松尾芭蕉 松尾芭蕉の概要

松尾芭蕉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 23:20 UTC 版)

松尾芭蕉
「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と曾良森川許六作)
誕生 寛永21年(正保元年)(1644年
伊賀国阿拝郡
死没 元禄7年10月12日
1694年11月28日
摂津国西生郡大坂南組南久太郎町
職業 俳諧師
ジャンル 俳句
代表作 紀行文『おくのほそ道
古池や蛙飛びこむ水の音
閑さや岩にしみ入る蝉の声
ウィキポータル 文学
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芭蕉は、和歌余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧[5]を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風[6]として確立し、後世では俳聖[7]として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。ただし芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ[8]

元禄2年3月27日(1689年5月16日)に弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名である。

生涯

伊賀国の宗房

芭蕉は、寛永21年(正保元年、1644年)に伊賀国阿拝郡にて、柘植郷の土豪一族出身の松尾与左衛門の次男として生まれるが[3]、詳しい出生の月日は伝わっておらず[3]、出生地についても、阿拝郡のうち上野城下の赤坂町(現在の伊賀市上野赤坂町)説[3]上柘植村(現在の伊賀市柘植町)説の2説がある[9]。これは芭蕉の出生前後に松尾家が上柘植村から上野城下の赤坂町へ移っており、転居と芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は武士ではなく農民だった[10]。兄弟は、兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた[3][9]

明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去し[3]、兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためか、異説も多いが寛文2年(1662年)に[10]若くして伊賀国上野の侍大将藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、その厨房役か料理人を務めていたようである[3]。2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り[3]、寛文2年の年末に詠んだ句

春や来し年や行けん小晦日 (はるやこし としやゆきけん こつごもり)

が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春の日に詠んだという[10]。寛文4年(1664年)には松江重頼撰『佐夜中山集』に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した[3]

寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている[3]

しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって[10]菩提を弔い[3]、仕官を退いた[10]。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる[3]。その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した[10]

寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ』を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、談林派の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄六方詞など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった[3]。また延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた[3]。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった[3]

江戸日本橋の桃青

延宝3年(1675年)初頭(諸説あり[3])に江戸へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、日本橋の小沢卜尺の貸家[11]久居藩士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅に入ったともいう[11]。江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主・内藤義概のサロンにも出入りするようになった[11]。延宝3年5月には江戸へ下った西山宗因を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた[11]。ここで触れた宗因の談林派俳諧に、桃青は大きな影響をうけた[11]

延宝5年(1677年)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる[12]。この期間、桃青は現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている[11]。この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧が行なわれた確かな証拠は無いが、例えば『玉手箱』(神田蝶々子編、延宝7年9月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、『富士石』(調和編、延宝7年4月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、万句俳諧は何らかの形で行われたと考えられる[11]。『桃青伝』(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていた事を示す文も残っている[11]

宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。京の信徳が江戸に来た際に山口素堂らと会し、『桃青三百韻』が刊行された。この時期には談林派の影響が強く現れていた[11]。また批評を依頼される事もあり、『俳諧関相撲』(未達編、天和2年刊)の評価を依頼された18人の傑出した俳人のひとりに選ばれた。ただし桃青の評は散逸し伝わっていない[11]

しかし延宝8年(1680年)、桃青は突然深川に居を移す。この理由については諸説あり、新進気鋭の宗匠として愛好家らと面会する点者生活に飽いたという意見、火事で日本橋の家を焼け出された説、また談林諧謔に限界を見たという意見もある[13]。いずれにしろ彼は、俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けて老荘思想のように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようとした考えがあった[14]

江戸深川の芭蕉

深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがある。また、『むさしぶり』(望月千春編、天和3年刊)に収められた

侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥 (わびてすめ つきわびさいが ならちゃうた)

は、侘びへの共感が詠まれている[13]。この『むさしぶり』では、新たな号「芭蕉」が初めて使われた。これは門人の李下から芭蕉の株を贈られた事にちなみ、これが大いに茂ったので当初は杜甫の詩から採り「泊船堂」と読んでいた[14]深川の居を「芭蕉庵」へ変えた[13][15]。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。

芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 (ばしょうのわきして たらいにあめを きくよかな)

しかし天和2年(1682年)12月28日、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称・伝右衝門)に招かれ流寓した[13]。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが[13]、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた[14]

一方で、芭蕉が谷村に滞在したのは、天和3年の夏のしばらくの間とする説もある[16]

その間『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、漢詩調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれる[13]。その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられる[14]

深川の芭蕉庵の跡地やその周辺には、江東区芭蕉記念館、その分館の芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉翁像、芭蕉稲荷神社などの施設や史跡がある[17]

蕉風の高まりと紀行

貞享元年(1684年)8月、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。東海道を西へ向かい、伊賀・大和吉野山城美濃尾張・甲斐を廻った。再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月になった。これは元々美濃国大垣の木因に招かれて出発したものだが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した[18]

紀行の名は、出発の際に詠まれた

野ざらしを心に風のしむ身哉

に由来する。これ程悲壮とも言える覚悟で臨んだ旅だったが、後半には穏やかな心情になり、これは句に反映している。前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する[18]。途中の名古屋で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。これは「芭蕉七部集」の第一とされる[18]。この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ[18]。これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる[18]

野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催したの発句会で有名な

古池や蛙飛びこむ水の音 (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと) 『蛙合』

を詠んだ。和歌連歌の世界では「鳴く」ところに注意が及ぶ蛙の「飛ぶ」点に着目し、それを「動き」ではなく「静寂」を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となった[19]

貞享4年(1687年)8月14日から、芭蕉は弟子の河合曾良と宗波を伴い『鹿島詣』に行った。そこで旧知の根本寺前住職・仏頂禅師と月見の約束をしたが、あいにくの雨で約束を果たせず、句を作った。

月はやし梢は雨を持ちながら

同年10月25日からは、伊勢へ向かう『笈の小文』の旅に出発した。東海道を下り、鳴海熱田伊良湖崎・名古屋などを経て、同年末には伊賀上野に入った。貞享4年(1687年)2月に伊勢神宮を参拝し、一度父の33回忌のため伊賀に戻るが3月にはまた伊勢に入った。その後吉野・大和・紀伊と巡り、さらに大坂須磨明石を旅して京都に入った[19]

京都から江戸への復路は、『更科紀行』として纏められた。5月に草鞋を履いた芭蕉は大津岐阜・名古屋・鳴海を経由し、信州更科姨捨山で月を展望し、善光寺へ参拝を果たした後、8月下旬に江戸へ戻った[19]

おくのほそ道

象潟地震で隆起する以前の、象潟の様子が描かれた屏風。芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」という句を詠み、「松島は笑ふが如く、象潟は憾む(悲しむの意)が如し」と評した。

西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。下野陸奥出羽越後加賀越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた[20]

夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと):岩手県平泉町

閑さや岩にしみ入る蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県立石寺
五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町

荒海や佐渡によこたふ天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ):新潟県出雲崎町

この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。特に金沢で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった[20]。また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした[20]

芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600(約2,400km)の旅を終えた。その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し[20]、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。12月には京都に入り、年末は近江 義仲寺の無名庵で過ごした[21]

『猿蓑』と『おくのほそ道』の完成

『三日月の頃より待し今宵哉』(月岡芳年『月百姿』)松尾芭蕉

元禄3年(1690年)正月に一度伊賀上野に戻るが、3月中旬には膳所へ行き、4月6日からは近江の弟子・膳所藩菅沼曲翠の勧めにしたがって、静養のため滋賀郡国分の幻住庵に7月23日まで滞在した[21]。この頃芭蕉は風邪に持病のに悩まされていたが、京都や膳所にも出かけ俳諧を詠む席に出た[21]

元禄4年(1691年)4月から京都・嵯峨野に入り向井去来の別荘である落柿舎に滞在し、5月4日には京都の野沢凡兆宅に移った。ここで芭蕉は去来や凡兆らと『猿蓑』の編纂に取り組み始めた[21]。「猿蓑」とは、元禄2年9月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠み、巻頭を飾った

