失踪と死
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「イニーアス・マッキントッシュ」の記事における「失踪と死」の解説
ハット・ポイントでは壊血病の被害を止める新鮮なアザラシの肉があったので、生存者たちは緩り体力を回復させた。マクマード入江の海氷の状態が安定せず、エバンス岬基地までの残りの行程を阻んでいた。ハット・ポイントの状態は薄暗くて鬱陶しく、単調な食事ばかりであり、慰みも無かった。特にマッキントッシュは小屋のみすぼらしさを耐え難く思い、ハット・ポイントに居たままでは帰りの船に乗り遅れる可能性を心配した。1916年5月8日、海氷の状態を偵察した後で、マッキントッシュは、自分とヘイワードが歩いてエバンス岬まで行く危険を冒す用意があると宣言した。仲間たちは頻りに止めようとしたが、二人は軽い物資だけを担いで出発した。 ハット・ポイントの視界から外れて間もなく、厳しいブリザードが吹き荒れて2日間続いた。それが収まったとき、ジョイスとリチャーズが氷の上にまだ残っていた足跡をたどっていったが、大きなクラックの所で足跡が消えていた。マッキントッシュもヘイワードもエバンス岬に到着してはおらず、ジョイスが広範な捜索を行ったにも拘わらず、その足跡も見つからなかった。ジョイスに続いてリチャーズとワイルドは6月にエバンス岬に到着することができた。 1917年1月にオーロラがやっとエバンス岬に戻って来たあと、さらに捜索が行われたが、やはり無駄だった。マッキントッシュとヘイワードが氷の間に落ちたことを示す兆候や、彼らが歩いていた氷は、ブリザードの間に海に吹き流されていた。
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失踪と死
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芳子の失踪が明らかになると、母さだ子は行方を捜し回った。そして芳子が「ちかごろ中村という文士と交際している」と言い残していた言葉を頼りにして、当時26歳の文筆家中村進治郎が住んでいる四谷番衆町(現在の新宿区新宿五丁目)の新宿園アパートにたどり着いた。しかし、アパートの管理人から中村は大阪に旅行中で不在だと聞いたため、このときは引き返している。 さだ子は改めて警察と憲兵隊に芳子の捜索願を出した。彼女の行方がわかったのは、12月12日になってからであった。その日の午前11時半ころ、芳子は中村とともに新宿園アパートの中村の居室で見つかった。旅行で不在だったはずの居室から不審な物音がするとの知らせを受けて、管理人が合鍵を使って入ってみたところ、ガス臭の中で昏倒している2人を見つけたという。2人はカルモチンやアダリンを服用したが死にきれず、さらにガスを死の手段に選んでいた。芳子は既に絶命していたが、中村は医師の手当てを受けてまもなく蘇生した。 部屋からはあて名書きを済ませた印刷済みの官製はがき40数枚が見つかった。その文面は「では行ってまいります さようなら 皆様ご機嫌よう」と三行書きにしたもので、あとは日付と2人の名前があった。はがきを印刷した印刷屋への聞き取りによれば、単なる旅行への挨拶状かと思っていたという。 芳子は母さだ子に宛てて遺書を残していた。「私は奇行を敢えてしますが、私の死は決して不幸ではありません…」とペンで走り書きした文面は判読しがたいほどに文字が乱れ、混濁した意識の中でかろうじて書き進めたことがうかがわれた。この遺書とは別に、ムーランルージュ新宿座で芳子が使っていた化粧前から走り書きが見つかった。松坂屋の包装紙にしたためられたその内容は「永らえば恥多し わが病(やまい)因るところ多く遠きを望まず目をとじて思う」というものであった。 芳子と中村が知り合ったのは、この事件が起きるわずか1か月前のことであった。中村は当時最先端を行く「モダン・ボーイ」をまさに体現した人物で、美貌に恵まれた上に軽妙なユーモアセンスと流行への該博な知識を持ち合わせていた。彼は雑誌「新青年」で1929年1月号から「わ゛にてぃ・ふえいあ」(Vanity Fair、のちに「ヴォガンヴォグ」(vogue en vogue)と改題)というファッションコーナーの連載を担当し、自らグラビアページにも登場していた。 中村の女性関係は華やかなものだった。松竹蒲田撮影所に日参しながら、夜には職場の同僚や日活スターの結城一郎などと一緒に銀座の街角でモダン・ガールに声をかける毎日であった。彼と浮名を流した女性の中には、水越邦子、龍田静枝、菊川園江などの女優も含まれていた。しかし、後に妻となる西田英子(ひでこ)を除いて、どの女性とも1年以上関係が続かなかった。 中村は英子と1930年(昭和5年)7月に結婚した。