松尾芭蕉 芭蕉の風

松尾芭蕉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 13:29 UTC 版)

芭蕉の風

貞門・談林風

宗房の名乗りで俳諧を始めた頃、その作風は貞門派の典型であった。つまり、先人の文学作品から要素を得ながら、掛詞見立て頓知といった発想を複合的に加えて仕立てる様である。初入集された『佐夜中山集』の1句

月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 (つきぞしるべ こなたへいらせ たびのやど)

は、謡曲鞍馬天狗』の一節から題材を得ている[15]。2年後の作品

霰まじる帷子雪はこもんかな (あられまじる かたびらゆきは こもんかな)『続山井』

では、「帷子雪」(薄積もりの雪)と「帷子」(薄い着物)を掛詞とし、雪景色に降る霰の風景を、小紋(細かな模様)がある着物に見立てている[15]。また、「--は××である」という形式もひとつの特徴である[15]。江戸で桃青号を名乗る時期の作は談林調になったと言われるが、この頃の作品にも貞門的な謡曲から得た要素をユニークさで彩る特徴が見られる[15]

天和期の特徴

天和年間、俳諧の世界では漢文調や字余りが流行し、芭蕉もその影響を受けた。また、芭蕉庵について歌った句を例にあげると、字余りの上五で外の情景を、中七と下五で庵の中にいる自分の様を描いている。これは和歌における上句「五・七・五」と下句「七・七」で別々の事柄を述べながら2つが繋がり、大きな内容へと展開させる形式と同じ手段を使っている。さらに中七・下五で自らを俳諧の題材に用いている点も特徴で、貞門・談林風時代の特徴「--は××である」と違いが見られる[15]

天和期は芭蕉にとって貞門・談林風の末期とみなす評価もあるが、芭蕉にとってこの時期は表現や句の構造に様々な試みを導入し、意識して俳諧に変化を生み出そうと模索する転換期と考えられる[15]

芭蕉発句

貞享年間に入ると、芭蕉の俳諧は主に2つの句型を取りつつ、その中に多彩な表現を盛り込んだ作品が主流となる。2つの句型とは、「--哉(省略される場合あり)」と「--や/--(体言止め)」である。前者の例は、

馬をさへながむる雪の朝哉 (うまをさへ ながむるゆきの あしたかな) 『野ざらし紀行』

が挙げられる。一夜にして積もった雪景色の朝の風景がいかに新鮮なものかを、平凡な馬にさえ眼がいってしまう事で強調し、具象を示しながら一句が畳み掛けるように「雪の朝」へ繋げる事で気分を表現し、感動を末尾の「哉」で集約させている[30]。後者では、

菊の香やならには古き仏達 (きくのかや ならにはふるき ほとけたち) 『笈日記』

があり、字余りを使わずに「や」で区切った上五と中七・下五で述べられる別々の事柄が連結し、広がりをもって融和している[30]

さらに『三冊子』にて芭蕉は、「詩歌連俳はいずれも風雅だが、俳は上の三つが及ばないところに及ぶ」と言う。及ばないところとは「俗」を意味し、詩歌連が「俗」を切り捨てて「雅」の文芸として大成したのに対し、俳諧は「俗」さえ取り入れつつ他の3つに並ぶ独自性が高い文芸にあると述べている。この例では、

蛸壺やはかなき夢を夏の月 (たこつぼや はかなきゆめを なつのつき) 『猿蓑』

を見ると、「蛸壺」という俗な素材を用いながら、やがて捕食される事など思いもよらず夏の夜に眠る蛸を詠い、命の儚さや哀しさを表現している[30]

かるみの境地

元禄3年の『ひさご』前後頃から、芭蕉は「かるみ」の域に到達したと考えられる。これは『三冊子』にて『ひさご』の発句

木のもとに汁も鱠も桜かな (このもとに しるもなますも さくらかな)

