流路変遷と治水
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黄河下流域は膨大な土砂の堆積によって天井川となっているため、古来よりたびたび氾濫し、大きく流路を変えてきた。それらの元流路は黄河故道と呼ばれている。黄河の治水は歴代王朝の重大な関心事のひとつであった。古代には現代の河道に比べてかなり西寄りを流れており、渤海北部の天津付近に河口があったが、紀元前602年に記録されている最初の河道変遷が起こり、黄河は旧河道と現代の河道のほぼ中間を流れるようになった。春秋戦国時代は沿岸諸国が堤防を建設したが、この堤防は黄河本流から十分な距離をもって建設されており、氾濫しても堤防内にてある程度吸収することが可能であったため、黄河はやや治まっていた。前漢の時代に入ると、紀元前132年に濮陽において黄河が決壊した。この決壊はそれまで知られていた黄河以北の河北平野における氾濫ではなく、黄河の南側で決壊して淮河へと流れ込むものであり、当時の経済中心のひとつであった黄河・淮河間の平野(淮北平野)に甚大な被害をもたらした。この決壊は23年後の紀元前109年にふさがれたものの、以後黄河は氾濫を繰り返すようになった。 これを防ぐため、紀元前7年に賈譲が「治河策」を著した。これは黄河の治水策として、上策を河道変更、中策を分流、下策を現河道の堤防のかさ上げとしたもので、この案は賈譲三策として知られ、以後の黄河治水案の基礎となるものだった。しかし、前漢王朝はすでに衰退しており、この案を実行に移す国力はすでに失われていた。 新王朝時代の11年にはついに決壊して河道がさらに東へと転じ、現在の河道よりやや北をほぼ現河道と並行するように流れるようになった。この氾濫・決壊は黄河下流域に甚大な被害を与え続けたが、69年から70年にかけて後漢の王景による治水工事が行われ、黄河は安定を取り戻した。この王景の治水策は2点からなり、ひとつは華北平野で当時最も低く、なおかつ渤海へ最短距離で到達する河道を選択することで勾配をつけ土砂を押し流しやすくすることと、河北平野への分流を設け黄河の勢いをそぐことを根幹としていた。この案は60年ほど前に提案された賈譲の上策および中策とほぼ一致するものだった。この治水の効果は劇的なもので、これ以降黄河は唐の時代にいたるまで800年以上ほぼ安定したままで推移し、河道変遷にいたっては北宋時代の1034年にいたるまで起きなかった。この河道安定の理由としては、王景の治水計画が非常に優れたものであったことと、もっとも土砂流出量の多い中流域の黄土高原が、中国王朝の統治能力の減退によって北方の遊牧民がこの地域に進出し牧草地化したことで土砂流出がある程度抑制されたことがあげられる。このため、再び黄土高原に農民が進出し耕地化が著しくなった唐代以降、黄河の洪水は徐々に増加していった。 北宋期に入ると、黄河は再び暴れ川となり、1034年の決壊からはほぼ10年ごとに河道が変転する事態となった。この河道変遷は、漢の時代までの変遷が徐々に東へ向かう形だったのとは反対に、河道は徐々に西へと向かい、古代の河道のように北へと流れる傾向を示した。しかし、朝廷内では黄河の河道を東に向ける派と北に向ける派が対立し、治水は遅々として進まなかった。 黄河の河道はこのときまではすべて渤海に注いでいたが、南宋初期にこれを大きく変える出来事が起きた。1128年、南宋の将軍である杜充が金軍の南下を防ぐため、黄河の南岸の堤防を決壊させたのである。これにより黄河は大きく南遷して南の淮河に合流し、黄海へと流れ込むようになった。この黄河の南流は1855年に再び黄河が北流し、現在の流路を流れるようになるまで700年近く続いた。当初は旧河道を通って渤海へと流れ込む水流も残っていたが、1150年に途絶し、黄河はすべて南流することとなった。この南流期の黄河河道は一本化されておらず、何本かに分かれて淮河へと流入していたが、淮河の河道は黄河の全水量を受けられるほど広くなかったため、今度は淮河流域で洪水が頻発するようになった。また、淮河から溢れた水は富陵湖や白水塘といったそれまでに存在した小さな湖を飲み込み、中国4位の広さを持つ淡水湖である洪沢湖を形成した。さらに洪沢湖から溢れた水は高郵湖、邵伯湖といった湖を作り、南の長江に流れ込むようになってしまった。やがて明朝期後半には、黄河の流れを一本化(束流)して、その水量で土砂を押し流す(攻砂)という、いわゆる「束流」案が潘季馴によって提唱され、主流となった。この案の円滑な運用には、流路に堆積する膨大な量の土砂を取り除くための定期的な浚渫が不可避であったが、清王朝後期にはこの河川管理が崩れ、黄河は再び水害を頻発させ始めた。 1855年、黄河は大洪水を起こし、南流をやめてほぼ700年ぶりに北へと向かい、渤海へと注ぎ込むようになった。このときの流路が、ほぼ現在の黄河の河道である。黄河の現在の流路にはもともと済水(大清河)と呼ばれる大河が流れており、済南市の市名はこの済水の南に位置していたことからきたものだが、この流路変更によって済水の河道のほとんどは黄河本流となってしまった。このときは黄河の河道を元に戻してほしい新流路である山東省グループと、黄河の河道変更を恒常化させたい淮河流域グループとの対立によって河道の改修と固定化が遅れ、結局1875年に現流路に流路が固定されることとなった。また、日中戦争中の1938年には日本軍の侵攻を阻止しようとした中国国民党によって堤防が爆破され、流路が変わった(黄河決壊事件)。1947年に堤防の修復が完了し、河口が現在の位置になった。 戦後、三門峡ダムなど大規模なダムが建設され、大水害は減少した。しかし、1970年代以降、工・農業用水の需要増大に伴って、下流部で流量不足になり、河口付近では長期にわたって断流するなどの問題が起きている(1999年以降、断流は発生していない)。2001年には三門峡ダムの下流に小浪底ダムが建設され、黄河の水位調節を行うようになって断流は発生しなくなった。とはいえ、黄河の根本的な水量不足は解消したわけではなく、これを解決するために南水北調計画が開始され、西線工区では水量の豊富な長江上流地域から黄河上流へと水を流し、黄河水量の増加によって甘粛や寧夏、内モンゴル、陝西省などの水不足を解消する計画が立てられたが、この西線工区は3,000メートル級の険しい山岳地帯に位置し、非常な困難が予想されるため、ほかの2工区と違いまったく着工がなされず、計画段階にとどまっている。この計画の東線では大運河に沿ったルートで華北へ、中央線では漢水に作られたダムから河北省の西部へと水が送られ、黄河水系の水の負担を減らすことが期待されているものの、この両ルートではそれぞれ黄河をトンネルによってくぐって水を輸送するものとされ、黄河そのものにはこの両ルートからの水は流れ込まない。また、源流域のチベット高原では過放牧や道路建設などによって重要な水源となる湿原の消失が続いており、長江や黄河といった大河川の水量への影響が懸念されている。
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