2003年 - 2009年(J1)
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「大分トリニータ」の記事における「2003年 - 2009年(J1)」の解説
監督 小林伸二 岡中勇人 山崎哲也 サンドロ 三木隆司 有村光史 梅田高志 瀬戸春樹 エジミウソン 寺川能人 吉田孝行 高松大樹 (ロドリゴ) (アンドラジーニャ) 2003年基本布陣 2003年 チームスローガン:ムーブ&バランス 小林体制3年目。J1昇格1年目となったシーズンは、新潟の寺川能人、前年コパ・リベルタドーレス得点王のロドリゴなどの選手を補強した。守備はある程度通用したものの、ロドリゴは期待されたような活躍は出来ずシーズン途中で退団。前年チーム得点王のアンドラジーニャも得点をあげる事ができずシーズン途中に札幌に移籍した。その結果、ストライカーが不在となり深刻な得点力不足に陥りチームも低迷。シーズン半ばに3年振りの復帰となるウィルなど多くの外国人FWを補強するも得点力不足は改善されず、2ndステージは15試合で失点数はリーグ最少の16ながら、得点は7に留まった。最終節の15位・仙台戦は、大分勝利、引き分けの場合は大分の残留、大分負けの場合は仙台が残留と両チームのJ1残留をかけた直接対決となった。試合は前半15分に梅田高志のゴールで先制。後半に入り仙台に同点にされたが、勝ち越しは許さず1-1の引き分けで試合終了。年間順位14位(1stステージ14位、2ndステージ16位)でJ1に残留した。シーズン終了後、小林が監督を退任。 2004年 監督 ベルガー 高嵜理貴 (岡中勇人) 三上和良 サンドロ パトリック (三木隆司) 有村光史 吉田孝行 梅田高志 (ビチュヘ) 小森田友明 根本裕一 高松大樹 M.アウベス 2004年基本布陣 チームスローガン:Perform & Enjoy オランダ人のハン・ベルガーを監督に迎える。寺川が新潟に復帰したものの、元ブラジル代表のマグノ・アウベス、元オランダ代表のリチャード・ビチュヘ、仙台の根本裕一などの選手を獲得。マグノ等の補強組が結果を残し1stステージは10位で終える。 しかし、2ndステージ開幕前のビチュヘの退団、1stステージで活躍した木島良輔のケガなどもあり失速。緊急補強としてDFのパトリックを獲得するも、2ndステージは2年連続の最下位。マグノが11得点、高松大樹が8得点を挙げたが、全体的な得点数は伸び悩み順位は年間13位に終わった。ベルガーはシーズン終了後に辞任した。 2005年 監督 シャムスカ 西川周作 深谷友基 三木隆司 上本大海 トゥーリオ 梅田高志 エジミウソン 根本裕一 吉田孝行 高松大樹 (ドド) M.アウベス 2005年基本布陣 チームスローガン:Together & Enjoy 皇甫官がヘッドコーチから監督に昇格。なお、前年度のゲームキャプテンを務めたサンドロが退団し、瀬戸春樹、山崎哲也などが他クラブに移籍した。補強面では元ブラジル代表のFWドド、上本大海などが加入した他、新加入選手として深谷友基らが入団。大分U-18から西川周作、梅崎司が昇格した。 しかしドドは15試合で3得点に留まり(結局ドドは前年加入したDFパトリックと共にシーズン途中で加入したエジミウソン、トゥーリオと入れ替わりで退団)、スタートダッシュに失敗し下位に低迷。その後一時は順位を8位まで上げるも、主将吉田孝行の怪我の影響もあり再び失速。神戸との最下位争いから抜け出せず、直接対決でも敗戦するなど不振が続いた為、皇甫を8月28日付で解任。後任にはペリクレス・シャムスカが就任した。 初采配となった浦和戦を勝利すると、そこから6戦負け無し(5勝1分)を記録するなど勝利を積み上げ、当初に掲げていた「残り12試合で勝ち点18」の目標を8試合(6勝1敗1分け、勝ち点19)で達成、目標を7位に修正するほどの急速的な復調を遂げた。この出来事は「シャムスカマジック」と呼ばれた。11月23日のC大阪戦に1-1で引き分けたことでJ1残留が決定。最終順位は過去3年間で最高の11位となった。 2006年 監督 シャムスカ 西川周作 深谷友基 三木隆司 上本大海 トゥーリオ 高橋大輔 (梅田高志) エジミウソン 根本裕一 梅崎司 松橋章太 (ラファエル) 高松大樹 (オズマール) 2006年基本布陣 チームスローガン:Challenge & Challenge シャムスカ体制2年目。