志賀直哉 人物像・エピソード

志賀直哉

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人物像・エピソード

人物

無宗教家で家には神棚も仏壇も置かなかった。柳宗悦からもらった木喰の薬師如来像を持っていたが、信仰の対象ではなかった。また迷信や祟りも一切信じなかった。赤城山にいた頃、散歩の途中で道端にあった石地蔵を蹴り倒したことがあった。我孫子に移ってから慧子、直康の急逝、直哉も坐骨神経痛で寝込むなど不幸が続き、康子夫人が石地蔵を起こして供養してもらおうと提案した。だが直哉はいずれ体は良くなる、供養して良くなったと思い込むと家の中にずるずるべったり曖昧なものが入り込むと拒否した[92]

挨拶代わりに「失敬」をよく使った。これは「こんにちは」「いらっしゃい」「初めまして」「失礼します」「さようなら」まですべて含んだ直哉独特の挨拶だった。ただし家族には使わなかった[93]

直哉本人は乱暴な言葉を使うこともあったが、娘たちへの言葉遣いへのしつけは厳しかった[94]。戦後、世田谷新町の家に高橋信之助(「新しき村」会員)一家が居候していた時、五女の田鶴子が妻の知子と話して戻ってきたあと、「知子さんてほんとうに滑稽な方ね」と言ったところ直哉は激怒し「人の細君に対して滑稽な人という言い方は無いよ。失敬だ。すぐ行って謝ってこい。」と言われたため、田鶴子は知子の部屋に行き「大変に失礼なこと申しましてごめん遊ばせ」と謝った[95]

熱海の志賀直哉

写真家田村茂が直哉を撮影するため熱海の自宅へ訪問したことがあった。直哉の家の周りは農家だったので、家の中にもハエが飛び回っていた。しかし直哉は撮影中にハエが頭に止まっても気にすることはなく、平然と煙草を吸っていた。田村は直哉の頭にハエが止まった瞬間を「これだ」と思って撮影して出版した。田村によると、この写真は直哉の些細なことでは動じない性格をよく表しており、見る人に対して直哉の悠揚たる物腰を伝えたかったという[96]

趣味

中等科6年生の頃、歌舞伎に夢中になり歌舞伎座明治座に通った。日曜日の朝に人力車で内村鑑三の家に乗りつけ、車を待たせて講義を聞いたあと、また人力車に乗って芝居小屋に行き、人を雇って取らせた良い席で一日観劇を楽しんだ。車代は義母の浩が父親の直温に見つからぬようこっそり支払っていたという[97]

映画好きでもあった[98][99]。特に怪盗映画『ジゴマ』、シュトロハイムの大作『愚なる妻』、バレエ映画『赤い靴』は何度も見るほど好きだった[100]。お気に入りの女優はマレーネ・ディートリヒグレタ・ガルボ原節子京マチ子高峰秀子だった[101]。原節子との対談ではダニエル・ダリューが好きだと語っている[102]。また小津安二郎とは個人的に親交があったが、その戦後の映画はほとんど鑑賞していた[103]。小津作品を「非常に画面が美しい」と評価していた[104]。ただ、創作において直哉が映画から刺激や影響を受けることはなかったという[105]。奈良時代には瓦堂町にあった映画館中井座をたびたび訪れた記録を志賀日記に残している[106]

囲碁は打たなかったが将棋は指した。棋士加藤一二三によれば、筋違い角を好んだという。

柔道に一家言があったようで、1964年東京オリンピック柔道競技をテレビで観戦し、無差別級決勝で神永昭夫富士製鐵)がアントン・ヘーシンクオランダ)に敗れた際には「(神永君は)体力の差で勝てそうもないように思った。永岡さん[注 7]のような人だったらどうだっただろうか」というコメントを残している[107]

