桓武天皇
山部皇子は、773年廃太子された他戸親王に代わり立太子したが、母の高野新笠が百済系渡来人の出身であったので周囲から反対された。
しかし藤原百川らの強い推挙により実現した。
なお、この山部親王の立太子により天武系の皇統は完全に途絶えた。
781年病と老齢を理由に退位した父に代わり、即位して桓武天皇となった。
皇太子には同母弟の早良親王とした。
782年氷上真人川継が謀反を起こしたが捕らえられて流刑に処せられた。
784年政情不安・凶作・疫病の流行を理由に年号を変え長岡京に遷都した。
785年頼みとしていた藤原百川の甥の中納言・式部卿藤原種継が暗殺された。
この事件により大伴継人・大伴竹良らが捕らえられ処刑された。
また早良親王が皇太子を廃されて乙訓寺に幽閉され、のちに淡路に配流となりその道中で没した。
皇太子には長男の安殿親王とした。
これに連座して万葉歌人の大伴家持(すでに故人となっていた)らの官職を剥奪した。
この後大飢饉が発生するなど忌まわしい出来事が起こったので、陰陽師に占わせたところ、安殿親王の病は早良親王(怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追号する)の怨霊の祟りとされた。
794年桓武天皇はその不吉から逃れるため和気清麻呂の提案を受けて平安京(この後1180年の福原遷都を除き、1869年の明治2年まで続いた都)に遷都した。
桓武天皇は、791年に坂上田村麻呂を征夷大将軍とし蝦夷を討たせ、また794年藤原継縄・菅野真道らに国史編纂(797年『続日本紀』として完成)を命じた。
804年には空海・最澄らを唐に派遣する。
桓武天皇はまた宗教界を統制し、さらに勘解由使を設置して国司の監督を強化し天皇による強力な政治を行った。
しかし藤原百川らの強い推挙により実現した。
なお、この山部親王の立太子により天武系の皇統は完全に途絶えた。
781年病と老齢を理由に退位した父に代わり、即位して桓武天皇となった。
皇太子には同母弟の早良親王とした。
782年氷上真人川継が謀反を起こしたが捕らえられて流刑に処せられた。
784年政情不安・凶作・疫病の流行を理由に年号を変え長岡京に遷都した。
785年頼みとしていた藤原百川の甥の中納言・式部卿藤原種継が暗殺された。
この事件により大伴継人・大伴竹良らが捕らえられ処刑された。
また早良親王が皇太子を廃されて乙訓寺に幽閉され、のちに淡路に配流となりその道中で没した。
皇太子には長男の安殿親王とした。
これに連座して万葉歌人の大伴家持(すでに故人となっていた)らの官職を剥奪した。
この後大飢饉が発生するなど忌まわしい出来事が起こったので、陰陽師に占わせたところ、安殿親王の病は早良親王(怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追号する)の怨霊の祟りとされた。
794年桓武天皇はその不吉から逃れるため和気清麻呂の提案を受けて平安京(この後1180年の福原遷都を除き、1869年の明治2年まで続いた都)に遷都した。
桓武天皇は、791年に坂上田村麻呂を征夷大将軍とし蝦夷を討たせ、また794年藤原継縄・菅野真道らに国史編纂(797年『続日本紀』として完成)を命じた。
804年には空海・最澄らを唐に派遣する。
桓武天皇はまた宗教界を統制し、さらに勘解由使を設置して国司の監督を強化し天皇による強力な政治を行った。
第50代天皇 | |
天皇名 | 桓武天皇 |
読み方 | かんむてんのう |
名・諱等 | 日本根子皇統弥照尊 |
読み方 | やまとねこすめろぎいやてりのみこと |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 781年から806年 |
生年 | 737 |
没年 | 806 |
父 | 光仁天皇 |
母 | 高野新笠 |
兄弟 | 早良親王・他戸親王 |
配偶者 | 藤原乙牟漏・藤原旅子 |
皇子女 | 安殿親王・神野親王 |
即位宮 | 平城京 |
天皇陵 | 柏原陵 |
所在地 | 京都府京都市伏見区桃山町 |
桓武天皇
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