岡中勇人が現役を引退した他、チーム得点王のマグノ・アウベス、主将を務めていた吉田孝行など半数近くの選手が他クラブに移籍、または戦力外となった。補強面ではフォルタレーザECからオズマール、柏から元日本代表の増田忠俊らを獲得。新加入選手として高橋大輔、森重真人が入団し、大分U-18から福元洋平、梶原公が昇格。登録メンバーは25人でシーズンに臨んだ。 序盤戦は3連敗を喫するなど黒星が先行し、一時はシーズン14位に順位を落としたが、その後は調子を上げ第11節鹿島戦から第14節新潟戦にかけて4連勝を記録。第16節川崎戦から第22節福岡戦にかけては7戦負けなしで、第21節にはこの年のリーグ王者である浦和から白星をあげるなど6位に浮上。シーズン前に掲げた目標を「8位以内」から「4位以内」に修正し10月にJ1残留を決めた。ただその後は3勝2分7敗と成績を落としたことで賞金圏内の7位以内を逃したが、当時のJ1最高順位となる8位でシーズンを終えた。 また、チーム創設以来初めて、日本代表に西川周作と梅崎司、後に高松大樹も招集され、梅崎と高松は国際Aマッチにも出場を果たした。 2007年 監督 シャムスカ 下川誠吾 (西川周作) 深谷友基 森重真人 (三木隆司) 上本大海 ホベルト (J.マラニョン) 高橋大輔 エジミウソン (藤田義明) 鈴木慎吾 (根本裕一) 梅崎司 (アウグスト) 山崎雅人 高松大樹 (セルジーニョ) (松橋章太) 2007年基本布陣 チームスローガン:「Challenge & Competition」挑戦と闘争 シャムスカ体制3年目。エジミウソン、トゥーリオが退団し、梅崎司がフランス・グルノーブルに期限付き移籍するなど7選手がチームを去った。補強面ではジュニオール・マラニョン、宮沢正史、アウグスト、金崎夢生ら8選手が新たに加入した。しかし、新加入のマラニョン・宮沢が共にスタメン出場した開幕2試合が共に未勝利に終わると、宮沢は翌第3節でスタメン落ち、マラニョンは後にシーズン半ばで退団となった。その後は藤田義明など様々な選手をボランチで起用するも大量失点で負ける試合も少なくなく、第13節には最下位の横浜FCにも1-2で敗北を喫した。シーズン途中に前田俊介(広島より期限付き移籍)、梅崎(グルノーブルより復帰)が加入した後も勝ち点を伸ばせず、前半戦(第18節)終了時点で自動降格圏内の17位と低迷した。 J1残留のために後半戦をリベンジ16と銘打ち、新潟から鈴木慎吾、元福岡のホベルト、そして半年ぶり、3度目の加入となるエジミウソンを獲得。その結果、後半戦はチーム状態が回復し、順調に白星を重ねるようになる。中でも第31節は同じく残留争いをしていた大宮との直接対決で、1-1で迎えた後半44分に前田俊介の大分移籍後初得点となるゴールで逆転勝利。第33節 磐田戦を勝利しJ1残留を確定させた。シーズン最終順位は14位であった。 監督 シャムスカ 下川誠吾 深谷友基 森重真人 上本大海 ホベルト 高橋大輔 エジミウソン 藤田義明 金崎夢生 ウェズレイ 高松大樹 2008年のJリーグカップ決勝 2008年 チームスローガン:One Heart,Big Challenge シャムスカ体制4年目。シーズン前に梅崎司、松橋章太、三木隆司、山崎雅人が他クラブに移籍するなど9選手が退団。その穴を埋めるべくG大阪より家長昭博、前広島のウェズレイらを獲得し、大分U-18から清武弘嗣、小手川宏基ら4選手が昇格した。また、この年に大分初のクラブマスコットキャラクターとなるニータンが誕生した。 シーズン前の練習中に家長が全治6か月の大ケガを負ったが、その代役に抜擢された2年目の金崎夢生が活躍。上本大海・森重真人・深谷友基の3バックラインとエジミウソン・ホベルトのボランチコンビ、そしてGK西川周作との連携は成熟されリーグトップレベルの堅守を見せた(イタリア代表の「カテナチオ」とクラブマスコットであるカメのニータンを掛け合わせ「カメナチオ」と呼称)。その堅守を武器にナビスコ杯では、予選GLを2位でクラブ初の突破を果たすと、決勝トーナメントはそのままの勢いでFC東京、名古屋グランパスを破り、決勝・清水エスパルス戦も高松大樹とウェズレイのゴールで2-0のスコアで勝利し、優勝を果たした(クラブ初そして九州のチーム初のタイトル)。 一方、リーグ戦も終盤まで優勝争いに加わり、チーム歴代最高の4位・勝点56でシーズンを終えた。