宇宙戦艦ヤマト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/15 10:03 UTC 版)
放送局
![]() | この節の加筆が望まれています。 |
- よみうりテレビ(制作局)
- 札幌テレビ:日曜 19:30 - 20:00[79]
- 青森放送:日曜 19:30 - 20:00[80]
- テレビ岩手:日曜 19:30 - 20:00[81]
- 秋田放送:日曜 19:30 - 20:00[80]
- 山形放送:日曜 19:30 - 20:00[81]
- 宮城テレビ:日曜 19:30 - 20:00[81]
- 福島中央テレビ:日曜 19:30 - 20:00[81]
- 日本テレビ:日曜 19:30 - 20:00[82]
- 新潟総合テレビ:日曜 19:00 - 19:30(先行放送)[80]
- 山梨放送:日曜 19:30 - 20:00[80]
- テレビ静岡:月曜 18:00 - 18:30[83]
- 北日本放送:日曜 19:30 - 20:00[84]
- 北陸放送:水曜 17:25 - 17:55[85]
- 福井放送:日曜 19:30 - 20:00[84]
- 中京テレビ
- 日本海テレビ
- 広島テレビ
- 山口放送
- 四国放送
- 西日本放送(当時の放送免許エリアは香川県のみ)
- 南海放送
- 高知放送
- 福岡放送
- テレビ長崎
- 熊本放送:日曜 11:30 - 12:00
- テレビ大分
- テレビ宮崎
- 鹿児島テレビ
放映と影響
1974年10月6日から1975年3月30日まで26回にわたり、讀賣テレビ放送をキー局として放映された。
当初は最大39話(企画時では全51話)の放送を予定し、小マゼラン基地撃破編などのストーリーが用意されていた。視聴率はビデオリサーチ調べで平均6.0%、ニールセン調べで平均7.3%に終わった[86]。しかしながらSFファンからは人気を得て、日本SF大会のファン投票で星雲賞を受賞する。
低視聴率に加えて、前述の過酷な制作、そして1話あたり予算が500万円の計算だったのが800万円かかって[87]、1話制作すると100万円単位の赤字が出たために[88]、第3クールへの延長は第1クール中に断念され、終盤への伏線を削除して全26話に再構成の上で製作・放映された。
以上のように本放送では失敗したが、1975年9月より北海道札幌地域、翌1月より読売テレビ系で再放送が始まり、他地域でも続々と再放送が行われるにつれ、『宇宙戦艦ヤマト』が再評価されるようになった。特に関東地方では20%の視聴率を記録した[89]。この再放送や映画化により社会現象とも言える人気を得て、ヤマトブームのみならず、後述のアニメブームの他、アニメ史上で様々な影響をもたらした。
同人誌即売会のコミックマーケットは当初は少女マンガが中心であったが、本作によりアニメのサークルの参加が増え始めた[90]。
1970年代から1980年代の声優ブームは、本作のヒットによってアニメ声優が注目された影響とも言われる[91][92]。
漫画市場においても、『宇宙戦艦ヤマト』が、漫画とテレビアニメの関係がどちらが主体とは言い難い複雑で密接なものとなり、メディアミックスによる市場拡大がなされる転機となった作品との評価がある[93]。
後のクリエイターに与えた影響も大きく、庵野秀明や出渕裕らはヤマトがなければ今の自分はなかったとの旨を語っている[94][95]。
本作が当時の中高生に人気を博した理由に関して、社会学者からモラトリアムの拡大が指摘されている。当時は高校進学率や大学進学率が大きく伸びており、モラトリアムの期間が拡大した結果、中高生が本作のようなアニメを楽しむ余裕があったとされている[96]。また、学生運動の衰退と社会の固定化により、若者は「サブカルチャー」に群れることで空想の世界に溺れるようになったとも言われる[97]。
日本国外
日本国内だけでなく、アメリカで1977年に再編集した劇場版『Space Cruiser Yamato』が公開され、1979年より『Star Blazers』という題名で、シンジケーション番組としての都市部でテレビ放映された。『STAR BLAZERS』視聴率はさほどでもなく、その人気はアメリカ全土ではなく東海岸を中心にしたものにとどまった。『科学忍者隊ガッチャマン』の改変に比較すると、『STAR BLAZERS』の改変は暴力的な描写や戦艦大和の削除などわずかにとどまった。宇宙戦艦ヤマトの艦名はギリシア神話に登場するArgo(アルゴー船)に変更され、登場人物もWASP風に改名された[98][99]。
アメリカから再輸出されたオーストラリア、イタリアなどの国々でも同様である。
アジアでは、韓国で1981年に『宇宙戦艦V号』(우주전함V호)のタイトルで放送され[100]、『銀河艦隊地球号』(은하함대지구호)という模倣作品も登場した[101]。香港では『太空奇艦』として放送され、ともに漫画版や絵本やムックの海賊版も出版されていた[30]。台湾では『宇宙戰艦』のタイトルで放送された(ただし、テレビ版第1作と第2作のみ)。
英語表記
1977年に第1作を再編集して輸出した映画版の英語表記は『Space Cruiser Yamato』だった。プロデューサーの西崎義展がクルーザーを所有していたためとされる[102](軍事用語のcruiserは「巡洋艦」という意味になる)。また、英語圏のSF作品では『スタートレック』のように「Battleship(戦艦)という単語には愚鈍さもあるので、宇宙戦艦には用いない」ということもある。現在は『Space Battleship Yamato』に変更されている。
アメリカ合衆国では、『STAR BLAZERS』[103] の題名でテレビ放映された。
アニメブーム
再放送で起こった本作のブームを引き継ぐ形で『銀河鉄道999』『機動戦士ガンダム』が人気を得たことで、ヤマトブームに終わらず、アニメブームの火付け役になったとの評価が定着している[104][105]。
1975年3月末の本放送の終了後、西崎プロデューサーの資金繰りで再放送の権利が『ワンサくん』と抱き合わせで東北新社に売却[106]といわれるが、実際は1975年の再放送時には再放送権は売却しておらず、東北新社は西崎の再放送権売却の提案を蹴っており、再放送の業務委託をしたに過ぎない。再放送は西崎が独自に実施し大ヒットさせた。そのヒット後、当時の東北新社代表である植村伴次郎が”あの時買っておけば良かった”と後悔したことを西崎に言った逸話がある。1975年夏に近畿地方から再放送が始まり、1975年秋から全国的に行われ、人気が高まる[107]。高視聴率を得たほか[108]、これをきっかけに全国各地でファンクラブが結成される[107][109]。ファンクラブは最盛期には全国で851団体、15万人を数えたという[110]。ファンクラブは西崎プロデューサーの呼びかけに応えて、主題歌のラジオ番組へのリクエストや映画公開の際にはポスター貼りなどを行って、ヤマトブームの盛り上げに一役買った[111]。1977年12月には、オフィスアカデミーが主宰し、西崎が会長の公式ファンクラブ「宇宙戦艦ヤマト・ファンクラブ本部」が発足し、機関誌『宇宙戦艦ヤマト』を発行していた[112][113]。