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 (はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)

に由来する[21]。7月3日に刊行された『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』が収録されている[21]。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった[21]

芭蕉は10月29日に江戸に戻った。元禄5年(1692年)5月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住んだ。しかし元禄6年(1693年)夏には暑さで体調を崩し、を過ぎたあたりから約1ヶ月の間庵に篭った。同年冬には三井越後屋の手代である志太野坡、小泉孤屋、池田利牛らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集した[22]。これは元禄7年(1694年)6月に刊行されたが[23]、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた『おくのほそ道』を仕上げて清書へ廻した。完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵した[22]

死去

松尾芭蕉像(葛飾北斎画)

元禄7年(1694年)5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中大井川の増水で島田に足止めを食らったが、5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った[23]

9月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた[23]。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの[24]10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に南御堂の門前、南久太郎町6丁目の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた[23]。8日、「病中吟」と称して

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

を詠んだ[23]。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した[24]。10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午後4時頃)、芭蕉は息を引き取った[23]。享年50。

遺骸は去来、其角、正秀ら門人が舟に乗せて淀川を上り、13日の午後に近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれた。翌14日葬儀、深夜遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという[23]。其角の「芭蕉翁終焉期」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。なお、墓石の「芭蕉翁」の字は、丈艸(じょうそう)の筆といわれる。

蕉門

門人に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角[25]服部嵐雪[25]森川許六[26]向井去来[27]各務支考[26]内藤丈草[26]杉山杉風[25]立花北枝志太野坡[26]越智越人[28]や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる河合曾良[28]広瀬惟然[26]服部土芳[29]天野桃隣、それ以外の弟子として万乎野沢凡兆[27]蘆野資俊などがいる。

宝井其角の流れは水間沾徳に受け継がれて江戸俳壇の中心となり、後に江戸座を結成した[30]。 向井去来の没後60余年の後に蝶夢門下の井上重厚が落柿舎を再建して二代目庵主を名乗り、以来嵯峨の地に残る[31]。 各務支考に始まる美濃派は支考の別号「獅子老人」に由来して獅子門を名乗り、俳句結社として現代に続く[32]。 この他にも地方でも門人らがあり、尾張・近江・伊賀・加賀などではそれぞれの蕉門派が活躍した[28]。特に芭蕉が「旧里」と呼ぶほど好んだ近江からは近江蕉門が輩出した。門人36俳仙といわれるなか近江の門人は計12名にも及んでいる。