ただしこの結婚は不幸なもので、英子は中村との間に子をもうけたものの、その子は間もなく死んだ。さらに中村は軽いタッチの雑文やコラムを書くことに見切りをつけて純文学への転向を図ったものの、上手くいかずに断念せざるを得なかった。そして、中村は自分の収入のほとんどを遊興費に充て、英子にはわずかな生活費のみを渡すだけであった。しかも中村は寂しがり屋の上に独占欲の強い性格で、自分は外に女性関係を求めながらも英子には自由な外出さえ許していなかった。結局中村と英子は別れることになった。 英子と破局した後に、中村は友人と連れ立ってお茶を飲もうと入った高野フルーツパーラーで偶然芳子と出会った。このとき中村は、純文学への転向を目指して挫折してからの苦悩の日々を打ち明けたところ、芳子はその話に涙を流して同情した。そして彼女も、自らの芸術における悩みや複雑な家庭の事情を語ったという。 以後芳子と中村は親密の度を増していった。それはとりわけ劇場の友人たちにとって意外なものであった。芳子は普段「煙草の脂(やに)のような男とエスな男は、あたし大嫌い!」と公言していたし、永井智子によれば、それまでの彼女はむしろ中村を避けようとしていたように映っていた。 芳子との恋は中村にとって今までの恋愛遊戯やガールハントとは異なる「プラトニック・ラブ」で、実際両者に肉体関係はなかったという。この時期、彼は親しい友人の1人に「僕は生まれてはじめて、恋らしい恋をした」と打ち明けている。中村の親友、国木田虎雄の談話によれば「中村君は芳子さんと二人きりで逢うと、どうも死へ誘惑されそうな気がして危険だと云うので、二人で逢う時にはかならず友人を中に入れて逢ったような訳で(後略)」という状況であった。 事件の現場となった新宿園アパートで、変わり果てた芳子の遺骸と相対した母さだ子は激しく泣き続けた。この事件が明るみに出た後、芳子を死に追いやった「冷酷な継母」と非難されたさだ子は、必死にその説を打ち消しつづけた。検死を済ませた芳子の遺骸は、当日夜8時ころに自宅に引き取られた。 翌日の新聞朝刊は、この心中事件を一斉に報じた。「都新聞」の12月13日紙面では「随筆家中村進治郎氏 歌手高輪芳子と心中 女は絶命、男は助かる」の見出しで報道し、松竹少女歌劇で彼女とともに舞台に立っていた水の江瀧子の次のような談話を載せた。 私驚きましたわ、高輪さんはいつも死にたい死にたいって云ってたんです、身体も弱かったので養生なさいってすすめたんですけど、癒っても好きな人に火傷を見られる位なら死んだ方がましだどうせ死ぬのなら舞台で死にたいって云ってました(後略) — 『都新聞藝能資料集成 昭和編(上)』pp.436-438. 昭和初期の世相においては、同年5月に発生した坂田山心中事件の例のように、情死にはロマンティックな意味合いがあった。芳子と中村の事件も、坂田山心中事件と同様にセンセーショナルな扱いを受けていた。2人の顛末に同情的な新聞の論調をよそに、四谷署の刑事たちは事件発覚直後から中村に疑いの目を向けていた。四谷署の動きに早い段階で注目したのが、朝日新聞と日日新聞(現在の毎日新聞)であった。 四谷署が中村を疑った理由は、おおよそ次のようなものであった。 コラムを連載していた「朝日」や「文芸俱楽部」の廃刊などで中村の経済状態が悪化していたといっても、彼自身に自殺する必然性が見当たらない。 官製はがき50枚に印刷した「遺書」はあて名が書かれながらも大部分は未投函であった。別の遺書に「最初の発見者が出してくれ」と書かれていたのは死への決意が弱かったのではないか。 自供によれば、ガス栓を開いたのは前夜10時ごろだったというが、発見されたのは翌日午前11時半ごろであった。自供が正しいならば、6畳の寝室でガスを13時間以上放出しながら生存するのは極めて困難。 発見・救出後すぐに元気を取り戻しただけではなく、果物・タバコ・菓子等を求めて友人と会話していた。このような状態は、ガス中毒の症状にはありえない。 中村自身もアダリンを常用していたが、数日前に同じくアダリン常用者の徳川夢声に致死量を聞いていた。これはむしろ安全な服用量を確かめる意図があったのではないか。 仕事上のスランプに加えて経済的にも困窮していたことから、東郷青児が情死未遂で人気を高めたのを模倣して、狂言自殺でジャーナリズムの報道の利用を企図した可能性が高い。 中村の容体が回復するのを待って、四谷署は事件の翌日に「自殺幇助罪」の容疑で彼を拘留した。四谷署から刑事2名が訪れた際、中村のそばでは城昌幸、吉行エイスケ、村山有一などの友人が彼の様子を見守っていた。意識を回復した中村は「早く新聞が見たい」と要望し、友人たちが買ってきた新聞各紙を読んでいた。四谷署の刑事はそんな彼の様子を見て「女は新聞なぞ見ておらんぞ。地獄に新聞はないからな」と一喝したという。 