考古学への事実上転向
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しかし、博士号取得から間もなくして大きな転機が訪れる。1909年(明治42年)夏のある日、剖検の執刀中に解剖中の遺体から化膿菌が感染、これによって中山は生死をさまようほどの感染症を発症してしまったのである。幸いにして、リンパ腺摘出手術によって敗血症の一歩手前で一命を取り留めたが、この事故以降、中山は極度に感染を恐れるようになり、メスを握ることはおろか解剖室に立ち入ることもほとんどなくなってしまった 。解剖の執刀ができないという、病理学者として致命的なトラウマを背負うこととなった中山は、代わりとして少年時代に熱中した考古学の研究へ情熱を傾けていった。 1912年(大正元年)より、中山は福岡日日新聞紙上で考古学分野での研究発表を始め、1914年(大正3年)からは専門誌である「考古学雑誌」で本格的な論文発表を行うようになった。以後、中山の活動領域はほぼ完全に考古学へと移行してゆく。九州帝大医学部病理学第1講座教授として定年退官まで教壇に立ち続けたが、実質的な教室の運営は第2講座教授の田原淳に譲り、病理学会とも疎遠になっていった 。
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