座礁鯨の利用の歴史
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近年の文化人類学と考古学の研究から、人類がアフリカから他の大陸に移り住んだ歴史において、その集団は海岸線に沿って徐々に移動したことが解ってきた。貝塚などの調査からも、初期の人類は魚介類とその他の野生の植物の収穫によって成り立ち、その貝塚の多くから残滓として鯨類の骨が見つかっている。大型の鯨類の積極的な捕鯨は、充実した道具や船舶などが発達してから行われたと考えられているので、小型の鯨類を除いての食物残滓は座礁鯨を利用したものと考えられている。 現在でも日本を始め、海洋性東南アジアの国々や北極圏のイヌイットは座礁鯨の利用が伝統的にあり、活用している。代々にわたり座礁鯨を利用してきたニュージーランドの先住民であるマオリ族は、座礁鯨の利用を政府により禁止され、捕鯨文化の伝承が間接的に制限されている。また近年では、鯨肉を食さない地域でもスコットランドのルイス島の西側にあるブレガーという村のジョンバプテスト礼拝堂の入り口の門には付近で座礁したシロナガスクジラの顎の骨が飾られているように、世界各地で座礁鯨の骨をオブジェとして飾っている施設や地域がある。 その他、座礁鯨は海洋生物学や古生物学、食物連鎖や海洋資源などにおいて調査研究がなされている。環境保護の立場から捕鯨を行わなくても研究用の標本や食用の需要は座礁鯨から求められるという意見もある。
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座礁鯨の利用の歴史(日本)
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捕鯨 日本の捕鯨は、初期捕鯨時代の突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨の3つの方法と、戦国時代頃から確立された網取式捕鯨、明治以降の砲殺式捕鯨の3期で5つの方法に分類することができる。このうち受動的捕鯨は座礁鯨の捕獲を主に示し、追い込み式捕鯨は海浜の近くに現れた鯨類を追い立て、積極的に座礁させる捕鯨方法をいう。そして座礁を利用した追い込み式捕鯨・受動的捕鯨においては日本各地で近年まで行われ、追い込み式捕鯨はイルカ追い込み漁として比較的小型のハクジラ類において現在は和歌山県太地町で行われるに留まる。また受動的捕鯨についても食品衛生法に抵触する恐れがあり、原則好ましくないとされるが、一部地域では慣習(伝統文化)として積極的に恵みとして食用利用する地域も残っている。 漂着神(えびす)・寄り神信仰 日本において「寄り鯨」・「流れ鯨」と呼ばれた座礁鯨・漂着鯨は「えびす」と呼ばれ、資源利用が盛んであり、「寄り神信仰」の起源ともいわれている。特に三浦半島や能登半島や佐渡島などに顕著に残っており、伝承されている。座礁鯨の到来は七浦が潤うともいわれ、恵比寿が身を挺して住民に恵みをもたらしてくれたものという理解もされていた。もっとも、地域によっては漂着神ではなく魚を寄せ大漁をもたらす漁業神として鯨を信仰したため、座礁鯨を食べると不漁になるという伝承も存在した。 鯨墓・鯨塚 鯨墓・鯨塚とは、座礁鯨を捕獲したり、また浦や湾に迷い込んだ鯨を追い込み漁で座礁させ捕獲した記録が日本各地の海浜地区で残されており、その大漁に賑わった事やそのことに対し感謝や追悼を様々な形で表し、祈願祈念の碑を建てたもので、後世に伝承されている。 アイヌのクジラ利用 アイヌ民族も古来から座礁鯨を食用としていた。北海道の太平洋沿岸地方には、座礁鯨を発見した村人が肉を分け合う様を表現した寸劇「フンペリㇺセ」(クジラ踊り)が伝承されている。波が静かな噴火湾では、トリカブトの毒を塗った銛を用いての積極的な捕鯨も行われていた。
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