中村は取り調べが済めばすぐに解放されると思っていたようで、バンド付きオーバーコートというモボスタイルのいでたちで署内に入っていった。しかし、取り調べ後の中村はそのまま留置場に入れられてしまった。 捜査が進むにつれて生き残った中村への風当たりが強くなっていくのに反比例して、死せる芳子のみに同情が集まることになった。新聞も連日中村への疑惑を報道した。一例として、東京日日新聞は12月22日付朝刊にて「売文の材料ほしさに危い狂言を描く」との見出しを掲げ、「(中村は)モダン派雑文業として月収三百円に上ったこともあったが、最近人気が落ちて月収七十円にもならず、何とかしてこの局面を打開しはなやかな過去の夢を再現しようとムーラン・ルージュの歌姫芳子と心中を企てて自分だけが生き残り、その心中物語りを原稿にしようという考えを起こしたことが判明した(後略)」という記事を掲載した。 結局中村は、嘱託殺人罪で起訴された。拘置は8か月に及び、取り調べは長引いた。新聞は報道のたびに「ムーランルージュ歌手・高輪芳子」と書き立て、それまでは無名に近かったムーランルージュ新宿座の宣伝につながるという思わぬ副産物までもたらすこととなった。判決は懲役2年執行猶予3年であったが、拘置によるブランクのために中村は「新青年」などでの雑誌連載の仕事を失った。 事件からおよそ1年後、中村は「高輪芳子へ」という手記を「モダン日本」1933年11月号に発表した。 以前から僕は、『恋愛』と『性欲』は、まるで別個のものだ、と考えていた。(中略)『恋愛』する時に、僕は肉体より神経を尊重したいのだ。が、大部分の女性は、肉体しか示しては呉れなかった。この点で、僕はあなたに頭を下げる。(中略)事件を報道した新聞の内の二、三と、予審決定書には、あなたに僕が『同情』してという文句があった。が、同情した位で、簡単に人が死ねるだろうか。(後略) — 『新青年をめぐる作家たち』 『新青年をめぐる作家たち』の著者、山下武は中村の手記について「これは重要な証言だ」として「中村進治郎は単なる同情から情死を企てたのではなかった。少々大袈裟に言えば、昔(いにしえ)の騎士のごとく、恋愛道の大義に殉じたのである」と評した。ただし山下は「甘美な死」によって完結するはずだった2人の恋愛が、心中の失敗によってシナリオが狂ってしまったため、遺された中村はかえって死ぬことができなくなったことを指摘している。 釈放後に中村は芳子との一件を芝居化して、「新宿スウベニア」という題名でムーランルージュ新宿座の出し物にした。中村のこの所業は、世間から白眼視されたという。このとき、芳子の役を演じたのは南部雪枝というダンサーであった。中村は彼女と1933年(昭和8年)11月から同棲を始めたものの、昼間から芳子の亡霊に悩まされた挙句に酒と薬浸りになった彼に雪枝が愛想をつかしたため、3か月のみの関係に終わった。 1934年(昭和9年)11月15日、中村は中野のアパートで死去した。原稿用紙に乱れた字で「眠れないので、少し薬を飲みすぎた。死ぬかもしれぬ、よろしく」と書かれていたが、警察は生活費に困っての自殺と断定している。 中村は生前、芳子との顛末を『歌姫』という小説として書き上げていた。この小説は中村の死の翌年、遺稿として「週刊朝日」に掲載された。2021年(令和3年)に神奈川近代文学館が開催した特別展「永遠に『新青年』なるもの」では、『歌姫』の原稿も展示された。
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失踪と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 01:19 UTC 版)
「ルドルフ・ディーゼル」の記事における「失踪と死」の解説
1913年9月29日の夕刻、ディーゼルはロンドンでの会議に出席するため、アントウェルペンから郵便蒸気船ドレスデン号に乗船した。船上で夕食をとった後、翌朝6時15分に起こしてくれという言葉を残して、午後10時ごろ自室に戻った。しかし、翌朝には彼の部屋は無人で、ディーゼルの姿はどこにもなかった。その部屋を調べてみると、ベッドを使った形跡がなく寝巻も畳んであったが、腕時計はベッドの左に外して置かれていた。彼の帽子とオーバーはきちんと畳まれた状態で後甲板の手摺の下に置かれているのが発見された。10日後、オランダの船 Coertsen の乗組員が北海のノルウェーに近い洋上に浮かんでいる死体を発見。その死体は腐敗がひどく、人相もわからず、船に引き上げることもできなかった。その代わりに船員はピルケース、財布、IDカード、ポケットナイフ、眼鏡ケースなどを死体から回収している。同年10月13日、それらの品をルドルフの息子が父のものだと確認した。 ディーゼルの死については様々な推理がなされている。伝記を書いた Grosser は自殺の可能性が高いとしている。商売敵や軍による殺害とする陰謀論もある。しかし、いずれも証拠に乏しく推測の域を出ない。 ディーゼルの失踪直後、妻のマルタはディーゼルからその航海に出る直前に渡された鞄を開けてみた。ディーゼルはその鞄を渡すとき、翌週まで開けないように指示していたのである。中には20万マルクの現金と預金口座が空になっていることを示す書類が入っていた。
