失踪からの復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 03:14 UTC 版)
2003年2月から5月まで、ストレスによる心身症を発症。仕事を休養した。2003年に梶原は多量の仕事とストレスにより失踪してしまい、一時消息不明になった。当時、新幹線の車内で新横浜を過ぎてから体が震えが止まらなくなっていて、ゆりかもめに乗ることも怖くなっていた。また、はねるのトびらのショートコントがあった時に、出番直前にトイレに隠れたりしていた。また、丸々3日間記憶が全くなく、現在でも記憶がない。後々聞いた話では兵庫県宝塚市のカラオケボックスにいたという。親には連絡しないといけないと思い、携帯電話の電源をオンにした瞬間に、FUJIWARAの藤本から着信が起き、「戻って来いとは言わん。とにかく休みや。自分で抱えるな。病院へ行きなさい」と病院へ行くことと休むことを勧められ、病院へ行き、心身症と診断され、症状は対人恐怖症、記憶喪失、自虐症だった。失踪してから1か月、梶原は中型免許を取ることと、プロボウラーになることを決意。中型免許を取るために教習所に通い始めたときに、元ババリア三浪と鉢合わせる。しかし、三浪は「お前免許取りたいのか?じゃあ取ったらいいじゃないか。俺は誰にも言わないから好きなことしなさい。俺が付き合ったるから」と言われ、そこから三浪と週3・週4で会っていた。プロボウラーになろうとした理由は、教習所の先生がボウリング好きで、三浪と先生に褒められたのがきっかけ。当時最高スコアが286という高スコアを叩き出し、10回連続ストライクも叩き出した。失踪から2か月後、母から「西野君が待ってくれてるで」との電話があった。梶原は「今から謝りに行っても良いですか?」とメールを送り、西野は「いいよ」と承諾した。しかし、梶原が西野の家に謝罪に行った際、西野は上半身裸、キャップ横被り、ジーンズをはいて、ギターを弾いていて、梶原は新しい拷問が始まるのかと思っていた。梶原が陳謝した際西野はギターを弾き、「ええで」とあっさり快諾した。しかし、西野はバイクの免許を取ったことと、ボウリングで凄いスコアを取っていることを知っていて、実は三浪は全て話していた。しかし三浪は、梶原が消息不明の中生きていることを知らせていたため、西野はそれを聞いて安心したと述べている。そして、梶原は無事に芸能界復帰を果たした。西野は当時のマネージャーと話し合い「待っても戻ってこないかもしれないが、待たずに1人で活動したら確実に戻ってこない。1人で活動して、それが梶原の目に入ったら、もう居場所はないんだなとなるからとりあえず2・3年待とう」ということになった。 2003年3月、一般人女性と入籍、同年4月に挙式。 2004年4月、離婚。 2006年3月下旬、蜂窩織炎、血管浮腫(世界的に症例が少なく、梶原が日本人で38人目)で入院。 2006年、SEDAなどの読者モデルだった園田未来子と再婚。 2007年、6年ぶりにM-1グランプリの決勝進出(結果は決勝3位)した際、過度のプレッシャーから円形脱毛症になり、後頭部に脱毛ができたことがあった。 2007年10月、長男誕生。 2009年7月、長女誕生。 2012年9月、次男誕生。 2016年5月、次女誕生。
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