そして、『宇宙戦艦ヤマト』によって多数誕生した中高校生・ハイティーン世代のファンへ向けてアニメ雑誌が誕生した。当時は、児童向けのテレビ雑誌の『テレビマガジン』『テレビランド』『冒険王』があった程度で、アニメ雑誌が存在せず、まずサブカルチャー雑誌としてスタートした『月刊OUT』が1977年6月号(創刊第2号)でヤマト特集を行った。このヤマト特集は、同人活動を行っていたファンの小牧雅伸、氷川竜介、伊藤秀明(ケッダーマン)をライターに起用して執筆がなされ[114]、雑誌としては異例の増刷になった[115][116]。若者向けの商業誌で本格的にヤマトが取り上げられたことは初めてであり[114]、この『月刊OUT』の50ページのヤマト特集がヤマトブームの火つけ役だったとも言われる[117]。さらに同年8月に発売されたテレビランド増刊『ロマンアルバム宇宙戦艦ヤマト』はファンクラブに入っていない層からの多大な反響を得て、『アニメージュ』に繋がるアニメ雑誌の流れを作る[118][119]。
ヤマトによって形成された世代層向けに、本作の成功面と失敗面を研究して『機動戦士ガンダム』が企画された[120]ことを、日本サンライズに在籍していた飯塚正夫や元社長の山浦栄二と吉井孝幸が証言している。元々『機動戦士ガンダム』の企画は、宇宙空母ペガサスを主役として企画されたものだった[121][122]。バンダイにとっても、ヤマトのプラモデルのノウハウは、ガンプラに活かされることになった(詳細は「宇宙戦艦ヤマトシリーズ#玩具」参照)。
社会・暗部への影響
上記のような一般社会への好ましい影響ばかりではなく、カルト教団といった社会の暗部にも影響を与えている。特にオウム真理教は様々なサブカルチャーの影響を受けていることが指摘され、本作についてもその一つとして影響が取り沙汰されている。具体的には空気清浄機のコスモクリーナー、行動部隊の白い愛の戦士という名称、教団の自主アニメにおける宇宙船のコクピットとコスチューム、滅びに瀕した人類を救うというモチーフなどである[123][124][125]。
劇場版
宇宙戦艦ヤマト | |
---|---|
監督 | 舛田利雄 |
脚本 |
藤川桂介 山本暎一 |
原案 | 西崎義展 |
製作 | 西崎義展 |
製作総指揮 | 西崎義展 |
ナレーター | 木村幌 |
音楽 | 宮川泰 |
編集 | 鶴渕允寿 |
配給 |
オフィスアカデミー(東急レクリエーション) 東映洋画(東京都外)[126] |
公開 |
![]() |
上映時間 | 151分 |
製作国 |
![]() |
言語 | 日本語 |
興行収入 | 21億円[127] |
配給収入 | 9億円 |
次作 | さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち |
1977年に劇場公開された、テレビ放映版の再編集作品。
正式タイトルはテレビ放映版と同じ『宇宙戦艦ヤマト』だが、テレビ放映版との区別のため、ビデオソフトなどでは「宇宙戦艦ヤマト(劇場版)」と表記されている。
経緯
テレビ放送終了後、第22話の再撮影が行われた[89]。同話は、過密スケジュールの影響でNGシーンが入ったままテレビ放送されていたが(#別バージョン参照)、第21話 - 第22話(七色星団の戦い)を1つにまとめて40分の中編映画としてフィルム・レンタル会社に売り込むことを想定し、修正されることになったのである。ここから劇場映画化というアイデアが生まれた[89]。
当初は日本国外輸出向けに舛田利雄と山本暎一らの協力で再編集していたが、1977年初頭に小説版などで縁のあった朝日ソノラマの社員から国内のファンの存在を考慮して国内向けにしてみないかという助言を受ける[128]。
しかし、当時は西崎もまだ無名のプロデューサーであり、さらにテレビでは商業的に失敗に終わった作品のため[129]、試写を観た大手映画会社の東宝、松竹や、洋画配給の東宝東和、日本ヘラルド映画から「こんなのは稼がない」と配給を蹴られ[129][130][131][132][133][134][135][136][137][138]、西崎が東映の岡田茂社長(当時)に泣きつき[129][137]、東映での配給を依頼[129][130][132][133][134][137]、岡田が観て面白いことを確認して配給を決めた[129][137]。岡田が買った理由は「うちはほかに作品がないから」である[133]。
岡田が東急レクリエーションと話し合い[132]、東京都内は東急レクリエーション(都内の劇場4館)、地方は東映洋画の劇場チェーンでの配給を決めた[129][132]。岡田は「私が西崎氏の才能を発見した」と話している[132]。当初西崎はこれを最後にアニメから手を引き、オフィス・アカデミー自主配給でファン向けに1週間だけ劇場公開するつもりだったという[139][140]。
岡田は戦艦を天空に浮かべるという奇想天外なアイデアに舌を巻き「ああいう発想はおれたちのような映画屋では絶対に生まれない。げに恐ろしきものは素人」と西崎を評し[141][142]、腹心の吉田達プロデューサーを2年半、オフィス・アカデミーに出向させ[143]、ヤマトシリーズ作品を担当させて、西崎の取り込みを計った[143]。岡田は外部からの変わり者には吉田を担当に就けた[144]。ヤマトシリーズは、岡田にアニメ映画の威力を強く印象付けて[143][145]、東映がアニメ映画を多数製作していく切っ掛けとなった[143][145][146]。"アニメブーム"の勃興に一役買った岡田は[147]、「映画製作はファッション。絶えず大衆の求めているものは揺れ動いている。これについてゆくためには、まったく別の発想のモノを入れ込むこともやらにゃダメ。角川春樹クンに頼んでシャシン入れてもらったのも、西崎クンが入って来てアニメ映画の革命を起こしたのも、みんなそれ」などと述べている[148]。
再編集の内容
1975年5月、劇場向けの再編集を開始。当初は3時間半あるいは5時間の長さ[146]であったが、舛田利雄の監督のもと沖田艦長の物語に焦点を当てる方針で第13-19話分を丸ごと削除するなどして、約2時間短縮した[89]。さらに、イスカンダル到着シーンの脚本が書き直され、最終回のデスラー再襲シーンも削除され、2時間8分まで短縮。イスカンダルのシーンは、スターシャが既に亡くなっており、立体ホログラムで登場するという設定で、石黒昇が新たな絵コンテを起こし[149][150][89]、芦田豊雄のスタジオが作画を行った[89][151]。よって、古代守の生存・再登場もない。このシーンが入っているバージョンは、俗に「スターシャ死亡編」と呼ばれる。なお、元々は16ミリのレンタルフィルム向け総集編として製作されたことと予算不足で、追加シーンは16mmフィルムで撮影されている。そのため35ミリフィルムで撮影されたテレビ版からの再利用部分に比べると画質が粗い[89][150]。
なお、本作は山本版と舛田版の2つが作られており、山本が比較したうえで舛田版を選んだとされる[152]。
アフレコは一部のセリフの差し替えを主として、メインキャストによる新録が行われた[153]。
日本での動向
