利用の歴史
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先史時代の世界各地の貝塚から、イルカを始めとする鯨類の食物残滓が見つかっており、イルカなどの鯨類の骨は生活の道具や狩猟具・漁具として利用されてきた。日本において判明しているのは、縄文時代までさかのぼり、約8000年前の縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市の稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石の、簎(矠・やす)先の石器が出土していることや、約5000年前の縄文前期末から中期初頭には、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている。 クジラが北欧や日本などの海産国で貴重な資源としてあまねく利用されるのとは異なり、現在ではイルカを中心にした産業が成立しているケースは世界的に見ても少なく、フェロー諸島、南太平洋の島国や日本の一部の地域、カナダのイヌイット地域などで肉が食用に供されているに過ぎない。もっとも、捕鯨技術発達の初期段階では、イルカが捕獲対象となることは多かった。また、ビスケー湾周辺では中世まで盛んに捕獲が行われ、鯨油の原料や食肉として利用された。イングランド宮廷では17世紀頃までイルカが食卓に供されていた。(詳細は鯨肉#日本での食文化の歴史参照)
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利用の歴史
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1世紀の古代ローマの博物学者プリニウスは、スモモ(スモモ亜属, Prunus)ととサクランボ(サクラ亜属, Cerasus)を区別して分類している。プリニウスの著書には、すでに多くの栽培品種が記されており、現代でいうAproniana, Lutatia, Caecilianaなどと考えられている。プリニウスは味で分類しており、dulcis(甘い)からacer(渋い)までにランク分けされている。 プリニウスは、紀元前74年に執政官のルクッルスがミトリダテス6世と戦った際、「イタリアには桜がなかった(Cerasia ... non fuere in Italia)」と語っていたことに言及している。プリニウスによると「ルクッルスは黒海南岸のポントスから桜を持ち帰り、その後120年間でイギリスを含むヨーロッパ中に広まった」と説明している。一方、考古学の発掘により、青銅器時代やローマ時代のヨーロッパ各地の遺跡からサクラの種が見つかっている。これらの調査の考察から、プリニウスの言う「甘い」品種は、セイヨウミザクラであった可能性が非常に高いとみられている。 1882年、スイスの植物学者アルフォンス・ド・カンドル (Alphonse Pyramus de Candolle) は、セイヨウミザクラの種が紀元前1500 - 1100年の北イタリアのテラマーレ文化 (Terramare culture) の遺跡や、スイスの地層から見つかったと発表している。ド・カンドルは、プリニウスの研究について言及し、 これは間違いである。古来学校ではこの説が繰り返し教えられているが、ルクッルス以前にも、イタリアに少なくともウワミズザクラ(bird cherry)があったことは間違いなく、食通がはるばるこれを探し求める必要がなかったことは強調しておく。 と述べている。 ド・カンドルは、ルクッルスがコーカサスから持ち帰ったのは、セイヨウミザクラの一栽培品種であったとの仮説を述べている。セイヨウミザクラの栽培品種がどこで作られたのかは、まだはっきりしていない。現在の栽培品種と野生種とは、実の大きさが異なり、栽培品種は直径2 - 3センチメートルにもなる。なお、収穫数を増やすために、あえて実を大きくしない場合も多い。
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利用の歴史
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宙水を含む不圧地下水の利用には深井戸を掘る技術が必要なかったため、弥生時代から浅井戸による利用が確認されている。地下水需要の増加にともなって19世紀後半頃から大型浅井戸や横井戸による開発も盛んになった。古くは生活用水として利用されていたが、水田農業の発達とともに農業用水としての利用も増えていった。 井戸の痕跡が認められる遺跡の例奈良県唐古遺跡 福岡県板付遺跡 静岡県登呂遺跡
