流路の概要
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一般に、沼尾川の水源は赤城山の山頂カルデラにある大沼(赤城大沼)とされている。赤城大沼は赤城山の火山活動にともなって生まれた火口原湖で、赤城山の山頂にいくつかある火山性湖沼のなかではもっとも大きいものである。 赤城大沼の水源は、そのほとんどが雨水と湖底からの湧水である。このほかには幾筋かの小河川が流入しており、火口原湖のひとつである覚満淵からくる覚満川などがある。 かつて赤城大沼と覚満淵とは一体となっており、現在よりも大きかった(古大沼)。その湖水は火口原の東南端から東へ流出していた。その火口瀬には200メートルほどの落差があり、そこから東南に流れて渡良瀬川に注いでいた。のちに水位が下がると南西部は湿原化し、覚満淵がわずかな水域として取り残されたものである。現在の赤城大沼は一年を通して水位の季節的変動はほとんどない。 沼尾川は、赤城大沼の北西部に位置する火口瀬から西へ流出し、赤城山の外輪山(鈴ヶ岳)を侵食して深い谷を形成しながら西麓へ流れる。下流にあたる旧赤城村の深山地区(現渋川市赤城町深山)では、V字谷は50メートルほどの深さに達する。 深山地区では、赤城山の西側のカルデラ(深山カルデラ)一帯からくる支流が合流する。沼尾川の本流は普段は水量が少ないが、降雨によって深山カルデラの雨水が集まることで増水する。 かつての川幅は、上流域で3メートルほど、下流域で10メートルほどだったとされている。しかし1947年のカスリーン台風による土石流で川岸が大きく削られた結果、上流域は川幅25メートル、下流域では川幅100メートル以上と、約10倍に広がった。下流域の川床の幅は100メートルから500メートルほどであり、そこに小集落や耕作地が形成されている。津久田(旧敷島村。合併により赤城村を経て、2006年以降は渋川市津久田)で利根川に合流する。 合流地点の沼尾川左岸(南側)の段丘の崖上には、かつて「津久田城」が築かれ、戦国時代に狩野氏の居城だったと伝わる。天正壬午の乱(1582年)では北条氏と真田氏の両勢力の境に近く、戦地となったという。城跡は1967年(昭和42年)からはじまった農業構造改善事業に伴う造成によって、ほとんど遺っていない。
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流路の概要
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沼尾川の水源は、榛名山の山頂一帯にある。その山頂付近には溶岩ドームである榛名富士(標高1390.3メートル)と、カルデラ湖である榛名湖(湖面の標高1084 m)がある。その外輪山と榛名富士一帯の水が榛名湖に集まり、湖の北東端から火口瀬として北へ流れ出している。川は榛名湖温泉の脇を流れたあと、外輪山の一座である烏帽子岳(1,363 m)と蛇ヶ岳(1,229 m)の間を北東へ流れ下る。約3キロメートルを流れる間に標高差400メートルあまりを流れ下っているが、五万石という山(標高1060.4 m)の西麓には弁天滝という落差6メートルほどの滝が懸かっている。榛名山一帯では滝は珍しい存在だが、滝壺までおりるルートはなく、見ることも難しい。 中流の左岸の旧東村(2006年の合併により東吾妻町の一部となる)は、榛名山の北麓の火山灰地で、かつては水の乏しい地域だった。江戸時代に沼尾川から水を引いて開拓が行われ、岡崎地区が拓かれた。 一方、右岸には伊香保温泉がある。温泉街は榛名山外輪山の二ッ岳(1,344 m)や水沢山(別名・浅間山、1,194 m)、物聞山(901 m)の北の斜面地に形成されていて、沼尾川の支流の湯沢川、貫沢、物聞沢が温泉街を流れている。これらの支流は相馬山(1,411 m)の北に発している。ここは6世紀の噴火の際の火口となった場所で、その火口の直径が2キロメートルに満たないためにカルデラの定義には合致しないものの、成因はカルデラと同じ地形である。 これらの支流をあわせたのち、沼尾川は吾妻川に注ぐ。榛名湖からの流出口から吾妻川に注ぐまでのほぼ全長にわたり、沼尾川は東吾妻町(旧東村)と渋川市(旧伊香保町)の市町村境となっている。「伊香保川」「布川」の異称もある。
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