第二次バターン半島攻略戦
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「フィリピンの戦い (1941-1942年)」の記事における「第二次バターン半島攻略戦」の解説
バターン半島の戦線が膠着したことで、犠牲を払ってでもこれを攻略すべきか、あるいは封鎖するにとどめるべきか、第14軍、南方軍、大本営のいずれにあっても議論が分かれた。アメリカ軍主力艦隊は真珠湾で痛手を受けており、当面はバターン半島救援は不可能である。封鎖を続けていれば遠からず食糧弾薬が底をつくことは明らかであった。しかし日本軍には攻略を急がざるを得ない理由もあった。日本軍は満州でソ連軍と対峙し、中国大陸から東南アジアに至る広大な地域で作戦を展開中で、長期にわたって封鎖を続ける兵力の余裕はなかった。また、有力な米比軍をマニラの目の前に残したままではフィリピンでの軍政は困難であると判断された。 日本軍の方針は十分な兵力を集結しての再攻勢実施に決定した。中支から第4師団(大阪)と永野支隊、香港から香港攻略戦を終えた第一砲兵隊がバターン半島へ集結し、航空部隊は飛行第60、第62、第16戦隊が増強された。このときバターン半島に投入された日本軍の兵力は以下の通りである。 16師団(一部欠) 第65旅団(一部欠) 第4師団 永野支隊(第21師団の一部、歩兵第62連隊基幹) 第一砲兵隊(重砲兵第1連隊他) 飛行第60戦隊(重爆35機)、第62戦隊(重爆25機)、第16戦隊(軽爆32機) 3月24日以降、日本軍の攻撃機は連日爆撃を行った。地上部隊による総攻撃は4月3日に開始された。第一砲兵隊の重砲群がサマット山麓の米比軍陣地に砲撃を加え、前進を開始した第4師団と第65旅団は初日から予定よりも長い距離を突破した。ここまで米比軍の防御の中核を担ってきたフィリピン師団も、長きにわたった戦いの中で反撃の余力は尽きていた。 日本軍は第二線、第三線の防御線を相次いで突破し前進した。4月9日、バターン半島総司令官のエドワード・キング少将が降伏を申し入れ、残余の部隊も11日までに大半が降伏した。捕虜は7万以上。これは日本軍が推定していた人数の2倍に上った。
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