考古学・地理学的証拠からの比定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/23 15:17 UTC 版)
「エジプトの川」の記事における「考古学・地理学的証拠からの比定」の解説
大プリニウスやフラウィウス・ヨセフスの残した記録に現れるRhinocolura(Rhinocoruraの変形)は、エル=アリーシュに言及しているように見えるが、現在のエル=アリーシュ周辺ではヘレニズム期以前の遺構が見つかっておらず、これはストラボンやシケリアのディオドロスがエチオピア人が定住していた地域として言及している Rhinocorura とは合致しない。したがって、七十人訳聖書のイザヤ書27:12で言及された Rhinocorura は、ワーディー・エル=アリーシュとは考えられない。また、 Rhinocorura という地名は、ペルシウム近郊の地区全体を指す場合もある。 ヨシュア記10:41、11:16は、ゴセンがイスラエルの地の一部であることを示している。ゴセンの地(Land of Goshen:エジプト第12王朝のパピルスには Qosem と記される)は、ペルシウムの河口部の地域にあるワーディー・エル=アリーシュよりずっと西方に位置している。このため、エジプトの川をワーディー・エル=アリーシュに比定する注釈者は、もう一つ別のゴセンをワーディー・エル=アリーシュの東側に持ってこなければならないが、そのような場所は見い出されていない。 イスラエルの民がエジプトから脱出した経緯の説明においても、エジプトの川は、ワーディー・エル=アリーシュではなく、ペルシウムの河口部と見なすことができる。出エジプト記13:18 によると、紅海の渡海がエジプトからの出発であったはずだが、これは(今日のスエズ湾に相当する)ペルシウムの河口部の南にあたる紅海の一部でのことであったと理解されている。紅海は、イスラエルの地の境界を成すものである(出エジプト記23:31)。渡海後、イスラエルの民はシュル(Shur)の荒野に入るが(出エジプト記15:22)、これはワーディー・エル=アリーシュの西側に比定されている。 新アッシリア王国の国王センナケリブによるペルシウム地方の侵略を描写したアッシリア語のテキストには、(Nachal Mitzrayim と同根の) Nahal Musri への言及があるエジプト第19王朝の碑文には、ナイル川のペルシウムの河口部が、エジプトの東の境界と見なされていたことが記されている
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