『月刊OUT』の特集記事
劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の存在が一般に知られるようになったのは『月刊OUT』誌の1977年6月号(同4月下旬発売、創刊第2号)においてである[154]。同号には、ヤマト・アソシエイション(YA)というファンクラブの協力により、西崎義展のインタビュー、エピソード・ガイド、キャラクター・ガイド、ヤマト百科などを含む全60ページ[注 8]のヤマト大特集が掲載された[155]。
『月刊OUT』が8月号(6月下旬発売)で再び『宇宙戦艦ヤマト』を取り上げ、8月6日から劇場公開されるという情報を掲載。元々、オフィスアカデミーの自主配給により新宿の映画館でファンのみを対象とした1週間の上映会を行うつもりだったが、同誌6月号に対するファンの好反響などを受け、東急レクリエーション系4館での公開が決定したのである。同号には前売券の入手方法も掲載され、前売券が大量に売れる。
この『月刊OUT』誌上の東京上映のみという情報が、後述の全国公開に発展する流れを生む[127]。
周辺の動き
1977年7月、日本コロムビアよりテレビ版のサウンドトラックLP(CS-7033)が発売され、ヒット。この場合の「サウンドトラック」は、「テレビのオリジナル音声から編集した名場面集」という意味で[注 9]、OP主題歌の冒頭にも「無限に広がる大宇宙...」という、テレビでおなじみのナレーションと効果音が入っていた。また、帯には「君は覚えているか! あの熱き血潮を!!」と書かれていた。
その他にも、再放送の人気やファンクラブの活動が新聞などで次々と報道される。
公開前夜
『月刊OUT』が9月号(7月下旬発売)で2度目のヤマト大特集を組む[155][注 10]。
1977年8月5日夜、公開を翌朝に控え、セル画プレゼントを目当てにしたファンが劇場前に行列を作った。それまで、アメリカのホラー映画『エクソシスト』で徹夜が生じたことはあったが、日本映画で初めて徹夜組が出たのはこのヤマト劇場版第1作だと言われている[156][157][158]。
「ファンが劇場前に行列」というテレビ報道を見た西崎らは、同夜のうちに劇場前にかけつけた。同伴した石黒昇によれば、西崎は並んでいるファン全員と握手しかねない勢いだったという[154]。この時に徹夜で行列したファンの数は2万人以上である[154][159]。
劇場公開
1977年8月6日、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』が東京の4館で公開。1977年夏に日本で上映されたのは2時間10分の「スターシャ死亡編」である[151][160][161][162]。
前述の『月刊OUT』8月号誌上で東京の4館のみでの上映の情報が伝わると、全国での上映を希望する声が高まり、オフィスアカデミーでもファンクラブを通じて、ラジオ局への曲リクエストとポスターを貼る作戦を行い、マスコミの話題となる[127]。これらの反響により、岡田茂東映社長の意向で[163]、地方都市の配給は東映が担当し、系列の東映洋画系で全国配給が決まった[163]。北海道では、東京公開から1週遅れの8月13日に札幌市の2館公開予定だったのが、旭川市、函館市、室蘭市に拡大公開されることになった[164][154])ことを皮切りに地方のブッキングが進み、全国ロードショーが決定する[127][158][165]。
地方での上映館が増えたのは、アメリカ映画『ブラックサンデー』の上映中止事件によって穴が空いた地方の映画館が存在したことも一因だった[129]。最終的に225万2000人の観客を動員し、9億円の配給収入、21億円の興行収入をあげて[129][127]、1977年の日本映画では9位の興行成績を記録した大ヒット作品となった[147][166]。
当時は長編のアニメ映画といえば、東映動画(現・東映アニメーション)による低年齢向けの東映まんがまつりの独擅場という状況であったが、劇場版ヤマトのヒットはこの状況を打ち破り、ハイティーンのアニメファン向けにテレビアニメ再編集版や新作の長編アニメが続々と劇場で公開されるアニメ映画ブームをも巻き起こした[129][167][168]。『宇宙戦艦ヤマト』が1977年8月に劇場公開されたとき、“アニメブーム”なる言葉が生まれ[169]、本作の大ヒットから、それまでテレビの夕方の子供向けの時間帯にひしめいていたアニメーション映画が大型化されて劇場に進出するようになった[129][170]。長く低迷していた東映アニメーションが本作を機に復活[133][145]、配給した東映洋画が飛躍する原動力にもなった[134]。宣伝面では従来の「まんが映画」に代わって「アニメ」という言葉を全面に押し出し、特典付き前売券や初日舞台挨拶、セル画プレゼントなど、後発のアニメ映画で一般的になる手法を使ったはしりとなったのが本作である[158][154]。
テレビ放送
劇場公開の翌年、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』公開前日の1978年8月4日にテレビ放送されたのは、スターシャが生存しており救出された古代守と恋愛関係にあるというテレビシリーズに沿った形で146分になった「スターシャ生存編」である[160]。「生存編」として再編集されたことにより、藪の反乱がなかったストーリーであるにもかかわらず(地球帰還時、第一艦橋に藪の姿が見える)、徳川がスターシャに頭を下げて出ていくシーン、古代守・スターシャとの別れの場面で雪が負傷しているというシーンが存在する(ラストの地球を観るシーンで藪が登場していることから、反乱が描かれなかったのではなく、なかったと考えないと筋が通らない)。
劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の放送局はテレビシリーズの日本テレビ系ではなく、フジテレビであり、日本テレビと競り合って5000万円で放送権を獲得した。視聴率は31.9%[110][171]。以後、「スターシャ死亡編」はヤマトシリーズの正史ではなくなり、再公開の際にも上映されず[172][173]、翌1979年にフジテレビが放送した『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』は「スターシャ生存編」に則ったテレビ版第1作および『2』の続編となっている。
1979年7月14日開始の「宇宙戦艦ヤマトフェスティバル」において、西崎義展プロデュース作品の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』『海のトリトン』とともに3本立てでロードショー公開(東映洋画部配給)された時も「生存編」が上映された。その時の配給収入は5億1000万円だった[174]。
ビデオソフト化とバリエーション
本作の最初のビデオソフト化は1983年で、東映ビデオからVHSとベータマックス、日本ビクターから、VHSとVHD、日本コロムビアからLDが発売された[175]。
このうち、ビクター発売のビデオソフト用として、音声をステレオ化したものが新たに制作された。映像は同一だが、BGMが差し替え、あるいは疑似ステレオ化されている[175]。
