流路の変化と治水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:03 UTC 版)
淮河の流路は激しく変化してきた。かつて淮河は今日の江蘇省北部を通って黄海に注いでいた。しかし1194年、それまで渤海へ北流していた黄河が南に向きを変え泗水の流路へ流れ込み、さらに淮河河道へ合流するようになり、淮河は黄河の流れの強さに押しだされた。黄河が堆積した土砂は高く積もったため、淮河は流れをふさがれ、水は逆流してあふれ出し洪沢湖を形成し、多くの土地や町が水没した。洪沢湖に溜まった水は南へ迷走し、高郵湖、邵伯湖といった湖を作ったあと長江へと合流するようになった。沂沭泗河水系の各河川も江蘇省北部で出口をなくして迷走しながら大運河や黄海へ流れるようになった。 1850年代に黄河は再び北に流れを変えたが、淮河は黄河旧河道の堆積土砂による自然堤防のために元の流れに戻ることができず南に流れるままになり、安徽省・江蘇省境界付近でしばしば氾濫を繰り返した。1950年代以降、中華人民共和国によって淮河水系の上流でダム建設や植林、下流で排水路整備が進められた。特に江蘇省北部に設けられた放水路・蘇北灌漑総渠は、淮河旧河道に沿うかたちで淮河の水を洪沢湖から黄海へ流している。一方で、治水のため各支流に作られたダムのうち、汝河に建設された板橋ダムは1975年に大雨で決壊し、下流のダムも押し流して大洪水を引き起こした。
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