学習院中等学科1年の頃から柔道を学んでおり、後に内村鑑三の思想に共感して柔道や他のスポーツから離れる道を選ぶまでは数年は鍛錬を続けている。当時の学習院の柔道の指導者には富田常雄の父である講道館四天王富田常次郎や、鈴木鐵藏、佐竹信四郎がおりそれらの指導を受ける。同級の徳川慶久や後輩の柳生基夫、また有島生馬、松方正熊などと切磋琢磨し、定期的に高等師範学校の付属との対抗試合が行われ、広田弘毅も旧名・丈太郎時代に試合に参加していたという。入来重彦や指導に訪れていた前田光世永岡秀一とも練習経験があるという。志賀の息子・志賀直吉も学習院の柔道選手として活躍しており、その柔道をやっている姿勢などは父・直哉自身とそっくりであったと毛利元雄や伊藤鉄五郎からも言われていたという。 エピソードとしては当時はまだ柔道着の袖も短く下履きも膝上までしかないものであった時期に、志賀は膝の怪我の養生・予防の為にズボンのような長いのをはいて稽古をやった時があり、後に改良される柔道着を先駆けていた事を語っている[注 8][108]

交友関係

学習院以来の友人である武者小路実篤、細川護立、柳宗悦、里見弴らの他、谷崎潤一郎、梅原龍三郎、安倍能成、和辻哲郎、安井曽太郎、谷川徹三、高田博厚、小林多喜二など多くの知識・文化人との交流があった。その動静は残された多くの日誌や書簡にみることができる。また、瀧井孝作、尾崎一雄、 広津和郎、網野菊、藤枝静男島村利正直井潔阿川弘之[109]らの作家が、直哉に師事し交流を持った(関連人物も参照のこと)。

引越し魔

談話『転居二十三回』によれば生涯23回引っ越しをしたという。実際、直哉は以下のように住む場所を頻繁に変えている[注 9]

居住開始年月 居住地
1883年02月 宮城県牡鹿郡石巻町
1885年02月 東京府東京市麹町区内幸町
1890年04月 東京府東京市芝区芝公園地
1897年07月 東京府東京市麻布区三河台町
1912年11月 広島県尾道市土堂町
1913年12月 東京府荏原郡大井町
1914年05月 島根県松江市
1914年09月 京都府京都市上京区南禅寺町
1915年01月 京都府京都市上京区一条御前通
1915年05月 神奈川県鎌倉郡鎌倉町
居住開始年月 居住地
1915年05月 群馬県勢多郡富士見村
1915年09月 千葉県東葛飾郡我孫子町
1923年03月 京都府京都市上京区粟田口三条坊町
1923年10月 京都府宇治郡山科村
1925年04月 奈良県奈良市幸町
1929年04月 奈良県奈良市高畑町
1938年04月 東京府東京市淀橋区諏訪町
1940年05月 東京府東京市世田谷区新町
1948年01月 静岡県熱海市稲村大洞台
1955年05月 東京都渋谷区常磐松町

フランス語国語論

1946年(昭和21年)、直哉は『改造』4月号に「国語問題」というエッセイを発表する。

直哉は40年近い文筆生活の中で、日本の国語が不完全であると痛感したとして「日本は思ひ切って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。」と提言する。直哉はフランス語を話せなかったが「文化の進んだ国であり、小説を読んでみても何か日本と通ずるものがあると思はれる」という根拠でフランス語を推した。日本語の文章においては随一の作家であると評価されていた直哉のこの意見に、読者は戸惑い議論となった。

直哉の門人である河盛好蔵辰野隆は「失言」ととらえており、他の門人たちも特に触れた文章を残していない。阿川弘之の調査によれば、エッセイ発表後、学者や文人が反論した文章はほとんど見つからないという。福田恆存土屋道雄による『國語問題論爭史』(1962年、新潮社)では、直哉のフランス語国語論は世間の注目を浴びたが、真面目に受け取られることなく流されてしまったと書いている。大野晋は若い頃から志賀直哉の作品を愛読しており、「小説の神様」が日本語を見捨てようとしたことに大変ショックを受けたが公に反論を書いてはいない。大野は『日本古典文学大系』の編集担当だった直哉の息子・直吉に直哉の発言の真意を問いただしたところ、直吉は、日本の文学が読まれない、わかってもらえないのは日本語が特殊なせいで、フランス語のような国際語で書かれていればという考えがあったのではないかと答えたという[110]

