流転のボーカリスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 09:08 UTC 版)
「ファーギー・フレデリクセン」の記事における「流転のボーカリスト」の解説
1951年、アメリカ合衆国ミシガン州グランドラピッズで、デンマーク系の家庭に生まれる。13歳の時に歌い始め、15歳になると地元のミュージシャン・グループであるコモン・ピープルなどをバックにクラブやパブでハイトーンを披露し、10代にしていろいろと学んだようである。中央ミシガン大学へは、体操選手特待生として進学、1年の時にミシガン州チャンピオンとなり、将来のオリンピック選手として期待された。しかしながら、体操ではなく音楽で生計を立てる道を選んだ。1975年に、友人である MSファンクのリード・ボーカリスト、トミー・ショウがスティクス加入のため、フレデリクセンに代役を依頼、1976年のMSファンク解散まで同バンドに在籍した。シカゴのバンド、トリリオンがリード・ボーカリストを探しているという話を聞きつけて加入、1978年エピックより初のレコード・デビューとなるアルバム『氷牙』(原題はセルフ・タイトル)がリリースされた(「デニス・フレデリクセン」とクレジットされている。キーボードは後にプロデューサーとして名をはせるパトリック・レナード)。通学と音楽活動でミシガンとイリノイを往復するのが苦で同バンドを脱退する。なお、後任ボーカルにはシカゴ大学卒の数学者トム・グリフィンが加入、アルバム『クリアー・アプローチ (Clear Approach)』をリリースした。後年、ギタリストのFrank Barbalaceを中心にサード・アルバムを製作中との話もあった。 大学卒業後はセッション・ワークを主体として活動、映画音楽やコマーシャル・ジングルに作品を残す。ヴィレッジ・ピープルの映画『ミュージック・ミュージック』のサウンドトラックにおいてデヴィッド・ロンドン (David London)名義で、「サマンサ」と「サウンド・オブ・ザ・シティ」を歌い、同アルバムは豪州でチャート1位、英国で9位となる。次作『ルネッサンス』では、全曲に共同作曲者として彼のクレジットが付いている。また同時期に、シェールに「Rudy」という曲も提供した。フレデリクセン本人は、このような性癖を持ったグループと活動したことに対して多くを語りたくないとのこと。また、初のソロ・アルバム『David London』をスウェーデンのメトロノーム・レコードからリリース、同アルバムは流通量が少ないためかなり入手困難である。CMソングでは、クラフト・ゼネラル・フーズ社提供のCM歌を歌ったらしいが、本人が忘れてしまっていることもあり、商品名も判らず、インターネット上では確認できなかった。 フレデリクセンのソロ・アルバムは、エンジェルのキーボーディストのグレッグ・ジェフーリアの手に渡るところとなり、同バンドのリード・ボーカルとなる。ベーシストのリッキー・フィリップスと出会うことともなり、その後の共同プロジェクトの礎となる。エンジェル時代の公式盤は発売されなかったものの、後年にリリースされたレア音源集『Angel Rarities』にてフレデリクセンの歌声を聞くことができる。なお、そのうち数曲はホワイト・シスターのアルバムでカヴァーされている。 1982年頃にカンサスのリードボーカルのスティーヴ・ウォルシュが脱退。サミー・ヘイガーを含む200人が挑んだ後任選出オーディションでジョン・エレファンテと争ったが敗北する。しかし、同バンドのマネージャー、バッド・カー (Budd Carr)の目に留まることとなり後の道が開けた。ジム・ピートリック率いるサバイバーの新リード・ボーカルに収まりそうになったが、結局アルバム『アイ・オブ・ザ・タイガー』にてバック・ボーカルを担当しただけで終わってしまう。日本盤ライナーには「Background vocals:Fergie(姓表記なし)」と記載されているだけの扱いで印税収入もなかったが、ピートリック人脈は2000年代に入ってから活きて来ることになる。 1983年になると、ル・ルー(前身バンドLevee Bandにボビー・キンボールが所属)のリード・ボーカル・スポットに空きがあるとマネージャーのバッド・カーから聞きつけ加入、アルバム『ソー・ファイアード・アップ』をRCAレコードからリリースする(前ボーカル ポラードはバプテスト教会の牧師となる)。この当時のアナログ盤の表記では「Dennis Frederiksen」に戻っていて、カンサスの初期アルバムの録音で有名なルイジアナ州ボガルーサの「Studio In The Country」で製作された。フレデリクセンと女優キャリー・ハミルトンとの破局を描いた曲「キャリーズ・ゴーン」はチャートの79位であった。なお、ハミルトンは日米合作映画『TOKYO-POP』で主演している。その後、リッキー・フィリップスと再会し、ジャーニーで知られるキーボーディスト、ジョナサン・ケインとその妻テインを加えた「アバンドン・シェーム (Abandon Shame)」というバンドを結成。1984年に5曲を作り、フレデリクセンはそのうち1曲だけを歌った。その内訳は、ケヴィン・エルソン (Kevin Elson)がプロデュースした「You Can't Do That」「Burnin' in the Third Degree」「Photoplay」が、映画『ターミネーター』のサウンドトラックに収められ、ターニー・ケイン・アンド・トライアングルズ (Tahnee Cain and Trianglz)名義でクレジットされた。残る2曲、テインとフレデリクセンがそれぞれリード・ボーカルを歌う「Kicks」と「Over Night Sensation」は、1986年の映画『地獄の武装都市/復讐のターミネーター (Armed Response)』に登場した。 フィリップスがフレデリクセンのデモ・ビデオをTOTOのドラマーのジェフ・ポーカロに渡したところ、同バンドに興味を持たれ、ボビー・キンボールに代わるリード・ボーカリストを探すオーディションを受ける。ジェフ・ポーカロが強く強くフレデリクセンを推したこともあり、オーディションでエリック・マーティンを退け、リード・ボーカルの座を獲得し、TOTO5枚目のアルバム『アイソレーション』をコロムビアから発売する。シングル「ストレンジャー・イン・タウン」がヒットしたが、セールス的には前作を上回ることはできなかった。次作アルバム『ファーレンハイト』ではバック・ボーカル1曲のみ参加しただけで、さまざまな理由により同バンドを脱退する(スティーヴ・ルカサーとの対立が一因と言われている)。 1987年頃からは、ボストンのギタリストのバリー・グドローの新プロジェクト「RTZ (Return to Zero)」でデモ作成に入り、同バンドのボーカルに納まりそうになったが頓挫し、デモ音源だけが残っている。バンド名自体、ロンドンの曲「Destination Zero」から採ったとする説もある。1991年にはアルバム『Return to Zero』が発売されたが、ボーカルはすべてブラッド・デルプになっていた。 1988年ドイツに渡り、同国のヘヴィメタル・バンド、Karoのアルバム『Heavy Birthday』の5曲目「Ball Of Fire」にて攻撃的なバック・ボーカルを燃え上がらせた。この録音には、スウェーデンのトミー・デナンダーも参加しており、フレデリクセンにとっては後期活動における重要な仕事となった。 この後、「燃え尽き症候群」となってしまい、音楽業界に嫌気が差し引退、数年間レストラン・ビジネスに携わる。
※この「流転のボーカリスト」の解説は、「ファーギー・フレデリクセン」の解説の一部です。
「流転のボーカリスト」を含む「ファーギー・フレデリクセン」の記事については、「ファーギー・フレデリクセン」の概要を参照ください。
- 流転のボーカリストのページへのリンク