考古学上のラキシュ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/11 16:30 UTC 版)
ラキシュに言及している最も古い記録は「エルミタージュ・パピルス1116A(Papyrus Hermitage 1116A)」であり、アメンホテプ2世の時代におけるカナン諸都市とエジプトとの交流が記されている。また、アマルナ文書にはアメンホテプ3世とアメンホテプ4世の時代におけるラキシュとエジプトとのやりとりが残っている。 アッシリアの首都であるニネヴェのセンナケリブの宮殿の壁には、ラキシュが陥落したことを記念するレリーフが作られた。これは現在、大英博物館に展示されている。このレリーフには、アッシリア兵による攻城戦の様子やラキシュから捕虜を得て凱旋する様子が描かれている。 1929年、エウセビオスの『聖書における地名(Onomasticon)』の記述に基づき、ウィリアム・オルブライトはラキシュの位置を当時のテル・エド・ドゥウェイル(Tell ed-Duweir)に比定した。ジェームズ・L・スターキー(en:James Leslie Starkey)らによる1932年からの調査の結果、1935年に古ヘブライ文字の陶片(オストラコン)が発見され、オルブライトの説が裏付けられた。 このラキシュ文書と呼ばれている陶片は、ラキシュとエルサレム間の連絡将校ヤオシュに送られた軍事上の公文書である。それらの文書からユダ王国陥落直前の様子が明らかにされた。
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