総失点数はJ1過去最少の24失点(1試合平均0.706点)となった。また、ホームゲーム6連勝やホームゲーム13試合連続不敗を記録するなどホームである九州石油ドーム(当時)で圧倒的な相性の良さをみせた。ただ、得点数は伸び悩みリーグ戦で3得点以上を記録した試合は僅か2試合に終わり、リーグワースト2位の33得点(1試合平均0.971点)となった。 監督 松山博明 西川周作 深谷友基 森重真人 上本大海 宮沢正史 高橋大輔 エジミウソン 鈴木慎吾 金崎夢生 家長昭博 高松大樹 2009年第18節(vs浦和戦) 2009年 チームスローガン:One Heart,Big Challenge シャムスカ体制5年目。神戸から坪内秀介が期限付き移籍で加入し、梅田高志と、宮沢正史が期限付き移籍より復帰。一方で期限付き移籍で加入していた小林亮等が退団した。シーズン開幕前の2月にホーム・デポ・センター(アメリカ合衆国カリフォルニア州カーソン)で開催されたパンパシフィックチャンピオンシップ2009にナビスコカップ優勝チームとして出場し3位となる。 リーグ戦では、チーム始動が遅くフィジカルトレーニングが十分に行えなかったことや、九州石油ドームの芝の張り替えに失敗し芝の状態が不安定だった影響による怪我や累積警告で、多くの主力選手の欠場が相次ぎ最下位に低迷。5月23日の広島戦で敗戦を喫したことで10連敗となり、延長戦が廃止された2003年以降のJ1では、2007年の横浜FCの9連敗を抜いてワースト記録となった。その後は連敗数は14まで続き、1勝1分15敗(勝ち点4)の最下位でシーズンを折り返した。このため、7月14日に成績不振によりシャムスカを解任。後任に元広島コーチのランコ・ポポヴィッチが就任した。同月18日の第18節・浦和戦ではポポヴィッチの役員登録が完了するまでの処置として強化部の松山博明が暫定監督を務め、1-0で浦和に勝利。これで連敗を14で止め、3月21日の第3節・新潟戦以来の勝ち点、3月14日の第2節・京都戦以来の勝ち星をあげた。その後9月13日の磐田戦からシーズン終了まで10戦負けなし、またこれまでリーグ戦未勝利だった千葉にも初勝利をあげるなど復調を遂げたが、前半戦の成績が響き残留圏内まで浮上するには至らず、第30節の京都戦(勝利が残留の必要条件)に引き分けた事でリーグ戦4試合を残し8シーズンぶりのJ2降格が決定した。 一方、連覇を懸け望んだナビスコ杯は無敗であったものの、1勝5分と勝ち点3を積み上げる事ができず予選敗退となった。また8月5日にはスルガ銀行チャンピオンシップが開催され、コパ・スダメリカーナ王者・SCインテルナシオナルと対戦し、1-2で敗れた。
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2003年 - 2009年
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業界再編 2003年以降になると、外資系シネマコンプレックスの撤退を引き金に業界再編がはじまる。 外資系各社の攻勢でワーナー・マイカルが337スクリーンを保有していたのに対し、東宝グループは284スクリーンと劣勢に立たされていた。この状況に際し、東宝は他社の買収を模索していたとされる。2003年4月4日、野村證券の仲介により100億円でヴァージンシネマズ・ジャパンを買収し、シェアトップの座に返り咲いた。 買収されたヴァージンシネマズ・ジャパンは改称しTOHOシネマズとなった。東宝は同社系列の興行会社をこれ以降再編していく。2006年10月1日に東宝直営館をTOHOシネマズに移管し、続いて2008年3月1日に東宝東日本興行、中部東宝、東宝関西興行、九州東宝をTOHOシネマズに吸収合併させた。各興行会社が運営していたTOHOプレックスをはじめとするシネマコンプレックスは、改装しTOHOシネマズのブランドに変わった。また、TOHOシネマズ高槻、浜大津アーカスシネマ、鯖江シネマ7と言った地方のサイトの一部は独立系の興行会社に事業譲渡された。 2004年4月22日にはマイカルと松竹の合弁であったマイカル松竹シネマズ本牧が松竹ニューセレクトに事業譲渡されることが発表された。同年4月30日以降、同サイトは改装しMOVIX本牧として運営された。 また、2004年9月にUCIが撤退し、同社保有分のユナイテッド・シネマの株式を住友商事と角川グループに売却した。