家族に継承され、夏以降に沖縄、広島、インドなどからの長期逗留客と住人の交流が重ねられる。 2005年(平成17年) 『高知遺産』にて沢田マンションを紹介。同書の関係者の三分の一が沢田マンション住人。同書に関連して8月には東京で「高知遺産いきなり東京展」を開催。期間中のイベントとして住人と嘉農による「沢マンナイト」を開催。 2006年(平成18年)1月 大阪で開催の「けんちくの手帖」イベントで「沢田マンション」がテーマになる。 4月から3か月間 期間限定のカフェ「weekend cafe sumica」が営業。 大家経営のアロマテラピールームが営業開始。 11月18日 「SAWAMAN EXPO 2006 沢田マンション秋祭り」を開催(住人の企画・運営による)。ジャンベのワークショップ・カフェ・雑貨・マッサージ・美容室など20近い出店がマンション内各フロアに展開。過去最大の300名前後の集客を記録した。 2007年(平成19年)地下発動機室を改造した多目的ホールが完成。 10月20日 地下多目的ホールにて藤島晃一ライブを開催。 2008年(平成20年)2月24日 多目的ホールにてカレー大会を開催。 6月16日 3階 room21に、handmade・雑貨・小物・アンティーク・着物 などの雑貨ショップ、roiroi-open market-がオープン。 6月28日 地下多目的ホールにて良元優作×藤島晃一 沢マン LIVE開催。 イタリアンカフェChubby's Kitchenが1階にオープン。 11月2日 「沢田マンション 豊年祭」を開催。約1300人の集客を記録。 2009年(平成21年)11月22日 自主ギャラリー沢田マンションギャラリーroom38が1階にオープン。 2011年(平成23年)8月28日 沢田マンション祭り「SAWA SONIC 2011」開催。 2012年(平成24年)8月18日 沢田マンション本祭り「BOOK STOCK 沢田マンション ブックの祭典」開催。 2013年(平成25年)8月31日 - 10月6日 芦屋市立美術博物館「マイホーム ユアホーム展」に沢田マンション出展。 2014年(平成26年)11月7日 - 11月9日 沢田マンションギャラリーroom38「3日間の奈良美智・ドローイングショウ」開催。2000人の集客を記録。 2014年(平成26年)11月9日 沢田マンション祭「沢田トロリンナーレ」開催。
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「ニューブリテン島の戦い」の記事における「主な経過」の解説
オーストラリアの信託統治領であったニューブリテン島は、1942年に日本軍が占領し(ラバウルの戦い/1942年)、ソロモン諸島方面進出の拠点とし、またオーストラリアへの空襲を支援する拠点ともなった。 連合国軍は同年10月12日 - 11月11日にラバウル空襲を行い、続く同年12月15日にはニューブリテン島の西部のマーカス岬(アラウェ)にアメリカ第112機甲連隊が上陸(アラウェの戦い(英語版))、12月26日にはアメリカ第1海兵師団もグロスター岬に上陸し(グロスター岬の戦い)、この地域を守備していた日本軍の第65旅団や第17師団を攻撃した(カートホイール作戦)。 1944年2月中旬には西部ニューブリテンは連合軍の手に落ちた(西部ニューブリテンの戦い)が、西部ニューブリテンを占領した連合国軍は損失を恐れこれ以上の東進はしなかった。連合国軍は強固なラバウルの日本軍との正面戦闘を避け、迂回して反攻を行うことにした。 エミラウ島の無血占領(1944年3月20日 - 3月27日)や竹一船団の壊滅(1944年4月17日 - 5月21日)により周辺の制海権を失い、孤立したラバウルの日本軍は終戦までほぼ自給自足を強いられることになったが、両軍の戦いは1945年8月15日の日本の降伏まで続いた。
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1942年(昭和17年) 1月23日 - 日本軍がニューブリテン島のラバウルに上陸(ビスマルク作戦) 2月20日 - ニューギニア沖海戦 3月8日 - 日本軍が東部ニューギニアのラエとサラモアに上陸(SR作戦) 3月~4月 - 日本軍が西部ニューギニア北部(亀地区)を攻略(西部ニューギニア戡定作戦) 5月8日 - 日本軍(南海支隊)はポートモレスビーを海路攻略するためラバウルを出港していたが、珊瑚海海戦の発生により海路攻略を中止 7月21日 - 日本軍の南海支隊先遣隊がポートモレスビーを陸路攻略するためブナに上陸 8月24日 - 日本軍(海軍陸戦隊)がニューギニア東端のラビの攻略を開始。攻略は失敗し9月初旬に撤退 9月16日 - 南海支隊がポートモレスビーの灯が見えるイオリバイワまで進撃したものの、米軍ガダルカナル島上陸部隊撃滅が頓挫したことを受け撤退を開始。