第二次バターン半島攻略戦とは? わかりやすく解説

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第二次バターン半島攻略戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 03:51 UTC 版)

フィリピンの戦い (1941-1942年)」の記事における「第二次バターン半島攻略戦」の解説

バターン半島戦線膠着したことで、犠牲払ってでもこれを攻略すべきか、あるいは封鎖するとどめるべきか、第14軍南方軍大本営のいずれにあって議論分かれたアメリカ軍主力艦隊は真珠湾痛手受けており、当面バターン半島救援不可能である。封鎖続けていれば遠からず食糧弾薬が底をつくことは明らかであった。しかし日本軍には攻略を急がざるを得ない理由もあった。日本軍満州ソ連軍対峙し、中国大陸から東南アジアに至る広大な地域作戦を展開中で、長期わたって封鎖続け兵力余裕はなかった。また、有力な米比軍マニラ目の前に残したままではフィリピンでの軍政は困難であると判断された。 日本軍方針十分な兵力集結しての再攻勢実施決定した中支から第4師団大阪)と永野支隊香港から香港攻略戦終えた第一砲兵隊バターン半島集結し航空部隊飛行60、第62第16戦隊が増強された。このときバターン半島投入され日本軍兵力以下の通りである。 16師団一部欠) 第65旅団一部欠) 第4師団 永野支隊第21師団一部歩兵第62連隊基幹第一砲兵隊重砲第1連隊他) 飛行60戦隊重爆35機)、第62戦隊重爆25機)、第16戦隊(軽爆32機) 3月24日以降日本軍攻撃機連日爆撃行った地上部隊による総攻撃4月3日開始された。第一砲兵隊重砲群がサマット山麓の米比軍陣地砲撃加え前進開始した第4師団第65旅団初日から予定よりも長い距離を突破したここまで米比軍防御中核担ってきたフィリピン師団も、長きわたった戦いの中で反撃余力尽きていた。 日本軍第二線、第三線の防御線を相次いで突破し前進した4月9日バターン半島総司令官エドワード・キング少将降伏申し入れ残余部隊11日までに大半降伏した捕虜は7以上。これは日本軍推定していた人数の2倍に上った

※この「第二次バターン半島攻略戦」の解説は、「フィリピンの戦い (1941-1942年)」の解説の一部です。
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