考古学の発掘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:01 UTC 版)
「ニコポリス・アド・イストルム」の記事における「考古学の発掘」の解説
古代都市が建てられていた地域のわずか3分の1しか発掘されていないが、これまで興味深い発見があった。 オーストリアの考古学者、フェリックス・カニッツは、1871年にオスマン帝国のドナウ州を旅しながら、ニキュープ村の遺跡を訪れた。彼は少し発掘調査を行なって、セプティミウス・セウェルス帝 (在位:193年-211年) の妻ユリア・ドムナのブロンズ像の台座を運よく発見した。この碑文には、古代ギリシア語で「市議会とイステル川のニコポリス人が彫像を建てた」と書かれている。そこで、この都市は発見され、明確にその場所が確定された。 この地域は 1900年以来、考古学的発掘によって調査が行われている。 (最初にフランスの考古学者J.スールとチェコの考古学者、ヴァクラフ・ドブルスキーによって行われ、1996年からは、ノッティンガム大学のアンドリュー・ポールターのチームによって実施された。) ニコポリス・アド・イストルムは、ブルガリアで今日最もよく研究されている古代ローマの都市の1つである。要塞、道路網、下水道、給水ネットワークが発掘されている。近くには100個以上の墓石が維持された状態のまま残されていた。 この地域には、多くの富裕者の居住地であるウィキ (vici) 、カントリーハウスであるヴィラ (villae) 、奴隷労働に頼った大土地経営であるサルトゥス (saltus) 、交易所であるエムポディア (emporia) があった。 2015年には、古代ギリシアとローマの都市での貿易と市場操作を担当する公務員であるアゴラノムスやアエディリスの邸宅だったと推定される巨大な建物の遺跡が明らかになった。 ニコポリス・アド・イストルムの貴族であるクイントゥス・ユリウスのオベリスクは、都市の西約12kmのレシチェリ近くの田舎で、14mの高さで今もなお建ち続けている。 ヴェリコ・タルノヴォの地方歴史博物館には多くの発見物が展示されている。 2018年には、考古学者たちは、デモステネスによって改変された風刺詩が古代ギリシア語で書かれた碑文がフォルムの複合施設の南西端にある小さな一角にあるテュケーの女神に捧げられた祭壇を発見した。
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