QuoraにおけるQ&A集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 16:05 UTC 版)
「山越富夫」の記事における「QuoraにおけるQ&A集」の解説
Q:「進化」や「遺伝」についておもしろいと思うことはありますか? A. 昔空を飛んでいたセスナ機ほども大きな恐竜の化石が見つかることがあります。そこには驚くべきことがあります。聞くところによると、その化石は、着陸に失敗して、あっちの骨が折れ、こっちの骨が折れて見つかることが多いのだそうです。自然てこうまでして、あらゆることを試しながら進化してきたのですね。 Q:「髪型」と「ヘアスタイル」みたいに日本語と外来語と両方流通してる語は、外来語が輸入されるまでそういう概念が無くその後訳語日本語が流通したってことなんでしょうか? A. 日本民俗学の雄、柳田國男によると、言葉は摩滅するらしいと言うことでしたどうやら人々の間に膾炙する言葉の使われた総回数がある一定値に達すると、人々はそれと同じ意味 で新しい言葉を欲しがる様になる。これは、平安時代の京童たちが次々と流行語を作っていたと言うのと同根でしょう。 近年、日本語にそのことに対応する言葉があるにも拘らず、人々がカタカナ語でわざわざ置き換える傾向にあるのも、その一例になっているのかもしれません例えば、運動選手が スポーツ選手になり、そして、最近ではアスリートなんて呼んだりするだから、アスリートもそのうちに何か他の言葉に置き換えられて行くことは間違い無いです。 髪型からヘアスタイルになったのもその例でしょうでも、古い言葉もそう簡単に滅んだりはしないだから、その様な言葉が共に流通していることがあっても不思議ではないと思え ます。 Q 世論に強く働きかけようとする時、高齢の経験豊富な人物が世界に訴えるよりも、未成年の少女が世界に訴えかけたほうが訴求力があるのでしょうか? A. これはアメリカの話です。笑っちゃうのはスーパーマーケットの雑誌コーナーに並んでいるモーターバイクの雑誌やピックアップ・トラックの雑誌の表紙には、モーターバイクやピ ックアップ・トラックの脇に必ずと言って良いほどビキニの女性が一緒に写っております。そうした方が売り上げが上がるんでしょうね。経験上、その方が世界に訴えかけた訴求力があ るのだと認められているのではないかしら。 Q: 世の中の事を自分ごととして考える人がいる一方で、他人事にして考えないようにする人が多いのは何故でしょうか? A. 他人事として考えない様にする人は、まだ幽体離脱の修行が足りていないのです何かを行動するときに、一先ず自分の魂を自分の身体から離脱させて、相手の心に乗り移ることができる人は、世の中の事を自分ごととして考えることができますでも、それには適切な教育と、滝に打たれるなどの厳しい修行が必要なのです. Q: 「まじない」と「のろい」は同じ「呪い」と書きますが、意味は全く違うのに同じ漢字を当てたんですか? A. いつの時代でも、人々は自分たちの経験と与えられた知識の中でできるだけ合理的に考えてこようと努力してきました。現在だけが特別合理性に興味を持っているわけではないので す。そして、昔の日本人が「まじない」と「のろい」に同じ漢字を当てたと言う事実から、かつてに日本人はその二つの事柄に同じ文字を当てて考えることが合理的であると思って いたことがわかりますね。 でも、あなたのように今の人はそれを不思議に思う人がいる何故でしょうか。その理由は、昔の人が納得しいていたその合理性が、時代と共に忘れられて行ってしまったと言うこと です。このように先人たちが見ていた合理性を再発見してみようと言う学問が、日本民俗学の一つの中心テーマです。 そして、日本民俗学が学問として受け入れられているですから、この二つの概念の間の共通性を探ることで、昔の人の考えていた合理性や世界観の一端が判る様になるそのことか ら、今のあなたがどこから来てどこへ行くのか、あなたが今合理的と見えている世界って何なのか、だからあなたって何なのかがこの様な民俗学的な疑問を解き明かすことで判っ てくるのです。 この様な疑問を持ったことをきっかけに、昔の日本人の見ていた合理的な世界を再発見して、ご自分が誰なのかを、ご自分で解答を見つけてください。 なぜ一人の人間の気持ちの中に矛盾が生まれるのですか?矛盾を嫌うのは何故ですか? 現代物理学の金字塔の一つに複雑系物理学の「散逸構造の理論」というのがあります。