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利用の歴史
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この「シリンダー・ピストン」構造は一定の金属加工技術が在れば簡単に製作できる事から、産業革命の時代には蒸気機関(蒸気エンジン)が盛んに動力として利用された。水蒸気では余り高い圧力が得られなかったが、水が沸騰できる低い温度でも一定の圧力が得やすい他、大型化することで低圧でも充分実用的な装置を作ることができ、産業・交通面で大いに利用された。 初期のものでは直径が1 - 5メートルもあるような大型のはずみ車を必要としたが、後にこれは金属加工技術の向上などによって小型化されていった。初期のものはイギリスのロンドンにある科学博物館で蒸気エンジン実動模型(ただし現在展示中のものはモーターではずみ車を回転させている)を見る事ができる。小型の物ではアルコールランプを使った模型が同ロンドン市内のハムレーズ(玩具専門百貨店)でも購入可能である。 これら蒸気エンジンは気密性を保持するために油を浸した布などが利用されており、このパッキン構造で高圧蒸気の圧力をピストンに伝えていた。この構造は燃焼などの熱に耐えられないため、これを応用・発展させて内燃機関にする事は到底不可能である。 後に金属の切削加工技術が発達、鉄などの耐熱性のある金属(パッキングに石綿も利用した)のみで構成された密閉シリンダー構造が可能となると、ガソリンエンジンが作れるようになった。現在では金属加工技術は更に向上、ディーゼルエンジン等の高温・高圧で駆動するエンジンも一般に広く利用されている。 これらは高圧のガスで駆動させる構造であるため、ボンベ等に蓄えられた高圧ガス(圧縮空気や炭酸ガスといったもの)で駆動する物も作る事ができる。1980年代以降には、アクリル樹脂でできた圧縮空気によって駆動する空気エンジンを搭載した玩具も数多く登場している。
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利用の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 23:16 UTC 版)
人類は旧石器時代から、狩猟を行い動物を食用にし毛皮を衣類として使用していたと考えられている。かつては防寒具として毛皮に代わるものはなかったと考えられており、特に寒冷な気候の北ヨーロッパなどでは、毛皮は生活に欠かせない必需品であった。カエサルの『ガリア戦記』にはゲルマン人が毛皮を着用していたことを示す記述がある。 封建時代のヨーロッパでは、高級な毛皮は宝石などと同様、財宝として取り扱われた。イギリスのヘンリー8世(在位、1509年 - 1547年)は王族・貴族以外の者が黒い毛皮を着用することを禁じ、とりわけ黒テンの毛皮は子爵以上の者しか着用できないとした。18世紀以降にはヨーロッパ全土に広まり、貴族はキツネ、テン、イタチなど、庶民はヒツジ、イヌ、ネコなどの毛皮を使用していた。 黒テンやビーバー、キツネといった毛皮はロシアの主要な輸出品として、大きな商業上の利益をもたらした。16世紀以降、ロシア帝国は毛皮を求めて、東方に領土を広げ、シベリア開発を行った。ロシア政府はシベリアの少数民族に対し、毛皮の形で税を徴収した。この税は「ヤサク」と呼ばれる。 18世紀にはラッコの毛皮が流行し、最高級品として高値で取引された。ロシア人はこれを求めて極東のカムチャツカ半島、さらにはベーリング海峡を越えて北アメリカ大陸のアラスカまで進出し、毛皮業者に巨万の富をもたらした。乱獲により、20世紀初頭にはラッコは絶滅寸前まで減少した。 シベリアやアラスカのエスキモーなど寒冷地方に生活する人々は、防寒用としてトナカイやアザラシの毛皮を愛用している。帽子、上着、ズボン、長靴、手袋など、ほぼ全身を毛皮で覆っている。ロアール・アムンセンも南極探検の際にはイヌイットから伝授された毛皮の防寒着を使用した。 20世紀の半ば以降、狩猟による毛皮の採取は減少し、大半は飼育場で飼われたものの毛皮を加工し生産するようになった。天然の毛皮は世界各地で産出するものの、重要な供給地は寒冷地である。 日本 旧石器時代の例としては、北海道柏台1遺跡から2万年前の着色された毛皮と見られる痕跡が確認されており、着色料としては黒色顔料である二酸化マンガンと赤色顔料である赤鉄鉱などが使用されたと見られ、採掘された鉱石も近くの遺跡から見つかっている(白石太一郎『日本の時代史1 倭国誕生』吉川弘文館 2002年 p.121)。 