長らく封印状態だった「スターシャ死亡編」は、1990年になってレーザーディスク「宇宙戦艦ヤマト 劇場版パーフェクトコレクション」の特典映像として初収録された[172][173]。この映像特典は、当初16ミリレンタルフィルム用の総集編フィルムとして制作されながら、劇場公開にあたってカットされたヤマトの潜水シーンやスターシャの宮殿が沈むシーンも収録されている[150][176]。
後のDVD版およびBD版では、メニュー画面で選択する形で生存編と死亡編を選択して視聴出来るが、死亡編には宮殿の沈没シーンは未収録となっている[176]。
2015年時点、本作には「スターシャ死亡編」と「スターシャ生存編」、およびそれぞれにモノラル版とステレオ版が存在する状態となっており、DVD以降はこの計4種のバリエーションを選択できる。
日本国外での展開
1976年頃までに、オフィスアカデミーは日本映画の国外販売に従事するようになっており、『宇宙戦艦ヤマト』もそのラインナップに加えられた[89]。その際、上映時間が短い方が売りやすいということで、さらにオリオン星関連のシーン(第12話)を削除して1時間38分まで短縮された[89]。
1977年5月、英語吹替版『Space Cruiser Yamato』(「スターシア死亡編」)が第30回カンヌ国際映画祭に出品された[177][89]。英語版のチラシも配られ、アメリカ合衆国、メキシコ、カナダ、イギリス、フランスなど、11か国の配給会社と契約が成立[165][89]。アメリカでは映画館での上映のみでなく、一部ではテレビ放送も行われた[注 11][89]。
日本国外での評価
1978年3月発行の『Starburst』誌(イギリスのSF・ファンタジー雑誌)第2号に『Space Cruiser Yamato』の映画評が掲載されたが、その筆者は『宇宙戦艦ヤマト』が『スター・ウォーズ』の後発だと勘違いし、両作品の共通点を挙げ連ねて酷評した[89]。
関連商品
1977年11月、日本コロムビアが『Space Cruiser Yamato』の箱入りLPレコードを発売。LPの収録内容は英語吹替版の音声トラックを編集して54分にまとめたもので、付属ブックレットには日英両語の脚本が掲載され、スタジオぬえによる描き下ろしポスターも同梱されていた[89]。
なお、日本コロムビアは1978年12月、ささきいさお歌唱による英語版主題歌シングル『SPACE CRUISER YAMATO / THE RED SCARF』(#主題歌)を発売したが、これは劇場版『Space Cruiser Yamato』とは直接関係はない[89]。
劇場版スタッフ
- 総作画監督:石黒昇
- 作画監督:芦田豊雄、白土武、小泉謙三、岡迫亘弘、泉口薫、宇田川一彦
- 作画協力:スタジオ・メイツ、タイガー・プロ、アニメ・ルーム ※全てノンクレジット
- 背景美術者:槻間八郎、横瀬直士、東条俊寿、水尾純一
- デザイン協力:スタジオ・ぬえ(宮武一貴、加藤直之、松崎健一)※全てノンクレジット
- 色彩設定:横瀬直土、広瀬和好、伊藤滋子 ※全てノンクレジット
- 撮影:諌川弘、吉坂研一、藤田正明、山崎友正
- タイトル:多々良正春
- 音響監督:田代敦已
- 効果:柏原満(T.E.O ※ノンクレジット)
- 編集:鶴渕允寿
- 録音所 アバコスタジオ
- 音響制作:グループ・タック ※ノンクレジット
- 現像:東京現像所
- 助監督:棚橋一徳
- 制作担当:長嶋正治、野村和史、堤隆之、広岡修
- 配給:オフィス・アカデミー、東映洋画
注釈
- ^ ただし、第10話では雪以外の女性乗組員の姿も確認される。プロデューサーの西崎は、元々ヤマトの女性乗組員は雪一人と考えていたが、現場との情報伝達が不十分のため作画されてしまったと語っている。
- ^ 松本版では明示されていないが、ドメル艦隊からヤマトを助けた、髑髏マークをつけた宇宙船の主はキャプテンハーロックを名乗ってヤマトに地球の医薬品を要求し、顔は隠しているものの、来艦して宇宙服のヘルメットを脱いだ古代進の顔を見て驚き、進の肩に手を添えて送り出す場面がある。
- ^ 放映当時の設定。現在では準惑星に分類されている、
- ^ 松本零士も海野十三に憧れていたため、自分がキャラクター設定を任された際に、艦長を「沖田十三」と命名した。
- ^ 一方、古代に撃墜されるガミラスファイターが、本来の緑ではなく紫色になっている場面は修正されていない。
- ^ 本書では「子門はA mだったところを僕は一音下げたC m」との記載だが、正調C mの一音上はD mである(A mだとC mより更に一音半低い)ため、おそらく記者の聞き間違いによる誤記。
- ^ アカデミーの資料では、第3話絵コンテは松本零士と石黒昇の2名となっていたが、その後の「宇宙戦艦ヤマト TV DVD-BOX 記録ファイル」(バンダイビジュアル・2008/2/22発行)で訂正されている。
- ^ 5月号(創刊号)の次号予告では50ページとされていたが、6月号の表紙によれば60ページである。
- ^ 当時はまだ、アニメのBGM集という商品は存在しなかった。「交響組曲 宇宙戦艦ヤマト」が発売になる前のことである。
- ^ 当時の『月刊OUT』はアニメ雑誌ではなく、当時はまだ、アニメ雑誌という媒体そのものすら存在していなかったが、本作の記事が載った号の売上が高かったことからアニメ関連の記事が増えるようになり、結果的にアニメ雑誌のパイオニアとなった。
- ^ これは後に『STAR BLAZERS』という英題で放送されたテレビ版ではなく、あくまでも劇場版のテレビ放送である。
- ^ スタンダード版はストーリー解説等を中心としたベーシック版で、豪華版は『宇宙戦艦ヤマト DVDメモリアルボックス 保完ファイル』に新規資料を収録した増補改訂版である。
- ^ 1976年から1977年にかけ、『冒険王』『月刊少年ジャンプ』などでも同様の企画が組まれていたため、この時期に読みきりの新エピソードが執筆された漫画作品は多い。本作や『サイボーグ009』『サブマリン707』など、『プレイコミック』掲載分の作品は、1977年6月に『プレイコミック ビッグまんがBOOK 帰って来たヒーロー特集号』としてまとめて発売された[190]
出典
- ^ SF名作アニメ「宇宙戦艦ヤマト」発進!25年ぶりに劇場公開 映画.com(2008年8月4日)2022年4月23日閲覧
- ^ 徳間書店『宇宙戦艦ヤマト PERFECT MANUAL2』1983年 p.220
- ^ “平成11年(ワ)第20820号 著作権侵害差止等請求事件、同12年(ワ)第14077号 著作者人格権確認反訴請求事件 (PDF)”. 裁判所ウェブサイト (2001年11月28日). 2010年12月9日閲覧。
- ^ 山本暎一『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』(新潮社、1989年)p.338
- ^ StarBlazers.com - Yamato Origins Part 1: The Big Picture Archived 2010年9月18日, at the Wayback Machine.
