流路と利用の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 16:26 UTC 版)
川の両岸からは縄文時代の土器や石器が出土しており、古くから何らかの形で縄文人や擦文人、さらにアイヌが川を利用していたと考えられている。しかし、これらの土器・石器や遺跡類は、開拓時代には開墾の妨げとして破壊され、遺物は道路の設営のため粉々にされて撒かれたりしたため、ほとんど調査もされておらず詳細は不明である。 国道36号との交差付近からは、左岸にサイクリングロードが整備されている。 樽前山や恵庭岳の噴火でできた火山灰台地の間を縫って大きく蛇行し、かつては氾濫期の度に流路を変える暴れ川であった。現在は治水が進み上流部を除き流路も直線的に改良されている。 清田区内では火山灰台地を厚別川が削り、河岸段丘を形成している。段丘は、高い所では標高200~300メートルほどの高さがある。この谷地の底の平地部分が有明地区、真栄地区であり、左岸が清田地区や北野地区、右岸が平岡地区である。 入植によって河道の整備や排水の改良が進み、流域は昭和の初期には北海道を代表する水郷地帯へと変貌を遂げた。しかし融雪期の氾濫が完全に克服されるのは昭和40年代に入ってからである。その後、札幌の都市化が進み、1980年(昭和55年)頃には水田はほとんど姿を消し、大半の開拓農家が移転した。現在の下流域は白石区で住宅地が見られるものの、東区では市街化調整区域のため自動車工場や廃棄物の処分場などが散在する荒れ野となっている。豊平川へ合流する江別市域では畑作や酪農が行われている。
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