流路における研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/26 21:39 UTC 版)
名取郡を南北に貫く奥州街道沿いに1612年(慶長17年)12月に設置された長町宿は、2つの村にまたがっており、以下のように南北に分かれた。 江戸時代~郡区町村編制法1915年(大正4年)町制施行1968年(昭和43年)住居表示実施長町宿名取郡根岸村・北長町 名取郡長町字北町 仙台市長町一丁目 名取郡平岡村・南長町 名取郡長町字南町 仙台市長町三丁目 幕末に開削された郡山堀は上の表の南北の町丁の間を通っており、交差する奥州街道には長町中橋がこの郡山堀に架かっていた。なぜ南北の町丁の間に郡山堀を開削したのかは不明であるが、長町宿では南北の町の維持費は各々属する村の負担となっていたため、片方の町だけに通すと堀や橋の維持費も片方だけに負担が偏るという事情もあった。 また、郡山掘の流路は自然地形の傾斜を考慮して開削されたのは当然だが、流路の一部が郡山遺跡第二期官衙東縁や北目城址の周囲を囲むように開削されており、過去の遺構を利用したのではないかとの指摘もある。
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