注釈

  1. ^ 「つげさんぽう」と読む。日置氏、北村氏、福地氏から成る。平宗清の子孫を称したが、仮冒とされる。
  2. ^ 「芭蕉七部集」の正式名は「俳諧七部集」。

出典

  1. ^ 佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表
  2. ^ a b 阿部(1986)、p.235-241 略年譜、p.1-34 誕生と身辺・郷党の秀才
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)
  4. ^ 高橋(1993)、p.303 略年譜、p.4-9 松尾忠右衛門宗房の寛文時代
  5. ^ 東明雅、芭蕉の恋句、岩波新書黄版91、岩波書店1997年、p.37参照及び引用
  6. ^ 東聖子 『蕉風俳諧における〈季語 ・季題〉の研究』(明治書院、2003年)、ISBN 4-625-44300-8
  7. ^ 佐藤編(2011)、p.247、あとがき
  8. ^ 東明雅、芭蕉の恋句、岩波新書黄版91、岩波書店1997年、p.1参照及び引用
  9. ^ a b 北出楯夫. “【俳聖 松尾芭蕉】第1章 若き日の芭蕉”. 伊賀タウン情報YOU. 2016年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月12日閲覧。 “上柘植村説は芭蕉の没後84年を経た安永7年(1778年)に、蓑笠庵梨一の『奥の細道菅菰抄』に「祖翁ハ伊賀国柘植郷の産にして...」と書かれたのが始まり。その後いくつかの伝記に引用されることになるが、その根拠は乏しい。”
  10. ^ a b c d e f 饗庭(2001)、p.16-21、1.芭蕉、伊賀上野の頃
  11. ^ a b c d e f g h i j 佐藤編(2011)、p.34-37、芭蕉の生涯 江戸下向(延宝期)
  12. ^ 饗庭(2001)、p.30-42、3.談林風と江戸下向
  13. ^ a b c d e f 佐藤編(2011)、p.38-41、芭蕉の生涯 深川移居(延宝末~天和期)
  14. ^ a b c d 饗庭(2001)、p.43-54、4.隠者への道
  15. ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.14-17、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉における貞門・談林・天和調
  16. ^ ミュージアム都留(2000)pp.114-117。
  17. ^ 松尾芭蕉ゆかりの地 江東おでかけ情報局、2020年9月21日閲覧
  18. ^ a b c d e 佐藤編(2011)、p.41-44、芭蕉の生涯 『野ざらし紀行』の旅
  19. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.44-47、芭蕉の生涯 草庵生活と『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行』の旅
  20. ^ a b c d 佐藤編(2011)、p.47-48、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の旅
  21. ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.49-50、芭蕉の生涯 『猿蓑』の成立
  22. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.50-52、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の成立と「かるみ」への志向
  23. ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.52-54、芭蕉の生涯 最後の旅へ
  24. ^ a b 饗庭(2001)、p.206-216、17.晩年の芭蕉
  25. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.61-66、蕉門を彩る人々 最初期から没後まで蕉門であり続けた人々
  26. ^ a b c d e 佐藤編(2011)、p.66-71、蕉門を彩る人々 晩年に入門し「俳諧の心」を受け継いだ人々
  27. ^ a b 佐藤編(2011)、p.72-73、蕉門を彩る人々 『猿蓑』を編集した対照的な二人
  28. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.74、蕉門を彩る人々 おわりに
  29. ^ a b c d 佐藤編(2011)、p.190-192、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と俳論
  30. ^ 稲葉有祐『宝井其角と都会派俳諧』笠間書院、2018年2月、299頁。 
  31. ^ 落柿舎について”. 2024年1月29日閲覧。
  32. ^ ようこそ、獅子門へ”. 2024年1月29日閲覧。
  33. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.17-18、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉発句の成果
  34. ^ a b 佐藤編(2011)、p.216-223、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と「かるみ」‐『別座舗』の場合
  35. ^ 饗庭(2001)、p.217-252、18.芭蕉の芸術論
  36. ^ a b 佐藤編(2011)、p.223-226、芭蕉と芭門の俳論 元禄俳諧における名句
  37. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.192-195、芭蕉と芭門の俳論 俳諧文芸の本質・俳諧精神論‐「俗語を正す」「風雅の誠」
  38. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.195-198、芭蕉と芭門の俳論 対象把握の方法‐物我一如と本情論
  39. ^ レファレンス共同データベース”. 国立国会図書館. 2019年12月9日閲覧。
  40. ^ 麻生編(1969)、p.356
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  42. ^ a b c d e 第4回「芭蕉忍者説の傾向と対策」(後期) - 三重大学人文学部・人文社会科学研究科、2021年3月4日閲覧。
  43. ^ a b c d e 「芭蕉忍者説」を検証 三重大・吉丸准教授が起源など解説 - 『産経新聞』2017年1月29日、2021年3月4日閲覧。
  44. ^ 芭蕉忍者説尾崎広める - 『読売新聞』2018年4月11日、2021年3月5日閲覧。
  45. ^ (エッセイ)百地家系図の「芭蕉」に関する記述について (吉丸雄哉) - 国際忍者研究センター、2021年3月4日閲覧。
  46. ^ NHK衛星ハイビジョン2009年1月11日16:00『地球特派員スペシャル』にて岡本行夫ウクライナから持ち帰った中学2年生の教科書を示して。
  47. ^ 大谷泰照監修、堀内克明監修、朝尾幸次郎ほか編 『社会人のための英語百科』 大修館書店、2002年3月、181頁。


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