失語症の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 10:10 UTC 版)
「カール・ウェルニッケ」の記事における「失語症の研究」の解説
ウェルニッケは、フランスのパリから来た言語とコミュニケーションの研究、特にポール・ピエール・ブローカのものに大きな影響を受けていた。ブローカの運動性失語症に関する研究は、言語に関連する精神生理学と失語学に対するウェルニッケの興味に影響を与えた。ウェルニッケは、言語障害と言語問題の原因となる脳損傷を起こした病変の位置との関係に疑問を持ち始めた。 1874年、Mynertと研究しながらDer Aphasische Symptomencomplexを発表した。この本の中で、感覚性失語症(現在ウェルニッケ失語症として知られる)をブローカにより説明された運動性失語症とは明らかに異なるものとして説明した。感覚性失語症を流暢であるが発話に障害がある、発話の理解に障害がある、黙読に障害があるなどと分類した。ブローカの運動性失語症に関する知見を取り入れ、両方の形の失語症を脳の損傷の結果であると説明した。しかし、損傷の場所がどちらの失語症を発症するかを決定する。ウェルニッケは、感覚性失語症を左側頭葉の病変の結果として、運動性失語症を左後前頭葉の病変の結果として説明した。これら2つの概念が言語の神経基盤に関するウェルニッケの理論の基礎となった。 ウェルニッケは、運動活動は感覚刺激を伴うものであり、脳内に運動野と感覚野をつなぐ線維があるため、感覚性失語症と運動性失語症の原因となる病変がある部分にも接続があるはずであるという仮定をした。両方の構造が残っていると仮定し、この接続を切断することの問題を論じた。感覚性失語症に影響を与える部分は機能しているため、患者は仮定として口語や黙読を理解する能力は保持することができる。しかし、ブローカ野との接続は断たれているため、心理過程を効果的に言語化することができなくなってしまう。 ウェルニッケはさらに感覚的失語症を混乱状態や精神病状態と間違えることへの危険性についても論じ、1891年にジグムント・フロイトにより記述された物体を認識できない失認症と失語症を区別することの重要性を強調した。 局在化の理論を提唱し、脳の異なる識別可能な領域が異なる行動を制御し、これらの領域が相互に作用することでより多くの行動を生み出すことを提案した。これはブローカ野とウェルニッケ野が相互作用して言語を生成する場合にあてはまる。ブローカとウェルニッケの研究は、運動ホムンクルスの同定や特定の領域の脳損傷がさまざまな障害、病気、異常行動の原因になるという理論など、人々に対して脳の局在領域の研究と同定への道を開いた。 ベルン大学病院の医学教授であったLudwig Lichtheimはブローカ、ウェルニッケ、Adolf Kussmaulの影響をうけてÜber Aphasie”を著した。Lichtheimの著作は言語能力を分析し言語障害を7つの異なる失語症に分類したが、ウェルニッケ失語症はそのうちの1つであった。ウェルニッケはLichtheimの失語症の分類を採用し、これはウェルニッケ-Lichtheimモデルとなった。
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