明号作戦とは? わかりやすく解説

明号作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 17:13 UTC 版)

明号作戦(めいごうさくせん)は、1945年3月9日フランス領インドシナ(仏印)において日本軍が実行した作戦。仏印武力処理、あるいは三・九クーデター(さんきゅうクーデター)[7]とも呼称される。また、英語圏では作戦名を英訳してOperation Bright Moon[8][9]などとも呼ばれる。


注釈

  1. ^ 当初は「マ号作戦」の名で研究していたが、秘匿名が漏れている虞があるとして1945年1月に変更された。
  2. ^ 戦史叢書引用のフランス側史料による。日本軍の事前予想では、フランス兵・外人部隊が20,000人、現地人兵士70,000人と見ていた。北部に約45,000人、中部に約10,000人、南部に約35,000人、保安隊約5,000人の配置と推定していた。
  3. ^ 主力の軽巡「ラモット・ピケ」は、仏印進駐後に武装解除され、明号作戦前にアメリカ軍の空襲で沈没。

出典

  1. ^ Fall, Bernard B (1976). Street Without Joy. Schocken Books..pp 24-25
  2. ^ Dommen, Arthur J (2002). The Indochinese Experience of the French and the Americans: Nationalism and Communism in Cambodia, Laos, and Vietnam ,. Indiana University Press. p 80-82
  3. ^ 戦史叢書
  4. ^ Marr, David G. (1995). Vietnam 1945: The Quest for Power. University of California Press. p 51
  5. ^ Dreifort, John E (1991). Myopic Grandeur: The Ambivalence of French Foreign Policy Toward the Far East, 1919-1945. Kent State University Press. ISBN 9780873384414.pp 240、2,129人が共和国軍
  6. ^ Marr, David G. (1995). Vietnam 1945: The Quest for Power. University of California Press. p. 61、12,000人がヨーロッパ人
  7. ^ 桜井由躬雄「三・九クーデタ」『世界大百科事典』 11巻、平凡社、2007年9月1日。 三・九クーデタ”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク). 2017年4月29日閲覧。
  8. ^ Hock, David Koh Wee (2007). Legacies of World War II in South and East Asia. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 23–35. ISBN 9789812304681. https://books.google.com/books?id=awLp4TeUkzoC&dq=&source=gbs_navlinks_s 
  9. ^ Kiyoko Kurusu Nitz (1983), "Japanese Military Policy Towards French Indochina during the Second World War: The Road to the Meigo Sakusen (9 March 1945)", Journal of Southeast Asian Studies 14(2): 328–53.
  10. ^ 立川京一 1999, p. 52.
  11. ^ 赤木完爾 1984, p. 35.
  12. ^ 赤木完爾 1984, p. 33-34.
  13. ^ 赤木完爾 1984, p. 34-36.
  14. ^ 赤木完爾 1984, p. 33-37.
  15. ^ 赤木完爾 1984, p. 42-45.
  16. ^ 赤木完爾 1984, p. 38.
  17. ^ a b c 赤木完爾 1984, p. 41.
  18. ^ 赤木完爾 1984, p. 41-42.
  19. ^ a b 赤木完爾 1984, p. 46.
  20. ^ 赤木完爾 1984, p. 48.
  21. ^ a b 赤木完爾 1984, p. 49.
  22. ^ 赤木完爾 1984, p. 49-50.
  23. ^ 赤木完爾 1984, p. 50-51.
  24. ^ 柘植久慶 『フランス外人部隊』 原書房、1986年、145頁。
  25. ^ 外務省(編) 『日本外交年表竝主要文書(下)』 原書房〈明治百年史叢書〉、1960年、606~607頁。
  26. ^ 藤田、541頁。この事件に関して戦後に鎮目武治連隊長ら4人が戦犯として処刑されたほか、収監中に自決・病死各1人が出ている。
  27. ^ 藤田、517頁。中隊長の一人だった大尉が責任者とされ戦犯として刑死したが、藤田は、責任者ではなく冤罪だったと推測している。
  28. ^ 柘植、147頁。
  29. ^ 赤木完爾 1984, p. 30.
  30. ^ 藤田、538頁。
  31. ^ a b 赤木完爾 1984, p. 52.
  32. ^ 藤田、539頁。
  33. ^ 藤田、539~540頁。


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