流転の記憶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:46 UTC 版)
敗戦時に5歳半であった嫮生は、1年5ヶ月の間、冬期には氷点下30度に及ぶ大陸で、6000㎞の距離を母や愛新覚羅一族と共に捕虜として流浪した。連行された先々で囚われの身となる中、幼い嫮生のみ外出を許され、一族や周りの様子を母に伝えるなどした。アヘン中毒で錯乱状態の婉容と、それを世話する母の姿を見ている。通化事件では、戦闘のただ中にあって目前で溥儀の乳母の右手が吹き飛ばされるなど、その「地獄絵図」は生涯脳裏から消えない記憶となった。凍傷や赤痢など身体の衰弱にも耐え、日本に帰国した嫮生は、母の実家・嵯峨家で暮らすようになって1年近く経っても、いつでも逃げ出せるように服と靴を風呂敷に包んで枕元に置いて寝る習慣が抜けなかったという。また、1年遅れて学習院初等科の受験面接で、「今までどこに住んでらっしゃいましたか」との問いに、「はい、監獄です!」と答えて母を青くさせている。 父・溥傑の釈放後、再び中国へ渡るが、幼い頃の恐怖の記憶があり、日本で育った嫮生は中国への永住を躊躇していた。中国で最後の皇帝一族として生きるより、日本での平凡な生活を望む嫮生と、愛新覚羅家の後継者として、また唯1人となった娘を手元に置いておきたい両親との間で意見の相違があった。周恩来総理が親子の間を取りなし、国交のない時代の中国と日本を自由に往来するようにとの配慮があり、嫮生は日本に戻り、日本に帰化した。
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