- ^ a b c 『宇宙戦艦ヤマト』事件判決 弁護士法人英知法律事務所公式サイト 内
- ^ 豊田 2000, p. 224.
- ^ a b c StarBlazers.com - Yamato Origins Part 2: Yoshinobu Nishizaki Essay, 1978(英語)(インターネットアーカイブ2012年4月2日分キャッシュ)を参照。
- ^ 詳細および関連イラストはStarBlazers.com - Yamato Origins Part 3: Space Battleship Cosmo(英語)(インターネットアーカイブ2012年10月9日分キャッシュ)を参照。
- ^ a b 豊田 2000, p. 225.
- ^ 山本弘『トンデモ大予言の後始末』(洋泉社、2000年)pp.46-47
- ^ 夏目房之介『マンガの力 成熟する戦後マンガ』(晶文社、1999年)p.164
- ^ 詳細および関連イラストはStarBlazers.com - Yamato Origins Part 4: Asteroid Ship Icarus(英語)(インターネットアーカイブ2012年10月9日分キャッシュ)を参照。
- ^ ガンダム者 2002, pp. 99–100松崎健一インタビュー
- ^ ロマンアルバムEX.54 1983, p. 213.214.225.
- ^ 宇宙戦艦ヤマト 企画書(西崎義展の手記) - ウェイバックマシン(2004年10月21日アーカイブ分) 。この企画書の内容は『月刊OUT』1977年9月号で初めて一般公開された。
- ^ StarBlazers.com - Yamato Origins Part 5: Plan Book by Eiichi Yamamoto(インターネットアーカイブ2012年10月9日分キャッシュ)およびStarBlazers.com - Yamato Origins Part 5b: Plan Book by Eiichi Yamamoto, Part 2 Archived 2013年1月13日, at the Wayback Machine.(ともに英語)に、企画書の一部が画像ファイルとして掲載されている。
- ^ 「インタビュー 私は『みつばちマーヤ』が作りたい 松本零士」『季刊ファントーシュ』第2号(1976年)での、松本零士の発言による。
- ^ 「松本零士インタビュー 」『ぱふ』1981年9月号(p.91)
- ^ a b StarBlazers.com - Matsumoto's Yamato: Story Outline by Leiji Matsumoto Archived 2012年3月12日, at the Wayback Machine.(英語)を参照。
- ^ 『ぴーぷる最前線 松本零士』(福武書店、1983年)p.166
- ^ 瀬戸龍哉編『コミックを創った10人の男 巨星たちの春秋』(ワニブックス、2002年)p.8の松本零士インタビューによる。
- ^ StarBlazers.com - Yamato Origins Part 9: The Pilot Film and the Homestretch Archived 2012年3月14日, at the Wayback Machine.(英語)も参照。
- ^ ガンダム者 2002松崎健一インタビュー
- ^ 小野耕世「高橋茂人, 日本におけるテレビCMとTVアニメの 草創期を語る(TCJからズイヨーへの歴史)」京都精華大学ホームページ
- ^ StarBlazers.com - Yamato Origins Part 8: The 39-Episode Outlineに全39話のプロットが掲載されている。結局、視聴率がふるわず、最終的には全26話に短縮された。そのため、先行執筆されていた小説版のエピソードやキャラクターの一部(ハーロックなど)がカットされた。
- ^ 猪俣 1995.
- ^ アニメージュ編集部編『TVアニメ25年史』(徳間書店、1988年)p.55
- ^ アニメスタイル編集部「TVアニメ50年史のための情報整理 第11回 1973年(昭和48年)虫プロの倒産と業界の再編成」WEBアニメスタイル(2012年8月20日)
- ^ a b 池田編 1982, p. 34.
- ^ 石黒・小原 1980, pp. 201–207.
- ^ 小黒祐一郎「この人に話を聞きたい 第八十五回 芦田豊雄 前編」『アニメージュ』2006年3月号(徳間書店)
- ^ 池田編 1982, p. 30.
- ^ 佐藤・高編、2007年、p290.
- ^ 豊田 1979, pp. 109–110.
- ^ ロマンアルバムEX.54 1983, p. 204.
- ^ 山本暎一「『宇宙戦艦ヤマト』への情熱 西崎義展さんを悼む」『東京新聞』夕刊2010年11月26日
- ^ 『月刊OUT』1977年9月号
- ^ 富野由悠季『だから 僕は… 増補改訂版』(徳間書店アニメージュ文庫、1983)p.297
- ^ 『富野由悠季全仕事』(キネマ旬報社、1999年)p.102の富野由悠季インタビューより。
- ^ 『だから 僕は… 増補改訂版』p.298
- ^ 天本伸一郎編「第2章/サンライズ創生記 富野由悠季ロング・インタビュー「1972〜1978」」『富野由悠季 全仕事』(キネマ旬報社キネ旬ムック、1999年6月9日、ISBN 4-906649-00-9)103頁
- ^ H18.12.27 東京地裁 平成16(ワ)13725 著作権 民事訴訟事件 裁判所公式サイト
- ^ 和解書 エナジオ公式サイト内(インターネットアーカイブのキャッシュ)
- ^ 佐藤忠男、山根貞男責任編集『シネアルバム 日本映画1983 1982年公開映画全集』(芳賀書店、1983年)p.207
- ^ a b c ガンダム者 2002, pp. 63–64.
- ^ a b 岡田斗司夫、山本弘『空前絶後のオタク座談会2 ナカヨシ』(楽音楽専科社、2002年)pp.14-15。『ヤマトアソシエーション』出身で本作のDVDの解説書を担当した伊藤英明の発言による。
- ^ 『お願い!ランキング』出演時に証言[信頼性要検証]。当番組には神谷も同席していたが加藤役が山田の後任だということはつい最近まで知らなかったという。
- ^ ロマンアルバムEX.54 1983, pp. 224.
- ^ ロマンアルバムEX.54 1983, pp. 225.