ポートモレスビー陸路攻略を断念する。 11月9日 - 日本軍はニューギニアを管轄する第18軍を新設(これまでは第17軍がソロモンとニューギニアの両方を管轄) 11月中旬 - 連合軍がブナの攻略を開始 12月18日 - 日本軍がマダンとウェワクに上陸(日本軍がフォン半島の西側に初めて進出) 1943年(昭和18年) 1月2日 - 日本軍のブナ守備隊が玉砕 1月中旬 - 日本軍がサラモア南西の山間部にあるワウの攻略を開始。攻略は失敗し2月に撤退 3月2日~3日 - ラバウルからラエに向かう日本の輸送船団が壊滅(ダンピールの悲劇) 3月18日 - 秋風事件 4月7日~14日 - い号作戦 (ソロモン諸島と東部ニューギニア方面で日本海軍が行った航空作戦) 6月30日 - サラモア周辺のオーストリア軍が積極攻勢に出るとともに、アメリカ軍がナッソー湾(サラモアの南30Km)に上陸。(連合軍のカートホイール作戦に基づく進撃の始まりで、同日、中部ソロモンでもアメリカ軍がレンドバ島に上陸) 8月17日~18日 - 連合軍がウェワクとブーツ(ウェワクの西)の日本軍飛行場を奇襲空襲。日本軍は約100機(半数以上)の航空機を失う 9月4日~5日 - オーストラリア軍がホポイ(ラエの東側)に上陸、アメリカ軍空挺部隊がナザブ(ラエの西側)に降下 9月11日 - 連合軍がサラモアを奪還 9月16日 - 連合軍がラエを奪還 9月中旬~10月末 - サラモア、ラエの残存日本軍(第51師団ほか)が山を越えてキアリに撤退(サラワケット越え) 9月22日 - オーストラリア軍がフィンシュハーフェン(フォン半島先端)に上陸 10月中旬~12月 - 日本軍(第18軍第20師団)はフィンシュハーフェンを攻撃するが失敗し撤退(12月19日に撤退命令が出る) 10月30日 - 西部ニューギニアを含めた豪北方面を第2方面軍の担当とする組織変更が行われる。第2方面軍の下に第2軍を新設 12月15日 - アメリカ軍がニューブリテン島西部(ダンピール海峡を挟んでフォン半島の対岸)のマーカス岬に上陸。続いてグロスター岬に上陸(12月26日) 12月25日 - 日本軍(第2軍第36師団)がサルミに上陸。12月27日に第36師団ビアク支隊がビアク島に上陸 1944年(昭和19年) 1月2日 - アメリカ軍がマダンとキアリの間のサイドル(グンビ岬)に上陸(連合軍がフォン半島の西側に進出) 1月下旬~2月下旬 - キアリ等のグンビ岬以東の日本軍(第18軍第20師団、第51師団)が山の中を行軍してマダンに撤収 2月29日 - アメリカ軍がアドミラルティ諸島(ニューブリテン島の北西)に上陸。島の日本軍は玉砕し、アメリカ軍は5月6日に作戦終結を宣言。アドミラルティ諸島は連合軍の基地として整備され、さらに西へ進撃する連合軍の重要拠点になる。これで連合軍のカートホイール作戦の目標の「ラバウルの無力化」が達成される 3月20日 - アメリカ軍がエミラウ島に上陸。 3月25日 - 第18軍と第4航空軍を第8方面軍配下から第2方面軍配下とする組織変更が行われる(ダンピール海峡の制空、制海権が完全に失われラバウルからニューギニアを指揮できなくなったため) 3月中旬~6月 - マダン等のウェワク以東の日本軍が大湿地帯を行軍してウェワクに撤収 3月30日~31日 - ホーランジア上陸の準備として近隣の日本軍の航空、海上戦力を排除するためにアメリカ軍空母部隊がパラオを空襲 3月30日~4月3日 - 連合軍がホーランジアの日本軍飛行場を空襲。日本軍は100機以上の航空機を失う 4月22日 - アメリカ軍がホーランジアとアイタペに上陸(連合軍の飛び石作戦の始まり) 5月17日 - アメリカ軍がサルミ(ホーランジアとマノクワリの間)に上陸。翌18日にサルミの沖合のワクデ島に上陸 5月27日 - アメリカ軍がビアク島に上陸 6月4日 - 渾作戦でビアク島に向かっていた日本軍(海上機動第2旅団)がソロンに上陸(ビアク島に向かっていたが果たせず、ソロンに上陸) 6月20日 - 第18軍を第2方面軍配下から南方軍配下とする組織変更が行われる 7月1日~9月 - イドレ転進 7月2日 - アメリカ軍がヌンホル島(マノクワリの東方沖)に上陸 7月10日~8月 - 日本軍(ウェワクの第18軍)はアイタペを攻撃するが失敗し撤退(8月4日に撤退命令が出る) 7月30日 - アメリカ軍がサンサポール(マノクワリとソロンの間)に上陸 8月5日 - カウラ事件 1945年(昭和20年) 5月3日 - 竹永事件 5月11日 - 連合軍ウェワクへ上陸。 9月9日 - 日本軍(第2軍)が降伏 9月13日 - 日本軍(第18軍)が降伏
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