失踪〜死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:17 UTC 版)
高校卒業を控えた1952年(昭和27年)1月16日、「当分、札幌の地を踏みたくない」との置き手紙を残し、行き先を告げずに、高校の制服姿で自宅を発った。1月18日には、渡辺淳一を含め、それまで交際した男性たちの家を密かに回り、雪の上に深紅のカーネーションを置いて、札幌を去った。 この純子の失踪は、札幌で起きた警察官射殺事件である白鳥事件と同時期であったことで、当局を緊張させた。純子の最後の恋人である岡村昭彦(後述)が地下運動員であったこと、純子の兄である加清準が学生運動のリーダーであったこと、純子の姉の加清蘭の所属する俳句誌『青炎』の主催者である富岡木之介が左翼系文学グループである新日本文学会札幌支部のリーダーであったことから、純子は中国共産党へ密航したとの噂もあった。 自宅を発ってから6日目の1月22日に、純子は釧路市の雄阿寒ホテルに宿泊した。ここは師の菊地又男と写生旅行で宿泊した場所でもあり、従業員に「1人で冬景色を描きに来た」と語っていた。翌23日に、純子は「阿寒湖を見に行く」と言って雪の中を発ち、消息を絶った。自室には未完成の阿寒湖の風景画が3枚、イーゼルに残されていた。 警察と地元民が協力して、その後の純子の足取りを捜索したが、1月の現地は雪が深く、捜索は難航した。以前にも2度の自殺未遂があったことから、自殺の可能性も示唆された。失踪して間もない1月30日時点での知人男性の証言によれば、1月中旬に純子に会った際に「阿寒に行って死ぬ」と言われたが、純子は人を驚かすような軽口を叩くことが多いため、信じてはいなかったという。 2月に入ると、医師法違反で釧路刑務所に勾留中であった岡村昭彦と、失踪直前の1月17日、19日、21日と3回にわたって面会していたことが判明し、純子の失踪はさらに謎が深まった。21日の面会時には、岡村は純子に保釈運動を願い、金が5万円ほど必要と金策を頼んだところ、純子は「5万円くらいならなんとかできる」「今日は弟子屈へ行って、26日ごろ帰る」と答えたという。兄の加清準は母親にせがまれ、何人もの占い師のもとを回り、高額な鑑定料のもとに「大丈夫、生きている」と高言されていた。 約3か月が経過して雪解けの時期を迎えた後、同1952年4月14日、阿寒湖の湖畔より6キロメートルの地点で、純子が凍死体で発見された。周囲には赤いコート、ベレー帽、たばこの箱、アドルム(催眠剤)の瓶などが円を描いて並べられていた。発見当時には苦しんで死亡した様子は見られず、雪道での遭難とも思われた。 遺体のそばにアドルムがあったこともあり、釧路地警による検死の結果、死因はアドルムによる自殺とされ、死亡日は1月23日と推定された。遺体を棺に修めた消防団長によれば、「凍った体が解けた状態で、顔は崩れていなかった」という。 遺書は遺されておらず、自殺の理由は不明である。自殺ではなく遭難死との説もあるが、真相は定かではない。
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