流路と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 17:30 UTC 版)
現在の首都高・京橋出入口付近から鍛冶橋通りを東へ進み、亀島川に至るまでの区間に存在した水路。水路北側に北桜河岸、南側に南桜河岸があった。古く八丁堀と呼ばれ、現在でも付近の地名としてこの名が定着しているが、桜川の別名も用いられた。現在では、その北岸にあたる帯状の土地の全域が、八丁堀四丁目に割り当てられている。 京橋川・楓川より亀島川を連絡する運河として1612年に開削されたといわれる。近年に至るまで水路として利用されていたが、1960年(昭和35年)から段階的に埋立が始まり、京橋川、楓川とともに1969年(昭和44年)に水路としての桜川は完全に姿を消した。 桜橋、中ノ橋間の跡地に労働スクエア東京が建てられ、中ノ橋、八丁堀橋間の跡地に桜川公園が作られた。労働スクエア東京は2004年に解体され、跡地に京橋図書館などを含めた複合施設本の森ちゅうおう(仮称)が2019年7月に着工された。2022年6月完成予定である。
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流路と歴史
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もともと、新宿区若葉付近から赤坂御用地内の池を経て赤坂見附側へ下り、のちの溜池にあたる低湿地(現在の外堀通りの位置)を経て、虎ノ門と愛宕山の間あたりで当時の日比谷入江に注いでいた、小規模な川であった。上流部を鮫川とも呼んだ。 江戸時代に入り日比谷入江が埋め立てられ、また外濠の整備が進められると同時に、人工の流路へと付け替えられたとされる。付け替え後の流路はおおむね、溜池に並行してそのすぐ南を南東へ流れ、虎ノ門南方で南へ折れ、愛宕山と増上寺の東を南流して、将監橋(しょうげんばし)のたもとで古川に注ぐものであったが、途中ではいくつもの細流に分かれ、市中の側溝的な役割を果たしていた。 現在は全てが埋め立てられるか、下水道に転用されている。
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