仏印武力処理の策定
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ヨーロッパ方面での枢軸国軍の戦況が悪化するにつれ、日本では関係見直しの動きも生まれた。1943年に外相に就任した重光葵は、「主権尊重と平等対等の関係の樹立をもって、支那を初め東亜諸民族に臨むのでなければ、この戦争は日本にとって無意味である」とし、12月頃からインドシナ政府の武力解体を主張するようになった。重光外相は「ドクー派」に「反枢軸分子」が入りつつあり、積極的に手を打つことを主張していた。また芳澤謙吉駐仏印大使も「明瞭に安南人に独立の希望を与え」ることが必要であると主張している。陸軍はこれを受けて作戦の研究を開始したものの、人種戦回避の観点から実施には消極的であり、1943年1月24日に大本営政府連絡会議で策定された「情勢変化ニ応スル対仏印措置腹案」では現状維持が決定された。 1944年6月のノルマンディー上陸作戦以降連合軍の大陸反攻が始まり、8月25日にヴィシー政権は崩壊してシャルル・ド・ゴール率いるフランス共和国臨時政府がフランス本土に復帰し、日本の敗色も濃くなってきた。フランス領インドシナ総督ジャン・ドクー(英語版)海軍上級中将(Vice-amiral d'escadre)は、2月18日の時点で、本国との連絡が途絶えた場合はフィリップ・ペタン元帥から全権を与えられることとなっていた。しかし臨時政府はインドシナでの戦闘を計画しており、フランス領インドシナ軍司令官ウジェーヌ・モルダン(フランス語版)将軍と接触した。モルダンは軍司令官を辞任し、インドシナでのレジスタンスを組織した。ドクーはその後ド・ゴールの密使と接触したが、公式には総督を継続することとなった。 特に12月のフィリピン陥落により、日本陸軍も仏印処理の決断を迫られることとなった。しかし陸軍は、フランスとソビエト連邦が同盟条約を締結しており、フランスへの攻撃が、ソ連を敵に回すことになりかねないと危惧していた。このため陸軍はインドシナにおけるフランス主権を否定する行動は取らず、インドシナ三国の独立は行わないという方針を求めた。これに対し重光外相は武力処理を行う以上、フランス主権を認めようと無意味であり、むしろインドシナ三国の独立を認めたほうが大東亜解放の精神に則り、民族解放という大義にはソ連も反対できないと主張した。 第38軍(1944年12月に印度支那駐屯軍から改編)司令部は、フランス領インドシナ軍を武装解除する作戦計画の検討を始め、これを最終的に「明号作戦」と命名。 この間、第38軍司令官土橋勇逸中将は、1944年末に行った会談での仏印側首脳の反応から、共同防衛は困難と判断していた。最後通牒としての要求事項(後述)は、1945年2月1日の最高戦争指導会議において決定された。しかしインドシナ三国の独立については即時行うかどうか曖昧な表現で記載され、後に仏印大使府と38軍の対立を招くこととなる。2月26日には最高戦争指導会議において、日本とフランスは戦争状態ではないこと、総督府直轄地域については軍政を施行するが、対外的には一時的な管理であると説明すること、インドシナ大使府の存続、インドシナ三国が「自発的に」独立するよう措置をとることが決定された。2月28日、大本営は南方軍に対して、3月5日~10日の間に明号作戦を発動するよう命じた。さらに仏印の日本軍は中華民国との大陸打通作戦により増強されていた。
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