さらに、2005年にはAMCエンターテインメントが撤退をする。AMCイクスピアリ16を除いた4サイトと日本法人の日本AMCシアターズが7月1日にユナイテッド・シネマに売却された。AMCイクスピアリ16は東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドと家賃を巡って係争中であったが、9月1日にそのオリエンタルランドに事業譲渡された。同サイトはデジタル3D映画システムの導入などを行い、2006年3月1日に同社の直営のシネマイクスピアリとなっている。 再度の急増 この時期になると、大都市ロードショー館のシネマコンプレックス化が加速した。この動きの中では札幌シネマフロンティア(TOHOシネマズ、松竹、ティ・ジョイの共同経営)や、大阪の梅田ブルク7、なんばパークスシネマ(松竹、ティ・ジョイの共同経営)等、日本国内の大手映画会社による、共同経営もみられた。ただし、横浜桜木町で計画されていた共同運営の劇場開発からTOHOシネマズが撤退する事例もあり、完全に足並みがそろっているわけではない。 動員もシネマコンプレックスが主体となっていった。2003年から2006年まで川崎市のチネチッタが年間観客動員数日本一に、2007年は観客動員数はMOVIXさいたま、興行収入はTOHOシネマズ六本木ヒルズが日本一になった。 大規模小売店舗法の下での駆け込み出店が行われた影響もあり、大規模小売店舗立地法が施行された後、しばらくは郊外型シネマコンプレックスの出店ペースは落ち着いていた。前述の通り、大都市ロードショー館のシネマコンプレックス化はあったが、従来館の置き換えであるため、スクリーン全体としては微増であった。2000年に2524スクリーンだったものが2003年末までに2681スクリーンになっただけで、157スクリーンしか増えていない。 しかし、大規模小売店舗立地法自体が郊外型ショッピングセンターの出店を行いやすい法体系であったため、2004年以降、増加傾向に拍車がかかった。さらに、2006年にまちづくり3法が改正され、郊外型ショッピングセンター新設に抑制がかけられたため、再び駆け込み出店が行われることになった。結果的に2006年には従来館も含めると3000スクリーンを突破し、2007年には3221スクリーンとなった。これは1970年頃のスクリーン数とほぼ同じである。当時の映画人口は2億5千万人程度であったが、2001年以降、映画人口は1億6千万から7千万人程度でほぼ横這いの状態が続いており、飽和状態になったとも言われる。 観客数が横ばいでありながら各社の出店が続いていること、映画ソフトのレンタルやテレビでの放映までの期間が近年では短くなってきていること、インターネットによるオンデマンド配信も増えていることなど、シネマコンプレックスの経営は年々厳しくなっていった。また、後述する競合他社との差別化のための設備投資の結果、1998年頃は平均座席占有率が10.2%で経営が成り立っていたものが、2004年には14.7%まで上昇していった。結果的に、興行収入からの営業利益は4.3%しか得られていない。従来館を含めると2006年には3000スクリーンを突破しているが、3000スクリーンの経営を成立させるには1億8千万人の映画人口が必要との試算もある。このため、入場者の安定確保と共に飲食物など売店収入の増加などが鍵になるとされた。 各地の状況 シネマコンプレックスの同士での競合商圏内での出店が増えたため、再編、閉館などの動きが見られるようになった。 大阪府高槻市 ジョイプラザ運営の高槻シネマルート170(2000年7月21日開館)とTOHOシネマズ運営のTOHOシネマズ高槻(2004年2月21日開館)の2サイトが、約2km程度の距離に存在した。2007年6月28日にTOHOシネマズ高槻が閉館し、営業譲渡されたジョイプラザが同一施設で同年6月30日から高槻ロコ9シネマ(現高槻アレックスシネマ)として運営している。また、同日に高槻シネマルート170は閉館し、同地域のシネマコンプレックスは1館に再編された。同地域に東宝の出店予定はなかったが、買収したヴァージンシネマズの出店計画が進んでおり出店せざるを得なかった。無駄な競合を避けるため、TOHOシネマズ高槻の開館後に再編をしたとされる。 大阪府岸和田市 1993年4月29日ワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田が開館した。