これは非線形非平衡熱力学と呼ばれる学問分野で達成された巨大な成果の一つです。これから説明するように、この理論を理解すると、何故一人の人間の気持ちの中に矛盾が生まれるか、そして何故矛盾を嫌うのかがわかると思います。 散逸構造の理論とは、この宇宙に存在している複雑な構造が物理学の法則に従いながら、なんのシナリオもなく偶然を契機として生まれてくるメカニズムを明らかにした理論です。この理論は、現在では数限りない事象に関してその正当性が実証され、この理論を提唱したベルギー人のイリヤ・プリゴジン教授はノーベル化学賞を受賞しています。熱力学は物理学の分野ですが、非平衡熱力学の典型的な応用領域の一つが化学反応ですので、教授は化学賞を受賞しました。 この理論が明らかにした最も重要なことは、複雑で高度な構造が自発的に形成されるためには、我々の直感とは反対に、その系の中に不安定性が内在していることが必要条件の一つになっていることです。すなわち、複雑で高度な構造が自発的に形成されるためには、その系が周りの環境や集団内部の構成員との間で、擦った揉んだしながら、収まるべきところに収まるように偶然の成り行きにで出来上がってくるためには、長期の安定期間と短期の不安定期間を交互に繰り返さなくてはならないことを明らかにしたのです。このことを散逸構造の理論は数学を使って明らかにし、その結果、その事実の検証を実験や観測や測定などで定量的にできるようにしてくれたのです。 ここでの要点は、系が安定しているだけでは、現在の状態よりももっと複雑で高度な構造を新たに手に入れることができない。より複雑な構造に進化して行くためには不安定状態を経過しなくてはならないというのです。 たとえばミミズは数億年前に安定状態に入ってしまい、その後ほとんど進化していない。ところが、人間は非常に不安定な状態で、自分自身の内部にある葛藤や、人間社会の内部にある軋轢が人間の存在を適度に不安定状態に保ってくれたおかげで、どんどん進化を遂げて、ミミズよりも遥かに複雑で高度に進化できた。多分、この地球上で人類はあらゆる生物の間で最上クラスに不安定な状態に置かれている生物ではないかしら。 他の例では、子供が大人という安定期に遷移してより高度な世界観を手に入れるためには、思春期という不安定期を経験することが必要なのです。 別な言い方をすると、人類がここまで複雑に進化し、多くの病気なども治せるようになり、たとへ局所的な貧困や軋轢はあっても、人類全体としての大局的には豊かさを手に入れることができた理由を明らかにしたのです。その理由とは、人間の気持ちの中に制御不可能な矛盾が生まれてしまい、その結果、一人一人の人間内部や社会の中に適度な不安定性が保たれているからだという理由です。 もちろん不安定性は人々を不安にさせます。でも驚くなかれ、その不安を克服することで、その系が進化することができたのです。 本質的に自然とは一体何でしょうか? 日本人にとって、「自然」とは、自ら然りと自然体で自発的に存在するものです。ですから、自然が命令に従ったら不自然なものとして考えられています。 ところが例えば英語では自然に対応する言葉はNatureです。そして、Nature は Laws of Nature に従うものと考えられています。そして、law を辞書で引くと「法律」とか「法則」と訳されています。日本人にとっては法律と法則は同じものではないと考えられています。その証拠に、この二つの概念にそれぞれ「法律」と「法則」という違った文字と発音を充てていますから。一方、英米人はそれを同じものと考えています。その証拠に、日本人にとって異なっているとされているこの二つの概念にlaw という同じ一つの文字を充てていますから。ですから、英米人にとっては、Natureはlawという命令に従うものと考えられております。 以上のことから、日本人から見ると、英米人とは、自然は命令に従う不自然なものであるという支離滅裂なものであると捉える連中であると考えられています。 日本人が江戸時代に蘭学を通じてニュートン力学を知った時にこの「Laws of Nature」に相当するオランダ語を知って、このlawに匹敵する言葉を日本語に訳すときに大変困ったはずです。だって、自然が法律に従うはずがないからです。 そこで、当時の日本人は、例えば江戸時代の初期に書かれた貝原益軒の『和俗童子訓』などに書かれている、文章の規則を表現する「法則」という言葉を引っ張り出してきたのです。