の解説で「花見の句のかかりを心得て、軽みをしたり」と述べている事から考えられている[31]。「かるみ」の明確な定義を芭蕉は残しておらず、わずかに「高く心を悟りて俗に帰す」(『三冊子』)という言が残されている[22]。試された解釈では、身近な日常の題材を、趣向作意を加えずに素直かつ平明に表すこと[31]、和歌の伝統である「風雅」を平易なものへ変換し、日常の事柄を自由な領域で表すこと[32]とも言う。

この「かるみ」を句にすると、表現は作意が顔を出さないよう平明でさりげなくならざるを得ない。しかし一つ間違えると俳諧を平俗的・通俗的そして低俗なものへ堕落させる恐れがある。芭蕉は、高い志を抱きつつ「俗」を用い、俳諧に詩美を作り出そうと創意工夫を重ね、その結実を理念の「かるみ」を掲げ、実践した人物である[33]

俳評

芭蕉は俳諧に対する論評(俳評)を著さなかった[29]。芭蕉は実践を重視し、また門人が別の考えを持っても矯正する事は無く、「かるみ」の不理解や其角・嵐雪のように別な方向性を好む者も容認していた[33]。下手に俳評を残せばそれを盲目的に信じ、俳風が形骸化することを恐れたとも考えられる[29]。ただし、門人が書き留める事は禁止せず、土芳の『三冊子』や去来の『去来抄』を通じて知る事ができる[29]

「かるみ」にあるように「俗」を取り込みつつ、芭蕉は「俗談平話」すなわちあくまで日常的な言葉を使いながらも、それを文芸性に富む詩語化を施して、俳諧を高みに導こうとしていた。これを成すために重視した純粋な詩精神を「風雅の誠」と呼んだ[34]。これは、宋学の世界観が言う万物の根源「誠」が意識されており、風雅の本質を掴む(『三冊子』では「誠を責むる」と言う)ことで自ずと俳諧が詠め、そこに作意を凝らす必要が無くなると説く[34]。この本質は固定的ではなく、おくのほそ道で得た「不易流行」の通り不易=「誠によく立ちたる姿」と流行=「誠の変化を知(る)」という2つの概念があり、これらを統括した観念を「誠」と定めている[34]

風雅の本質とは、詩歌では伝統的に「本意」と呼ばれ尊重すべきものとされたが、実態は形骸化しつつあった。芭蕉はこれに代わり「本情/本性」という概念を示し、俳諧に詠う対象固有の性情を捉える事に重点を置いた[35]。これを直接的に述べた芭蕉の言葉が「松の事は松に習へ」(『三冊子』赤)である[35]。これは私的な観念をいかに捨てて、対象の本情へ入り込む「物我一如」「主客合一」が重要かを端的に説明している[35]


