流路変遷と治水とは? わかりやすく解説

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流路変遷と治水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 01:48 UTC 版)

黄河」の記事における「流路変遷と治水」の解説

黄河下流域膨大な土砂の堆積によって天井川となっているため、古来よりたびたび氾濫し大きく流路変えてきた。それらの元流路黄河故道呼ばれている。黄河治水歴代王朝の重大な関心事のひとつであった古代には現代河道比べてかなり西寄り流れており、渤海北部天津付近に河口があったが、紀元前602年記録されている最初河道変遷起こり黄河旧河道現代河道のほぼ中間流れようになった春秋戦国時代沿岸諸国堤防建設したが、この堤防黄河本流から十分な距離をもって建設されており、氾濫して堤防内にてある程度吸収することが可能であったため、黄河はやや治まっていた。前漢時代に入ると、紀元前132年濮陽において黄河決壊した。この決壊それまで知られていた黄河以北河北平野における氾濫ではなく黄河南側決壊し淮河へと流れ込むものであり、当時経済中心のひとつであった黄河淮河間の平野淮北平野)に甚大な被害もたらした。この決壊23年後の紀元前109年ふさがれたものの、以後黄河氾濫繰り返すようになった。 これを防ぐため、紀元前7年に賈譲が「治河策」を著した。これは黄河治水策として、上策河道変更、中策を分流下策を現河道堤防かさ上げしたもので、この案は賈譲三策として知られ以後黄河治水案の基礎となるものだった。しかし、前漢王朝はすでに衰退しており、この案を実行に移す国力はすでに失われていた。 新王朝時代11年にはついに決壊し河道がさらに東へ転じ現在の河道よりやや北をほぼ現河道並行するように流れようになった。この氾濫決壊黄河下流域甚大な被害与え続けたが、69年から70年にかけて後漢王景による治水工事が行われ、黄河安定取り戻した。この王景治水策は2点からなり、ひとつは華北平野当時最も低くなおかつ渤海最短距離で到達する河道選択することで勾配をつけ土砂押し流しやすくすることと、河北平野への分流設け黄河勢いをそぐことを根幹としていた。この案は60年ほど前に提案された賈譲の上策および中策とほぼ一致するのだった。この治水効果劇的なもので、これ以降黄河唐の時代にいたるまで800年以上ほぼ安定したままで推移し河道変遷いたって北宋時代1034年にいたるまで起きなかった。この河道安定理由としては、王景治水計画が非常に優れたものであったことと、もっとも土砂流出量の多い中流域黄土高原が、中国王朝統治能力減退によって北方遊牧民がこの地域進出し牧草地化したことで土砂流出がある程度抑制されたことがあげられるこのため、再び黄土高原農民進出し耕地化が著しくなった唐代以降黄河洪水徐々に増加していった。 北宋期に入ると、黄河は再び暴れ川となり、1034年決壊からはほぼ10年ごとに河道変転する事態となった。この河道変遷は、漢の時代までの変遷徐々に東へ向かう形だったのとは反対に河道徐々に西へ向かい古代河道のように北へ流れ傾向示した。しかし、朝廷内では黄河河道を東に向ける派と北に向ける派が対立し治水遅々として進まなかった。 黄河河道はこのときまではすべて渤海注いでいたが、南宋初期にこれを大きく変える出来事起きた1128年南宋将軍である充が金軍南下を防ぐため、黄河南岸堤防決壊させたのである。これにより黄河大きく南遷して南の淮河合流し黄海へと流れ込むようになった。この黄河の南流は1855年に再び黄河北流し現在の流路を流れるようになるまで700年近く続いた当初旧河道通って渤海へと流れ込む水流残っていたが、1150年途絶し黄河はすべて南流することとなった。この南流期黄河河道一本化されておらず、何本かに分かれて淮河へと流入していたが、淮河河道黄河全水量を受けられるほど広くなかったため、今度淮河流域洪水頻発するようになったまた、淮河から溢れたは富陵湖や白水塘といったそれまで存在した小さな湖を飲み込み中国4位の広さを持つ淡水湖である洪沢湖形成した。さらに洪沢湖から溢れた高郵湖、邵伯湖といった湖を作り、南の長江流れ込むようになってしまった。やがて明朝後半には、黄河流れ一本化(束流)して、その水量土砂押し流す(攻砂)という、いわゆる「束流」案が潘季馴によって提唱され主流となった。この案の円滑な運用には、流路堆積する膨大な量の土砂取り除くための定期的な浚渫不可避であったが、清王朝後期にはこの河川管理崩れ黄河は再び水害頻発させ始めた1855年黄河大洪水起こし、南流をやめてほぼ700年ぶりに北へ向かい渤海へと注ぎ込むようになった。このときの流路が、ほぼ現在の黄河河道である。黄河現在の流路にはもともと済水大清河)と呼ばれる大河流れており、済南市市名はこの済水の南に位置していたことからきたものだが、この流路変更によって済水河道のほとんどは黄河本流となってしまった。このときは黄河河道元に戻してほしい新流路である山東省グループと、黄河河道変更恒常化させたい淮河流域グループとの対立によって河道改修固定化が遅れ、結局1875年に現流路流路固定されることとなったまた、日中戦争中の1938年には日本軍の侵攻阻止しようとした中国国民党によって堤防爆破され流路変わった黄河決壊事件)。1947年堤防修復完了し河口現在の位置になった戦後三門峡ダムなど大規模なダム建設され大水害は減少した。しかし、1970年代以降工・農用水需要増大伴って下流部流量不足になり、河口付近では長期わたって断流するなどの問題起きている(1999年以降、断流は発生していない)。2001年には三門峡ダム下流に小浪底ダム建設され黄河水位調節を行うようになって断流は発生しなくなったとはいえ黄河根本的な水量不足は解消したわけではなく、これを解決するために南水北調計画開始され西線工区では水量豊富な長江上流地域から黄河上流へと流し黄河水量増加によって甘粛寧夏内モンゴル陝西省などの水不足解消する計画立てられたが、この西線工区は3,000メートル級の険しい山地帯位置し、非常な困難が予想されるため、ほかの2工区違いまったく着工なされず計画段階とどまっている。この計画東線では大運河沿ったルート華北へ、中央線では漢水作られダムから河北省西部へ送られ黄河水系水の負担を減らすことが期待されているものの、この両ルートではそれぞれ黄河トンネルによってくぐって輸送するものとされ、黄河そのものにはこの両ルートからの流れ込まないまた、源流域チベット高原では過放牧道路建設などによって重要な水源となる湿原消失続いており、長江黄河といった大河川の水量への影響懸念されている。

※この「流路変遷と治水」の解説は、「黄河」の解説の一部です。
「流路変遷と治水」を含む「黄河」の記事については、「黄河」の概要を参照ください。

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