さらに1999年10月1日ユナイテッド・シネマ岸和田が開館し、2サイトとなった。岸和田市は高槻市より商圏人口で劣りながらも共存していたが、ワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田が老朽化を理由に2008年2月3日をもって閉館した。これは、国内初のシネマコンプレックスの閉館とされる。 奈良県橿原市 総人口12万5千人程度の都市でありながら、中心部の近鉄大和八木駅を中心に半径約2km圏内に橿原シネマアーク(1999年7月24日開館、5スクリーン)MOVIX橿原(2001年6月開館、9スクリーン)TOHOシネマズ橿原(2004年4月1日開館、9スクリーン)の3サイトが存在したが、シネマアークは2009年4月30日に閉館した。MOVIX橿原が入居するツインゲート橿原もシネマコンプレックス以外の入居店舗が大幅に入れ替わっているため苦戦を強いられ、松竹マルチプレックスシアターズは長期間に渡る家賃の削減等の交渉をディベロッパー側と行なっていたが、2014年6月4日に、同年8月31日をもって閉館することを発表した。その後2015年12月18日、MOVIX橿原の跡地にユナイテッド・シネマ橿原がオープンしている。 神奈川県海老名市 1993年4月24日にワーナー・マイカル・シネマズ海老名(現イオンシネマ海老名)が開業した9年後、2002年4月19日にヴァージンシネマズ海老名(現TOHOシネマズ海老名)が開業した。双方の映画館はわずか400mしか離れていない。しかし、この状況を逆手にとって、2002年から海老名商工会議所が中心となり、海老名プレミアム映画祭を開催し、海老名市を「シネマコンプレックス発祥の地」としてアピールした。 埼玉県熊谷市 2000年11月16日にワーナー・マイカル・シネマズ熊谷(現イオンシネマ熊谷)が開業した。従来館のシネプラザ21を運営していた鷹の羽興業は2003年9月30日に同館を閉館させ、2004年11月20日にシネマコンプレックスのシネティアラ21を開業させた。熊谷市の人口は20万人程度であるが、それぞれの立地(ワーナー・マイカルはショッピングセンター併設型、鷹の羽興業は駅前立地型)を活かし、共存した。 設備とサービスの変遷 シネマコンプレックス間での差別化を図るため、サービスや設備の個性化が進んだ。 コンテンツの差別化という点では、チェーンによる独占上映が行われた。2007年4月9日にユナイテッド・シネマと東急レクリエーションが独自の番組編成を目的に提携したことを発表し、『アドレナリン』など複数の作品が2社の劇場を中心に上映された。2007年12月20日にはティ・ジョイ、東急レクリエーション、ユナイテッド・シネマ、ワーナー・マイカル4社に拡大した「オープン・コラボレーション」という提携を発表し、『ナルニア国物語/第2章: カスピアン王子の角笛』などが4社で独占上映されることになった。 顧客サービス面の差別化ではTOHOシネマズの「ママズ クラブ シアター」などが挙げられる。小さな子供を持つ親を優先にした上映回を設定し、周りの観客に気兼ねなく鑑賞できるようにした。サービス面の向上を図った結果、各地のシネマコンプレックスで導入されたサービスもある。例としてインターネット予約は各社で導入された。また、ポイントサービスはTOHOシネマズのシネマイレージをはじめ、各社とも導入を行った。一般にポイントサービスはヘビーユーザー向けの物だが、ワーナー・マイカルは「ティーポイント」と提携し、劇場であまり見ない層の集客を図っていた。しかし、2009年6月27日にこのサービスは終了した。 座席幅が広かったりサイドテーブルが付いていたりする付加価値の高い座席も導入するところも増えた。TOHOシネマズでは「プレミアスクリーン」として、1スクリーンを全て高付加価値のシートとしているほか、新宿ピカデリーではプライベートルーム型で3万円の「プラチナルーム」を設置している。他にもワーナー・マイカル・シネマズ(現イオンシネマ)の「ゴールドクラス」、109シネマズの「エグゼクティブシート」、シネマメディアージュの「スーパープレミアシート」などが挙げられる。一方で、改装時に高付加価値のスクリーンを撤去する動きもある。
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