そして、西洋人にとっては同じ意味だったはずのlaw に対して、日本流に別な二つの意味を付しました。すなわち、命令の場合それを「法律」と訳し、言葉などの規則に相当するものを「法則」と訳すことにしたのです。 ですから、「自然の法則」に対応する「Laws of Nature」という表現を分析するだけで、同じ自然を語っていても、西洋人の見る自然と日本人の見る自然が全く違っていることがわかりますね。ですから、日本人にとっての自然の本質と西洋人にとっての自然の本質は、たとへ物理学者が語っていても、それは異なっているのです。 序でに言うと、日本人にとっての「時間」の概念と西洋人にとっての「時間」概念も随分違っております。 西洋人にとって「時間」とはある周期運動の繰り返しの数で計られるものとして捉えられております。ところが、日本人にとっては、 「トク(トケル)」と「トキ」との関連性から「われわれの祖先は、ものがゆるみ流動してゆくこととして、時を直観したのではないだろうか」 (大野晋著、『日本語をさかの>ぼる』、岩波新書) と言われているように、時と言う概念は永遠不変に変わらない周期運動によって把握されるものではなくて、春になって雪が解けたとか、歳をとって白髪が増えたなど、変化の大きさで計られるものであるとして捉えられております。 これを現在の物理学の用語で呼ぶと、周期運動で計られる時間のことを「力学的時間」と呼び、変化の大きさで計られる時間のことを「熱力学的時間」と呼んでおります。熱力学的 時間とは、いわゆるエントロピー増大の法則と言う原理に関わった「時間」のことです。 因みに、この力学的時間と熱力学的時間の関係を理解し論じることは、未だに物理学の大問題の一つとして、現在も活発に研究がなされております。 このように、自然を認識するときに重要な時間という概念も、西洋人と日本人では全く違っております。 暗い話題が多くてついていけません。それでも知っておかないといけないんですか? 私が若い頃、ヒルティの『幸福論』(岩波文庫)の中にすごく大切なことが書いてあるのを見つけました。それは、 「新聞を読むな」 です。新聞などのメディアが書き連ね、報道していることを毎日見ていると、必ず人間嫌いになるというのです。まあラジオ程度で情報を得るのなら良いですが、テレビと新聞は絶対 にだめです。 そして、活字に飢えたら、百年千年と生き残ってきた古典を読めというのです。古典を読むと自分がこれだけ偉大な人間の仲間として生まれてきたことが嬉しくなり、その幸運に感 謝できるようになるからだというのです。 私はそれを実行してみましたそして、その忠告が本当だということを知りました。 あなたが参考、教訓とした事がある、失敗事例をご教示いただけないでしょうか?(失敗の裏に成功あり) 私は物理学者ですが、自分の出した成果を専門家の方々の前で講演をする機会がいくらでもあります。若い頃、そんな講演で本当に消え入りたいと思った大失敗をしてしまいました。 その講演での失敗が教訓となり、その後の講演に自信がつきました。 私は、その失敗をしてしまうまで、いつも、私の自分の示したいことを論理的な順を追って示し、私の出した結論に導いて行くという方法を取っていたのです。ところが、その時は 、私の論理の流れに次々と質問が出てしまい、肝心な結論どころか、自分の言いたかったことの半分も言わないうちに時間が来てしまいました。講演の司会者にもう10分くれたら 肝心なことが言えるので時間をくれとお願いしたら、ダメだと言われてしまいました。これは私一人だけの講演だったので、日本の場合だったら比較的甘くて、10分ぐらいなら良 いだろうなんて言ってくれるのが普通です。しかし、アメリカや私のいたヨーロッパの国では、時間が来たら話の途中だろうが、どんどん会場を出て行ってしまう傾向があります。 その時の失敗で、講演のあり方を本気で考えましたそして、次のような三つの教訓を得たのです。 1)あれだけ大恥を恥を掻いたんだから、もはやこれ以上の恥を掻くことはあるまいと、肝が座った 2)講演で科学的成果を報告する時は、論理なんか放っておいて、いきなり結論を始めの5分以内で述べておけ 3)講演ではついつい論理を展開して見たくなってしまうが、講演とは論理ではなくて、シンボルやキーワードを打つける場である講演とは相手を解らせる場所ではなくて、相手 に解った気にならせる場所である。 