流路変更の諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 07:08 UTC 版)
中町から等々力周辺の地形を見ると、高低差が2mから4mほどの幅の広い谷底地形が自由が丘の方へ蛇行しながら伸び、呑川へつながっているのがわかる。ここは中心部を現在は下水道幹線の暗渠となっている九品仏川が流れているが、これが本来の谷沢川である。その後、流路が変更され等々力渓谷を下るようになった。 この流路変更には、等々力渓谷から谷頭浸食を受け、その結果谷沢川上流部が河川争奪されて流路が変わったとする自然現象説がある。この説では侵食の進み具合から歴史時代より昔に流路が変わったことを示唆するが明確にはされていない。 一方、江戸時代に、水利を巡る争いや排水不良の改良のため人為的に流路が変更されたとする、人工開削説がある。しかしこちらは、すでに開析が進んだ渓谷の先端と谷沢川をつなぐのみならず、中町のあたりまで深く掘削した理由が明らかでなく、またそれほどの大工事の記録が見えない。 こうしたことから、一般には前者の説を採るものが多い。
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