静謐と民族解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 08:12 UTC 版)
しかし、1941年に太平洋戦争が勃発すると、日本は大東亜戦争の名のもとに「欧米からのアジア植民地解放」「民族解放」が戦争目的のひとつであるとするようになった。しかしこれは仏印での植民地政府との協力との矛盾を抱えるものとなった。駐ドイツ大使大島浩も「大東亜共栄圏建設の理想と背馳する」事態が発生するのではないかという意見を述べている。しかし陸軍は軍事作戦面での必要性を重視するとともに、フランスを敵とすることで「白色人種対日本」の「人種戦争」に陥ることを危惧し、現状維持を主張していた。結果的に開戦前の11月15日の「対米英蘭蔣戦争終末促進二関スル腹案」では現状維持が定められ、両者の関係は「静謐」を維持する方針をとることとなっていた。一方でフランス領インドシナに置かれた日本の大使府や、現地駐在軍には独立を支援する動きもあった。また1943年には松井石根大将がサイゴンにおいて「日本は米英仏の意思がどうであれアジア諸国を解放する」と演説したため独立運動が活発化し、インドシナ総督府を刺激することを恐れた日本側が独立運動家を一時亡命させる措置を行っている。
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