物理学の結果を本当に解ろうとしたら、その本人の論文をじっくり時間をかけて読むか、あるいは、口角泡を飛ばしながら、その本人と議論をしなくては解りません。それをたった 1時間の話を聞いただけで本当に解らせることなどできないのです。でも解った気にさせることはそれより遥かに簡単です。実際、解った気にならせるだけなら、少々曖昧だったり不 完全な論述でもよく、さらに、刺激的で印象に残るように発言内容の印象操作をした方が良い聴き手には一人一人、論理の展開に個性があり、また、皆、過去の経験から興味の場 所も力点も文脈も違うので、こちらの論理を押し付けても、なかなか納得するものではありません。それよりも、その結論に至るに重要なキーワードをシンボル的に列挙し、そのキ ーワードが何故キーワードなのかを説明するのではなくて、聴き手に自分で考えさせれば良いそうすると、ほとんどの場合、聴き手は話し手とは違った文脈で自分の論理を展開し て、なるほどと思ってくれるその場合には、話し手の論理をコピペしたわけではなくて、自分の論理で解った気になってくれているので、聴き手に伝わる衝撃がもっと大きくなっ ているはずです。その結果、聴き手は話し手の論文を本気で読む気になったり、あるいは話し手と議論をする気になってくれる可能性がずっと高くなるのです。 その時の大失敗から、以上の心得ができて、講演に自信がつきました。また、論理の部分を削った分だけ、スライドの数も減り、講演の準備が楽になりました。 頭の悪い人間のする勉強方法は? 解ってから先に進むと言うのが一番下手な勉強法です。 解らなくても良いからどんどん先に進む。ただし進みっぱなしでは駄目です。時々戻ってこなくてはならない。そうすると、あの時解っていなかったことが、驚くほど簡単に解っていることに気がつく。螺旋状の輪を描きながら先に進んで行くのです。 人生でも、その時には解らなかったけど、年齢が進むうちに解ってくることだらけです。 中国人は太った女性を戦車と呼びますが、日本人は? 豊穣の女神と言います。 (北齋画)天岩戸の前でストリップを踊った女神ですこんな話が日本書紀に出ています。 猿田彦の神はその巨大な目玉しによる邪視によって人と自らに差別を設けて隷属させんとして、その目から淫光を放ちます。そのため、他の神々は猿田彦の神を直視できません。しかしその神の邪視に犯されない神が一柱だけおられます。それは猿田彦の妻の天鈿女命です。 彼女は猿田彦に見える時は乳をあらわにし、裳帶を臍の下に抑れて、あざ笑いて向き立つと言います。そのため猿田彦はそちらの方に気を取られてしまい天鈿女の目を見ることができず、彼女はその神の邪視を避け得たと言います。 『日本書紀』 に、 「一神あり、、、その鼻の長さ七咫、背の長さ七尺、 云々、また口尻明かり照り、眼は八咫鏡のごとく、照り輝けること、云々、時に八十万の神ありみな目勝ちて相問うこと得ず。天鈿女すなわちその胸乳を露にかきいでて、裳帶を臍の下に抑れて、あざ笑いて向き>立つ」 とあり、この猿田彦の邪視を避け得たと云います。 『古語拾遺』にもほとんど同じ文章があります。 ○○の原理、法則、効果、現象などでおもしろいとおもうものはありますか? 個体発生は系統発生を繰り返す。 お腹の中で赤ちゃんが産まれるまでの九ヶ月で人間は単細胞の受精卵から始まって、細胞分裂で多細胞になり、エラができ、尾がで きと、生物の進化を全て繰り返してから生まれてくることです。 どうやら、受精の途端にいきなり人間にはなれないようです。 学問も同じで、いきなり最先端のことを教わっただけの人は使い物になりません。人類の過去の考えからから歴史的に順に教えて現在> に至った過程を教えてあげないと、学問の最先端には立てません。 夢を諦めて自分の本意ではない仕事をしてる人って、それを定年まで続けるって辛くないですか? 人間てどういう時に新しい世界を発見して嬉しくなると思いますか?ご自分の経験を思い出してください。何か想定外のことに巡り合って驚いた時ですよね。 ノーベル賞を戴いたイリヤ・プリゴジン教授は私の先生だったのですが、先生の墓碑に刻まれた言葉は 「驚きは創造性の源である」 です。 要するに、全く予測不可能だった想定外のことに巡り会えた時に人間は驚いて大きく成長できるのです。その反対に、前もって予測ができてしまうことは、たとへそれが喜ばしいことであっても、驚きがほとんどなく、その喜びも感激も、想定外のことと比べて少ないのです。 