流路・支流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 18:04 UTC 版)
三徳川・概略図 滑石峠 俵原高原 県道280号 県道21号 三徳渓谷 尼子川 三仏寺 垢離取川 黒川(黒川谷川) 坪谷川 波関川 県道33号 小鹿川 県営小鹿第二発電所 恋谷橋 三朝温泉 県道273号・三朝橋 三朝バイパス・新横手大橋 わかとり大橋 加茂川 県道235号・賀茂橋 天神川 三徳川の源流は三朝町東部の俵原高原の滑石峠付近にある。俵原高原は、旧伯耆国(河村郡)と因幡国(気多郡)の境界に近い標高500メートルほどの高原地帯で、伝承に拠れば、平将門を追ってきた藤原秀郷(俵藤太)が定住したことからその名がある。ここに発した三徳川は、鳥取県道280号に沿って南進し、三朝町俵原地区へ出たあと、三徳山の北麓を西へ転じて三仏寺付近まで標高差300メートルほど一気に下る。これらの源流域では古くから和紙の原料であるミツマタが栽培されており、現代でも三朝町が地元の特産農産物としている。 三徳山は、隆起準平原であった吉備高原面の花崗岩上に、新第三紀に凝灰角礫岩が層を成し、さらに鮮新世に火山性の安山岩溶岩がこれらを突き破って噴出して覆いかぶさり形成された山で、これを山陰特有の多雨雪による流水が激しく侵食し、複雑で急峻な地形を形成している。特に安山岩層と凝灰角礫岩層の境界付近では差別侵食によって洞窟状の窪んだ地形が多く形成されており、三仏寺の投入堂などはそこに建立されたものである。 このように三徳山は天神川流域で最も急峻な奇峭を成しており、古来から霊峰として厳しく保護されてきた。その結果、原生植性が手付かずで残っているほか、高低差の激しい地形から、南方系の植物の北限と北方系の植物の南限が混在しており、植物学上貴重な地域とされている。 三仏寺の山域には三徳川の小支流があり、明治時代の『名勝史跡三徳山三佛寺全景』には、「阿弥陀滝」、「念仏滝」、「粟滝」などをもつ尼子川が「馬洗渕」で合流する様子が描かれている。また、参道に近い垢離取川(こりとり-)は上流に「不動滝」、さらに山中に「龍徳院滝」、「真蛇滝」をもつ。垢離取川は近年、鳥取県によって「歴史の水」に選出されている。 一帯は三徳渓谷と呼ばれることもある。1889年(明治22年)に村制が敷かれた頃は三仏寺の門前を「三徳村」と号した。 三仏寺の寺域を出ると流路は北西に転じ、三朝町坂本地区で支流の黒川、坪谷川(つぼたに-)を合わせて西に向きを変える。この辺りから天神川へ合流するまでの区間は、構造谷と考えられている。さらに北から波関川(なみぜき-、なんぜき-)、南からは三徳川最大の支流である小鹿川(おしか-)が合流し、沖積地が形成されている。明治初期の頃は、この地域(現在は片柴地区)は三徳川流域で最も人口が多く、明治中期に「鼎村」となった。 三徳村と鼎村は1917年(大正6年)に合併して三徳村となった。さらに1953年(昭和28年)に支流の小鹿川流域の小鹿村、加茂川・竹田川(天神川の旧名)上流域の旭村・竹田村と合併して三朝町となった。 小鹿川合流から天神川(竹田川)へ注ぐまでの区間を三朝川(みささ-、みあさ-)と称することもある。また、流域はかつて「三朝谷」と呼ばれていた。 川はその後、三朝温泉の中心地を流れる。三朝温泉は、もともと三徳川の左岸に源泉が湧出しており、最も古いとされる「株湯」をはじめ、左岸に温泉施設街が形成されている。後に右岸でも温泉が開発され、右岸には大型の宿泊施設が並ぶ。温泉周辺には、映画の舞台になった「恋谷橋」、三朝温泉のシンボルとされる「三朝橋」などが架かる。 温泉街から加茂川との合流点に至る間の河川敷は、三徳川緑地や横手親水公園、水辺の楽校として解放され、遊歩道などが整備されている。この付近では初夏のホタルやカジカガエルを風物詩としており、『三徳川のせせらぎとカジカガエル』が環境省によって「日本の音風景100選」に選定されているほか、『やすらぎの水辺三徳川と三朝温泉のみち』として「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選ばれている。 温泉地域を過ぎると、三朝町の中心街を成す大瀬・本泉地区にはいる。人形峠の北麓から流れてきた加茂川と合流すると、間もなく天神川へ注ぐ。この合流点から三徳川の源流付近までのほぼ全長にわたり、県道21号が並走しており、かつての倉吉往来(鹿野道)に相当する。
※この「流路・支流」の解説は、「三徳川」の解説の一部です。
「流路・支流」を含む「三徳川」の記事については、「三徳川」の概要を参照ください。
- 流路・支流のページへのリンク