日本において、他国から毛皮の輸入をうかがわせる逸話を記した記事は、『日本書紀』斉明5年(659年)条に高句麗使人がヒグマの毛皮(敷物)を売ろうとした話が見られる(詳細は「ヒグマ#人間との関わり」の日本を参照)。この時期(7世紀半ばの時点)では、列島の北方(北海道)交易からもヒグマの毛皮が流れていた(それ以前では高句麗からの輸入に頼っていた)内容となっている。 嵯峨天皇の時代以来、渤海国からテン(貂)やトラなどの毛皮が高級舶来品として輸入された。平安時代には貴族の間で毛皮が流行し、富裕な人々が防寒着として着用した。延長5年(927年)の『延喜式』の弾正台式(貴族の服装規定)には、公式な場での位階別の毛皮着用基準が定められており、貂皮が参議以上しか着用を認められない最高級のランクとされていた。例えば、平家重代の鎧である唐皮はトラの毛皮が用いられている(『平家物語』)。 室町幕府第6代将軍足利義教が再開した勘合貿易によって、中国側の回賜品目として蛇皮50張、猿皮1万張、熊皮30張が挙げられ、送られた(鈴木旭『面白いほどよくわかる戦国史』日本文芸社 2004年 p.33)。 庶民においては、古くよりたとえばマタギなど猟師は自ら仕留めた獣の毛皮を加工し、防寒着などとして用いていた。また豪奢な装飾用の敷物や工芸品の素材として利用されていたようである。 ただし、一般では衣料素材としてはあまり積極的に使われておらず、細々とした流通にとどまっていた。日本の最初の、一般向けに毛皮を販売する専門店は、1868年に栃木県日光市鉢石町で創業した山岡毛皮店だとされている。 第二次世界大戦時では、軍需品としてのムササビの毛皮が高騰した(詳細は「ムササビ#人との関係」を参照)。戦時下では大日本猟友会が毛皮を収入源としていた(詳細は「大日本猟友会#歴史」を参照)。また飛行服の素材として諸外国と同様にヌートリアの飼育を国民に飼育を奨励したが、戦後には放逐・野生化し問題となっている。 1959年1月14日に皇太子明仁親王・正田美智子婚約の折、正田側が実家を出る折に身に着けていたミンクのストールが当時のテレビで大々的に放映され、世の女性たちはミッチー・ブームで熱狂、ミンクのストールも注目された。おりしも日本は岩戸景気で大衆も豊かさを実感し享受する時代に突入していたので、毛皮はそれまで一部の権力者や有力者だけの贅沢品だった状態から、一気に一般労働者層でも頑張れば手が届く、高価で贅沢だが一般的な装飾的意味合いの強い衣料品にまでなった。 現代では動物愛護や動物の権利の意識の高まりから毛皮の利用に対して国際的な反対運動が展開されており、特に寒冷地等で「必需品」として利用するのではなく「贅沢品」として利用する事には強い嫌悪感を持つ人も多いと言われる。なお、愛玩動物としての地位もある犬や猫の毛皮に関しては、こういった嫌悪感が形成されやすい傾向も見られ、ヨーロッパでは2006年9月に流通していた毛皮製品の内に犬や猫のそれを使った物が確認されたため社会問題となり、2006年11月20日に欧州連合の加盟諸国間では貿易禁止となった 。
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利用の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 14:56 UTC 版)
金は、美しい光沢を含めて有用な性質を多く持つ。また精錬の必要がない単体の金そのままで自然界に存在しているため、精錬が必要な鉄などよりも早く人類が利用していた金属とされる。しかし産出は非常に限られていたため、有史以前から貴重な金属、貴金属として知られていた。また、そのままでは金として利用できない金鉱石であっても、アマルガム法や灰吹法などの冶金法によって取り出すことができた。 長い年月を経ても変化しない金の性質は神秘性を産み、不老不死との関連としても研究された。占星術においては、中心に点が描かれた円の記号は太陽を表すと同時に金も表し、これは古代エジプトのヒエログリフにも見られる。このように、金は歴史とともに利用価値の高さゆえの豊かさと富の象徴であり、金そのものや鉱山(金鉱や金山)の所有、採掘の権利などを巡る争奪・紛争が、個人間から国家間の規模に至るまでしばしば引き起こされた。
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