注釈

  1. ^ 「つげさんぽう」と読む。日置氏、北村氏、福地氏から成る。平宗清の子孫を称したが、仮冒とされる。
  2. ^ 「芭蕉七部集」の正式名は「俳諧七部集」。

出典

  1. ^ 佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表
  2. ^ a b 阿部(1986)、p.235-241 略年譜、p.1-34 誕生と身辺・郷党の秀才
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)
  4. ^ 高橋(1993)、p.303 略年譜、p.4-9 松尾忠右衛門宗房の寛文時代
  5. ^ 東明雅、芭蕉の恋句、岩波新書黄版91、岩波書店1997年、p.37参照及び引用
  6. ^ 東聖子 『蕉風俳諧における〈季語 ・季題〉の研究』(明治書院、2003年)、ISBN 4-625-44300-8
  7. ^ 佐藤編(2011)、p.247、あとがき
  8. ^ 東明雅、芭蕉の恋句、岩波新書黄版91、岩波書店1997年、p.1参照及び引用
  9. ^ a b 北出楯夫. “【俳聖 松尾芭蕉】第1章 若き日の芭蕉”. 伊賀タウン情報YOU. 2016年6月12日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年6月12日閲覧。 “上柘植村説は芭蕉の没後84年を経た安永7年(1778年)に、蓑笠庵梨一の『奥の細道菅菰抄』に「祖翁ハ伊賀国柘植郷の産にして...」と書かれたのが始まり。その後いくつかの伝記に引用されることになるが、その根拠は乏しい。”
  10. ^ a b c d e f 饗庭(2001)、p.16-21、1.芭蕉、伊賀上野の頃
  11. ^ a b c d e f g h i j 佐藤編(2011)、p.34-37、芭蕉の生涯 江戸下向(延宝期)
  12. ^ 饗庭(2001)、p.30-42、3.談林風と江戸下向
  13. ^ a b c d e f 佐藤編(2011)、p.38-41、芭蕉の生涯 深川移居(延宝末~天和期)
  14. ^ a b c d 饗庭(2001)、p.43-54、4.隠者への道
  15. ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.14-17、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉における貞門・談林・天和調
  16. ^ ミュージアム都留(2000)pp.114-117。
  17. ^ 松尾芭蕉ゆかりの地 江東おでかけ情報局、2020年9月21日閲覧
  18. ^ a b c d e 佐藤編(2011)、p.41-44、芭蕉の生涯 『野ざらし紀行』の旅
  19. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.44-47、芭蕉の生涯 草庵生活と『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行』の旅
  20. ^ a b c d 佐藤編(2011)、p.47-48、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の旅
  21. ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.49-50、芭蕉の生涯 『猿蓑』の成立
  22. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.50-52、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の成立と「かるみ」への志向
  23. ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.52-54、芭蕉の生涯 最後の旅へ
  24. ^ a b 饗庭(2001)、p.206-216、17.晩年の芭蕉
  25. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.61-66、蕉門を彩る人々 最初期から没後まで蕉門であり続けた人々
  26. ^ a b c d e 佐藤編(2011)、p.66-71、蕉門を彩る人々 晩年に入門し「俳諧の心」を受け継いだ人々
  27. ^ a b 佐藤編(2011)、p.72-73、蕉門を彩る人々 『猿蓑』を編集した対照的な二人
  28. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.74、蕉門を彩る人々 おわりに
  29. ^ a b c d 佐藤編(2011)、p.190-192、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と俳論
  30. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.17-18、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉発句の成果
  31. ^ a b 佐藤編(2011)、p.216-223、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と「かるみ」‐『別座舗』の場合
  32. ^ 饗庭(2001)、p.217-252、18.芭蕉の芸術論
  33. ^ a b 佐藤編(2011)、p.223-226、芭蕉と芭門の俳論 元禄俳諧における名句
  34. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.192-195、芭蕉と芭門の俳論 俳諧文芸の本質・俳諧精神論‐「俗語を正す」「風雅の誠」
  35. ^ a b c 佐藤編(2011)、p.195-198、芭蕉と芭門の俳論 対象把握の方法‐物我一如と本情論
  36. ^ レファレンス共同データベース”. 国立国会図書館. 2019年12月9日閲覧。
  37. ^ a b c 芭蕉の脚力普通だった - 『読売新聞』2018年12月19日、2021年3月4日閲覧。
  38. ^ a b c d e 第4回「芭蕉忍者説の傾向と対策」(後期) - 三重大学人文学部・人文社会科学研究科、2021年3月4日閲覧。
  39. ^ a b c d e 「芭蕉忍者説」を検証 三重大・吉丸准教授が起源など解説 - 『産経新聞』2017年1月29日、2021年3月4日閲覧。
  40. ^ 芭蕉忍者説尾崎広める - 『読売新聞』2018年4月11日、2021年3月5日閲覧。
  41. ^ (エッセイ)百地家系図の「芭蕉」に関する記述について (吉丸雄哉) - 国際忍者研究センター、2021年3月4日閲覧。
  42. ^ NHK衛星ハイビジョン2009年1月11日16:00『地球特派員スペシャル』にて岡本行夫ウクライナから持ち帰った中学2年生の教科書を示して。
  43. ^ 大谷泰照監修、堀内克明監修、朝尾幸次郎ほか編 『社会人のための英語百科』 大修館書店、2002年3月、181頁。


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