ところで夢が叶った状態って、前もってそれとなく予測できるような状態ですよね。ところが自分の夢に立ち向かって、色々な想定外なことに巡り合って、結局夢とは違った状態の生活をしている人は、自分の知っている世界よりももっと大きな世界を認識できるようになって生活しているのです。要するに失敗を繰り返し、それを反省し学習することで、大きく成長できたのです。 ですから、多くの人にとって、その状態が辛いわけがないのです。 勉強によって知識やノウハウを増やすことはできますが、努力によって地頭の良さをあげることは可能ですか? 人々が「この人って頭が良い」と言う場合には、その人の持って生まれたハードウェアの良し悪しを言っている場合が多いです。大学受験などで試されている頭の良し悪しは主にこのハードウェアの良し悪しを試されているのです。 ところが、コンピュータでも、どんなにハードウェアが良くてもそれを作動させるソフトウェアが悪いと話になりません。さらに、コンピュータでは、ハードウェアの良し悪しよりもソフトウェアの良し悪しの方が決定的である場合が殆どです。 要するに、頭の良し悪しは、その人が先天的に持っているハードウェアの良し悪しではなくて、主に後天的に手に入れたソフトウェアによっても決まるのです。 そして、そのソフトウェアを手に入れるには「努力」が必要です。また、数多くの失敗をして、その失敗で挫折するのではなくて、その反対に経験から学べるという性格も必要ですですから、実は名も無い一般庶民の中には優れたソフトウェアを持っておられる方が一杯いるのです。 その反対に、失敗の経験の少ない人ほど、ソフトウェアの地頭が悪いので、いざという時に頼りになりません。例えば、日本の官僚機構では出世は減点法でなされていると聞いております。要するに出来るだけ失敗の経験がない人ほど出世できるようになっている制度であるとか。もしそうであるのなら、官僚の出世頭である次官クラスの人が最も頼りにならない人であることになります。最近でも元官僚の顰蹙ものの上級国民の例がありましたね。 数学の基礎的な参考書 (線形代数や微分積分、統計学など) の本文中の証明等をできるようにしてましたか?式だけ追えるようにしてましたか?無視して問題が解ければokでしたか?現職と、理由も知りたいです。 私は理論物理学者です。以下の回答は多分数学を言語として使っている連中の上級編のやり方だと思いますが、それを私の経験から紹介してみます。 物理学の言語は数学です。そして、積分や線形代数に関しては先ず公式集に頼ります。専門家の間で定評のある公式集があるので、その何冊かに頼ります。 実は公式集にはお国柄あります。例えば、ロシアの公式集は公式の数が他の国の公式集と比べて圧倒的に多い。しかし、結構誤植があります。一方日本の岩波の公式集はコンパクトでロシアほど公式の例は少ないのですが、誤植が少ない。(それでも私自身が公式に間違いがあることを研究の過程で見つけたことがあります。) そして、ある分野の一連の公式を十分使いこなした後になって、時間的に余裕があったり、特別に興味があった場合には、数学の教科書でその分野をじっくり解説しているものを読みます。 その段階では自分自身十分にその分野の公式を使い慣れているので、教科書の書き方の癖や、どういう動機でその教科書が書かれているかが分かるようになっています。もちろん、その教科書を書いた人の動機は私がその数学的な公式を使うに至った動機とは違うので、教科書の中で私に全く必要のないことがくだくだ書いてあることも分かるようになっている。 そんな過程を経て数学の弄り出すと、同じ公式を見ても教科書に書いていない面白い側面を自分で見つけ出したりしています。例えば、楕円関数には、変数とパラメータの二つの量に依存するなんて教科書に書いてあります。しかし、その物理的な意味は書かれていません。 ところが、自分の物理学の研究に関わった視点からすると、変数とは物理学でいう座標変数のことであり、パラメータとは座標変数の正準共役の運動量のことなんだなんて発見があります。 このように、先ず数学的な理屈は後回しにして、一先ず高度な数学的な概念を使いこなすことに潜心します。そしてそれが使いこなせるようになってから、教科書を読んでそれをもっと体系的に読んで過程をしばしば経て、数学的な理屈を理解しています。
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