- ^ 大塚 2004, pp. 27.
- ^ 「宮崎駿の"師匠"の原点は蒸気機関車だった」東洋経済オンライン
- ^ 『宇宙戦艦ヤマトDVDメモリアルボックス 保完ファイル』(バンダイビジュアル、2000年)p.24等より。
- ^ 石黒・小原 1980, pp. 208–212.
- ^ a b 「小マゼランに迷い込みハーロックが大活躍する!?未放映エピソード」『宇宙戦艦ヤマト伝説』(安斎レオ編、フットワーク出版、1999年)pp.150-157
- ^ みのり書房『月刊OUT』1977年9月号に掲載された石黒昇インタビューによる。
- ^ NHK『BS熱中夜話 ヒーローソングナイト』2008年7月10日放送
- ^ CD『昭和キッズTVシングルスVol.10 <1974-1975:宇宙戦艦ヤマト/がんばれ!!ロボコン>』(規格品番:COCX-32279〜80)付属ブックレットの記述より
- ^ StarBlazers.com - About the Space Battleship Yamato Theme(英語)(インターネットアーカイブ2012年10月10日分キャッシュ)を参照。
- ^ a b 吉田豪 『吉田豪の巨匠ハンター』毎日新聞出版、2020年、103,108頁。ISBN 978-4-620-32628-3。
- ^ 『読売新聞』朝刊日曜版2013年9月22日
- ^ “畑さんの愛が暴走!? ささきいさお×畑亜貴、アニソン界のレジェンドによる夢の対談が実現”. アニメイトタイムズ (2016年5月28日). 2021年5月5日閲覧。
- ^ 『Tatsunoko Legends "Infini-T Force" 3DCG Revolution』〈TOKYO NEWS MOOK〉東京ニュース通信社、2018年、90頁。ISBN 978-4-86336-728-9。[注 6]
- ^ StarBlazers.com - Space Battleship Yamato theme: the full version(英語)(インターネットアーカイブ2012年4月2日分キャッシュ)で、日本語の歌詞および英訳が閲覧可能。
- ^ 池田編 1982, p. 100.
- ^ 竹熊編 1997, p. 23.
- ^ 「宮川さんヤマトで旅立ち」『日刊スポーツ』2006年3月25日 (InternetArchiveのキャッシュ)
- ^ “謹んで、宮川泰先生のご冥福をお祈り申し上げます”. ささきいさおオフィシャルウェブサイト (2006年3月25日). 2021年5月5日閲覧。
- ^ 『歌い継がれる名曲案内 音楽教科書掲載作品10000』(日外アソシエーツ、2011年)12頁、726頁。ISBN 978-4816922916。
- ^ “JR呉駅:電車接近メロディーに「宇宙戦艦ヤマト」主題歌”. 毎日jp (毎日新聞社). (2013年6月30日). オリジナルの2013年7月1日時点におけるアーカイブ。 2013年7月1日閲覧。
- ^ “「宇宙戦艦ヤマト」 海上自衛隊 東京音楽隊 - YouTube”. www.youtube.com. 2020年11月9日閲覧。
- ^ “海上自衛創設70周年記念・呉市制120周年記念 海上自衛隊呉音楽隊 第53回定期演奏会 クリスマスコンサート (PDF)”. 海上自衛隊呉音楽隊 (2022年12月10日). 2023年1月14日閲覧。
- ^ “アニソンベスト100!結果発表 - ニッポンアニメ100”. 日本放送協会. 2017年3月3日閲覧。
- ^ 放送リポート 北海道洞爺湖町 NHKのど自慢 2018年8月26日(2019年1月27日閲覧)
- ^ “アニメソング総選挙:「残酷な天使のテーゼ」が首位 2位は「紅蓮華」”. MANTAN WEB (MANTAN). (2020年9月6日) 2020年9月7日閲覧。
- ^ a b LD-BOX『宇宙戦艦ヤマト パーフェクトコレクション』解説書より。
- ^ 同月発売のLP『ささきいさお 英語盤/アニメヒットを歌う』にも収録された。
- ^ 本編ではテロップはなく、絵コンテおよびアフレコ台本より。
- ^ 『北海道新聞』(縮刷版)1974年(昭和49年)10月 - 1975年(昭和50年)3月テレビ欄
- ^ a b c d 『日刊スポーツ』1975年2月2日 - 3月30日付テレビ欄。
- ^ a b c d 『河北新報』朝刊1974年10月6日 - 1975年3月30日付テレビ欄
- ^ 『読売新聞』朝刊1974年10月6日 - 1975年3月30日付テレビ欄
- ^ 『日刊スポーツ』1975年2月3日 - 3月31日付テレビ欄
- ^ a b 『北國新聞』朝刊1975年3月2日付テレビ欄
- ^ 『北國新聞』朝刊1975年3月5日付テレビ欄
- ^ 宇宙戦艦ヤマト大事典 1983, p. 129.
- ^ 宇宙戦艦ヤマト大事典 1983, p. 140「西崎義展氏ファイナル・メッセージ ヤマトをふりかえる12の質問に答える」
- ^ 石黒・小原 1980, p. 232.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o StarBlazers.com - Flying off to Iscandare for the Cosmo DNX! Can we defeat the Gorgons? - The Story of Space CRUISER Yamato Archived 2009年9月1日, at the Wayback Machine.
- ^ 『別冊宝島358 私をコミケにつれてって! 巨大コミック同人誌マーケットのすべて』(宝島社、1998年、)p.30
- ^ 松本靖弘「声優ブームってやつ」『動画王 Vol.1 決戦!巨大ロボットアニメ』(キネマ旬報社、1997年)p.86
- ^ 月刊ニュータイプ・編「コラム(1) 現在の声優ブームは、第3期にあたるらしい?」『キャラクターボイスコレクション 女性編1』(角川書店、1994年12月25日、ISBN 4-04-852522-0)32頁
- ^ 中野晴行『マンガ産業論』(筑摩書房、2004年)pp.122-123
- ^ Message from 庵野秀明 (インジェクションキット監修)トルネードベース・宇宙戦艦ヤマト[リンク切れ]
- ^ SPECIAL TALK #05 出渕裕 トルネードベース・宇宙戦艦ヤマト(インターネットアーカイブ2008年10月25日分キャッシュ)
- ^ 今柊二「第一章 ガンダム登場前夜 ヤマトブームのつくりだしたもの」『ガンダム・モデル進化論』(祥伝社、2005年3月5日、ISBN 4-396-11004-9)64頁
- ^ 井上 2012, p. 196
- ^ 草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』(徳間書店、2003年)pp.127-130
- ^ ジョン・レナード「アメリカにおける日本アニメの爆発的成長とファン流通、著作権」山形浩生訳、2004年 山形浩生公式サイト内
- ^ 추억의 만화영화가 성인도박으로 인기만화 콘셉트 도용 사행성 게임 개발·유포 基督教放送公式サイト内 2009年3月12日
- ^ 豊田 1979, p. 94.