批判者の代表として丸谷才一[注 10]三島由紀夫[注 11]を挙げることができる。これに対して蓮實重彦は『反=日本語論』や『表層批評宣言』などにおいて直哉を擁護した。

戦後、直哉が閉口していたのは原稿を当用漢字現代仮名遣いに修正されることで「原文のまま載せてくれない新聞雑誌には書かぬことにする」(展望、1950年3月号)と宣言している[111]


注釈

  1. ^ 当時、田中正造が政府や議会に鉱毒問題を繰り返し訴えていたが、これに呼応し、東京キリスト教青年会会館などで田中を支援する演説会が度々開かれるようになり、主催者は鉱毒地の視察を呼びかけた。内村も演説会に登壇した(阿川、上 1997, p. 106-107)。
  2. ^ 発表は『金の船』1920年(大正9年)1月号。
  3. ^ 発表は『中央文学』1918年(大正7年)3月号。
  4. ^ 門下の阿川弘之は、これを処女作としている(阿川、下 1994, p.376)。
  5. ^ 妹英子への手紙で、以下のように不満を漏らしている。「戦争初めはそれ程でもなかつたが、段々不愉快になり、京都の師団団員で近所のものが大分とられ三十越した知つてゐる人などがとられ出すと、非常に重苦しくなり閉口した…『石原莞爾』といふ本を買つて来て少し読んだが、人生といふものが戦争だけのものであるといふ印象で甚だ不愉快だ、いやな世の中になつたものだ」(阿川、下 1994, p. 87)
  6. ^ シンガポール陥落に関しては谷崎潤一郎も『シンガポール陥落に際して』という文でそれを讃美していたが、その後の谷崎は『細雪』発禁によって戦争に非協力的な作家という印象が強くなった。同様に直哉もシンガポール陥落後はほとんど沈黙していたため、戦後の「鈴木貫太郎」などで展開した戦争批判も敗戦による変節を示すものとは言えない。
  7. ^ 横捨身技の名人と言われた柔道家の永岡秀一十段のこと。
  8. ^ 1956年(昭和31年)5月3日に開催された第1回世界柔道選手権大会を受けて、1956年6月1日発行の雑誌『柔道』第27巻第6号に「世界柔道選手権を見て」を寄稿。1956年7月1日発行『柔道』第27巻第7号に「柔道の思ひ出」を寄稿している。
  9. ^ 以下の表に加え、内幸町において新築の家に転居、松江において最初に住んだ家から別の家に転居、我孫子時代に一時東京四谷の九里四郎の家を借りてそこに転居している。これらの転居と最初の石巻町の家を含めると「転居二十三回」となる(貴田 2015, pp. 153–154)。
  10. ^ 丸谷才一はエッセイ「日本語への関心」(1974年刊行の『日本語のために』に収録)において、「志賀が日本語で書く代表的な文学者であつたといふ要素を考へに入れるとき、われわれは近代日本文学の貧しさと程度の低さに恥ぢ入りたい気持ちになる。(中略) 彼を悼む文章のなかでこのことに一言半句でも触れたもののあることをわたしは知らないが、人はあまりの悲惨に眼を覆ひたい一心で、志賀のこの醜態を論じないのだらう」と述べている。
  11. ^ 三島由紀夫は「日本への信条」(愛媛新聞 1967年1月1日に掲載)において、「私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と述べている。
  12. ^ 作中では武者小路は「M」として登場している。

出典

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