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失踪と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 18:55 UTC 版)
9月19日14時15分(香港時間)、友人と別れて帰宅する旨のメッセージを何人かの友人に送ったのを最後に陳の消息が途絶えた。その後友人が行方不明者届けを警察に出し、9月21日になって家族が警察に通報した。陳が通っていた学校の監視カメラ映像によると、陳はキャンパス内を裸足で歩き、将軍澳の近くのウォーターフロントに向かったとされている。 MTRによると、調景嶺駅の出口付近に陳の携帯電話といくつかの文房具が落ちているのを駅の清掃作業員が発見し、駅員を通じて家族に連絡すると共に所持品を駅で保管した。家族は2日後に所持品を取りに駅に来たという 。 9月22日11時頃、釣りをしていた男性が、魔鬼山から100mの沖合で、人間の形をした浮遊物を発見し警察に通報した。水上警察が出動し、浮遊物は女性の全裸遺体であると判明した。警察は当初、被害者は25歳から30歳、身長1.5m、体格中程度、長いブロンドの髪の女性であると発表した。 10月9日、メディアの取材に応じる形で警察は問題の遺体の身元が陳彦霖であると発表した。予備検死によると、遺体に外傷はなく、性的暴行の痕跡もなかったとされる。陳の死について当初警察は殺人事件として裁判所に令状を請求していたが、後になって令状請求事由を死体遺棄に切り替えている。 予備検死の結果から警察は「事件性なし」と主張して捜査を打ち切り、陳の遺体は身元確認翌日の10月10日に火葬された。
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失踪と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 09:23 UTC 版)
YouTubeのアカウントが凍結されてから間もない2018年10月25日、EtikaはSNSに自殺を示唆する内容の投稿をし、3日後の28日にYouTube仲間であるフィオナ・ノヴァが彼の無事を伝えた。同日、Etika本人もRedditに謝罪声明を出した。 2019年4月16日、Etikaはピストルを手にしながら自殺をほのめかす動画を投稿した。のちに、この動画は精神病院に向かう途中で撮影されたことが判明するが、Redditには彼の精神状況を知らない者たちからばかげた行動だと批判する書き込みが多く寄せられた。 4月28日、Etikaは友人やYouTuberらにダイレクトメッセージを送り、誠意ある回答を寄せない者をブロックするという行為に出た。これを見かねた友人たちが警察に通報したことにより、翌日には警察が彼の自宅の強制捜査に乗り出した。彼はインスタグラムライブで捜査の様子を実況中継したことから、自宅の近くには実況を見たやじ馬やファンが詰めかける事態となった。その後、ノヴァはEtikaが双極性障害の一種である軽躁病と診断されていたことを明かした。また、騒ぎの前には、Etikaは別のニュース系YouTuberであるダニエル・”キームスター”・キームとのインタビューにも出演した際、自分がアンチクライストであるなどと早口でまくしたてていた。一方で、カメラが回っていないときのEtikaの様子に異常がなかったことから、キームスターは彼の奇抜な言動がウケ狙いだと考えていたとも振り返っている。 2019年6月19日の夜遅くに自身のYouTubeチャンネルTR1Icemanに「I'm sorry」という動画を投稿した。そして、6月24日、自宅近くにあるニューヨーク州のイースト川にて彼の遺体が発見された。マンハッタン橋に彼のNintendo Switchの入ったバックパックがあったことから、19日に自殺したとみられている。キームスターとEtikaが言い争いになった際、キームスターが「崖から飛び降りちまえ!」と言い放ったことから、これが自殺教唆に当たるとネット上では批判されていたが、Etikaの母親はこれが原因ではないとしている。
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