- ^ 吉本 2009, p. 141.
- ^ STAR BLAZERS公式サイト(英語)
- ^ 津堅信之『アニメーション学入門』(平凡社新書、2005年)p.81
- ^ 増田弘道『アニメビジネスがわかる』(NTT出版、2007年)p.112およびp.119
- ^ 「MONUMENTAL YAMATO Producer Special Interview」『ロマンアルバム・エクセレント53 宇宙戦艦ヤマト PERFECT MANUAL1』(徳間書店、1983年)p.208の西崎義展インタビューより。
- ^ a b 吉本 2009, p. 109.
- ^ よみうりテレビ開局20周年記念事業企画委員会編『よみうりテレビの20年 写真と証言』(読売テレビ放送株式会社、1979年)p.78
- ^ 竹熊編 1997, p. 25.
- ^ a b 猪俣 1995, p. 90.
- ^ 池田編 1982, pp. 95–101.
- ^ 池田編 1982, p. 107.
- ^ 宇宙戦艦ヤマト大事典 1983, p. 64.
- ^ a b 吉本 2009, p. 117.
- ^ 氷川竜介『世紀末アニメ熱論』(キネマ旬報社、2000年)p.54
- ^ 小牧雅伸『アニメックの頃… 編集長(ま)奮闘記』(NTT出版、2009年)p.10
- ^ 竹熊編 1997, p. 22.
- ^ 尾形英夫『あの旗を撃て アニメージュ血風録』(オークラ出版、2004年)pp.42-56
- ^ 御園まこと編著『図説テレビアニメ全書』(原書房、1999年)pp.31-33
- ^ 猪俣 1995, p. 24.
- ^ ガンダム・エイジ 1999, pp. 63–64, p.70.
- ^ ガンダム者 2002, p. 9吉井孝幸インタビュー
- ^ 井上 2012, p. 212「オウム真理教と宇宙戦艦ヤマト‐ナショナリズムとフェミニズムの暗黒面」
- ^ 切通理作「お前が人類を殺したいなら おたくジェネレーションとオウム真理教」『宝島30』1995年8月号(宝島社)、「アニメ 宇宙戦艦ヤマト著作者バトルの悲劇」『AERA』2002年4月15日号(朝日新聞社)pp.23-25。
- ^ 岡田斗司夫「オウムとアニメとエヴァンゲリオン 元オウム・アニメーターインタビュー」『世紀の大怪獣!!オカダ 岡田斗司夫のお蔵だし』(イースト・プレス、1998年)p.51
- ^ 斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)興行会社が主体性を持って上映を決めた「宇宙戦艦ヤマト」=前編-2 アニメ!アニメ! 2009年5月25日
- ^ a b c d e 『宇宙戦艦ヤマト大事典』p.131
- ^ 今語るべき 2014, pp. 55–56.
- ^ a b c d e f g h i j “第6回 1977年『宇宙戦艦ヤマト』大ヒットの舞台裏を語った東映会長・多田憲之 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)”. コモ・レ・バ? (CONEX ECO-Friends). (2022年3月4日). オリジナルの2022年3月4日時点におけるアーカイブ。 2022年3月11日閲覧。
- ^ a b 永野健二「岡田茂氏〔東映会長〕インタビュー『メディアの激変、体験で読む大合併時代こそ指導力を』」『日経ビジネス』1997年2月17日号、日経BP社、 72頁。
- ^ 「映画界東西南北談議 拡大・長期興行で巻返し狙う邦画陣 超大作を揃えて"邦高"へ前進する各社」『映画時報』1977年7月号、映画時報社、 8-9頁。
- ^ a b c d e 今村三四夫 (1978年5月27日). “宇宙戦艦ヤマト製作発表 八月五日封切が既に決定”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 2
- ^ a b c d 金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」 『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9。(NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとヤクザ、2つの映画で復活した(archive))
- ^ a b c 岡田茂 『悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年。ISBN 4-87932-016-1。
- ^ 岡田茂 『波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝』角川書店、2004年、183頁。ISBN 4-04-883871-7。
- ^ asahi.com(朝日新聞社):ヤマトは「文芸もの」だった?、2010年4月12日
- ^ a b c d 「岡田茂(東映・相談役)×福田和也 東映ヤクザ映画『黄金時代』を語ろう 『網走番外地』『緋牡丹博徒』『仁義なき戦い』……」『オール読物』2006年3月号、文藝春秋、 219頁。
- ^ 「トピックス『洋画を喰って今年は間違いなく邦高洋低』」『月刊ビデオ&ミュージック』1977年8月号、東京映音、 11頁。
- ^ 池田編 1982, p. 90.
- ^ 佐藤利明、高護編『映画監督舛田利雄 〜アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて〜』(ウルトラ・ヴァイヴ、2007年)p.292
- ^ 西沢正史「天国と地獄をみた男・西崎義展」『キネマ旬報』1983年3月下旬号(p.98)
- ^ 堀内実三、黒井和男他「83年映画界の展望を語る 1982年度決算「映画・トピックス・ジャーナル」ワイド座談会 」『キネマ旬報』1983年2月下旬号(p.206)
- ^ a b c d ヤマトを作った 2015, pp. 137–138.
- ^ 春日太一 『[総特集] 五社英雄 極彩色のエンターテイナー』〈KAWADE夢ムック 文藝別冊〉河出書房新社、2014年、93頁。ISBN 978-4309978512。
- ^ a b c 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年、109,145,156,215,242-243頁。ISBN 978-4-636-88519-4。
- ^ a b 今語るべき 2014, p. 56.
- ^ a b “松崎健夫の平成映画興行史 平成五年 「『REX 恐竜物語』はもっと稼げる作品だった」”. Paravi. プレミアム・プラットフォーム・ジャパン (2019年7月28日). 2020年9月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月9日閲覧。
- ^ 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年、242頁。ISBN 978-4-636-88519-4。
- ^ 石黒・小原 1980, p. 215.
- ^ a b c 「劇場版『宇宙戦艦ヤマト』のひみつ」『宇宙戦艦ヤマト大クロニクル』(伊藤秀明編著、グライドメディア、2010年)pp.98-100
- ^ a b アニメージュ編集部編『劇場アニメ70年史』徳間書店、1989年、p.70。
- ^ 今語るべき 2014, p. 57.
- ^ 今語るべき 2014, pp. 57–58.
- ^ a b c d e StarBlazers.com - Space Battleship Yamato the Movie: Video Releases(英語)(インターネットアーカイブ2012年10月7日分キャッシュ)
- ^ a b StarBlazers.com - Inside OUT - OUT Magazine and the Yamato Boom Archived 2012年4月2日, at the Wayback Machine.
- ^ 吉本 2009, p. 110.
- ^ 斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)ティーン向けアニメ映画の路線化 「宇宙戦艦ヤマト」=後編-1 アニメ! アニメ! 2009年6月26日
- ^ a b c スタジオジブリ責任編集『ナウシカの「新聞広告」って見たことありますか。ジブリの新聞広告18年史』(徳間書店スタジオジブリ事業本部、2002年)pp.110-111。映画宣伝を担当したメイジャーの徳山雅也による証言。
- ^ 「"ヤマト"総攻撃成功セリ なんと朝6時に開演 都内6館で2万人」『スポーツニッポン』1997年8月7日付
- ^ a b 山下慧「『宇宙戦艦ヤマト』36年の軌跡」『キネマ旬報』2010年11月下旬号(p.31)
- ^ 『北海道新聞』1977年8月1日付掲載の『宇宙戦艦ヤマト』広告記事
- ^ 井上 2012, p. 37.
- ^ a b 劇場アニメの新時代 2017, pp. 51–52.
- ^ 「劇場版『宇宙戦艦ヤマト』公開に発展」『宇宙戦艦ヤマト大クロニクル』(伊藤秀明編著、グライドメディア、2010年)p.105
- ^ a b 「ドキュメント さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」『ロマンアルバム11 DELUXE さらば宇宙戦艦ヤマト』(徳間書店、1978年)p.100
- ^ 斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)ティーン向けアニメ映画の路線化 「宇宙戦艦ヤマト」=後編-2 アニメ!アニメ! 2009年6月26日
- ^ 氷川竜介・藤津亮太編「第三章 映画版への志 第三章解説」『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集』(キネマ旬報社、2000年10月16日。ISBN 4-87376-537-4)156頁
- ^ 中島紳介、斉藤良一、永島収『イデオンという伝説』(太田出版、1998年)p.161
- ^ 「映画40年全記録」『キネマ旬報』1986年2月13日増刊号、 15頁。
- ^ 緑川亨 『日本映画の現在』〈講座日本映画7〉岩波書店、1988年、20頁。ISBN 4-00-010257-5。
- ^ 「フジ『宇宙戦艦ヤマト』放映 放映料5000万円」『日刊スポーツ』1978年6月20日付
- ^ a b 中谷達也「アニメミニ百科 スターシャの死はどこへ?」『アニメ大好き! ヤマトからガンダムへ』(池田憲章編、徳間書店、1982年)p.106
- ^ a b まにあ小黒「今月のビデオ拝見 最終回 ヤマトLDセット」『アニメージュ』1990年3月号
- ^ 川端靖男、黒井和男「1979年度日本映画・外国映画業界総決算」『キネマ旬報』1980年2月下旬号(p.129)
- ^ a b c いま語るべき 2014, p. 54.
- ^ a b いま語るべき 2014, p. 52.
- ^ 『宇宙戦艦ヤマト大事典』p.130
- ^ a b c d e f g h 『宇宙戦艦ヤマト TV DVD-BOX 記録ファイル』バンダイビジュアル、2008年、p.4。
- ^ バンダイビジュアル、「宇宙戦艦ヤマト」TV版のDVD-BOX、AV Watch、2007年11月13日
- ^ 宇宙戦艦ヤマト TV BD-BOX スタンダード版 | 商品詳細 | バンダイビジュアル、2014年11月23日閲覧
- ^ 宇宙戦艦ヤマト TV BD-BOX 豪華版 | 商品詳細 | バンダイビジュアル、2014年11月23日閲覧
- ^ 劇場版「宇宙戦艦ヤマト」 昭和の5作品がBD化決定 2013年4月より順次発売、アニメ!アニメ!、2012年12月25日
- ^ 劇場版「宇宙戦艦ヤマト」5作品がHDリマスターでBD化、AV Watch、2012年12月25日
- ^ 単行本22版(1977年7月10日刊)カバー表紙側折り返しにある松本のコメント。省略された箇所を挙げると、ガミラス冥王星基地は反射衛星砲を試射してヤマトを待ち構える場面はあるものの実際の攻防戦は描かれず、ドメルはバラン星失陥の責任を償う形でいきなりヤマトに自爆攻撃を仕掛け、ガミラスの空母部隊は登場しない。
- ^ いま語るべき 2014, p. 103.
- ^ a b いま語るべき 2014, p. 105.
- ^ ハイパーホビー2012年7月号|HYPER HOBBY ハイパーホビー公式サイト内 2012年7月7日閲覧
- ^ 「偉大なコミカライズの暴走作 ひおあきら版『宇宙戦艦ヤマト』は強烈に熱い!」『宇宙戦艦ヤマト伝説』(安斎レオ編、フットワーク出版、1999年)pp.176-187
- ^ いま語るべき 2014, p. 104.
- ^ StarBlazers.com - Eternal Story of Jura: the "secret" episode Archived 2011年9月20日, at the Wayback Machine.を参照。
- ^ 豊田 1979, p. 70.
- ^ a b いま語るべき 2014, p. 88.
- ^ 斎藤宣彦編集『こんなマンガがあったのか! 名作マンガの知られざる続編・外伝』(メディアファクトリー、1999年)pp.202-232
固有名詞の分類
映画作品 |
三国志 第一部大いなる飛翔 ブルークラッシュ 宇宙戦艦ヤマト 鉄火場慕情 仮面の告白 |
1974年のテレビアニメ |
ゲッターロボ グレートマジンガー 宇宙戦艦ヤマト ジムボタン 柔道讃歌 |
日本の漫画作品一覧 |
離婚同居 キュン死に寸前! 宇宙戦艦ヤマト 打姫オバカミーコ 魔法騎士レイアース |
シューティングゲーム |
ドラゴンブリード 幽☆遊☆白書 闇勝負!!暗黒武闘術 宇宙戦艦ヤマト 神羅万象 アームドポリス バトライダー |
タイトーのゲームソフト |
コスモスサーキット スペースチェイサー 宇宙戦艦ヤマト ナイトレイド ロストマジック |
大型筐体ゲーム |
サンダーセプター コスモスサーキット 宇宙戦艦ヤマト リッジレーサー BATTLE CLIMAXX! |
漫画作品 う |
ウルトラ・スーパー・デラックスマン ヴァルキリーコンプレックス 宇宙戦艦ヤマト 打姫オバカミーコ 海腹川背 |
レーザーディスクゲーム |
サンダーストーム コスモスサーキット 宇宙戦艦ヤマト GPワールド フリーダムファイター |
- 宇宙戦艦ヤマトのページへのリンク